アリア編、その26
「もう直ぐ貴女が教皇に就任して20年目よね?
お祝い事か何かしないの?」
建設が始まって同じく20年になる大聖堂の内部で、ミューズが高い足場の上にしつらえた専用の台座の上で寝そべりながら、天井画を描きつつ、見学に来たリセリーに話しかける。
「特に何もする気はないわ。
そういうのは自分からするものではないと思うし、教団にとってめでたいのは、私の在位期間ではなく、その存続期間の方だもの」
「相変わらず真面目ね。
今はもうかなりの数の信者がいるのだし、そういうのって、お祭りのようなものだと思うけど」
「ここが完成したら、それこそ盛大にやるわよ。
御剣様も、お顔を見せて下さるお約束だし」
「この調子だと、あと100年以上かかるわよ?」
大聖堂の建物自体は、外壁の建設はほぼ完了している。
まだ細かな装飾までは手が回らないが、人が中で活動する分には、何の支障もない。
事実、リセリーは仮の教団本部から1人でここに越して来て、そこだけ急いで職人達が手を加えた教皇室で、日々生活している。
執務室というより、彼女のプライベートルームと化していて、ベットやクローゼットまで置いてある。
建設開始から20年経ってもまだ外側しかできていないのは、それに携わる者達の拘りが半端ではないからだ。
柱の1つ1つ、塗装の1塗りに至るまで、手に入る最高の素材で、細心の注意を払って造られている。
作業員の多くが、現に御剣教の熱心な信者であり、リセリーの熱狂的な支持者でもある。
彼らは、教団に対するお布施の如く、利益度外視で働いてくれるのだ。
同じく、ここの装飾においては本業以上に完璧を求めるミューズと、彼らは大分気が合うようである。
「それは仕方ないわ。
この大聖堂は教団の、いいえ、御剣教の象徴そのもの。
完璧を求める姿勢を称えこそすれ、文句など、あるはずがない」
「象徴は貴女じゃないの?」
「私はずっとここに居る訳じゃないのよ?
できる事なら少しでも早く、あの方のお側に行きたいのだから。
でもまあ、あと数百年は無理かしらね。
この教団の礎を、永遠に盤石なものとするまでは・・」
「当たり前よ。
自分だけ先に約束の地に行かないでよね?」
「ファンクラブだっけ?
私の許可なくそんなものを作って、おまけに私を除け者にした事、まだ忘れてないからね」
「もう散々謝ったじゃない。
それに、世界にたった4体しかない、あのお方の像を渡したでしょ。
あの時はまだ貴女は子供だったんだもの、仕方なかったのよ」
「・・まあいいわ。
『今は私だって、彼と交換日記をしてるしね。
あんまり返事を書いてくれないけど』
切りの良い所で呼んでね。
今日のお茶にはアンリのケーキがあるわよ」
「ほんと!?
最近直ぐ売り切れて、中々手に入らないのに・・」
「例の温泉の件で少し問い詰めたら、これからは時々くれると言ってたわ。
『魔眼で調べたら、彼と一緒にお風呂に入ってたものね。
ミューズには内緒だけど』」
「ああ、あれは羨ましいわよね。
御剣様のお手製だもの」
「貴女、ほぼ毎日通っているじゃない。
後でちゃんと何かお礼しなさいよ?」
「ここの仕事の後には、あの湯は欠かせないのよ。
入らないと、次の日筋肉痛が凄いんだから。
それに、私達の仲にそんな遠慮はいらないの」
「それにしては、ファンクラブ憲章に『抜け駆け禁止』があるじゃない」
「その事だけは、友情とは別物なの。
貴女だって、私達だけがあのお方に可愛がられたら、思う所があるでしょう?」
「間違いなく、貴女達を異端者とみなすわね」
「・・それ、冗談になってないわよ?」
「フフフッ、作業頑張ってね」
そう告げる彼女もまた、溜まっている仕事をこなしに、己の執務室へと向かうのであった。
『もう直ぐご就任20年目を迎えるリセリー様に、何かお祝いをしてあげたい』
