調査中止
夏はあっという間に私の横を通り過ぎていった。
九月にはいると残暑はあるものの吹き抜ける風は肌にサラリとし、まとわり付くようなしつこさがなく気持ちがいい。
丘の斜面には優しい色をしたコスモスがチラホラ咲き始め風が吹くとしなやかに揺れていた。
あの日から……あの日とは丸岡さんから留学中の話しを聞かされた夜のことで、何だか随分前の様に感じるけれど、丸岡さんは勿論、私も今迄と変わらず接していた。しかし頭の中では記憶を戻した方がいいのか、戻さない方がいいのか始終考えていた。
そしてそんな時佐々井さんから彼に連絡が入った。
佐々井さんの番号を登録していなかったので知らない番号に彼は首を傾げ警戒するような声で出た。
「はい……」
◆◆◆◆◆
機嫌が悪い。
折角丸岡さんと私が腕によりをかけて作った夕食もムッとした表情で口に運び、まるで不味いものを無理やり食べさせられているみたいだった。
こんなに機嫌の悪い彼を見た事がない。
理由はわかっていた……佐々井さんの電話が原因だった。
電話に出た彼は相手が佐々井さんだとわかると目を輝かせたが、やり取りをする内次第に顔を曇らせ、何か説得する様な言葉を吐いていたが無駄だったみたいで苛々とした表情で声だけは平静を装って電話を切った。
「どうなさいました?」
「佐々井が突き落とされた件はやっぱり気のせいだったからもう調べなくていいと言ってきた。」
彼は顎を少し上げて口を横に曲げて面白くなさそうな態度をとる。
丸岡さんはさして驚いた様子も見せず〝…其れは急ですね。″と、まるで他人事の様に抑揚なく言った。
彼は車椅子を反転させ後ろに控えている丸岡さんを厳しい表情で見つめたが、全く顔色を変えずその表情を受け止める執事に、頬をピクリと動かし悔しそうに唇を引き締めプイッと応接室を出て行ってしまった。
丸岡さんは安堵したようにフゥと息を吐くと薄っすらと笑みを漏らした様に見えとても嫌な感じを受けた。
……と、こんな事があり彼の機嫌が悪い。
私は丸岡さんの表情が気になった。
でも……気のせいかな?
「……ご馳走様。」
彼の声で我にかえり少し前で控えていた丸岡さんをずっと見ていた事に気付いて焦った。
「薫さん食器の片付けお願いします。」
「は…はい。」
丸岡さんは彼の座る車椅子を応接室へ押して行った。
私はジッと見ていた事に気付かれなかった事にホッとし、テーブルの食器を片付け始めた。
頼んでおいて今更やっぱり気のせいだったなんて……余りに進展がないから諦めてしまったのかしら?
……まぁ、理由が何にしろ丸岡さんにとっては喜ばしい申し出ね。
もう一度あの表情を思い出した……ただの安堵した笑みの様には見えなかった…何か含んだ笑みだと感じたけど、ほんの一瞬の事ではっきり笑みを浮かべていたかは断言できない。
食器を食洗機の中に入れている所に丸岡さんがお茶の用意をする為戻って来た。
……目で動きや表情を追ってしまう……別に変わった様子はない。何時もと同じ様になれた手つきでお茶の準備をしている。
「……薫さん私の顔に何か付いていますか?」
ティーセットを準備する手を止める事なく言ってきた。
「えっ…あ……」
気付かれてた……
私はどう言ったらいいのか分からずドギマギとしながら笑ってごまかしてみたが、丸岡さんはクスリと笑みを漏らしてから私に〝食事を済ませたら後は部屋に戻っていいですよ。″といいワゴンを押しながらキッチンを出て行った。
大きく息を吐き余り気にする様子もなかったことに安堵した。
……丸岡さんの事だから何故私が様子を伺っているのかおそらく見当はついているのかも知れない。だからさして追求しないのだろう。
キッチン横のテーブルの椅子につき食事を始めるが、佐々井さんの電話で苛ついている彼が何を考えてこの先どう行動をするのか気になって、ノロノロとスープを口に運ぶ……
