最初の訪問者
丘の上の洋館で働き始めて二週間……やっと少し仕事にも慣れてきた。
あの日、東條竜也に初めて会って想像していた人物像を見事に裏切られ、その魅力に引っ張られるみたいに住み込みで働く事を決めてしまった。
……私は彼の事をもっと知りたいと思ってしまったのです。
優しい少年っぽさの残る笑顔、そして何より魅了したのは、哀しげな影が見え隠れする瞳……それに気付いた時、何故そんな瞳をするのか知りたいと思ったのです。
……何だか彼に取り憑かれてしまった様です。
…………少し風が吹いてきた。
ブランケットを持っていかなきゃ……
私はテラス横の花壇に水を撒いてた手を止め、急いで取りに行った。
彼はテラスで珈琲を飲んでいた。
何を見ているのかしら……空? 木々の間から見える町並み?
其れとも、哀しみを瞳に焼き付けた私の知らない出来事を思い出し、何も見ていないのかしら……
「寒くないですか?」
「……そうだね。少し風が出てきた。」
私は彼の前に立ちブランケットを広げ掛けてあげた。
「ありがとう。」
……ああ…又あの笑顔。
「何を見ていたんですか?」
「何を……僕は何を見ていたんだろ……可笑しいね…わからない。」
時々こんな風に心を何処か遠くに飛ばしてしまう。やっぱり私には見えない何かを見ていたんだわ。
……其れを知りたいと思う私は身の程知らずでしょうか。
車が一台入って来た。
ここに来て初めてのお客様。
「お客様の様ですね。」
「あれは……薫さん中に入りましょう。」
車でやって来たのは彼の高校時代の友人であり、母方の従兄弟で、朝日田浩輔という人物だった。
背が高く何かスポーツでもしていたのかガッシリとした体格をしていた。
香りの良いダージリンティーを丸岡さんが出し、私はその後ろから先程焼き上がったばかりのクッキーをテーブルに置いた。
「おい、竜也……この美しい女性は誰なんだよ。」
美しいなんて言われて恥ずかしくなり、テーブルの前から直ぐに後ろへ下がった。
「松本薫さんと言って、丸岡の補佐をして貰っているんだ。」
朝日田さんは、私を珍しいものでも見るかの様な瞳で見つめ、其れから白い歯がよく似合う笑顔を見せ名乗った。
「朝日田浩輔です……宜しく。」
「松本薫といいます。」
そう言って頭を下げそのままこの場から下がろうかと思ったが引き止められてしまった。
「あっ…薫さんも此処にいて下さい。」
「エッ。……でも。」
「一緒に話しを聞いて欲しいんです。
……どうせ浩輔はやっかい事をもって来たんだと思いますから、女性の意見も聞きたいので……ソファに座って、さあ、どうぞ……」
どうして良いか迷っていると、丸岡さんが肩に手を置いてソファの所にまで移動させ、私を座らせた。
「只今、薫さんのダージリンティーもお持ちしますのでお待ち下さい。」
「丸岡さん!…そんな私がします。」
座っていた腰を浮かせたが、丸岡さんは〝そのままで″と言うみたいに手の平を向け、一礼して応接室を退出した。
私は彼と一緒に応接室のソファに座っていると思うと、落ち着かなくてお尻をモゾモゾさせた。
「……薫さん、トイレでも行きたいの?」
「えっ?」
私は顔を真っ赤にして否定した。
「浩輔、女性に失礼だよ。
薫さんは急にこんな所に座らされて落ち着かないだけだよ。」
そう澄ましながら美味しそうにダージリンティーを飲んだ。
「全く…デリカシーが無いな……」
朝日田さんは決まりが悪そうに頭を掻きながら苦笑いしていた。
私は、顔を赤くしたまま目を伏せ、この場から逃げ出したいくらい恥ずかしかった。
そこへ丸岡さんがダージリンティーを持って来て私の前に置いてくれた。
「おや?……薫さん顔が赤いですよ。
どうかなさいましたか?」
「……丸岡さん、俺が失礼な事言ったんだ。
お尻モゾモゾしているからトイレに行きたいのかって……ね。」
「浩輔……そこまで説明する必要ないよ。」
彼は眉を少し寄せてたしなめた。
私は、更に赤くなって、もうゆでダコ状態になってしまった。
丸岡さんはプッと吹き出し〝失礼しました″と言って、真顔を作り一歩後ろに下がった。
……丸岡さんまで……酷い。
彼は、ダージリンティーが半分程になった所で手にしていたカップをソーサーにもどし、ゆったりと車椅子に身体を預けると、朝日田さんの方に目を向けた。
「……それで、今日は何事?」
「おっ、聞いてくれるか?」
「出来るなら聞きたくないけど、僕が耳を手で塞いでもその太い腕で力づくで引き離し、何がなんでも話すんだろう。」
「分かってるねぇ……」
朝日田さんは目をむいてニヤリとしている。
「長い付き合いだからね。……で、どんな話し?」
彼はアームサポート部分に肘を立て、組ん
だ指の上に軽く顎をのせ、口元の両端を微妙に引き上げ、迷惑そうな言葉とは裏腹に何処か愉しんでいる様にも見えて、普段とは違う一面が垣間見えて、何故だかドキドキしてしまった。
そして朝日田さんはまるでそのポーズと表情を待っていたかの様にニヤリとして話し始めた。
「竜也、佐藤歩の事憶えているか?
