苦しみから生まれた者
ホテルのスウィートルーム。
彼は穏やかな寝息をたてて眠っている……勿論彼とは東條竜也の方だ。
私はベット脇にある緋色のスツールに腰掛けその寝顔を複雑な気持ちで見守っていた。
彼のもう一人の人格であるリュウは衝撃的な言葉の後、まるで友人に挨拶するかのように〝じゃあ…また″……と言って彼の心の奥底へと消えていった。
そして元々のパーソナリティーである東條竜也が目をさまし、案の定頭痛に苦しみだした。こうなると何時迄も此処に居るわけにもいかず、叱られるのを覚悟で丸岡さんに電話をしホテルの部屋をリザーブして貰った。
そしてやっと眠りに就いた彼の横で、恐怖と混乱と後悔でグチャグチャになった頭をどうにか整理しようとしていた。
部屋のチャイムが鳴る…開けると丸岡さんとゆりなさんが蒼ざめた顔で立っていた。
「今…落ち着いてお休みになっています。」
引きつった表情で頷く二人を招き入れベットルームへ案内すると、穏やかに眠っている彼を見て安心したのか表情を少し緩めてゆりなさんは ベット横に膝をつき彼の乱れていた前髪をなおした。
「お兄様……」
ゆりなさんのか細い声を聞き唇を噛みながら丸岡さんに体を向けた。
「丸岡さん…すみませんでした。」
私は深く頭を下げた……けれどこんな事で許される行動ではないと後悔と腹立たしさで涙が出そうになるのを堪えていた。
しかし丸岡さんは声を荒立てもせず、いたずら好きの子供でも相手にしているみたいに、少しだけ眉を寄せ優しい表情で頷いてくれた。
「頭を上げてください薫さん……詳しい事は後で聞かせていただきます。
此処は私が見てますから薫さんもゆりな様もお疲れでしょうから、もう一部屋とってあるので其方でお休み下さい。」
ゆりなさんと顔を見合わせた。
側に付いていたかっけど、こうなる事は幾らでも予想できたにも関わらず、引き起こしてしまったこの事態は私の口を重くさせた。
奥歯を噛み締め薄暗い部屋の一点に向い頭を垂れそのままドアに向かった。
ドアを閉める時丸岡さんの背中がとても弱々しく見えた……薄暗い部屋に同化してしまいそうな気がして思わず名前を呼んだ。しかし次の言葉が出てこなくてもじもじしていると、少し不思議そうな表情をして其れから何時もの穏やかな笑みを見せ、大丈夫だと自分に言い聞かせる様な言い方をした。
私はもう一度深く頭を下げてドアを閉めた。
廊下に出ると今度はゆりなさんに謝った。
彼が言い出した時、同行する事を拒否すれば車椅子では一人で遠出など出来ないのだから諦めてくれたかもしれないのに、思慮の足りなかった自分がゆりなさんを巻き込んでしまったのだと申し訳なくて仕方なかった。
「やめてよ…薫さんのせいじゃないわ頭を上げて頂戴。」
「でも……」
「本当に。……其れより二人が出て行った後の事話したいから部屋に行きましょう。」
「はい……」
私たちは隣の部屋のカードキーを差し込んで入っていった。
◆◆◆◆◆
次の日の朝……目覚めた彼は人格が入れ替わった辺りから記憶が無いらしく、何故自分がホテルのベットに寝ているのか分からず首を傾げ、朝食を運んで来た私に向かって口を開きかけたが、丸岡さんも一緒にいたのでバツが悪いのかこめかみをポリポリと掻いて口を曲げていた。
「……竜也様、朝食を摂ったらお屋敷の方へ戻りますよ。しっかり食べて下さい…よろしいですね。」
「わかった。」
素直に返事をしてサラダを一口くわえると、母親の顔色でも伺う子供の様に大きな瞳だけを動かし丸岡さんをチラリと盗み見ている。
「…丸岡……昨日…」
「竜也様……ゆりな様がとても心配しておいででした。食事が済みましたら元気なお声を聞かせて差し上げてては如何ですか?
其れと、昨日の事は後でゆっくりと聞かせていただきます。」
そのキッパリとした言い方に昨夜は表に出さなかったがやはり腹を立てているのだと確信した。
彼は普段より強い口調で話す丸岡さんに少し不満そうな様子を見せたが、自分の行動がこの結果を招いているので何も言い返す事が出来ず渋々頷いていた。
その後はバタバタと二人でチェックアウトの準備を済ませ10時頃にホテルを後にした。
◆◆◆◆◆
屋敷に到着したのは昼近くになっていたが、彼は少し横になりたいと言い昼食は要らないと二階の寝室へ篭ってしまった。
私は根ほり葉ほり聞かれるのが億劫で仮病じゃないかと穿った考えがよぎったが、確かにやや青白い顔だったので昨夜の事を思い出した。
……またリュウが出て来たりしないだろうか?
