執事不在…って大丈夫?
朝から雨が降っていた。
厚い雲に覆われた空は何処までも続いていて、今の私の気分を象徴している様だった。
「其れでは薫さん、竜也様の事宜しくお願いします。」
「丸岡さん……本当に大丈夫でしょうか?」
「心配しなくても薫さんなら出来ますよ。」
そう励ましてくれても私の心は不安で一杯……
「……料理が一番問題です。」
「大丈夫。……竜也様は大概のものはお召し上がりになりますから……では、行ってきます。」
「行ってらっしゃい…………ハァ。」
私は通用口から出かけて行く丸岡さんを情け無い顔で見送り溜め息を吐いた。
昨日、東條ゆりなさんが持ち込んだやっかい事の為、一週間程丸岡さんが探偵の真似事をする事になった。
必然的に家の事、東條竜也の世話を私一人がこなさなければ成らない。
大抵の事は問題無いが、困ったのは料理だった。
今迄はプロ級の腕前の丸岡さんが調理し、私が補佐する程度だったが、そうはいかなくなった……全て私が作らなければ成らない。
……丸岡さんの様な食事は提供出来ない……どうしよう。
決して料理が下手という訳ではない……人並みには作れると思っている。
でも……丸岡さんみたいには…無理。
だいたい作れるといったって、ごく庶民的な物ばかり……コース料理なんて……無理…無理。
いくら〝彼が大概の物は食べる″って言ったって…………ん?
大概の物……どういう意味?
多少不味くても食べるから心配するなって事かしら?……ハァ、落ち込むわ……
「薫さん。」
キッチンであれこれ一人で考えている所へ彼が顔を見せた。
「はい、何か御用ですか?」
「……今日の夕食、カレーライスにして貰える?」
「えっ?……カレーライス。」
「後、サラダとスープでもあれば充分だから……」
あら、負担にならない様に気を使ってくれてるのかな……?
「其れで宜しいんですか?」
「……お願いします。」
そう言って戻って行った。
……カレーライスか…其れなら問題無く作れるわ。
……でも、まって。
本格的になると、スパイスの調合とか難しいわ……市販のルウなら簡単だけど、そうはいかないし……ヤダァ、かえって大変だ。
腕組をして眉間に皺を寄せている所へまた彼がひょっこり顔を出した。
「……薫さん、家庭的なカレーライスでいいですよ。」
「えっ?…あの、それじゃあ、市販のルウを使っても構わないって事ですか?」
「はい、其れが食べたいです。」
ヤッタァ!……心の中でガッツポーズ。
少年の様な笑顔を見せて言葉を続けた。
「市販のルウなら大きな失敗は無いだろうし……あっ、其れから多めに作っておいて下さい。
三日位なら其れで間に合う。
中々食事にありつけ無くて、お腹を空かせる事も無いしね……じゃあ、宜しく。」
ニヤリとして戻って行った……
大きな失敗は無いぃ……酷すぎる。
〝宜しく″って言った後のあの表情……完全に馬鹿にした笑いだわ……悔しい。
市販のルウで最高のカレーライス作ってやる。……其れとも、超激辛カレーにして仕返ししてやろうかしら……う〜ん…止めておこうかな?
さて、この家に市販のルウなんて買い置き無いわよね…きっと。
……食品庫を一応探してみたら、なんと!あった。
辛口だけと此れ使って良いのよね……
私はニヤリとした……スパイスは沢山ある…………悪魔の私が囁いている……ふふ。
◆◆◆◆◆
ダイニングテーブルの上にはスパイス香るカレーライスが置かれ、その前には東條竜也がスプーンを手にして今まさに食べようとしている。
其れを私は食い入る様に見つめた。
チラリと彼が私を見て、またカレーライスに目を戻し、そして市販のルウで作った最高の?……カレーライスに手を付けようとしている。
……手を止めた、何故?
何か疑っているの?
