秋空の下の困惑
「しかし……竜也様は〝やっかい事″を引き寄せる天才で御座いますね。」
目尻の皺を深くしてとても愉快そうにハーブティーを出しながら丸岡さんが言った。
彼はというと、その言葉に如何にも迷惑といった表情で、お気楽に笑顔を見せている執事を鬱陶しそうな目をしてチラリと流し見ていた。
「……嬉しくないけどね。」
「そうで御座いますか?」
わざとらしく大きく見開いた目は、彼の言葉の裏を読みとって心を見透かしている様で、更に彼は鬱陶そうな目をした。
「薫さんからあの騒動を中々楽しんでおられたと、この丸岡聞いております。……ねぇ、薫さん。」
丸岡さ〜ん……それは…まずいです。
私は心の中で叫びそして恐る恐る彼の方に視線を移した……口元に笑みを浮かべ目は…怖いくらい目尻を下げ私を見ていた……そう、怖いくらい……
私は引き攣る顔を無理に引き上げ笑顔を見せながら目を逸らした。
「これは…口を滑らしてしまいました。お許しください薫さん。」
今更遅いです……
「……薫さんが口の軽い女性だとは思いませんでした。と言うより、随分話しをもって言ったようですね。」
「そんなぁ〜」
事実でしよ!絶対楽しんでたわよ。……って、強気に言えたらいいんだけど…無理。
私は大きく溜息をついた。
……何処からか良い香りが鼻をくすぐる……庭の一角に目を向けた。
植えてある金木犀の香りで、オレンジ色の花を株全体に咲かせて秋の空によく映えて綺麗だ。
「……しかし残念です。私も竜也様の名推理をお聞きしとう御座いました。」
金木犀に見惚れていた私は丸岡さんの声で視線を戻した。
「あんなの推理でも何でもないさ。」
本当にそう思っているのだろう、平然とした顔つきでハーブティーを口にし、金木犀の香りに気付いたのか、さっきまで私が見ていた方に顔を向けた。
私は昨日の事を思い出してみる。
彩香さんと波留ちゃんが姿を現し二人の母親が駆け寄り抱きしめる。
波留ちゃんは、はにかみながら嬉しそうな表情をしていたけど、彩香さんの方は笑顔が無かったのが印象的だった。
一応心配をかけた事を謝っていたけど、本当にそう思っているのか私は疑いの目で見ていた。
「竜也さんから聞かされて……彩香の気持ち、親として恥ずかしい。何も理解してあげられなくて、ごめんなさい。」
自分を抱きしめる母の背中に腕をまわした。
その時…雅之氏が大股で二人に近づき雛子さんを強引に引き離し手を挙げた。
「あなた!」
彩香さんは身を縮める事もなく、あえて怒りを受け止めるつもりだったのだろう、口をギュと結び父親を見ていた。
しかし、その手は振りおろされず、其処だけ時間が止まったように空中で動けずにいた。
「よしなさい。」
がっしりとした手が雅之氏の手首を押さえている。……範之氏だった。
「そんな事をしたら後悔するのはお前だ。」
「父さん。」
「……まず、子供たちの話しを聞いてやるのが先じゃないのか?」
振り上げた手の力を抜くと、範之氏はその手首を解放した。
微動だにせずいた彩香さんは身体の力を緩め、静かな強い思いを込めた瞳をしていた。
「パパ……こんな騒ぎ起こした事、正当化するつもりは無い……けど、ちゃんと話も聞いてくれないで、ただ否定するだけなんて親の横暴よ。
其れに……時折見せる目……私自身を否定されているみたいで、凄く悲しかった。」
雅之氏は目を逸らし、心に抱えた鉛を引き摺るみたいに近くにあった椅子に腰をおろし顔を覆った。
「パパ……如何して?」
「……。」
自分の顔を撫でながら手をおろし、苦悶の表情で娘を見る。
「それは……」
誰もが注視しながら耳を傾けていた。
雅之氏は向けられる視線を避ける様に顔の前に手をかざし、そして額に甲をあてる。
「教えて。」
「……彩香、みんなの前で話しずらい事だってあるよ。」
「竜也君……でも……でも、そんなのずるいわ。」
「ずるいとは思わないけど……」
彩香さんは唇を噛んだ。
「親子の……家族間のすれ違いや不信感はその中で話し合えばいい事だ。皆んなに全てを曝け出す必要はないと思うよ。」
彼は優しい表情で彩香さんを覗き込んでいる。
「そんなの大人がただ恥をかきたくないだけの都合のいい考え方だ。」
冷たく負の感情をたたえた瞳をした旭さんが言った。
その瞳を小首を傾げ彼はジッと見つめ、そしてクルリと背を向けて、家族写真が飾ってあるキャビネットの前で止まった。
彼はその中の一つを手に取る……ここにいる全員が幸せそうな顔で写真に写っていた。しかし、私は勿論だけどその写真には彼、東條竜也も写ってはいなかった。
いつの頃のものなんだろう?
