竜也 VS 薫
慎吾少年が床に残した靴跡を一心不乱に拭いていた…何かしていないと怒りが心に充満し彼を非難してしまいそうで怖かった。
一階は全て終わり次は階段を一段一段拭いた……二階に上がりたくなくてやたら丁寧に隅々まで磨いていったが、永遠に続く訳ではないのでとうとう階段が終了してしまう。
立ち上がり書斎のドアを見つめた。
口を真一文字にして磨く必要の無い手摺りをダラダラ拭きながら何度も書斎の方に視線を向けた。
床には書斎までの靴跡がしっかり残っている。
……拭かなきゃ。
其れでもやはり永遠に床は続かない……あっという間に書斎の前に辿りついてしまった。
ドアを見つめノックをしようとしたが躊躇い、一階に戻ろうと背を向けた。
でも、如何しても話しをしたくて、またドアの前に立ち、深呼吸をしてからノックした…………何時ものように返事はない。
ドアノブを見つめ小さく息を吐き書斎へ入った。
「……失礼します。」
ドアを閉めデスクでパソコンを睨んでいるであろう彼の方へ顔を向けた。
「……!!」
パソコンの画面ではなく、真っ直ぐ私を見ていた。
無視されるのを覚悟で話しに来たけど見事に裏切られ、動揺した私は思わず彼から一瞬視線を外した。
「……来ると思いました。」
強い意志を感じさせる瞳は私の考えをくじけさせるのに充分な程澄んで光っていた。
……其れでも言わずにはいられなかった……やはり慎吾少年に対して冷た過ぎたのが納得いかなかった。その私の気持ちがわかっているから、こうして正面を向いて待っていたんだと思う。
「あの…如何して少年を冷たく追い帰したりしたんですか?」
「随分納得がいかないみたいですね。」
「はい……」
突然侵入して来た少年を咎めることも無く迎え入れ、食事まで出して話しを聞き……誰だってそこ迄されたら期待してしまう。
其れなのに聞くだけ聞いたら追い帰すなんて……ただの時間つぶしに過ぎなかったみたいで慎吾少年が気の毒で仕方ない……助ける気が無いなら最後まで聞かず追い出せばよかったのに……よっぽとその方が期待をさせないで……傷付ける事も無かったはず。
「最後まで聞いてあんな風に帰すなんて冷たいと思います。」
「冷たいか…………じゃあ薫さんは僕が如何すれば良かったと思うのですか?」
「それは……施設を助けてあげると言って欲しかったです。其れが出来る方じゃないですか。」
デスクに左肘をつき指をこめかみに当て少し見上げる様に私を見ている。
ふっと息を吐くと今度は両手の指を組んで厳しい表情に変わった。
「……あの場で助けてやる、お金を出してやる、と言うのは簡単です。でも、少年の話しだけで安請け合いは出来ない。」
「でも……」
「薫さん。……あんな子供のうちから金持ちに頭下げればお金を出して貰えるという考えが、これから先社会に出た時果たしていい影響を与えるかどうか……僕には疑問です。
なんの努力も無く力を持っている者に頼る……そんな事が簡単に出来ると思ってしまったら……其れが子供達にとってプラスかマイナスかと考えたら…マイナスです。
……勿論、〝かも知れない″という不確定な考えですが……」
彼は冷静でとても淡々と一切感情を表に出さないで滑らかに話す。
私はその対局に位置し、感情をぶつけた。
「でも、色んな事情で親と暮らせないで辛い事が多い子供達が、今まで仲間と支え合って来たんだから……せめて、もう少しの間一緒に暮らせる様にしてあげたい。と思うのは間違ってないと思います。」
「……僕は何が間違っているか、そうじゃ無いかを言っているのではないですよ。
施設で何時迄も暮らせる訳じゃない…いつか必ず出て行かなくては成らない時が来ます。
その時一人一人がどれだけ強く社会を生き抜いて行くかが重要で……長いのだから……ここで全てを他人に頼っては辛い事がある度そこから逃げたり、また他人に頼るだけの大人になってしまうかも知れない……そんな風に成長して欲しくないと思うのです。」
「……言っている事は理解できます。
ただ、まだ子供ですよ。
親と暮らせない子達にとっては施設の皆んなが家族なんだと思います。
其れをまた引き離すなんて……傷が増えるだけだわ。」
感情のまま話す私に呆れてしまったのか彼は深く溜め息を吐いた。
「……生きていて傷付かない人生なんて誰も送れはしないのですよ……薫さん。」
「そんな事わかってます。……わかっているから、せめて今は子供達が笑顔で暮らせる場所が必要だと思います。」
「……何にも怯まず強く自分の人生に向き合える大人になって欲しいと望んでいるだけなんですが……薫さんには納得して貰えない様ですね。」
優しい瞳の中に哀しい影が一瞬見えた気がした……たまに見せるあの瞳。
其れは私の心を掴んで痛ませる。……しかし今はその痛みを感じている訳にはいかない。
「考えは変わらないのですね……」
「其れは……薫さんもでしょ。」
何故彼は子供達に強くなる事をこんなにも望むのだろう……
誰だってどんな困難にあっても立ち向かって自分自身で道を切り開いて行きたいと思う。
……でも強くなりたくてもなれない人は世の中にたくさんいる。
……其れでも誰かを頼ってはいけないと言うの?