彼は溜め息を吐いた……
「薫さん…そんな獲物を狙う肉食動物みたいな目でジッと見られたら食べれないよ。」
「えっ!……すいません。じゃあ、横向いてます。」
私が顔を横に向けるのを確認すると、再びスプーンをカレーライスへ……私はコッソリ目だけ動かして見た。
…すくったァ……そして口の中へ…食べた!
…………大丈夫かな味。
一口食べるとそのまま何も言わず黙々と口を動かして、サラダとスープも残さず全て食べてくれた。
…………で、味は?
「……ご馳走様。美味しかったですよ、カレーライス。……後、応接室の方へハーブティー持っていて下さい。」
「はい……かしこまりました。」
……彼がダイニングを出て行くと、テーブルの皿を下げシンクの中へ…………ガスコンロの上にある鍋を見て、蓋を開けカレーを味見…………!!
慌てて水を飲む……辛っ!
中辛派の私には相当辛い……スパイスを加えたので尚更だ。
よく平気で食べれたものね……辛い物好きだったのかしら?…なんか、スカされた感じ……
まぁ、いいわ。
ハーブティー出して、私もカレーライス…………あっ……青くなった。
私も同じ物食べるんだったわ。
◆◆◆◆◆
……何とか一日目は無事に終わりそう……ホッとした。
少し舌が痛いけど……
でも…………何かしら?大事な事を忘れている様な気がする。
……あっ、呼び鈴……何かな?
「お呼びですか?」
「あぁ、お風呂なんだけど一時間後位に入るからお湯張ってて下さい。」
……そうだ!…お風呂だ!
今日は私が介助しなくてはならないんだ。
そう思った途端身体が熱くなって顔まで真っ赤に……ヤダ…何意識しているの……介助よ。あくまでも介助なんだから……体温下がれ!
そんな私を見て彼は声を出して笑った。
「薫さん、変な事考えてない?」
「へっ…変な事って……考えてません!」
「そう?……まぁ、いいや。
風呂は一人で大丈夫だからお湯だけ張って下さい。」
「えっ……一人で大丈夫何ですか?」
「じゃあ、一緒に入る?」
悪戯っ子みたいな表情で変な事を言うので、私は益々赤くなりオロオロしてしまった。
「あの、その大丈夫って言葉は、一緒に入りたいとか、そう言う事じゃ無くて……大変ではないかと思って言ったわけで……えーと……」
「ハハハ……分かっているよ。
からかっただけ……本当、一人でも平気だからね。」
応接室を出て行く途中、プッと吹き出していった。
私はどっと疲れが身体を重くしてその場にへたり込みそうになった。
本当、優しいのか、意地悪なのかわからない人だわ。
◆◆◆◆◆
この洋館の部屋全てバスルーム付きになっている。
使用人の私の部屋も直接行ける様に成っていて、マスタールームの彼の部屋も勿論そういう間取りだ。
丸岡さんにくれぐれも頼まれていたので、一人で大丈夫だと言っても心配なので、バスルームに通じるドアの前で待っていた。
「……あれ?薫さん、もしかして心配でずっと此処で待ってたの?」
「すいません…勝手な事して……」
目を丸くして驚いていた彼は直ぐに優しい笑顔を見せた。
「有難う。……でも本当に一人で平気なんだよ。
この洋館をリフォームする時バスルームも僕一人でも入れる様に特注で造らせた物だからね。」
……お風呂のお湯はりは脱衣所にある操作パネルのボタンを押すだけなので、バスルームの中までは見ていない、だからどんな作りになっているか分からなかった。
「気をつかわせてしまったね。
お湯はり位自分で出来るのに、何時も丸岡がやってくれるから、つい甘えてしまった。」
「いいえ、其れは仕事ですから指示して下さい。」
「……有難う。」
………………丸岡さん不在の不安な一日が無事に終了した。
自室のベットの上で明日のやるべき仕事を考えながら一日の疲れが出たのか何時の間にか寝てしまった。
◆◆◆◆◆
朝五時。……目覚まし時計がけたたましく耳元で鳴り響き飛び起きた。
丸岡さんが不在なので何時もより少し早く目覚ましを設定していたが、正直まだ眠かった。しかしそんな事も言ってられないので、ベットからまだ眠りから覚めない身体を起こし身支度を始めた。
四十分程で部屋を出て階段を下りて行くと、キッチンの方から何やら音がするので、用具入れからモップを取り出しドアを静かに開け隙間から覗いた。
「……丸岡さん!」
「おはようございます、薫さん。」
その顔を見れば誰でもホッとしてしまう穏やかな笑顔。
……でも、今朝はホッとする所か驚いて心拍数が上がってしまった。
「おや?……その手にしているモップは……もうお掃除ですか?」
「あっ!…あは…ははは……何でもないです。」
慌ててモップを廊下に置いた。
「あの……丸岡さんどうして?」
「びっくりさせてしまいましたね。
午前中は余り動きも無いと判断しまして一度戻って来ました。」
「そうですか……」
「でも、三時間程したらまた出ますが、其れまでは家の事をと思いましてね。
昨日は何の問題なく?」
「……はい、まぁ…一応。」
「其れは良かった……あっ、其れからこのカレーなんですが……」
ドキッ……味見したのかしら?