……もしかしたら彼が留学中に撮られたもの……いいえ、もう少し最近かも……ここ2、3年だろう。
「……そうかもしれない。でも、此処で洗いざらい話す事は父親をみんなで吊るし上げる様なものだ。果たして其れがいい結果を生むかと考えると僕はそう思わないよ。」
「……其れでも皆んなの前で話すべきだと思う。」
「旭はどうしたいんだ。……誰かに怒って欲しい?…其れとも愚かな父だと笑ってもらいたいのか?
……違うだろ。」
……誰もが癒されそうな穏やかな表情と声。
「もし其れだけが目的なら、もっと騒ぎを大きくして警察にまで届けさせ、適当なところでネタばらしをした方が親の顔に泥を塗る事ができた。……でもそうならない様に旭たちは行動した……そのストッパーとして僕の存在も重要だったんだよね。……そうだろ?」
張りつめた空気に声が振動して心地良く身体に響いてくる。
「……お兄ちゃん、竜也君の言う通りよ。
もう…此処で問い詰めるのはよそう。」
「彩香、其れでいいのか?」
彩香さんは小さく肩を上下させて口元に笑みを浮かべた。
「だって……恥をかかせる為に騒ぎを起こした訳じゃない……話しを聞いて欲しいから起こした行動だから……
パパ、ママ……私たちの話しをちゃんと聞いてくれるよね。」
雛子さんは娘の手を握りしめた。
「勿論よ。……ねっ、あなた。」
「ああ、そうだ…な……」
雅之氏の表情は渋々了承するみたいに曇っていたが、その言葉を聞いた兄妹は顔を見合わせ少しホッとした様な表情をした。
そして香澄さんも双子の天使を抱きしめて謝り、此れからはもっと側に居てあげられるようにすると言い、海斗君と波留ちゃんは嬉しそうにしていた。
「私たち三人も話しをいっぱいしましょうね。……愛しているわ海斗、波留。」
…………こうして子供たちの反乱は勝利に終わった。
……終わったのかしら?……話し合いのテーブルに親をつかせる約束を交わしただけで、これからが本当の戦いなんだと思った。
「薫さん……薫さん?」
私はハッとして声の主丸岡さんに顔を向けせた。
「どうしたのですか?ボウッとして……」
「あ…すみません。……何か?」
「竜也様が私たちも一緒にお茶をと言って下さっているのでクッキーをもう少し持って来て貰えますか?」
「はい。……今、お持ちします。」
◆◆◆◆◆
澄み渡る空に飛行機雲が1本の境界線みたいに浮かんでいる。
私は昨日までの一連の出来事で如何しても聞いておきたい事があった。
「あの……」
私の躊躇いがちな声に彼は振り向き首を傾げた。
「あの、どの時点で子供たちの犯行っていうか……反乱だと気づいたんでしょうか?」
ジッと見つめる瞳は微動だにせず真っ直ぐ私にそそがれた。
……そんなに見つめられたら恥ずかしい……変な意味など無いのは承知いているけど、身体が火照ってくる。
「そうですね……薫さんに彩香の部屋の状態を聞いた辺りかな……旭の様子も気になっていたので……」
「もうその時に?」
彼は当然とでも言いたげな澄ました顔つきをしている。