私はそんな不安を打ち消すように首を振り、二人が二階にいる間昼食の用意をしようとキッチンへ向かう。
彼は要らないと言っていたが軽い食事なら後で食べるかもしれないと思い冷蔵庫からベーコン、卵や野菜を取り出しサンドウイッチを作った。
キッチンのドアが開いていたのだろう丸岡さんが入ってきた事に気付かず突然声をかけられ手を止めた。
「おや……サンドウイッチですか。
美味しそうです…コーヒーは私が入れましょう。」
「お願いします。」
サラダも添えるか聞くと其れだけで十分だと言うのでサンドウイッチを切り分けテーブルへ置いた。
「あの……丸岡さん昨日の事なんですけど……」
「ええ…聞かせて貰いますが……まずは座りましょう。」
入れたてのコーヒーをテーブルに置くと腰を下ろし優しい表情を見せて私を見上げた。
会話もなく二人で黙々と食べた。
丸岡さんはあっという間に平らげてしまったが、私は喉のとおりが悪く半分食べたところで口に運ぶのをやめてしまった。
「……竜也様の我儘に付き合わせてしまって薫さんには申し訳ない事をしました。」
「えっ…」
「また気分が悪くなった時はお一人だったので随分と不安だったと思います。簡単に竜也様の策に引っかかった私の失態が招いた事です……お許し下さい。」
「止めてください。謝らなきゃならないのは私です……考えが甘くて話しを持ちかけられた時拒否出来ませんでした。
本当に心配掛けてすみませんでした。」
勢いよく立ち上がりすぎて危うく椅子を倒しそうになる。
私は深く頭を下げる。丸岡さんは二人で謝りあってもキリがないからと言ってもう一度座る様に椅子を勧めると、ひと息つく様にカップを口に持っていきコーヒーを飲んだ。
それにつられ私もコーヒーに手をつけ気持ちを落ち着かせた。
「……それで、出向いた場所なんですが……きっと見当はついてますよね……
二人で佐々井さんが転落した場所に行ってました。」
表情を崩さず頷く顔をみて、やはり分かっていたのだと…そして話し始めた。
丸岡さんは静かに余計な言葉など挟まず聞いてくれた。
「……あの場所に行って何の証言も目撃者も見つけたわけじゃありません。ただ…現場を見て色々考えを合わせると、あの事故は事故ではなく事件なんだと思わざる得ませんでした。」
そしてその直ぐ後に考えが間違ってない事を決定づける言葉を彼のもう一人の人格リュウから聞かされるなんて…でも、私は其れを100%信じているわけではない……違う……信じたくないと言った方が正解かもしれない。
……冗談…度が過ぎる嘘。
もしかしたらリュウという別人格さえ存在しないもので彼がからかって言っただけじゃないかと……
でも、一旦はびこってしまったリュウの言葉は、都合のいい考えをガリガリと情け容赦なく削り真実を私に突きつける。
リュウの存在を丸岡さんが知っているのか聞かなければならない。
「……私、言ったんです。
どんな理由で佐々井さんは突き落とされたのか……それで……」
闇を纏ったリュウの瞳を思い出して首筋に虫でも這うかのような寒気を感じ身を小さく震わせた。
「……如何しました?」
「あの…」
「はい。」
「あの、丸岡さんは……リュウ…リュウという人物を知っていますか?」
引きつる私の顔を見て丸岡さんは大きく目を見開き、持っていたカップはソーサーと擦りあって音を鳴らした……まるで怯える心の音のように……
カップをもう片方の手でおさえ硬直した指を解放し祈るように顔の前で指を組んだ。
あぁ……やっぱり知っていた。
当たり前と言えば当たり前よね。
長い間使えているのだから知らない方がおかしい。
「会ったのですか?…いえ、出て来た……現れたと言った方がいいですね。」
暗く苦しそうなしゃがれた声。
……触れてはいけない事を聞いているのだと分かっているけど知ってしまった今避けるわけにはいかなかった。
「リュウは……東條竜也のもう一人の人格だと言いました。……本当ですか?」
「……本当です。
存在を知ってから随分経ちますが此れは夢なんだと逃げたくなる時もあります。
……でも確かにいるんですよ…竜也様の中にもう一人の人格が……」
固まった顔のかた頬だけが小刻みに震えている。
信じられないと言う気持ちを嘲笑うかの様に現実に現れてしまう別人格を目の当たりにして何年も心を痛めてきたのだとその表情が物語っていた。
「いつから……ですか?」
「いつ……」
「はい……リュウはいつから彼の中に……」
「……アメリカでの事件の後だという事は確かですが…どのタイミングでリュウが竜也様の中に生まれたのかはハッキリしません。」
丸岡さんは立ち上がり少なくなったコーヒーをカップに注いでくれた。
艶やかな琥珀色を覗くと私が私を見つめている……わざとカップを動かし消し去った。
「エレノアさんの死のショックで…ですよね。」
「そうです。