「熱っ!」
コーンスープが熱くてスプーンを置き唇に手をやる……ヒリヒリと痛み出した。
◆◆◆◆◆
次の日私は退院した佐々井さんの実家を訪ねていた。
「薫さん……どうして?」
「突然押し掛けてすみません。」
佐々井さんは突然の訪問に驚きそして…微妙に顔をヒクつかせ困った様子で私を出迎えた。
……彼に頼まれ此処にいるけど、上手くいくのか不安で強張る顔を無理に引き上げ笑顔で頭を下げていた。
全く彼の頼み事は突然すぎる…………
……「私が⁈」
夜九時過ぎに部屋の内線電話が鳴り、頼みたい事があるから十一時になったら部屋にきて欲しいと彼から呼び出された。
「丸岡にはさっき休みを取る事は伝えてあるから……ああ…でも佐々井に会いに行くとは言ってないからそこの所は上手くやって下さい。」
「上手くって……そんなぁ。」
人にものを頼むのだからそこの所も考えて欲しかったわ……
……理由を聞かれたらなんて答えたら良いの?
「……おそらく何も聞いたりはしないと思うよ。」
簡単にあっさりとした言い方をするので私は口を萎めて恨めしそうに睨んでやった。でもそんな表情なんて気にも留めないで、持っていたメモを差し出した。
「佐々井の住所……」
……まだ行くと言ってないのに。
当たり前のような態度に少し腹を立てながらメモを受け取った。
「それで…私は何を……」
彼はちよっとだけ意外そうに私を見たが直ぐに目を細め意味ありげに笑うと、ぐっと近付き、部屋には二人しかいないのにまるで内緒話しでもするかの様に声をひそめた。
「……薫さんも気になっている事です。」
「えっ……」
「惚けなくてもいいですよ…好奇心の強い薫さんが気にならない筈がない。」
試されているみたいで嫌だったけど、惚けても無駄……そんな態度なんか通用する相手ではない事は分かっているので素直に答えた。
「……何故急に調査依頼を断ってきたかって事ですね。」
「そう……自分の勘違いだと今更言われても納得はできないからね。」
「私に話してくれるでしょうか?」
「其れは何とも言えませんが……薫さん次第でしょう。」
プレッシャーをかけないでよ……
私は急に胃が重くなって顔を顰めた。
「兎に角、佐々井の転落事故の真相を知りたいんだ……どんな妨害があっても真実の向こうに僕の求める答えが…ヒントだけかもしれないが、あるような気がしてならない。
……だから、薫さん協力して下さい。」
真剣な眼差しで私を見上げている。
……素直に協力を求められると例え自信が無くとも頷くしかなくなる。
◆◆◆◆◆
松葉杖を突きながら佐々井さんは私をリビングまで案内してくれた。
「悪いね……今、母も外出中でお茶とか出せないけど、まぁ、座って。」
「いえ、お構いなく…突然押し掛けた此方が悪いので気にしないで下さい。」
どうやら足の状態が良くなるまで実家で静養するらしく、普段は通勤に便利な会社近くのマンションに一人で暮らしているみたいだ……しかし郊外とはいえかなり立派な家だ……佐々井さんもお金持ちの息子なんだと思い高級そうな調度品の数々を見回した。
「……それで、足の具合は如何ですか?」
「お陰様でギプスは外れました……暫くはリハビリをしなくてはいけないけどね。」
足を摩りながら面倒くさそうに言っている。
誤って転落したのか、悪意による転落なのかは分からないけど、どちらにしろ不運としか言えない今の状態には同情する。
「早く元の生活に戻れるといいですね。」
「ありがとうございます。」
「……其れで今日突然うかがった理由なんですが……その……調査の中止は何故なのか詳しくお聞きしたくてお邪魔しました。」
「やはりそうですか……貴方がいらした時点で察してはいましたが、東條は納得していないのですね。」
「はい。」
佐々井さんは自分の不自由な足を見つめながら考え込んでいる。
果たして素直に話してくれるだろうか?