「薫さん……部屋にはスマホが置きっ放しで、僕のプレゼトのパソコン1台置かれていた……そうでしたね。」
「はい。」
「……じゃあ、今まで使用していたパソコンは何処へ?」
「あっ…」
確かに……部屋のどこにも無かった。
「旭とメールで連絡を取り合う為に持って出たんです。
夜中に突然連れ去られたなら何も持って出る事はおそらく出来ないと思います。……そう思わせる為にスマホをワザと置いてゆき、パソコンを持って行った。
……家族は慌てている。
ある筈の物が無ければ変に思うけど、いつも通り机の上に置いてあれば変に思わない…本当は2台なけばならないのに、誰も気づかない。」
「確かに……でも新しいのが嬉しくて今まで使用していたのを片付けたという事も……」
「部屋に戻ったのは夜の10時近くです。新たに初期設定をしなくてはネット利用は出来ない。
使用しているのが故障している訳でもないし、次の日ゆっくりその作業をしても問題はないです……ですから片付けてしまう筈がない……2台なければおかしいんです。でも1台しかなかった……この事により僕は誘拐はほぼ無いと考えました。」
「……それと、海斗君と波留ちゃんから聞いた話しを合わせて……」
「そうです。……その前から聞かされていた彩香の心の内が大きいですが……」
彼は少ししんみりとした表情になり空を見上げた……飛行機雲がいつの間にか消えていて、分断されていた空が繋がっていた。
「でも……まさか子供たち全員が関わっていたなんて思いませんでした。」
「一人では無理ですよ……本当におお事になったら大変ですから、親が警察に通報するのを止める役が必要です……旭の役割りですね……そして僕。」
「ええ……其れで完成するって言っていましたね。」
「きっと僕ならいち早くこの騒動の真相に気付いて、警察なんかに連絡するのを止めると見越していたんでしょう。
まんまと利用されてしまいました。」
とても嬉しそうに笑っている。
利用されたと言っているけど、気付いた時点で彼は自ら乗っかったのだと思った。
そう考えるとこの騒動は彼も立派な共犯者なんだわ……二人の親があんなに心配しているのを目にしているのに教えてあげ無いなんて……人が悪い。
でも、子供たちの思いを聞けば四人の事も、彼も責める事は出来ないわね。
其れともう一つ聞きたい事があった。其れは雛子さんが鍵を管理している彼の部屋に入れたのは何故か……コッソリ盗み出した?
でも、旭さんは雛子さんが部屋を探したと言った。鍵が無ければ盗み出した事がバレてしまう……ん?……あっ…嘘…だったの?
実は誰も確認していないとか……
「……二人が隠れていた部屋なんですが、雛子さんが鍵を管理していると聞きました。
其処から盗み出して入ったんでしょうか?」
「ああ…管理と言ってもそんなに厳重にしていた訳でもないだろうし、彩香や旭ならコッソリ拝借して合鍵を作る事も難しくはないと思うよ。」
なんだ……そう難しい事じゃなかったのね。
旭さんの言い方がとても厳重に保管されているみたいに言うから……
其れにしてもあの部屋のどこに隠れていたんだろう?