「カ…カレーが何か?」
「折角薫さんが作ったのに悪いと思ったのですが、もう少し辛くてもいいのでスパイスを足しておきました。」
「えっ!……辛さ足らなかったんですか?」
……嘘でしょ
「竜也様はかなりの辛口なのです。……あぁ、薫さんの分はスパイス加える前に別にして置きましたから大丈夫ですよ。」
「あ…有難うございます。」
……取っておいてくれなくとも……昨日作ったカレーで充分私には辛すぎているから…
そんなに辛いものが好きだなんて知らなかった。道理で平気な顔で食べたわけだ。
もっと好みの味とか聞いておかなくちゃ……
其れから二人で朝食の準備。ついでに昼食の下ごしらえも丸岡さんがしてくれて助かった。
「薫さん、此れを渡しておきます。」
渡されたのは一冊のノートで手軽に出来るレシピがぎっしりと書かれてあった。
こんな良いものあるなんて……初めから渡して欲しかった。
「すいません渡すの忘れてまして……其れもあって今朝戻ってきたのです。」
「助かります。……でも丸岡さん大丈夫ですか?疲れてないですか?」
「ええ、まだまだ体力も気力も若い方には負けませんので、お気遣い有難うございます。
其れでは、そろそろ竜也様を起こしてきましょう。」
丸岡さんは二階へ上がっていった。
彼も驚くかしら?
その顔見たい気もするけど、朝食の方をセッティングしないといけないわね。
◆◆◆◆◆
私はキッチンで後片付けをしていた。
彼と丸岡さんは応接室で話しをしている……おそらく増田誠一に関しての報告をしているのだと思う。
気になるわ……どんな話をしているの?
ん?廊下で話し声が……もう終わった?