……しかし顔を上げた佐々井さんは無邪気な仮面をつけた様な笑顔を見せた。
「……電話で言った通りです。
よくよく考えてみると誤って転落したのだと……だから〝バツ″という言葉以外何も思い出さないんですよ。
其れだって本当にそんな言葉耳にしたのか自信がありません。……空耳かも。」
そう簡単にはいかないわよね……さて私如何する?……此処まで来て電話と同じ答えを持ち帰る訳にもいかないし……
「そうですか……でも調べてみた所転落する時不審な人物を貴方の後ろにいたと言う人が出てきたんですけど……其れもそのひとの見間違えなのかも知れませんね。」
「えっ?」
心臓の鼓動が徐々に速くなる……
「残念です……やっと見つけた目撃者だったんですけど…佐々井さんが勘違いと言うなら仕方ないです。」
更に駆け足になる鼓動……聞こえたりしないか不安になる。
「ちょ…ちょっと待って下さい。
いたんですか?見た人が!」
私は意味ありげな感じに微笑んで見せた。
「……そうか……やっぱり。」
「やっぱり?」
呟くような言葉を聞き逃さなかった。
私はそれを繰り返して言い、佐々井さんの顔を覗き込んだ。
「えっ…」
「今、やっぱりって言いましたよね。」
狼狽えている所へ更にたたみかける。
「なんだ…本当は勘違いだなんて思ってなかった……今でも誰かに突き落とされたと確信しているんですね。」
「あっ、いや……」
「そうじゃなければ〝やっぱり″なんて言葉出てきませんよね。」
眉をヒクつかせながら私から目を逸らし片足を小刻みに動かしている。
「佐々井さん?」
呼びかけにピクリと反応しチラリと私を見ると顔をしかめ首の後ろを摩った。
「……もう一度聞きます。どうして調査を中止して欲しいなんて言ったんですか?」
「…………」
「佐々井さん……教えて下さい。」
落ち着きなく動いていた足が止まり、観念したように苦笑いをして言った。
「……丸岡さんです。」
ある程度予想していた名前だった……あの突然の休暇は佐々井さんに会いに行き、なんと言ったのかは分からないけど、調査を断念させたんだ。
「……病院に来て懇願されたんです。」
「懇願……でも、だからと言って……もし、本当に故意による転落なら立派な傷害事件になるんですよ。
いくら懇願されたと言っても赤の他人の丸岡さんの言う通りにするなんて……私には理解できません。」
「理解できないか……だよな。」
「何を言われたんですか?」
「…………東條の空白の記憶と言えば分かりますか?」
……ああ、丸岡さんは話したんだ。
「事件の事は知っていたけど、記憶の一部を失っているなんて全然知らなかった。
エレノアが亡くなっている事も……」
「でもその話しだけで諦めるなんて……」
「……東條には大きな借りがあるんですよ。」
疲れた様に項垂れると自虐的な笑みを浮かべている。
「借り……」
佐々井さんは頭の奥に追いやっていた出来事を話し始めた。
当時つきあっていた女性の事だった……その女性は独占欲が強くエキセントリックな人だったらしく、佐々井さんは三ヶ月も付き合うとその性格についていけなくなり別れを切り出した。
当然彼女は別れる事を拒んだが、気持ちが離れてしまっているので会うのを一方的に止め、冷たく突き放したらしい。
しかし彼女の方は納得がいかないので何かにつけて家に押し掛けてきたり、大学でベタベタとしてきたりと、困った佐々井さんは東城竜也に相談したと言う。
その甲斐があって何とか別れる事ができた。
「東條に礼を言いに行った時、あいつまるで予見するかの様な事を言ったんだ。
〝……礼はいらない。……ただ注意しろよ。″……てな……何になのか分からなかったし、やっと解放されて有頂天になっていた俺はその言葉を忘れてしまった。」
「……其れで、何かあったんですか?」
引きつった表情を見せて頷いた。
「彼女……違法薬物に手を出していて…頭がイカれてたんだ……俺をナイフで襲おうとして、其れにいちはやく気が付いた東城が止めてくれた……俺は命を救われた。」
「……そんな事が……」
「ああ。……東條がいなければ俺は此処に居なかったかもしれない……
いい思い出じゃないし、忘れていた訳ではないが丸岡さんから留学中の事件の真相と東城の今を聞いて頭から引っ張り出した。
……だからあの時の借りを返すのは今しかないと……今回の調査をする事であいつが苦しむなら止めようと思った。……中々進展もないし、警察も不注意による事故として処理してるしね。」
決して納得したから調査依頼を取り下げた訳じゃなかった……過去の大きな借りを返す為と諦め……此処からもう一度依頼して貰うにはどうしたらいいのだろう。
私に気持ちを変えてもらえる様な説得が出来るかしら?