「佐藤……歩。」
「そう、高校の同級生だ。」
「…………あぁ、浩輔と同じボクシング部の佐藤か…」
「思い出したか?」
「よく覚えている。何時も浩輔の後ろにくっ付いてた。……何度か話した事があるよ。
彼がどうかした?」
「……行方不明なんだ。」
「ヘェ〜……」
興味が無い口ぶり……でも、表情はその逆で〝行方不明″と聞いてピクリと眉をあげた。
◆◆◆◆◆
四ヶ月前突然佐藤歩から電話がきた。
大学卒業以来疎遠になっていたので、その電話にはかなり驚いたと言う。
最初は学生時代の話しで盛り上がり、十代の頃の無知さ、勢い、馬鹿みたいに楽しかった事を思い出し、懐かしくて、あの頃時間を共有した友人っていいなぁ…と改めて思い、いっきに距離が縮まった感じがしたそうだ。
しかし、現在の話しになると佐藤歩は口数が減り朝日田さんの話しに相槌をうつだけで、どうしたのかと思い〝何かあったのか?″と聞くと〝何も無いさ…浩輔の話しを聞いているのが楽しいからだよ。″と言って笑ったと言う。
昔から余り喋る方では無く、聞き役が多かったのも確かで、こんなもんかと納得して久しぶりに長電話をしたそうだ。
そして、最後の方で佐藤歩は〝今度、海外旅行に行くんだ。少し長めになると思うけど帰って来たら連絡する″と……
しかし、一ヶ月経っても、二ヶ月経っても連絡は無く、等々旅行に行くと言ってから四ヶ月も経ってしまった。
さすがに朝日田さんも心配になり、大学卒業後の勤務先が一緒の同級生に連絡を取り、彼の事を聞いたら、就職して二年程で退職したと聞き驚いたそうだ。
そして、退職後の事は知らないかと尋ねたが、分からない…噂も耳にしないと言われ、何処をどう当たれば良いのか八方塞がりに成ったと……朝日田さんは頭を抱えていた。
身じろぎもせず話しを聞いていた彼は、朝日田さんの様子を見て深く息を吐き背もたれにゆったりと身体を預けた。
「……仕事を辞めていた事はともかく。単に浩輔へ連絡入れるのを忘れているとは思わない?」
「それは絶対無い。」
「絶対?……う〜ん……世の中に絶対なんてあるのかなぁ……」
何だか呑気な言い方をしている。
まるで子供が親に何か聞かれて惚けている様な表情だわ。
絶対があるとか無いとかこの際余り問題では無いと思うのだけど……
「いや、これは絶対だ。
そりゃあ疎遠には成っていたが、今まで歩が俺にした約束は破った事が無い……だから確信を持って言える。」
少し憤慨した様子で彼を見た。
そんな朝日田さんの表情にも動じず〝確信ねぇ″と、やや呆れた様に小声で言った。
私は基本的なとても当たり前な事を聞いてみた。
「あの……警察には届け出したんですか?」
朝日田さんは今まで私という存在を忘れていたのか、驚いた様にこっちを見て口を開いた。
「えっと…警察には届け出したよ。
でも何も言ってこない……どうせ本気で探して無いんだろう。」
「多分ね……残念だけど事件性がないと警察のフットワークも鈍いようだから……」
そう言っている彼の表情はすでにその先を考えている様で、こめかみに人差し指をあて伏目がちに何処か一点を見つめていた。
「他に何か気付いた事は無い?…何でもいいんだけど……」
朝日田さんは右手を口に持っていき考えていたが、何も思いつかないのかイライラと頭を掻いた。
その様子を見て彼は小さく息を吐き言った。
「じゃあ、質問を変えよう。そもそも佐藤歩はどの国に旅行へ行くと言っていたんだ?」
……あっ、そうよ!
