アリア編、その32
「では、後は2人で楽しんでくれ。
散策の質を落とさぬよう、アリアに色々渡してあるから」
翌日の朝、アリアと2人でオリビアを迎えに来た和也は、地下迷宮の入り口を少し過ぎた所で、女性達にそう告げる。
「念のため、オリビアには保護魔法をかけておく。
この迷宮を出るまでの時限魔法だが、ここにいる間は、誰も君には危害を加えられない。
何処かに連れ去ろうとしても、障壁が跳ね返すから安心して楽しんでくれ」
「有難う。
相変わらず、至れり尽くせりね」
「君が自分と出会うまでのアリアに、良くしてくれていた礼でもある。
異論はあるだろうが」
和也が去ると、オリビアがアリアに言う。
「手を繋いでもらっても良い?」
「どうぞ」
アリアが差し出した左手を、嬉しそうに握る彼女。
「今回は何処へ行くの?
またあの湖に行く?」
「それも良いですが、6階層の森へ行ってみませんか?
和也さんが、良い場所があると教えてくれたんです」
「へえ、・・でも2日で往復できる?」
「それは大丈夫です。
今回の散策は、オリビア様に私達の事を色々知っていただくためのものですから。
ただ、他の人に知られると面倒な事になるので、他言無用でお願いしますね」
「・・分かったわ。
約束する」
「有難うございます。
では、行きましょう」
前回の散策で、2階層と3階層への入り口は把握してあるので、女性2人だけの自分達に頻繁にかけられる声を無視して(或いは愛想笑いで済ませて)、さっさとそこまで移動する。
途中何度か弱い魔物に遭遇したが、アリアを見るなり逃げて行った。
「ここまで来れば後は楽です」
3階層へ降りた所で、アリアが周囲の様子を探る。
強行軍でここまで来ただけに、疲労の見えるオリビアに微笑む彼女。
「すみません、お疲れですよね?
もう少しでお茶にしますね」
オリビアの手を握り直し、6階層まで転移するアリア。
「え!?」
突然周りの景色が変わった事に、オリビアが驚きの声をあげる。
「・・貴女、もしかして転移したの?」
「はい。
私も使えるようになりました」
「・・・」
「ここには魔物以外の邪魔者は居ませんから、直ぐお茶の準備をしますね」
オリビアの為に、和也から貰ったトイレとテーブルセットをリングから出し、更に食器やお菓子を並べる。
埃や虫が入らぬよう、周囲に障壁を張った中で、お茶を楽しむ2人。
「・・美味しい。
このケーキ、何処の?
家の御用達にする」
「前回和也さんが言ってたパン屋さんのものです」
「ああ、成る程。
・・それで、そろそろ話を聴かせてもらえる?」
「・・オリビア様は、私の事、好きですよね。
それは、仲の良い友人としてではなく、異性に向けるものと同じなんですよね?」
「そうよ。
貴女の事、大好きなの。
可能なら、結婚したいくらいに」
「もしお父様が、オリビア様の婚姻をお決めになったら、どうするのですか?」
「・・断るわ。
私は男と一緒になるつもりは無いの。
そこに違和感しかないんだもの」
「断れるのですか?」
「五分五分ね。
後継ぎではないから、子供を産む必要はないし、経済的にも裕福だから、他の家から婚姻を餌に援助を得る必要もない。
ただ、家に迷惑をかけないよう、自分で稼ぐ手段を見つけないと、自己主張するのは難しくなる。
これまでも少しずつお小遣いからお金を貯めてきたけど、婚姻を断ったら、貰えなくなるだろうしね」
「もし断れない場合は、どうするのですか?」
「・・家を出るかもしれないわ。
でも、そうしたらアリアは私と会ってくれないわよね?
依頼も出せなくなるし・・」
「そんな事はありませんけど・・」
「本当!?