セレーニア王宮お抱えの管弦楽団のメンバー達は、自分達の楽団立ち上げに並々ならぬお力添えをして下さった彼女の為に、皆そう考えていた。
今では世界中に広がったピアノやバイオリンの他にも、フルートやトランペットなど、楽団の主要な楽器の制作や練習に、彼女は精力的に関わってくれた。
初めて尽くしで何も分からなかった自分達を、辛抱強く、丁寧に指導してくれた。
彼女が自ら書き写してくれた各楽器の練習書は、その後多くの者達に写本され、集団での練習方法や楽器の手入れに至るまで、事細かく書かれていると今でも絶賛されている。
マリー将軍と2人だけで魔の森を駆け回り、ヴァイオリンに使うニスの原料や、楽器の素になる木を探し求めた事は、子供用の劇にまでなった。
声楽より費用がかかり、練習場所も限られてくるため、エルクレールでの音楽祭では今一つ参加者の数で声楽に及ばないが、今後曲目が増えてくれば、より注目度が増すことは間違いない。
ただ、まだその肝心の曲を書ける作曲家の数が圧倒的に足りない。
リセリー様から最初に頂いた20曲の楽譜を練習しながらも、楽団員達は、今年の音楽祭で彼女の為に演奏する目玉の曲を欲していた。
その日、練習に励んでいた楽団員達の下に、それは現れた。
ホールの上空がパアッと光ったと思ったら、その光の収束と共に、1冊の楽譜が降りてくる。
緩やかに降って来た楽譜にはメモが添えてあり、『リセリーに贈る。交響曲「神生」』とだけ書かれている。
その楽譜を手にした楽団員達は、喜び勇んで内容を見て、絶句する。
・・難しい。
だが恐らくこれは、神からリセリー様への贈り物。
できないでは済まされない。
その日から、彼らの受難と充実の日々が始まった。
ティンパニーが、コントラバスが、バスクラリネットが、深い闇を纏った心の表現に苦しんでいる。
自身では未だ体験した事のない、黒く静かな怒り。
その音が出せないで悩む彼らの心の中に、何処からか声が入り込んでくる。
『違うわよ。
そんな上辺の音じゃない。
もっと深く、もっと激しく、それでいて妙に静か。
あの時の、お父様の怒りの音はこう!』
「ひっ!!
あああ、・・・た、助けて、・・あああっ」
心に沁みつくような粘り気を持つ、鋭く、凍える怒りの視線。
それが音に変えられて、奏者達の心に送られてくる。
『この音よ。
これが出せるまで、しっかり練習なさい』
ピアノ、第2ヴァイオリン、オーボエ等が、救いようのない悲しみ、寂寥感、心の痛みを表現できずにもがいている。
人よりずっと長寿であるはずの彼らが、全く想像つかない長き年月、その間の、心が潰れそうな感覚。
楽譜上の音を如何にそれに近づけるかで苦しむ彼らの心にも、何処からか声が聞こえてくる。
『想像しなさい。
数千、数億年の間、他者との交流を渇望しながらも、こちらからは声さえかけられずに、ただ一方的に怒りや悲しみ、怨嗟の声を受け続けるという事を。
言い訳も、謝罪すらできない環境で、己を謗る他者の声だけが聞こえてくる様を。
その時の気持ちを敢えて表現するならこういう音です』
「うう、・・・あああ、止めてくれ、それ以上は止めてくれ。
おかしくなってしまう!」
『人の数倍も生きている割には柔ね。
でも、お父様のお気持ちを、あの時のお心を、中途半端になんか表現させないわよ』
第1ヴァイオリン、フルート、ハープの奏者が、他者と心が通じ合えた際の喜び、初めて愛を知った時の嬉しさを、型通りにしか表現できていない。
その長い生故、色恋沙汰に関しては他の種族より淡白な彼らは、人を愛した時の燃え上がるような情熱、他に何も目に入らなくなる気持ちの高揚に、やや疎い面がある。
そんな彼らにも、何者かの声は容赦しない。
『何ですかその音。
あなた、他者を愛した事ないのですか?
そんな平凡な音では、せいぜい森に住むトカゲくらいしか振り向いてはくれません。
お父様の純粋で美しい愛を、そのような陳腐な音で表現するなど許せません。
いいですか?
