妹の相談事
東條竜也が住む洋館に住み込みで働き始めて二ヶ月が過ぎようとしていた。
仕事は慣れてきて、だいぶ手際も良くなり問題無く働いている。
今、私は応接室からテラスに出るガラス窓を磨いている。
窓拭きは意外と好きで、ピカピカになったガラスから見える景色はクリアで、何だか輝いて見えるのが嬉しいのだ。
「OK……綺麗になった。」
腰に手をあて私は満足そうに眺めていると、キッチンの方から丸岡さんが顔を出して〝お茶にしましょう″と言ってきた。
執事の丸岡さん……そう言えば下の名前を聞いていなくて、ついこの間教えてもらった。
……丸岡秀夫と言うそうだ。……多分下の名前で呼ぶ事は無いと思うけど、一応知っておきたかった。
私は、東條竜也を呼びに廊下に出て書斎のドアをノックする。
……返事はない。
いつもの事……丸岡さんに教えてられていた。彼は夢中になっている間、聞こえてはいるけど返事をするのも面倒くさくなる様で、声がしなくとも入室して構わないと言われていた。
「……失礼します。」
ドアを開けて中へ入ると、彼はパソコンに向かって眉を寄せながらキーボードを打ったり、手を止めて口をへの字にし不満そうに考え込んだりしてはマウスを動かし、また指をせわしなく動かす。
……丸岡さんが仕事だと言っていた。
父親の会社の企画を立てたりしているみたいだけど……詳しい内容は知らない……
身体の不自由な金持ちの息子ではなさそうで、ちゃんと仕事をしているのには少し驚いた。
「……もう少しで区切りつくから。」
パソコンの画面を見ながら私にそう言うと、又せわしなく指を動かし始めた。
……ハイハイ、待ちます。
もう慣れましたから……其れから数分ドアの前で控えていると、やっとパソコンから目を外し、腕を上げて背を伸ばすと此方を見て〝お待たせ″と言って、少年の様な笑顔を見せる。………ウウウゥ、そんな表情されたら、待つ事なんて何でもない!
車椅子を押してテラスへ出るとタイミング良く丸岡さんがコーヒーを持って来た。
「たまには一緒に飲もう……風がとっても気持ち良いからね。」
確かに今日はいい風が吹いている。
目を閉じると、風が木々を揺らす音がサワサワと聞こえて心が落ち着く。
「薫さん……コーヒーどうぞ。」
丸岡さんがテーブルに私のコーヒーを用意してくれていた。
こんな風に一緒に同じテーブルを囲むなんて初めてだわ……ん?……朝日田さんが来た時にもあったわね。
でもあれは……ただ座って話しを聞いているだけで、ゆったりと寛いでいる今の状況とは別ね。
いつもは、丸岡さんが後ろで控え、私はキッチンで少し休憩して、また仕事に取り掛かる。
今日は如何したのかしら?……仕事が上手くいって気分がいいのかな?
一台の白い車が入って来るのが見えた。
来客用の駐車スペースに停車すると中から女性が降りてきた。
「……珍しいお客様が来たね。
彼が少し顔を顰めた様に見えた。
丸岡さんは〝失礼します。″と言ってさがり玄関へ向かった。
彼はコーヒーを飲みきると、くるりと車椅子を反転させ、私を見上げ苦笑いを浮かべて応接室へ引っ込んだ。
まもなく丸岡さんが応接室へお客様を案内して来た。
薄いピンク色のワンピースに同じ色のバック、胸にシンプルなダイヤのネックレス……多分本物だと思う。……品良く輝いている。
ストレートの長い髪……清楚と言う言葉はこういう女性の為にあるのだと思うくらい品があり、可愛らしい顔だちをした女性だった。
でも、そんな彼女を見て彼は軽く握った手を口に持っていきクスリと笑った。
「……お兄様お元気そうで何よりです。」
「お兄様?」
彼には妹がいたのか……知らなかった。
と言うより彼の家族構成など教えられていないので当たり前だけど、まぁ、私如き使用人に話す事でも無いけど……
「彼女は僕の妹で、」
「東條ゆりなと言います。貴方が薫さんですか。兄がお世話になっております。」
「あっ、松本薫です。…お世話になっているのはこちらの方です。でも、如何して私の名前をご存知なんですか?」
ゆりなさんは上目遣いにクスッと笑った。
「どうせ浩輔辺りに聞いたんだろう。」
そう言って背中を向けると肩が微妙に震えているのが分かった。……ん?…また笑ってるの?