海斗君が入った後探してもそれらしい隠れ場所は無かった。
「あの部屋のどこに二人はかくれていたんでしょう。」
「あの部屋のどこ……」
彼は何故か目を細め訝しげに私を見た。
「はい…どこにも隠れる場所なんてなかったのに、部屋に居なかったんです。」
彼は私の言葉に小さく溜め息をついて呆れた様子で言った。
「……僕のいう事をきかなかったんですね。あれ程場所を突き止めるだけで、深追いはしなくていいと念を押したのに……あの部屋に入った。……そうですね薫さん。」
「あっ!……えっ…と……」
「でなければそんな言い方しないですよね。」
「すみません……つい…好奇心が抑えられなくて中に入りました。」
「困った人だ。」
「すみません……でも、どこに身を潜めていたんでしょう。」
彼は横目でこちらを見るとニタニタとしている…まるで不思議の国のアリスのチェシャ猫みたいだ。
「……屋根裏部屋ですよ。
本棚左端に可動式の階段が有るんです。」
「屋根裏部屋……そんな場所が有ったんだ。
…あっ!」
私は突然思い出した。……夜中に離れの窓から一瞬見えた西側の三階の光。
いま思えばあの部屋の三階部分…たいして疑問にも思わず、目の錯覚だろうと納得してしまい、馬鹿だ……自分の迂闊さ加減に呆れてしまった。
「あ…あのぉ……一つ言っていない事がありました。」
「ん?」
私はあの夜見た光の事を話した。
彼は怒る事もなく、始終可笑しそうに口元を緩めて聞いていた。
話しながら今の今まで全くその事を思い出さなかった自分が情けなく嫌になる。
丸岡さんまで肩を震わせて笑っている。
「そんなに気にしなくても良いでしょう。
……もし、その事をみんなの前でしていたら子供たちの反乱は失敗に終わり、薫さんは恨まれていたかも知れません。
……忘れていて正解だったんです。」
「其れなら良いんですけど……」
「…………家族だからと言って全てを理解できるわけじゃないが…お互いが横を向き主張だけしていては、どこへも進めなくなり、負の感情だけが凝り固まって、いずれ上辺だけの家族に成ってしまう。……成りかけていたけどね。」
彼のどこか孤独を感じさせる表情が私の心を波立たせた。
……家族の一人なのに彼だけが遠い存在みたいだ。彼もまた一族に横顔しか見せていないのも知れない。
……とても……哀しい。
その時1台のバイクがエンジン音をかき鳴らしながら門をくぐり玄関前で止まった。
「おや…お客様のようです。」
ヘルメットを外し此方に向かって手を振っているのはゆりなさんだった。
「あいつ何しに来たんだ?」
嫌な予感でもするのか、顔を顰めて彼が呟いた。
「竜也様の大好物なお話でも持って来られたのではないですか?」
そう言って丸岡さんは玄関へ出迎えにサッサと行ってしまい、彼はその後ろ姿を拗ねた少年みたいな顔をして見送った。
……まだ聞きたい事が有ったけど、ゆりなさんが来たのではこれ以上は無理だろう…おそらく母親の成美さんから今回の事は聞いているとは思うけど、彼女を交えて聞く事に躊躇いがある。
仕方ない日を改めよう……私は溜め息を吐いた。
「随分残念そうだな……」
声のする方に顔を向けると、テラスの手摺りに軽く腰をかけ腕を組んで妖しく微笑んでいる彼がいた。
背筋からうなじ…そして顔へとゾワゾワと虫が這うような感覚に襲われ、震える唇を動かした。
「……リュウ。」
「どうも……」
上目遣いで軽く頭を下げると直ぐに背を向けテラスをゆっくりと庭を眺めながら歩き出した。
「こうやって明るい時間にあらためて見ると無駄に広いな……三人しか住んでないのに……」
「な、なんで……」
「なんで?……なんで出てきたかって事?」
リュウは立ち止まり首だけを捻って私に冷んやりとした氷みたいな瞳を向けた。
私は焦っていた……もう直ぐ丸岡さんがゆりなさんを連れてここに来てしまう。
こんな彼を見せるなんて出来ない。
「理由はいいわ。早く戻って消えて頂戴!ゆりなさんが来ちゃう。」
「命令するな……竜也の妹にバレようと俺には関係ない。其れとも竜也のフリをして、〝僕は歩けるようになったよ″…とでも言おうか?……クックク……どんな顔をするかな?」
ずる賢い烏を思わせる笑い声をたてている。
「やめて!」
「だから、俺に命令するな……何時でも俺は自由で誰にも縛られない。」
抑揚のない声……だからこそ底知れない恐怖を感じる。
ゆりなさんと丸岡さんの会話が近づいてきた。応接室の入口に視線を向けると二人が入って来た。
兎に角テラスに来ないようにしなければと思い、私はゆりなさんの前に立ちはだかり、外は冷えてきたので中で話しをした方が良いと提案した。
慌てて早口で言う私に少し驚いた様に目を大きくして頷きかけたが、視線が私の肩越しの人物に移りゆりなさんはパッと花が咲いたような笑顔を見せた。
「お兄様。」
ふわりと私の肩をかすめる様に通り過ぎる。
恐る恐る振り返ってみるとリュウは車椅子に座り此方へやって来た。
…………リュウ?