お金や地位が無くても、私と親しくしてくれる?」
「少し傷つきますね。
今までだって、有難く援助は受けていましたが、それだけが目当てでお付き合いしていた訳ではありません。
確かに、過度なスキンシップには少し困りましたけど、本当に嫌なら、私はお断りしています。
私を囲おうとされた人の中には、実際、もっと良い条件を提示される方が大勢いましたから」
「御免なさい。
・・でも、何でそんな事を聴くの?」
「私は和也さんが大好きです。
心から愛せる人は、彼ただ1人だけ。
既に結婚して、彼に抱かれてもいます」
「!!!」
「何度も何度も意識を手放し、疲労が限界近くまで達しても、彼から回復されれば、また自分から求めにいきます。
私には、その一時が、至福の時間なんです。
他の誰にも与えることのできない、触れられたくない喜びなんです。
・・正直に言います。
和也さんは、もしあなたが望むなら、私があなたをその庇護下に置いても良いと言いました。
私も、あなたが嫌いではありません。
妹のように感じる時もあり、こうして2人で過ごす時間も、今は楽しいと思っています。
ですが、オリビア様が真に求めているような、そういう感情までは、今の所ありません。
ですから、もし私の側で暮らしても、もしかしたら、ずっとそういう行為はないかもしれません。
それでも、あなたは私の側に来たいですか?」
過度な期待を与えて後になって苦しめるよりも、最初から全てを伝えて判断させた方が良い。
そう考えて、はっきりと口にするアリア。
聴いていたオリビアは、途中から視線を下に下げた。
「・・行きたいわ。
だって、貴女が本当に大好きなんだもの!!
たとえ自分で自分を慰める事になっても、貴女の傍に居たい。
抱き締めたり、頬にキスするくらいは良いのでしょう?」
「ええ、それくらいは。
それともう1つ、お伝えしなければならない事があります。
私はもう、人間ではありません。
和也さんの眷族の1人になって、共に永遠の時間を彷徨う存在です。
もう少ししたら、身体の成長も止まり、以後は老化する事もありません。
・・あなたは人間です。
これから大人になり、高齢になり、そしてやがては死ぬ定め。
あなたが和也さんに認められ、眷族として受け入れてもらえなければ、共に過ごす時間は数十年でしょう。
それでも、この私と、限られたその人生の時間を謳歌したいですか?」
途中で大きく目を見開いたが、黙ってアリアの言葉を聴いていたオリビアが、やがて口を開く。
「やはり、彼は人ではないのね。
一体何者なのか、教えてくれる?」
「神です。
全ての世界を生み出した、唯一の神。
それが和也さんです」
「真面目に言ってるのよね、それ。
神・・か。
唯一神って、神は沢山いる訳じゃないんだ?
今度各教会にも課税しようかしらね」
オリビアの両の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
「只でさえ女同士で難しいのに、その上神様の仲間入りしちゃうなんて、私は一体、どうしたらいいの?
お金では買えない、努力でもどうにもならない、おまけに、流れる時間まで違うなんて・・。
うっ、うううっ、うう・・」
アリアはただ黙って彼女を見ている。
心に痛みはあるが、これを我慢できないようでは、到底和也と共に生きていく事はできない。
彼が事前に自分達に確認していたのは、正にこういう事なのだから。
「どうしたいか決まりましたか?」
彼女の嗚咽が少し収まるのを待って、努めて穏やかに、そう尋ねるアリア。
「・・一緒に居たい。
それでも私は、貴女と一緒に居たい。
何でもするから、貴女が言う事全て聴くから、私を傍に置いてください。
・・貴女と、一緒に居たいの」
最後の一言は、静かだが、まるで魂の叫びのようであった。
「・・分かりました。
オリビア様には負けました。
あなたの気持ちに何処まで応えられるかは分かりませんが、可能な限り、一緒に居ましょう。
和也さんが居る時は、私はあの人の側を離れない。
だけど、彼が何処かに行っている間は、なるべく、あなた方との時間を作ります。
それで良いですね?」
「!!!