……当時魘されながら自分を責めていらっしゃいました。そして目をさますと自分のせいで人が死んだ……大切な人を殺してしまった。生きているなんて許されない償わなければ成らないと、全てに絶望され自ら命を絶たれてしまうのではないかと一瞬たりとも目が離せない日々が続きました。」
穏やかな声には似つかわしくない険しく苦しそうな表情にチラリと見せる苛立ちのような怒り……其れはどうにも出来ない自分へ向けたものかもしれない。
「ヒステリックが落ち着くと今度は宙を見ながらブツブツと独り言を言うようになり…もしかしたらこの辺りからリュウが竜也様の中に住みついたのかも知れません。
……独り言は中に居るもう一人の人格と対話をしていたのではないかと思います。」
「彼は…リュウという存在を自覚しているんですか?」
「今の所自覚は無いようです……意識をリュウに取って代わられるとその間の記憶はありません。
ですから佐々井様の時も……竜也様の身体を使ってリュウがした行動は知らない筈です。」
蒼ざめ顔を曇らせる丸岡さんは幼い頃から見守り続けた彼を別人格とはいえリュウが汚してしまった事への怒りをグッと堪えているようだった。
こんな時まで我慢しないで感情を吐き出せばいいのにと思う私はやはり人間として未熟なのかも知れない。
……私は火傷した時のようなヒリヒリとした痛みが頭の中で水膨れみたいに膨れ上がり、そのブヨブヨした感触が不安を誘い脳を圧迫していった。
「……私…何故、佐々井さんなのか分からないんです。」
「それは…」
「彼奴が余計な事を竜也に吹き込んだからだ。」
いつからそこに居たのか入口の壁に背をつけしゃがんでいた。
東條竜也……ではない。
リュウが不敵な笑みをこちらに向けて突然会話に割り込んできた。
私も丸岡さんも不意をつかれすぐには反応できず、異形の生物でも見るように表情を歪ませた。
リュウはそんな私たちを面白がるみたいに低い笑い声を喉で鳴らし立ち上がった。
そして近付いてくると椅子を引き寄せ間に入り声も出せないでいる私たちの顔を交互に見てまた笑った。
「……おっ!旨そ。……食べないの?」
リュウは私の食べ残していたサンドウィッチを手に取り口へ運んだ。
「竜也の奴メシ要らないなんて言うから腹減っていたんだよね……うん、結構いけるよ…これ。」
食べ終わると指についた汚れをペロペロと舐めながら丸岡さんの皿をチラリと見て、もう残って無いのが不満なのか唇を指で撫で、もの欲しそうに私を見てきた。
「……俺の分ないの?」
私は反射的に立ち上がり作りおきしていたサンドウィッチを取りに行きそうになった。
「…!……貴方の分なんかあるわけ無いじゃない!」
「ふん……じゃあ、竜也の分はあるんだ。」
「其れは……」
「人格は違うけど身体は一緒なんだけどなぁ……俺が腹減っている時は竜也も空いてんだけど…ね。」
子供みたいに口を尖らせパン屑だけになった皿をもの欲しそうに見つめている。
……そんな事言われなくとも分かっているけどリュウに快く出してやる気にはならない。
「薫さん出してやって下さい。」
「丸岡さん!」
「彼の言う通り竜也様も空腹なのでしょう。」
掠れた声で要求をのむように言う丸岡さんを納得いかず顰めっ面で見る。
「彼が食べると思わず竜也様にお出しすると思って……」
静かに頷くのを見て奥歯を噛み締め仕方なく冷蔵庫からサンドウィッチを出しぶっきらぼうにリュウの前に差し出した。
「やったぁ」
ムシャムシャと下品に食べる姿を見て此れが彼なのか……人格が異なるとこうも行動が違ってしまうのかと嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
そんな私の表情から気持ちを読み取ったのか目を細め口元を歪ませるとおもむろにポケットから煙草を取り出し口に咥えた。
しかし火をつける前に其れを丸岡さんがすかさず取り上げた。するとリュウは鼻で笑いもう一本取り出し咥えたがまた取り上げられた。
「煙草は身体に良くありません……やめて頂きます。」
「関係無いね。」
「いいえ、人格が違くても身体は一緒です。
貴方も先程言っていたではないですか。」
「俺のする事に口出しするなよ…うぜぇ」
リュウは苛々とした目で睨め付けるが丸岡さんは静かな冷めた目で其れに対抗した。
そして……リュウは口角を引きつらせテーブルへ叩きつける様に煙草とライターを置くと眉間に皺を寄せ面白くなさそうに足を組み椅子にもたれた。
「理解していただけた様で……」
「クソじじぃが!」
「やめて……彼はそんな事言ったりしない。」
「はぁ?……なに言ってんの?俺は竜也じゃないリュウだ。
入れ代わった時は俺なんだ…何をしようと、何を言おうと勝手……竜也の処理できない心の痛みを全部引き受けてんだ感謝して欲しいくらいだよ。
だから…あんた達にも竜也にも口出しさせない。」
「だから佐々井さんを突き落としたの!