其れとも東條竜也?彼の中に戻っていったのかしら……
どちらなのか判断がつかない不安感が不気味な灰色の雲を心の中に広げていった。
私は見極めようと一挙手一投足、その表情を劇中の犯人を見張る刑事の様な目付きで見つめた。
東條竜也は丸岡さんに向かってゆりなさんにもハーブティーを出すように言うと、今度は私にクッキーはまだ有るかと聞いてきた。
有ると答えると、少年っぽさの残る笑顔を見せて良かったと言った。
……リュウじゃない?
何故人格を彼の方に戻したのかは分からないけど、悪魔みたいなリュウの存在が知られずに済むと思い胸を撫で下ろした。
「……今朝、お母さんから電話があって……誕生日パーティー色々やっかいだったみたいね。」
「…まぁね。」
「お兄様がいてくれて助かったって言ってたわ。」
「ふん……で?…今日はそんな話しをしに来た訳じゃ無いよな……」
「えっ…ええ、チョット相談にのって欲しい事があるの……聞いてくれる?」
「いいよ…何?」
「えっ⁉︎…いいの?」
「ああ。」
丸岡さんはハーブティーを入れる手を一瞬とめ、私も彼の顔をハッとして見た。
彼じゃない……リュウだ。
今、ゆりなさんと話しているのは彼のフリをしているリュウに違いない……
彼が誰であろうと相談事を持ちかけられて二つ返事で了承する訳がない。
必ず面倒くさそうに渋い表情をして勿体つける態度をとる……其れなのに直ぐに妹の話しを聞くと言った。
そんなのあり得ない……絶対リュウが演じているんだ。
そして、その事に丸岡さんも気づいている。
穏やかな表情を引っ込め、何をするつもりなのか不安と怯えを表すみたいに皺を深くして私に視線を送ってきたので、口を固く結んで頷いた。
「……では、ゆりな様ゆっくりしていって下さいませ。……さぁ薫さん行きましょう。」
「えっ?…二人も聞いてくれないの。」
「申し訳ございません。まだ仕事が残っておりますので失礼させていただきます。」
私はゆりなさんとリュウを二人だけにしておくのは心配だったけど、丸岡さんに急かされキッチンへと下がった。
◆◆◆◆◆
キッチンのドアを閉めると丸岡さんが固い表情で念を押すように聞いてきた。
「あれは、リュウですね。」
強張る顔の筋肉を無理矢理動かすように私は〝はい″と言った。
「どの時点で入れ替わったのか……」
「ゆりなさんを出迎えにテラスを離れて直ぐです。」
「言葉を交わしましたか?」
「少しだけ……私、ゆりなさんに知られてしまうのが怖くて、戻って欲しいと言いました。……命令するなと言われましたけど……」
「そうですか……」
「あの…二人だけにして大丈夫でしょうか?」
「心配ないと思います。自分の存在を家族に知られるのはリュウにとって喜ばしい事ではないので……」
「でも、バレても自分には関係ないと言っていました。」
「……其れは、ただの強がりです。」
「そう思う根拠は何ですか?」
余りにはっきり言うのが気になって訊ねた。
丸岡さんは何か思いを断ち切るかの様に一度息を吐くと、眉を微妙に震わせぎこちない笑みを浮かべた。
其れから話してくれた事は、彼が二重人格だと判明し、どうにか人格を一つにしようと手を尽くした頃の事だった。