・・有難う。
やっぱり、貴女で良かった。
貴女だけ追いかけて良かった。
とっても嬉しいわ」
顔を上げた彼女は、再び涙を流しながらも、満面の笑みを作る。
「・・でも、『あなた方』って、他にも誰かいるの?」
「今はいませんが、和也さんが、今後増えるかもしれないと・・」
「負けないから。
せめて貴女の愛人の間では、1番になるわ!」
「愛人!?
変な言い方しないでください。
せめて友達か妹で・・」
「私が心でそう思っているだけだもの。
大丈夫、ちゃんと公私のけじめはつけるわ」
すっかり冷めてしまったお茶を魔力で温めてやりながら、アリアは心中で苦笑いする。
やはり彼女には、冷たくしきれなかった。
でもそれでいいやと思う。
少なくとも、自分の心に嘘はついていないのだから。
「いらっしゃいませ」
「あれ、アンリさんは?」
「彼女は今、仕込みの最中で・・」
「何だ、じゃあまた後で来る」
「・・・」
もう何回同じ事を言われたか分からない。
そう告げるのは全て男性ばかりだが、自分と出会う前の彼女の話からは、今のこの状況を考えられない。
友人が増え、明るくなった彼女は正に美しく、この市場の顔でもある。
買いに来る客全てが、注文より先に彼女の事を尋ねるのだ。
フードの下に見える口元に、思わず笑みが零れた。
和也は今、セレーニアの市場で、アンリの代わりに店番をしている。
知り合いに会うと不味いので、『蒼き光』の巡礼者が着るような、フード付きの貫頭衣を身に着けて、顔を隠している。
アリア達と別れ、その足でこの世界に来た和也。
大分在庫の少なくなったアンリのパンを仕入れようと、その家に赴いた和也は、市場に出かける準備をしていた彼女に理由を話し、そこに出来上がっていたパンを全て譲り受けようとした。
喜んで差し出そうとした彼女だが、その際、その様子に少し違和感を感じた和也は、見つめられて視線を逸らすアンリの心を覗く。
案の定、その幾つかには既に予約が入っていて、和也が全部貰ってしまえば、彼女はその分を急いで焼き直さねばならない。
中には、そうすると間に合わない予約もあった。
『私が謝れば済む事ですから。その方には申し訳ありませんが、私の優先順位には、常に御剣様が頂点に居られます』
彼女はそう言って、なおも全部差し出そうとしてきたので、和也は礼を言いつつも、ある提案をしたのだ。
『では自分が市場で店番をするから、君は新たにパンを焼いてくれないか?君のパンのファンが増えて、なるべく沢山欲しいのだ。今日はずっと、君を手伝うから』
それを聴いたアンリは、真っ青になってよろめいた。
『そんな!!恐れ多くも御剣様に、店番をさせるなんて事できません。ミューズが知ったら、私、何をされるか・・』
そう言って断ろうとする彼女に、和也は呟いたのだ。
『仕方ない。今後は無断で店頭から貰う事は勿論(エリカ編31参照)、こうやって買いに来る事も控えよう。君に余計な労力をかけたくないからな』
『!!!』
それを聴いた彼女の反応は劇的だった。
ぼろぼろ涙を溢し、和也に抱き付いてきたのだ。
『すみません。申し訳ありません。どうかそれだけはお許しください。私、パンを作れなくなってしまいます』
ちょっとだけ駄々を捏ねるつもりが、あまりに大きな影響を与えてしまった事に、今度は和也が慌てる。
『いや、すまん。君のパンがないと困るのは自分の方なのだ。本当なら、毎日でも買いに来たいくらいだぞ』
アンリがそっと、泣き顔を上げる。
『・・本当ですか?』
『勿論。他の皆にも是非食べてもらいたい故、ある程度は我慢しているのだ』
再びそっと、抱き付いてくるアンリ。
『嬉しいです。これからも、御剣様の為に一生懸命お作りしますね』
このような遣り取りを経て、どうにか店番を任され、昼前からずっとここに立っている。
だが、売れたのは予約分を取りに来た者を除けば、その全てが女性のみ。
しかも、アンリではない自分が何故ここに居るのかを問い質される。
その度に、適当な言い訳を伝え、顔を見られないよう下を向く和也だったが、そんな彼の前に、また1人のお客が来た。
「今日はって・・あれ?」
アンリでない事に気付いた彼女が、まじまじと和也を見る。
「!!!」
深くフードを被り、口元しか見えない和也に直ぐ気が付いた彼女は、大声を上げそうになった自身の口を、慌てて両手で抑える。
「・・いらっしゃいませ」
「な、何故ですか?