ゆりなさんがソファに腰を下ろすと、また絶妙なタイミングで丸岡さんが紅茶を淹れて持って来た。……あら、今日はミルクティーだ。
「有難う丸岡さん。」
「……其れで、今日は何の用があってここへ?」
「用がないと来てはいけないのかしらお兄様……」
「そんな事はないけど、何の目的も無く僕の所に来るなんて解せないと思ってね。」
警戒する様な表情でゆりなさんを見ると、彼女は目尻を下げて微笑んだ。
「先程お兄様が仰った通り浩輔さんから、とても素敵な所に住んでいると伺って、是非どんな所か見てみたくて来たんですわ。」
そんなゆりなさんを、また可笑しそうに声をたてず笑う。
……さっきから何なの?あの笑いは……別に面白い事も無いのに、不可解だわ……
「……ゆりなは相変わらずだね。」
「えぇ……相変わらずです。」
ゆりなさんはティーカップを置くと窓に広がる美しい庭に目を向けて立ち上がった。
そして窓を開けてテラスに出るとゆっくりと深呼吸をした。
「……ホント、素敵な所。お兄様が羨ましいわ。」
「とても快適な所だよ。」
ティーカップを口元で止めて何だか抑揚の無い冷たくも感じる言い方をしている。
さっきまで笑っていたのに……
「変わらないわね……お兄様。」
その言葉で顔を上げティーカップを置くと、窓の所まで行って妹の顔をじっと見つめ、仮面のような微笑みを見せた。
「変わりようが無いさ……」
仮面の下は泣いているのではと思わせる寂しい言い方が気になった。
「……さぁ、もういいだろ。
どんな所に住んでいるか確かめたんだから満足しただろ…もうお帰り。」
「そんな……追い出すみたいに言わないで、ゆっくり話しでもしましょうよ。」
「ふん……ゆっくりねぇ…面倒な話し持って来たんじゃないのか?」
彼女は寒そうに肩をすくめ胸元で手を握って彼の前でかがんで顔を覗き込んだ。
……少し芝居がかって見えるなんて言ったら怒られるわよね。
「聞いてくれるの?」
彼はゆりなさんの頭に手を置いてそのまま滑る様に頬に移動させると、いきなりつねった。
「痛い!」
「ごめんだね。」
子供みたいに顔を顰め奥に引っ込んで来た。
そんな行動に驚いて思わず丸岡さんを見たが何事も無いように立っていた。
私なんか彼の一挙手一投足に反応してばかりなのに……執事ってみんなこんな感じなのかしら?
「ひっ…酷いわ……あんな風に言うから聞いてくれるのかと思ったのに……」
「……聞くなんて一言も言ってない。」
彼女は膝をついてハラハラと涙を流した。
……今日の彼はとても意地が悪い、何故妹にこんな接し方をするのか?
彼女が可哀想で思わず睨んでしまった。
「……竜也様、いい加減になされては如何ですか?」
やっと丸岡さんが口を開いた。
主人を嗜めるなんて執事としていけない事かもしれないけど、此れは酷すぎるわ……年長者として正すべきところは正すべきよ。
彼は丸岡さんの穏やかな表情を見て、其れからかたをすくめ、口を少し横に曲げ仕方ないなといった顔をした。
私はゆりなさんの肩に手を回して立たせソファに腰を下ろさせた。
「……どうやら話しを聞かなくてはいけない雰囲気だね。」
私は口をギュと閉じて頷いた。……彼は其れを見てまた声も立てず笑う。
「……お兄様、聞いて下さるの?」
「どうぞ……」
◆◆◆◆◆
やっと話が進む……何の為にゆりなさんが来たのか薄々気付いているクセに、長々と無駄とも言えるやり取りをして、やたら笑うし意地悪だし一体何だったの?