しかし……リュウはどんなに説得しても聞き入れず、〝そんな事をすれば東條竜也の心は崩壊する。……そうなれば自分が生まれた意味が無くなるから竜也と共に死の世界へ行く″と、脅迫する様になり、丸岡さんや医師を手こずらせたそうだ。
リュウの人格の時に自殺でもされたら……不本意ではあったけど、結局共存する事を許したという。
……しかし、リュウも何か乱暴な方法で消されてしまうのではと戦々恐々としている所もあり、其れは家族に知られた時だと思っている様で、丸岡さんが顔を強張らせながら教えてくれた。
だから、〝死″という言葉で脅迫してきた。
「でも……本当に其れで良かったのでしょうか?……私は、まだ…迷ってます。」
「其れは私も同じです。……どちらが正解なのか判断がつき兼ねているんですよ……もしかしたら……」
「えっ?」
「……正解など無いのかもしれません。
見つかる筈も無い答えを探して、ただグルグルと同じ所を歩いているだけ…」
長い間一番近くで見守り続けて来た丸岡さんだからこそ一番迷うのかも知れない……
記憶という暗い森の中を彷徨う彼の後ろ姿を見続け同じ様に彷徨って来たのだと……
知っている事を言えないという辛さは年月が経てば経つ程増していっているのだと思う。
……其れは何時まで続くのか、一生隠し切る事はおそらく無理……何処かで必ず正解のない答えを導き出さなければならない時が来るはず。
……私たちの覚悟が必要なのかもしれない……それが出来た時初めて光が見えてくるのではないだろうか……でもそう簡単な事ではない…だから彷徨い続けているんだ。
「……迷いだらけの今のままでは救うなんて出来ないですよね……」
「薫さん……」
前触れもなくキッチンのドアが開いた。
振り返るとゆりなさんが顔色を変えて立っている。
「ゆりなさん。」
「お兄様の様子がおかしいの……とても苦しそうで……」
脱兎の如くキッチンを最初に出て行ったのは丸岡さんで私とゆりなさんはその後に続いた。
◆◆◆◆◆
ベットで穏やかな寝息を立てて眠っている。
その周を囲むように私たち三人は立っていた……まるで彼が亡くなってしまい、その死を悼むかの様に無口で沈んだ表情。
私たちが応接室に駆けつけると、彼は両手で頭を掻きむしる様に苦しんでいて、声にならない呻き声をあげていた。
そして車椅子から転げ落ちると身体を丸め震えはじめた。
丸岡さんが駆け寄り抱き起こすと、彼は腕を掴み掠れた声で〝如何して…″と呟き白目を向いて気を失った。
私とゆりなさんは金縛りにでもなったみたいに動けず呆然と見ているだけだった。
「薫さん!……手伝って下さい。」
その声で私は我に返り、気を失った彼を一緒に車椅子に座らせ二階の自室へと連れていった。
ゆりなさんは青白い顔をしてショックを隠しきれない表情で後をついて来た。
…………彼の寝息いがい何ひとつ音のない部屋。……聞こえているはずなのに耳に入ってこないだけなのかも知れない。
そして時の流れさえも進める事を拒むように、ただ無言で私たちは其処に立ちつくしているだけ……
一体何時までこうしているのだろう?