「薫さん…あの……さっきの目撃者が現れたと言うのは本当ですか?」
心が波立った……あれは真っ赤な嘘でそんな人は現れてない……体が熱い…耳たぶを手でいじった。
「薫さん?」
「……」
落ち着かない態度で何も答えない私を、眉をひそめ疑わしそうな目で見つめ、そして嘘なのだと確信すると、早送りで水が凍っていく様な表情の強張りを見せた。
「嘘……なんだ。」
「すみません。」
膝に手を置き深く頭を下げた。
「……東條の入れ知恵ですか?」
「其れは違います!……彼ならもっと別の言い方をします……知恵のない浅はかな私の嘘です。……期待させる様な事言って不愉快な思いさせてしまいました。すみません。」
「……納得していないからそんな嘘に惑わされるんだな……」
「じゃあ、嘘と知った上でもう一度彼に調査させてもらえませんか?」
嘘をついといて虫のいい話だけどお願いするしか術がない。
……しかしそう甘くはないのが世の中というもの…佐々井さんは首を縦には振ってくれなかった。
「……気持ちは変わらない。
ワザワザこんな所まで来て収穫もなく帰ったら貴方が叱られるかも知れないけど、この件はもう終わりにします。」
「でも調査を続けたいと本人が強く願っているんです。……借りを返したいと言うならそっちの方が嬉しいと思います。」
「そうかも知れないけど……あれを見せられたら無理だよ。」
「……あれ?」
佐々井さんは意外そうなにしてからやや渋い表情をした。
「あれって何ですか?」
「薫さんは見てないんだ……」
「何をみたんですか?」
躊躇いながら口を開く佐々井さんは私の全く知らない事を教えてくれた。
其れは事件後の1番ひどい状態の彼の様子を映したもので、どうやら日本にいる父親に報告する為に丸岡さんが映像を撮っていたらしい。……そんな物が存在してたなんて私には教えてくれなかった。
彼の秘密を共有できたと思っていたのに…裏切られた気がしてショックだった。
佐々井さんは〝あんな東條を見せられたら頷くしかなくなる……″と、彼の心の痛みを見せられ沈んだ表情をしていた。
……話しを聞いただけでもぽっかりと抜け落ちた記憶への喪失感や怯え、うなされる日々に苦しんでいる姿を想像して心が痛んだのに、実際の映像を見せられたらその比ではないだろうと思う。
……もしかしたら丸岡さんが私に見せなかったのはショックを与えない為だったのかも知れない。
「俺は…もう一度頼むなんて事出来ない。……忘れるよ。東條にも忘れてくれと伝えて欲しい。」
微動だにしない黒い瞳が真っ直ぐに私を見据え意思の硬さを感じさせた。
……説得は失敗。
役立たずは此処で引き下がるしかないの?
悔しい……言葉が喉の奥に引っ込み萎んで小さな点になっていく。…それはシミとなって心にこびりつく。
唇を噛んで目を伏せる。