……兎に角此れでどんな話しか聞くことができる。
「……私に婚約者がいるのはご存知よね。」
「……確か、名前は……忘れてしまったけど……」
ゆりなさんの婚約者の名前は増田誠一東條グループの東條リゾート開発に勤務し、遣り手で人当たりも良く上司からも後輩からも一目置かれる存在だと言う。
……良さそうな男性じゃない。
「でも最近……いえ、もっと前から何となくおかしい感じがしたの……」
「ふぅん……他に女性がいるとでも?」
「そうなのお兄様。」
他に女性!……社長の娘と婚約しているのに浮気?……なんて無謀で馬鹿なの知られたらお終いじゃない。
初めにおかしいと気付いたのはスマートフォンを二台持ちしている事が分かった時らしく、何故なのか聞いてみると、増田は〝仕事用だ″と答えたと言う。
プライベート用と仕事用二台持ちのビジネスマンは他にもたくさんいると思いその時は納得したが、時折り仕事用といったスマートフォンで誰かとLINEをしている様で、たまにニヤケている時があると言う。
「……其れだけで浮気しているとは言えないけれど……んん……」
「でも、それ以外に…………私、見てしまったの誠一さんが女性と一緒の所を……」
その日はデートの約束をしていたが急に仕事が入ったと言われ、予定が無くなったので友人と遊びに出掛け、その帰りホテルの前で女性と一緒にタクシーを降りる増田を見たと言う。
「えっ、其れって完全にアウトじゃないですか!」
私は思わず声に出して言ってしまった。
「あ……すいません。」
「そうよね!……薫さんもそう思うわよね。」
ゆりなさんはすがる様な瞳で私を見た。
「えっ…ええ。」
「其れで、その女性の事は彼に聞いてみたの?」
「勿論……怖かったけど、思い切って聞いてみたわ。」
増田は顔色一つ変えず、さもおかしそうに笑って〝だから仕事だって言っただろ…取引先の社長の秘書が会食中気分が悪くなったから、宿泊しているホテルまで送って行っただけだよ。″と……
……でも、其れって聞いても認めないわよね。認めたら会社クビですもの。
「でも納得いかないから、彼と同じ会社に後輩がいるから、頼んで少し探ってもらったの……」
その後輩からの報告は、仕事も出来、誰からも好かれる。他人を蹴落としたり悪口をいったりもしない。……確かに女性受けもいいが社内で浮いた話しは無かったと…
全く非の打ち所がない男性?……胡散臭い。
私は眉を寄せ首を傾げた。
彼は鼻で馬鹿にした様に笑い、ゆりなさんの所へ移動し顔を覗き込むと意地悪くニヤリとした。
「……凄い!百点満点の彼氏じゃないか……余りにも評判が良すぎて気持ち悪いけどね。」
ゆりなさんから顔を離して振り返った顔は、顎を軽く上げへの字口をした捻くれた少年みたいだった。
「どうやら増田誠一は、外面のいい口の上手い男性のようだな。
誰からも好かれる?…人の悪口を言わない?そんな人間とてもじゃ無いけど僕には信用できない。
そういう人物こそ何考えているか分からないからね。」
「でも何も証拠が無い……如何すればいいか……」
「何言っているんだ。父さんに頼めば幾らでも調べてくれる筈だろ。
僕なんかに相談するよりずっと手っ取り早い。」
冷たく突き放した言い方をされてので、ゆりなさんは恨めしそうに彼を見つめる。
「意地悪ねお兄様は……出来ないから此処に来てるって分かっているクセに、酷いわ。」
少し甘える声を出して言うゆりなさんを見て、また肩を震わせ笑う。
その時、丸岡さんが小さく咳ばらいをした。それをきっかけに笑うのを止め、悲しそうに俯いているゆりなさんをチラリと見てから溜め息を吐いて、手の平を合わせ口に軽く押しあてた。
「…………丸岡、一週間程増田誠一の行動を調べてくれないか?」
「かしこまりました。」
「……丸岡さん、忙しいのに悪いけど宜しくね。」
「お役に立てますかどうか、精一杯やらせて頂きます。」
一礼する丸岡さんをゆりなさんは儚げな表情で見ている。其れを彼はまた肩を小刻みに震わせながら声もたてず笑っている。
……いったいあの笑いは何なんだろう?決して面白い話しじゃ無いのに……
私は今日の彼の態度が不思議で堪らなかった。