どうしてあなた様が店番などを・・」
誤魔化せないと知った和也は口元に人差し指を立て、『内緒な』と意思表示する。
「アンリに大量のパンを注文してな。
それを直ぐ作ってもらうため、自分が店番をすると彼女を説得したのだ」
「それにしたってアンリったら。
恐れ多くも御剣様に、こんな事をさせるなんて」
「彼女を責めるな。
強硬に拒絶した彼女に、無理やりさせたのは自分なのだ。
それに、自分は嬉しい。
アンリのパンが、如何にこの地に根付き、必要とされているのかが直に分かるのだから。
・・お前も見違えたぞミューズ。
前回皆で過ごした時から、更に美しくなったな。
この仕事が終わったら、お前の所にも、少し顔を出そうと思っていたのだ」
「!!!
・・嬉しいです、御剣様。
そのようなお言葉、かけていただけるなんて、・・私は本当に幸せ者です」
涙ぐむミューズを見ながら、和也は苦笑して、少し呆れたように告げる。
「アンリもそうだが、お前達は自分を過大評価し過ぎだ。
そこまでお前達に敬われる事など、自分は何もしてないぞ。
この国を救ったのだって、エリカの為という私欲なのだ」
「私達があなた様をお慕いするのは、それだけが理由ではありません。
もっと他に、大切な理由があるからなのです。
・・パンを、2つ頂けますか?
御剣様がお選びになったパンを、私に手渡してください」
「何でも良いのか?
それなら、・・これとこれだな」
パンと引き換えにお金を差し出すミューズの手を、和也は軽く握る。
「え!?
あ、あの、・・嬉しいです」
「仕事以外に、毎日のように大聖堂で作業をしているようだな。
・・有難う。
お前達が精魂込めて造った大聖堂は、自分が永劫に守っていく。
如何なる災害からも、どんな攻撃であっても、決して傷つけさせたりはしないから」
そう言いながら、握った手に魔力を通して、彼女の全身の凝りを解してやる。
「ん、・・ああっ」
聞きようによっては悩ましく聞こえる声を発し、心地良さそうに頬を染める彼女。
「あまり根を詰めるなよ?
自分がここに居る事は、他の皆には内緒にしてくれ」
和也の言葉に、『はい、御剣様』と小さく答えた彼女は、何だかとても幸せそうに、来た道を戻って行った。
「フンフンフーン」
お昼を買いに行くと言って出て行ったミューズが、何やら大層ご機嫌な様子で戻って来た。
「一体どうしたの?
貴女が鼻歌を歌うだなんて、珍しい事もあるわね」
「え!?
・・いや別に、ああそう、アンリがお釣りを間違えてさ、銅貨2枚得しちゃったんだ!」
「・・・」
『それで誤魔化しているつもりなのかしら』
「貴女がそんなに貧しい訳ないでしょ。
何を隠してるの?」
「あーっ、そういえば、午後から店にお客が来るんだった」
あからさまに怪しい言動を残して、彼女が去って行く。
その速さに、魔眼を使う暇も無かった。
自分もまだお昼を食べていないリセリーは、面倒だけど、市場まで行ってみる事にする。
あのミューズが、あんなにおかしな態度を取るなんて、絶対に何かある。
普段、リセリーはあまり昼に出歩かない。
御剣教の教皇として、確固たる地位を築いた今の彼女には、道を歩くだけで、大勢の信者が寄って来る。
その全てに丁寧な応対をするので、酷い時は100m歩くだけで1時間近くかかるのだ。
自室で衣服を着替え、町娘のような格好をして、念のためフード付きの外套を羽織る。
大人になり、背も伸びて、更に美しく成長したリセリーは、そんな格好でも人目を引くのに十分なのだが。
何とか無事に辿り着いたアンリの屋台では、彼女ではなく、別の人が店番をしていた。
嬉しい事に、どうやら御剣教の信者のようである。
フードに邪魔されて、顔がよく見えないが、男性なのは間違いない。
店の前に立った自分に、その男性が声をかける。
「・・いらっしゃいませ」
「!!!」
ミューズと全く同じ動作をする彼女。
直ぐに抱き付きたい所だが、こんなに人目がある場所では、今の自分の肩書が邪魔をする。
何とか押し止まると、震える声で注文する。
「あなたをください」
「いや、それは多分に周囲に誤解を与えそうな表現だぞ。
・・元気そうだな。
直接顔を見たのは、就任式以来かな?