キッチンから廊下に出ると二人が玄関に向かいながら話をしていた。
「面倒を掛けて悪いけど宜しく頼む。」
「はい、又ご報告に上がります。」
「戻って来るのも大変だから電話で構わないよ。」
靴を履き一礼する丸岡さん。
「丸岡さん、もう行かれるんですか?」
「薫さん、竜也様の事お願いしますね。」
穏やかな笑顔を見せてドアを開け行ってしまった。……又心細くなる。
「丸岡が居ないとそんなに寂しいの?」
「別にそんな事ありません。」
強がる私を見てクスリと笑うと横を通り過ぎ、エレベーターのボタンを押して二階へ上がっていった。
「ハァ……」
まだ不安な日々が続くわ……しっかりしなきゃ。
其れから私一人で慌ただしく三日が過ぎた。
あれから丸岡さんは一度も戻って無い。
料理は渡されたレシピのお陰で何とかなっている。彼も味の文句も言わず、毎回残さず食べてくれるので嬉しかったりもして、作るのが楽しくなってる自分がいた。
ある日の午後、突然散歩に行こうと言いだし、洋館から十分程離れた森林公園へ二人で行く事にした。
公園までの道のりは整備された道路なので、ゆっくりと車椅子を押しながら二人で向かった。
五月の風はとても爽やかで、花の香りや草木の香りが身体の中を浄化してくれるみたいで気持ちが良い。
町内の幼稚園の子供達だろうか、アスレチック広場で赤白帽をかぶり楽しそうに遊んでいる。
一人の男の子が此方へ走って来た。
私達の前で立ち止まるとジッと車椅子の彼を見つめ口を開いた。
「お兄ちゃん、如何してそんなのに乗っているの?」
……あら。
「……歩けないからだよ。」
後ろに立っている私には彼が今どんな顔をしているか分からないが、子供に答えた声はとても穏やかで優しかった。
「如何して歩けないの?」
「昔ね……怪我をしてから動かないんだ。」
「ふ〜ん……もう絶対歩けないの?」
「……そうだね、多分駄目だと思う。君のように…」
「僕、翔太。」
「翔太……」
男の子は運動着に貼り付けられた名前を指差した。
「……翔太君の様に走ったり運動出来たら気持ち良いだろうね。羨ましいよな…」
男の子は急にしゃがんで彼の両足に手を添え撫でて、そして無邪気な笑顔を見せて言った。
「今ね、おまじないしたから、歩ける様になるよ。」
「おまじない……」
「うん。」
「……有難う。じゃあ、歩ける様に成ったら翔太君に会いに行くよ。」
「うん。……バイバイ。」
男の子はアスレチック広場へ戻って行った。
「…………守れない約束を子供としてしまった。」
……〝世の中に絶対なんて無い″と前に言っていたのに足の事は絶対なんて…自分を諦めてしまった様に聞こえる。
私はなんて声を掛けたらいいか分からず自分が情けなかった。
「……無垢な子供の言葉は心に沁みるね。そう思わない薫さん。」
振り向いた彼の表情は先程の男の子みたいに無邪気な、でも哀しそうな笑顔だった。
……私にはその笑顔が心に沁みます。
何故歩けなくなったのか…彼の事は何一つ知らない。
こうして生きているのが、もしかして奇跡なのかも知れない……そして、その側に私が立っている事も全てが奇跡なのだと……時折り見えない何かを見つめている彼の姿を思い浮かべるとそう思う。
彼は腰を曲げ手を伸ばして足下に広がる芝生を指先で触れ、そして自分を囲んでいる眩しいくらい光って見える自然を見回した。
「……芝生の上に座ってみませんか?」
「えっ?」
「きっと気持ち良いです。」
「……薫さん一人で僕を動かす事は無理だよ。」
「大丈夫……大人は私一人じゃ無いですから……」
私はアスレチック広場にいる幼稚園の先生を指差し笑った。
先生に頼むと快く受けてくれて、車椅子を広場の近くまで押して行き、二人の先生に手伝って貰い彼は芝生の上に座る事が出来た。
不思議な未知の世界にでも迷い込んだ少年の様な表情をして、両手で地面の感触を確かめている。
その隣に私も腰を下ろした。
「……仰向けになって『空』見てみませんか?」
二人で仰向けになった。
青い空に様々な形をした雲がゆっくりと、呑気に流れている。
遠くの方で鳥の鳴き声も聞こえる。
彼は目を閉じて深呼吸をし笑顔を見せた。
「……気持ちが良い……ずっとこうしていたい。」
「そうですね。……こうしていると地球と同化している感じがします。
……少し大きく言い過ぎたかな?」
照れ笑いをした。
「いや……僕もそう感じる。」
女の子が二人やって来て私達に花の冠をくれた。
「お姫様と王子様みたい。」
そう言って恥ずかしそうに笑い走り去った。
彼は宝物を扱う様に冠を手に取り、鼻に近づけ香りを楽しんでいる。
子供達の楽しそうな声と風が奏でる木々の音……うん。最高に良い気分。