何の為?……何をしたと言うの?」
ピクリと眉が動く。
リュウの激昂しかけた感情が冷めていく……私は唾を飲んだ。
「さっ…佐々井さんをどうして……さっき」
「あの女の名前を出したからだ。」
「あの女って……エレノアさん?」
「そう……エレノアの事を思い出されると困るんだよ。」
「どうして貴方が困るのよ。」
「言ったろ……竜也の処理できない心の痛みをを引き受けているってさ……
彼奴が望んだんだ…だから俺という人格が生まれた。」
「答えになってない……じゃあ彼が記憶を戻すと貴方はいなくなる。だから…消えたくないから邪魔してるのね。」
リュウは目を大きく開き私に顔を近付けてニヤリと笑った。
「そう単純じゃないさ……
そんな事になったら竜也は生きて行けなくなる。……そうだろ丸岡。」
丸岡さんは何処にも怒りをぶつける場所がなくグッと堪えた様な表情で頷いた。
「エレノア様の事はこのまま思い出さずにいた方が幸せかと……
あの事件は竜也様の精神を壊しかねません。」
「でも……其れは…例えばカウンセリングとか……何か方法があるんじゃないですか?」
リュウが突然高笑いをして私を苛立たせる。
「カウンセリング……笑える。
そんな事とっくの昔に何度も丸岡が受けさせたよ。……でも、結果はこの通り……俺が存在している。」
両腕を広げそして胸に手を重ねて笑っている。
そして笑い転げていた態度を一変させると狂気にも似た目を私に近付ける。
「無駄なんだよ。」
闇を纏った瞳に私が映っている。
そして瞬き一つで出口のない迷路に閉じ込められてしまった。
……記憶を取り戻せばリュウはいなくなる?
存在する意味が無くなるから……でも、そんな事に成れば東條竜也の心は壊れてしまう。
どうすればいい……
出口のない迷路の中心で、私は小さな女の子みたいにしゃがんで何処へ行ったらいいのか分からず、上を見上げて誰かの助けを待っているちっぽけな存在。
「薫さん……竜也様をお守りするにはリュウを受け入れる他ないのです。」
「そう……竜也の記憶を掻き乱す佐々井の様な奴が現れない限り俺は滅多に表に出て来ない。
あんたは俺の事悪魔みたいに思っている様だけど、周りのどんな人間よりずっと竜也を大切に守っているのは俺だ。
其れを邪魔する者はどんな手段を使っても排除する。
其れはあんたも対象だという事を忘れずに…
此れは警告だ……もう二度と言わない……記憶を戻そうなんて愚かな考えは捨てる事だ。」
今の私にはもう何も言い返す言葉が見つからなかった。
悔しいけど丸岡さんの言う通り受け入れるしかないのかもしれない……でも……
「佐々井の事はこれ以上竜也に嗅ぎ回られたら厄介だから其れは俺が持って行くよ。」
「持って行くって……」
「竜也から佐々井の件に関しての記憶を消すって事さ……」
まるでゲームをリセットする様に気軽に言っている。
「そんな……そんな事!」
私は立ち上がりリュウを睨んだ。
「怖い顔しても駄目だよ。そうする事が一番いいんだ。
口出しする事は許さない…邪魔をする事も……
あんたは黙って竜也のお守りしていればいいんだよ……分かったら早く竜也を部屋に戻せ……」
目を細め口元に笑みを浮かべると椅子にもたれかかり暗闇にフェイドアウトするかの様に身体の力を徐々に緩め眠りについた。
竜也の中に戻っていった。
「薫さん手伝って下さい。……車椅子をここへ。」
丸岡さんの言葉に急いで二階へ行き車椅子を運び二人で彼を座らせた。
そして目を覚ます前にベットへ寝かせると、穏やかな寝息を立てている彼を見てホッと息を吐いた。
結局この日彼は一度も目覚める事なく眠り続けた。
◆◆◆◆◆
翌朝……私は深い眠りに就けぬまま何時もより30分早くベットから起きあがり一階へ降りた。