いや、エリカ達と風呂に入った時か」
「ここで何してらっしゃるのですか?
只の店番ではないのでしょう?」
「只の店番だ。
その代わりに、パンを大量に作ってもらっている」
「相変わらず、アンリには甘いんですね。
この間も、お風呂を造ってあげたばかりか、一緒に入ったでしょう?」
「色々と迷惑をかけているのに、彼女は自分(和也)から報酬を受け取ろうとはしない。
だから、こちらから気にかけてやらねば、アンリに申し訳ない。
お前が気にする程の事は、何もしてないつもりだが」
「お風呂に2人だけで入るのは、十分気になるわよ」
嫉妬に燃えた両の瞳が、フード越しに和也を見据える。
「・・なら今晩、お前も来るか?
仕事を終えたアンリと、風呂に浸かる約束をしているのだが・・」
「良いの!?」
「構わん。
彼女も何も言わないだろう」
『それはどうかしらね?
聴いた以上、遠慮はしないけど』
「嬉しい。
じゃあ、仕事をさっさと片付けて、お邪魔するわね。
恐らく、ミューズも付いて来るわよ?」
「大丈夫だ。
それくらいの広さはある」
『この人、本気で言ってるのよね。
何人も奥さん娶って、やる事やってるはずなのに、どうしてこうなのかしら』
「・・そのパンと、あとそっちのを1つずつください」
後ろに他の客が並びそうだったので、早々に会話を切り上げるリセリー。
お金を払い、和也に目配せすると、直ぐに帰って行った。
それから暫くは平穏だった。
相変わらず、アンリが居ないと分かると帰る客もいたが、女性客の中には『アンリとどういう関係?』などと興味津々に尋ねてくる者もいて、和也が『いつもお世話になっているので、今日はそのご恩返しにお手伝いを』と告げると、『なあんだ』と苦笑いして帰って行く。
客が居ない時は、市場やその向こうに見える住宅街をぼんやり眺めながら、『良い国になったな』と感慨無量の和也であったが、そんな彼の前に、旅人と思われる、1人の女性が立ち止まった。
随分長く旅をしてきたらしく、外套は汚れと解れが目立ち、本人も少し窶れているが、その彼女は、和也が立つ屋台のロゴを凝視したまま動かない。
少しして、徐に懐に手を入れ、首からつり下げた革袋から大事そうに1枚の紙を取り出すと、それと何度も見比べる。
やがて、震える指先で、あるパンを指すと、『それをください』と硬貨を渡してきた。
半信半疑で、ゆっくりとその場でパンに齧りついた彼女は、何度か噛み締めた後、細い涙を流し始める。
その光景を見ていた和也は、不意に思い出した。
彼女は、自分が以前手を差し伸べた女性だと。
辺境の小国で、確か修道院のシスターをしていたはずだ。
どんなに働いても、祈っても、何ら応えてくれない神に絶望しかけ、その命を自ら断とうとしていたのだ。
その国は貧しく、疫病も多かった。
僅かな魔力で信者達にヒールを掛け続け、魔力が尽きて倒れそうになっても、更に身体に鞭打って、寝たきりの患者の世話をしていたが、国の援助もなく、寄付もほとんど無い状態での修道院の経営はかなり厳しく、目の前で力尽きて死んでいく者を黙って見送る事しかできなかった彼女は、親のように慕っていた神父が亡くなった時、とうとう耐えきれずに死を選ぼうとした。
和也は、そんな彼女に、十分な魔力と魔法を与え、2枚の金貨と共に、幾つかのパンを与えたのだ。