……苦しむ姿が目の奥に焼きついて消えない…何度もなんども繰り返され、こびりついた映像は脳を痺れさせ耳鳴りを誘う。
彼は寝返りをうつと身体を小さく丸め、まるで母の胎内でまだ見ぬ世界を待つように静かに呼吸している。
……生きている。
気絶しただけなのに何故か私はそう心で呟いた。
「ゆりな様……お二人でどんなお話をされたのですか?差し支えなければお聞かせ下さい。」
長い沈黙を破った声は何時ものように優しく穏やかで、安住の地を得たようにホッとさせてくれた。
「そんなに面倒な相談では無かったのよ……」
ゆりなさんの相談は、友人が上司から身に覚えのない失敗を責められていて、どうも先輩社員が責任を押しつけたようで、このままだとクビになるかも知れないと嘆いていたので相談に来たらしい。
「とても優秀なのに……酷すぎると思って……」
「竜也様は何とおっしゃいましたか?」
「お兄様は笑って、後輩に責任転嫁する社員や、まともに本人の話しを聞こうとしない上司がいる会社なんてロクでもないから直ぐにでも辞めた方がいいって……何だかいつもより乱暴な答えを出すから、少し変に思ったけど一理あるなって……」
確かに彼ならそんな言い方はしない……でも答えているのはリュウ。
先の事など考えもしないで言ってしまうのはらしいと言える。
「…その後少しづつ様子がおかしくなって……」
「驚かれましたね……二人っきりにした私がいけなかったのです。……申し訳ございません。」
「そんな…でも、お兄様は如何してしまったの?……あんな姿初めてみたわ。」
「私にもわかりませんが、今は落ち着いてお休みになっておりますので、余り気に病まずに此処はお任せ下さい。」
そうは言っても気にせずにはいられない……ゆりなさんは其れから小一時間程私たちと一緒に部屋で様子を見ていたが、外せない用があるからと言い思いを残したまま仕方なく帰って行った。
見送りに出た私が戻ると、丸岡さんに椅子を薦められ二人で向かい合って話した。
気を失ったのはどっちだったのか……〝如何して″という言葉にはどんな意味があったのか……眠っている彼に聞く事は出来ない。
でも、目を覚ましても聞く事は出来ない……仮にあの時リュウの人格だったとしたら彼には記憶が無いし、そうで無い場合もおそらく憶えていないと……私と丸岡さんの考えが一致した。
「そもそも、何故苦しみだしたんでしょう。」
「…………」
「佐々井さんの時の様に過去に触れるような話しでは無かったみたいですし……理由が分からないです。」
「……リュウの人格の時、達也様は眠っている意識のない状態です。もしかしたら無意識の中の意識が……もう一人の人格を拒んだのではないでしょうか?」
「無意識の中の意識が拒む……」
「そうです。今までそんな事は無かったのに突然排除しようとした。リュウは焦ったと思います。……何かが……竜也様の中で変わろうとしているのかも知れません。」
「そうなんでしょうか?……じゃあ、〝如何して″と言ったのはリュウの方。」
「んん〜竜也様かも知れません……御自分の中にもう一人の人格が棲んでいる事を知って……いいえ、感じ取ったと言った方が正解でしょう。そして…衝撃と混乱で気を失った……」
「……その考えが当たっていたとしたら、どちらの人格にとっても冷静でいられませんよね。」
「……あくまで私の根拠のない考えに過ぎませんが……」
「そう間違っていないと思います……」
まだ丸まったまま眠っている。
いつ目が覚めるのだろう…あと一時間後?
太陽が沈みやわらかな光が闇を照らす頃……其れとも新しい1日の始まりを告げる光が闇から解放する頃だろうか?
……その時彼は一体どちらの人格で眠りから覚めるのか……
もし……
私は身震いした。
目覚めた彼の瞳が妖しい光を放ち悪魔みたいに微笑んでいたら……
そうでない事を祈るしかない。
「このままでは…………覚悟を決めなくてはならない時期かも知れません。」
低く重い声だった……
不安が皺の一本一本を深くさせ影をつくり、そして怯えたように目を伏せた。