応接室のドアを開けると心地よい少し冷たい風が頬を撫でてきた……テラスへ出る窓が大きく開け放たれていてカーテンが私を誘うように揺れている。近付くと彼が一人で庭を眺めていた。
「おはようございます…随分早いですね。」
「薫さん……おはよう。」
リュウじゃない東條竜也の少年ぽっい笑顔に安心する。
「……寒くはないですか?何か掛けるものでも持って来ましょうか。」
「大丈夫……其れより…いつの間にか夏が終わっていたんだね。」
「そうですね……涼しくなって過ごしやすくなりました。」
肌に心地いい風が優しく通り抜けていく。
深呼吸をすると身体の中が浄化されていくようだった。
「……なんだか……頭の中に霧がかかっていて、所々はっきりしないんだ。
夢でも見ていたようなあやふやで少し気持ちが悪い。」
風で伸びた前髪が揺れ知的そうな額が見え隠れする……少しだけ不安そうな横顔。
彼がこんな風に弱音を吐くような事を言うのは珍しい。
持っているはずの記憶を自分の意思とは関係なくリュウに奪われ違和感を感じているのかもしれない。
揺れる前髪を直すかの様に額に手を当てて目線を落とした。
「……お疲れだったのではないですか?」
「……」
「諸用で一昨日都内に行っていましたし……」
私はわざと出かけていた事を言ってみた。
彼は不思議そうに振り向き其れから思い出そうとこめかみに指を当てた。
「……そう…だった?……でもどんな用事で……」
「か……買い物です。」
「買い物……」
「ええ…結局何もお買いにならなかったんですけど……」
「そう……」
彼はどこか釈然としない表情をしていたが、私が言う事に嘘は無いだろうと思ったのか、忘れっぽくなったのかなと言って戸惑った笑顔を見せた。
嘘をついているのに信用する彼の気持ちが深く私に突き刺さる。
言葉に出せない謝罪を心で繰り返した。
強い風が吹いた。
彼が寒そうに身体を震わせる。
「やっぱりブランケットでもお持ちしますね。」
背を向けた瞬間突然腕を掴まれ驚いて彼を見た。
「警告忘れるなよ。」
悪魔のような妖しい笑みを浮かべたのはリュウで私は全身が硬直し異様に唇だけが震えるのを止める事が出来ないでいた。
「……薫さん?……薫さん。」
名前を呼ぶ声で我に帰ると目の前にいるのは東條竜也で心配そうに私の腕を優しく掴み見上げていた。
「どうしたんですか?…顔色悪いですよ。」
「あっ……その…すみません。なんでも無いです。……ブランケットを持ってきますね。」
動揺している私を変に思っただろうか……逃げるように応接室へ戻るとブランケットを手にした丸岡さんが立っていた。
「あっ……」
ブランケットを差し出されたが私は首を横に振り丸岡さんが持って行ってくれるように頼んだ。
「私たちは今まで通り竜也様にお仕えするだけです。」
小声で返事をすると、丸岡さんは穏やかで誰もがホッとする笑顔を見せてテラスへと出て行った。
私はその背中を見送ると応接室からキッチンへと移動した。
リュウの存在を疎ましく思っても確かに別人格によって彼は精神のバランスを取っているのは間違いない。
でも…記憶を取り戻したいと思っている彼の気持ちはどうすればいいのだろう。
苦しみを遠ざける為知らないうちに自ら生んでしまった人格。
向き合う日がいつかくるのだろうか……全てを思い出した時彼は過去の悲劇を乗り越えられるのか其れとも押し潰されて心が壊れてしまうのか……前者であって欲しいと願うけど、記憶を取り戻すという事はどちらに転ぶか分からない掛けの様なもので、希望か絶望か……出たカードで大きく変わってしまう。
其れならリスクを伴わない現状に甘んじていれば、今まで通り多少不自由であっても穏やかに過ごせる。
キッチンの窓から外を見るといつの間にかテラスから庭へ彼が移動していて、一人空を見上げているその佇まいに何故か涙が流れた。