てっきりその後は普通に暮らせているとばかり思っていたが、何故そのような格好になってまでここに来たのか、少し心を覗いてみる。
そして、人知れず溜息をついた。
いきなり豊富な魔力で強い魔法を使えるようになった彼女は、その小国で次第に聖女と崇められ、半ば強制的に修道院から連れ出される。
教会の総本山に閉じ込められ、意に添わぬ象徴としての役目を強いられた彼女は、1度しか聞いた事のない神の声を再び聴こうと、その後何度も呼びかける。
だが、間が悪い事に、エレナに役目を与えた後の和也は、そう頻繁にチャンネルを開いている訳ではないので、その呼び声に気付かなかったらしい。
やがて、孤独の内に、その重責に耐えられなくなった彼女は、隙を見て逃げ出し、それからこの国へ向けての長い旅に出たのだ。
セレーニアに誕生した教団、『蒼き光』には、神より直に授かり物を受けた教皇がいる。
その噂は彼女の居た国にも伝わっており、神の声を再び聴ける奇跡を求めて、リセリーに縋りに来たのである。
和也は、己の迂闊さを恥じ、そして反省する。
手を差し伸べた以上、きちんと最後まで見ていてやる責任がある。
それを怠り、彼女にここまでさせたのは自分なのだ。
自然と、心で彼女に語り掛けていた。
『すまなかった。
要らぬ苦労をさせたな』
頭に直接響いてくる、あの時と同じ声に、パンを噛みしめ、涙を流していた彼女の眼が見開かれる。
『我は決して、お前を見捨てた訳ではない。
ただ少しやる事があってな、そのチャンネルを閉じていたのだ。
お前がした、その後の苦労、そして苦しみは、今見せてもらった。
・・安心しろ。
我は徒に手を差し伸べはしない。
お前には、それを受けるだけの資格と価値が、確かにあるのだ』
言葉を聴いている彼女の瞳から、流れ落ちる涙の量が増えていく。
『もし行く当てがないのなら、我からリセリーに話してやろう。
御剣教の信者でなくても、お前を受け入れ、保護してくれるはずだ。
もう誰も、何も、お前に強制する者はいない。
好きなように、望むままに生きるが良い』
「・・神様。
私の信じる神様は、やはりここに居られた。
・・御剣様だったのですね。
そうとは知らず、随分遠回りしました。
どのお方かも分からずに、盲目的に祈る日々。
旅の野宿でした、心細い思い。
顔を隠し、身を窶し、やっと辿り着いたこの国で、頂いたパンの包みと同じものを見つけたのは運命なのですね。
嬉しいです。
見捨てられたと思い、不安で張り裂けそうだったこの胸に、新たに宿る信仰の光。
私は、御剣様の下へ、『蒼き光』に入ります。
今度こそ、祈りを捧げる相手を間違えない。
やるべき事を見失わない。
願わくば、どうか私の行いが、御剣様のご意思に沿いますように・・」
天を向き、流れ落ちる涙も気にせずに、そう呟く彼女。
和也はその言葉に、魔法で以て応える。
彼女の全身が、一瞬青く光る。
擦り切れ、解れた衣服が真新しくなり、遠回りさせた分だけ、重ねさせた歳を返す。
そしてその胸元に、小さな光を生じさせた。
驚いた彼女が、その光を支えるように両の掌を向けると、光が止み、手の中に、あの時と同じ2枚の金貨と、パンの入った包みが残る。
そして囁かれる、当時と同じ言葉の数々。
彼女は、涙で見えなくなった両目を瞑り、ただひたすらに天を仰ぐ。
そこから彼女に向けられた淡い光は、何だかとても、すまなそうであった。