そこは、こう表現するのです』
彼らの中に、音が流れ込んでくる。
ヴァイオリンの出せる音を極限まで甘く、ハープの奏でる音を一切の濁りなき清らかな音色に、フルートは、そこに至る気持ちの過程を丁寧に盛り上げる音を紡ぐ。
「・・うわ、これ聴いてるだけでその人が相手にベタ惚れしてるのが分かる。
でも、とても美しい音色。
きっと、本当に心から相手が好きなんだわ」
『悔しいけどその通りです。
お父様の意地悪。
わたくしへ向けられた想いは、これとは少し違いましてよ?』
3か月後、エルクレールの音楽祭に現れたセレーニアの王宮楽団は、皆の顔つきが以前とは大分異なっていた。
容姿に関しては他の種族より秀でたものがあるエルフであるが、本来ならその常識の中に入るであろう彼らは、心なしか頬がこけ、目の辺りに隈ができて、かなり窶れたように見える。
それでいて、その瞳だけが異様にギラギラ輝いているのだから、それが良く見える前列の聴衆が気味悪がるのも無理はない。
でもそれは、彼らの演奏が始まるまでの事であった。
プログラム№11、交響曲「神生」。
今年はそれを最大の目当てとしていた数人が、1音も聴き逃さないとでもいうように、全神経を耳に集中する。
そして、曲が始まった。
何も無い、ただ己のみが存在する世界。
見渡せど、振り向けど、誰もいない虚無の空間。
どれ程問いかけても、どんなに呼びかけても、何一つ答えてはくれない。
光が生じ、闇が付き添い、時という概念が生まれる。
やがて他の土や風、火や水が、少しずつ星々を形作り、それを母体として様々な生命が現れる。
まるで、植木鉢に蒔いた種が芽を出した事を喜ぶかのように、その1つ1つを見て回っては、これからどう育つかを楽しみにしていた。
過酷な環境に耐えられず、多くの種が姿を消していく一方で、その環境に適合するため、自らを進化させる個体が出る。
強き雄と弱き雌。
固定化された構造の中から、本能のみならず、理性の光を垣間見ることができ、人に優しさが生まれたことに頬を緩める。
力で支配する時代から、知恵を持つ存在の出現により、それらを道具で統制する時代へ。
本能や感情のみの支配から、独裁者の圧政を回避すべく、法の支配の概念が生まれ、行動の予測可能性を得た人々に、ゆとりが生じ、文化の華が咲き誇る。
人の発想、空想を形に変える力に驚き、他者を愛する表現の多様さを素直に称賛しながら、我もまた、未だ出会えぬ存在を想い、胸を焦がす。
だが、折角育った花々を、無残にも散らす愚行が各地で見え始める。
自己と異なる考えを認めない視野の狭さ、欲しい物を必要以上に得ようとする強欲さ、自分達こそ最高の存在だと妄信する浅はかさが、世に咲いた美しい花々を散らしていく。
『何をしている。
お前達は、一体何をしているのだ?』
我が手出ししないのをいい事に、やりたい放題の蛮族達。
美しい景色が、長閑な町や村が、優しい人々が、何の非もない子供達が、大した理由もなく消されていく。
この感情をどう表現したらいい?
怒り?
憎しみ?
怨みか?
我の視界は、己が流す血の涙で、赤く染まっていく。
「お願い、誰か助けて!」
「・・神様、今あなたの下へ参ります」
「苦しいよ、熱いよ、お母さん、お父さん」
「何でこんな目に。
神の教えを守り、正直に、誠実に生きてきたじゃないか!」
「この子だけでもどうか助けて下さい!
私は、私はどうなってもいいから」
『・・すまない。
手出しはしないと・・決めてるんだ』
「俺はここで死ぬのか。
散々努力して、さあこれからって時に、こんな理由で!」
「もっと生きたい。
あと1年でいいから。
せめてこの子が、独り立ちできるようになるまで」
「恋ってどんな色?
思い切り走るって、一体どんな感じなの?
海の水は本当にしょっぱいのかな?
今度生まれてくる時は、身体が健康だと、いい、な」
『すま・・ないっ』
「神なんていやしない!
どれだけ祈っても、どんなに徳を積んでも、何もしてくれないじゃないか!」
「こんな世界、滅んでしまえばいい!
良い事なんて1つもない。
何で俺ばかりがこんな目に。
何で!?」
「止めろ、止めてくれ。
そいつを殺さないでくれ。
俺が代わりになる。
だから!
ああああっ!!