彼の様に何でも持っている人種には理解出来ないのかも知れない。
私はお互いなんの歩み寄りもなく終わった事が残念で沈んだ顔で〝失礼します″と言い書斎を後にした。
…………哀しかった。
でも、この時私がとてつもなく大きな考え違いをしていた事にずっと後になって知り、自分の想像力の無さ、浅い考え方で物事の本質を見抜く事の出来ない薄っぺらい人間だと思い知らされる事になるのです。
◆◆◆◆◆
慎吾少年を児童養護施設へ送って行ってから三時間が経ったが丸岡さんはまだ帰って来ない……道が混んでいたとしても一時間もあれば戻って来れる距離なのだけど……何かあったのだろうか?
夕食の準備をしなくては成らない時間なので一人で取り掛かり始めた。
……勝手口のドアが閉まる音が聞こえた。
帰ってきたんだ。
私が廊下に出ると丸岡さんが二階へ上がって行くのが見えた。
暫く降りては来ないかな……
夕食の準備を再び始めると間も無くキッチンのドアが開き〝遅くなって申し訳ございません″と言いなが丸岡さんが入って来た。
それから二人で準備をし調理に取り掛かった。
……何度か丸岡さんに目を向け、慎吾少年の様子や、彼が何故冷たく突き放したのかを聞こうかと思ったが、黙々と手を動かしている姿を見てきっかけが掴めず、モヤモヤしたまま仕事を続けた。
夕食の用意が整うと丸岡さんが彼を連れて来ていつも通り静かな時間が流れていった。
私はやや俯き加減でその光景を見守りながら自分のやるべき仕事をこなしていった。
……食事中彼は一度も私を見ることは無かった……怒っているのかな…?
そしていつも通りハーブティーを飲み二階へ上がって行った。
……やはり、一度も視線を合わせる事は無かった。……嫌われたのかも知れない。
後片付けが終了すると丸岡さんに仕事は此れで終わりなので自室に戻っていいと言われ私は〝お疲れ様でした″と頭を下げて二階の自室へ向かった。
部屋に入る前、彼の部屋の方を見て肩を落とし自室に入った。
今夜は眠れないかもしれない……
◆◆◆◆◆
あれから二日が経った……その間彼は仕事が忙しいのか長い時間書斎に籠っている事が多かった。
午後のティータイムが終わり後片付けをしていると、丸岡さんが話があると言いコーヒーを手にしキッチンにあるテーブルを囲んだ。
「……竜也様が落ち込んでいらっしゃいましたよ。」
「えっ……」
「薫さんが全然目を合わせてくれないと言って……」
穏やかな目尻が下がり可笑しそうに笑っている。
「そんな、向こうが無視しているんです。私は……そんな事ないです。」
「そうでしょうか?
竜也様は事あるごと薫さんに視線を送っておられますが……」
そんな事はない…其れならば一度くらい目が合ってもいい筈。
丸岡さんはふて腐れている私の顔を覗き込んで困った様に微笑んでいる。
「……ここ数日薫さんはずっと視線を落としたままですよ…其れでは目を合わせる事は出来ません。」
……そうなのかしら?