出入国記録を調べれば少なくとも無事に帰国しているか分かるわ……でも、一般市民が勝手に調べる事出来たかしら?
言ってみようか、でも馬鹿にされたら……
そんな私に気付いたのか、彼は〝意見が有るなら聞くよ″と、言った。
「……あの、海外に行ったなら……そのぉ……出入国の記録が残っていますよね。
それを調べてみたら如何でしょうか?」
「おお…出入国か!」
彼は目を細め、手の平を合わせ鼻の頭に持っていくと口の両端を引き上げた。
「確かにそうだね。
でも一個人が調べる事は残念ながら無理なんだ。警察、弁護士が手続きをしなくてはね……それだって正当な理由がなければね…」
「……そうですよね。すいません…私って馬鹿ですね。」
「そんな事無いですよ、薫さん。
……浩輔、知り合いの弁護士くらいいるだろ。頼んでみたら?」
あっ、また突き放した言い方……親身に聞いているかと思えば急に冷たくなる。
そうやって相手の反応を愉しんでいる様に感じる。
……従兄弟で友人だから?
何だか今日は色んな顔が見れて、不謹慎だけど面白い。
「会社の顧問弁護士ならいるが……」
「その弁護士に相談してみれば良いじゃないか……」
「そうだなぁ……」
……悩んでいる。
ここで今更ながら疑問が湧いてきた……朝日田さんは何故初めから弁護士に相談しなかったのかしら?
出来ない理由でも?……そんな感じも受けないし……どうして東條竜也に相談しに来るの?
「……で?」
彼が悩んでいる朝日田さんに話しを催促するかの様に言葉を掛けた。
「えっ?」
「で……佐藤歩の旅行先は何処なんだ。」
「あぁ……確か東南アジアを周ると言っていた……うん。」
「東南アジアか……シンガポール、フィリピン、ミャンマー、インドネシアにタイ……」
目を伏せてブツブツとお経を唱えるみたいに国の名前を言っている。
「東南アジアの何処とは聞いてないのか浩輔……」
「いや、其処までは聞いてない。」
「肝心な所を聞いて無いんだな……」
また手の平を合わせ祈る様に唇へ軽く押しあて目を閉じる。
……この世の全ての音が消え、静寂という孤独な宇宙に投げ出され、その果てのない空間を漂っている様な、今まで感じた事のない感覚…………私達は彼が次に何を語るのか、息を潜めて待っていた。
……ゆっくりと目を開いた。
静かに…深く息を吐く……
そして彼は朝日田さんに向かって、佐藤歩の昔の写真でもいいから、それを持ってある場所を探す様に言った。
今時珍しい場所ではないけど、それを聞いた時、私も、朝日田さんも驚いた。
何故その場所なのかは幾ら尋ねても教えてくれず、とにかく其処へ行く様にと……そして何か情報が有っても、無くても必ず電話でいいから連絡してくる様にと、朝日田さんに念を押していた。
◆◆◆◆◆
其れから三日後、朝日田さんから電話が来た。
その様子を見ていると、彼は満足そうに頷きながら微笑み次の指示を出した。
「浩輔…君の会社にここ最近……そうだなぁ二ヶ月、三ヶ月前から働き始めた人物の履歴書を確認してみるといい……おそらく探している人が居る筈だよ。」
そう言って妖しく微笑み電話を切った。
「……丸岡、ハーブティーを淹れてくれないか。」
「かしこまりました。」
丸岡さんが下がると、春の陽射しが降り注ぐテラスへ車椅子を移動させ、また私の知らない見る事の出来ない世界に心を飛ばしているように見えた。