・・・呪ってやる。
こんな世界を創った奴を。
こんな世界にした奴を」
『すまない』
目を背けず、耳を塞がない。
それがせめてもの償い。
そう思って耐え続けた我の心は、長い日照りで深くひび割れた大地の如く、かさかさに乾いていた。
前回笑ったのは何時だったか。
この頃ずっと、居城の庭を静かに眺めている時間が増えた。
手を貸せば切りが無い。
そうすれば、どれも皆同じような世界になってしまう。
そう考えて、あくまで観察者に徹しながら、我と肩を並べられる存在の出現を待ち続けたが・・・駄目だった。
数千、数億年、数十億年待ち続けても、一向に現れない。
これはと目をかけていた者も、病や戦、老衰で死んでいく。
自分は何か、考え違いをしてはいないか。
形式に囚われ過ぎて、もっと大切な、かけがえのないものを失ってはいないか。
言いようのない不安に襲われ、玉座に座り、目を閉じる。
これまでの果てしなく長い観察結果をもっとよく考えろ。
限りある命の者に、自分は一体何を求めていたのか。
そもそも、最初はただ話し相手が欲しかっただけだろう?
・・・決めた。
行動しよう。
外部の観察者ではなく、その世界に暮らす者達の一員としてなら、多少の手出しは許されるはず。
やってみて駄目なら、また考えればいい。
こんな自分でも、探せば1人くらい、側に居てくれる者が見つかるだろう。
そしてできることなら、自分も誰かを愛してみたい。
この渇きを癒してくれる、自分を温かく包んでくれる、そんな女性から、微笑まれてみたい。
初めて降り立った大地。
他の生命が溢れる世界に嬉しさを隠せない。
最愛の人との出会い。
白黒映画を見ているような世界の有様が一変する。
彼女との夢のような時間。
ひび割れ、埃が舞うようだった心が、愛の雨により急速に回復していく。
その心から生じた新たな芽は、瞬く間に弱き者が羽を休める大樹へと成長し、その枝に生った実は、多くの者に力と自信を与える。
自身にとって初めての、大切な人を守る戦い。
世界にとって初となる、神による裁き。
6精全てに祝福され、称えられて、世界をその歌声が覆い尽くす。
切なる声に、ただ耳を塞ぎたかった頃とは異なり、悲惨な光景に、思わず目を閉じたくなる時がなくなり、傲慢にならぬよう己を戒めながら、愛する者に支えられる日々。
嘗て夢見たのは他者との交流。
今願うのは緩慢な時の流れ。
大切な人、愛する人が、どうかいつまでも自分と共に在りますように・・・。
曲が終わる。
華奢な身体全体を使ってタクトを振り、肩で息をする指揮者。
魔力を用い、全神経を集中した演奏に、疲労の色が濃い奏者達。
席を立ち、聴衆に挨拶する前に、彼らは挙って主賓席に座るリセリーを見る。
その表情に着目する。
果たして、彼女の頬には滅多に見せない涙の跡が残っていた。
聴衆からの、割れんばかりの拍手。
キーネル夫妻が、ロッシュ夫婦が、カイン兄妹が、そしてミューズとアンリが立ち上がって拍手している。
後に世界中で演奏される、最も有名な交響曲の初演は、こうして幕を閉じた。
『まあまあね。
おまけして合格点をあげる。
ただし、この曲を演奏する時は、今後も精一杯やりなさい。
もし手を抜いたら、・・許さないわよ?』
壇上にかかる漆黒の幕に隠れた、誰かの声が奏者達の心に響いた。
『有難う。
とっても素敵な贈り物。
私の為に、あそこまで心を開いてくれて、本当に嬉しかったわ』
ロッシュ夫妻の館に借りてる部屋に帰ると、リセリーは早速日記帳にお礼を記す。
『お前を慕う、彼らの願いでもあったからな。
教団の活動が世に認められ、お前の苦労が少しでも減った事を、我は喜んでいる。
今回の演奏を録音したディスクを渡そう。
お前のリングに魔力で動くCDプレイヤーを入れておくから、好きな時に聴くといい』
思わず歓声を上げるリセリー。
世界にたった1つしかないと思われたそのCDは、彼女にとっては不本意な事に、後に9枚に増える。
誰が欲しがったかは、彼女に渋々ながらも『うん』と言わせることの可能な者が誰なのかは、推して知るべしである。