そんな風にしているとは自覚が無かったけど、丸岡さんにはそう見えている……と言う事は私の方が無意識に避けていたのかも知れない。
「……私が少年を送っている間お二人で話しをなさったと聞きました。
随分意見が違ったとか……」
「はい。……彼はどうして頑なに助ける事を拒むのかわかりません。」
「そうですね…余りにも冷静で感情が見えにくいかも知れませんね。
しかし……思い出して下さい。
あの日、薫さんが竜也様に〝酷い″と言って少年を連れて行こうとした私を呼び止めた後の竜也様の言葉を……」
「……えっ?」
なんて言ったかな?……確か
「……今日は…これで終わりです。……今何を言っても…無駄です。……」
丸岡さんは良い答えを導き出した子供に笑いかける様な表情をして頷く。
「そうです。今日…〝は″…と仰いました。
……わかりますか?」
今日は…は……あっ!
は……って事は……次もあるって事よね?
「あの……つまり、日を改めて話しをする……って事……ですよね。」
「良くできました。花丸ですよ薫さん。」
……えっと……何?……ちゃんと前向きに考えるという事なの……
「昨夜、お二人で話された内容をおおまかに竜也様から聞きました。
その会話を思い出したら竜也様の深い考えが理解できると思いますよ。」
会話……ああ…そう言えば〝子供の話しだけで安請け合いは出来ない″……つまり、閉鎖を決めた園長の話しも聞かなくては判断出来ないという事よね……
其れと……こうも言ってた。
〝何の努力もしないで他人に頼るのは……″
これは、他人に頼る前に子供達で何か園に出来ないか考えで欲しい。と……其れが彼の願い?……そして結果はどうなるか分からないけど、考え行動する事が彼にとって、助ける理由ができる。
……そういう事なの……
「……おわかりに成りましたか?薫さん。」
穏やかな誰が見てもホッとしてしまう笑顔を見せる丸岡さんの顔が歪んでいく……
なんて私は浅はかなんだろう。
もっとちゃんと彼の言葉を聞けば理解できるのに、感情だけが先走って言葉の意味を考えようともしないで……私は両手で顔を覆った。
「……私、とても酷い事を……考えが理解できなくて責めてしまった……」
涙を流しても仕方無い……ぐっと我慢をした。……でも、今にも溢れそう。
「大丈夫です。薫さんの言葉で傷付いたりしていませんよ。」
「でも……自分の感情だけぶつけて、きっと呆れてると思います。」
「いいえ、むしろそういう薫さんが竜也様はお好きなんです。
……人の痛みを自分の事の様に心を痛めてしまうその優しさが……だからそんな顔しないで下さい。施設の事はどうなるかまだ私には分かりませんが、いい方向に竜也様が導いて下さると信じてます。」
……丸岡さんがティッシュを渡してくれた。
溢れそうな涙を押さえ、鼻もかんだ……それが可笑しくて二人で笑った。……久しぶりに笑った。
目も、鼻の頭も赤くてグチャグチャだったけど笑った。
……ホッとしたら涙が出てきた。
今度は丸岡さんがティッシュで拭いてくれた……
此れからは彼の言葉を大事にしよう。
彼をもっと信じてみよう……そうすれば見えない何かが見え、知らない何かが知れるかもしれない。
◆◆◆◆◆
丸岡さんと話して彼の事を誤解していた事がわかり、ずっと謝るタイミングを伺っているのだけど、いざとなると中々言い出せず焦っていた。
ここの所伏目がちだと指摘されたので、兎に角そこは意識して顔を上げていた。
丸岡さんが言っていたように彼はたまにチラリと私を見ていて、目が合うと少し戸惑って視線を外したりしていた。
其れでも、彼は何処か嬉しそうにしているので私もホッとした。
食事が終わりテーブルの食器を下げようと側に寄ると〝ご馳走様、ありがとう″と言う彼と久しぶりの至近距離で目が合った……
初めて会った時に魅了されたあの笑顔が私を見つめていた。
一瞬ポゥと見惚れてしまい、後ろで丸岡さんが咳払いをした。
身体が火照ってきてなんだか顔が熱いので、引きつった笑い方で慌てて食器をキッチンへ持っていった。
結局仕事が終わるまで彼に謝ることができなかった。
自室のベットにうつ伏せになって情けない自分に落ち込んでジタバタと子供みたいに手足を動かした。
ピタリと動くのを止め部屋のドアを見つめ……あのドアを開けて廊下に出て左に行くと突き当りに彼の部屋がある。
……謝りに行こうかな。
時計を見ると十時少し前……まだ起きてるはず……起き上がりドアをまた見つめた。
よし!……今日出来ることは今日のうちにかたずけよう。
私は覚悟を決めて廊下に出た。
左へ曲がり丸岡さんの部屋の前を過ぎ、書斎の前まで来ると、人の動く音が聞こえた。
……まだ書斎に籠っていたのかしら?
思い切ってノックする。
「あの、薫です。」
「……どうぞ。」
珍しい、返事をした。私は一呼吸置いてドアを開けた。
彼は書棚の前にいて本を探しているようだった。
足元には何冊も積み上げられていて、車椅子の周りは本だらけだ。
……このままでは身動き出来なくなってしまう。
「薫さん、少し待っててもらえますか?」
「はい……あの、手伝いましょうか?」
その言葉で私の方に振り向き嬉しそうに笑って〝お願いいたします″と言った。
「では、この右にある本を……奥から二番目の下から三段目に戻して下さい。
同じシリーズの本なので番号順に並べて下さい。」
私は分厚い本を何冊も手にして書棚に戻していった。
彼の指示のもと本をしまうのだけれど、その横であれでもない、此れでもないと本を積み上げていくので、一向に片付かない。
私は呆れてしまい少しイラつきながら口を開いた。
「一体なんの本を探しているんですか!」
突然大きな声を出した私をキョトンとした表情で見ると、其れから情けない表情になって言った。
「……其れが分からないんだ。」
「はぁ?」
何を言っているの?
なんの本か分からないで探しているの?
「……一週間前に届いた招待状を栞にして本に挟んだままにして……一体どの本に挟んだのか忘れてしまってね。」
「はぁ…だから本を片っ端に出してたんですか。」
彼は必死に本を開き招待状を探している……
私はガックリと肩を落とした。
……ん?一週間前。
もしかしてあれじゃないかしら?
私は部屋のソファに置いてある雑誌を手に取りページをパラパラとめくると招待状が出てきた。
やっぱり……丸岡さんが注意してたもの。
〝そん所に挟んでいると忘れてしまいますよ″って……
私は彼の目の前に招待状を差し出した。
「あ!…これだ。
薫さん、何処にあったんですか?」
私は最近彼がはまって読んでいる少年マンガを胸の前で持って見せた。
「……これです。」
「あっ……ああ。」
「〝ああ″じゃないです!
丸岡さんに注意されてたじゃないですかぁ」
彼はバツが悪そうに首を掻いて笑っている。
「此れからは気を付けて下さい。」
「……気を付けます。」
其れから二人で山のように積まれた本を書棚に戻した。
腰に手を当てスッキリとした床を見回してホッと息を吐いた。
「薫さん有難う……助かりました。
それで僕に何か用ですか?」
「……あ、えっと……
あの……すみませんでした。」
私はおもいっきり腰を曲げて頭を下げた。
「……。」
やだ……何か言ってよぉ
腰を曲げたまま顔を少し向け伺った。
彼は何故頭を下げられるのか分からない様で首を傾げている。
「…何に謝っているのかな?……なんか失敗でもした?」
「あの……児童養護施設の事で……私、感情に流されて失礼な態度や言葉を……本当にすみませんでした。」
「……その事ですか。
気にしないで……お互いの意見を言ったまでの事です。
僕も少しムキになり過ぎたと反省します。」
彼は穏やかに目を細め私を見上げ微笑んだ。
その表情にホッとしてもう一度頭を下げ、部屋を退出しようとドアに手をかけた所で呼び止められた。
「薫さん……明日ちょっと行きたい所があるので付き合って下さい。」
「えっ?」
驚いている私に向かって何やら意味ありげに微笑み〝……おやすみなさい″と言われたので、私もつられる様に〝おやすみなさい″と言い部屋を出た。
廊下にでて頬に手を当て首を傾げた……何処に行くのかしら?
……二人で?……えっ?
ヤダ、……まさかデートじゃ!……そんな訳ないわね……でも、もしそうだったら……
丸岡さんの言葉を突然思い出した……〝そんな薫さんがお好きなんです″……
頬を両手で押さえスリッパの音をたて少し歩いた所で止まり、……あり得ない妄想は止めようと自分に言い聞かせ、今度は音を立てず摺り足で自室に戻った。