β―20
すっかり陽は落ち、校内は闇に包まれていた。日中はよく晴れ、冬服に衣替えした制服では、にわかに汗ばむほど暖かかったが、闇に包まれえた現在は、師走を目前に迎えた十一月下旬に相応しい冬の気温になっていた。
先ほどまでグラウンドや中庭を暖かく照らしていた校舎の照明も消え、辺りはぽつぽつと心もとない街灯が、いくつか光を漏らしているだけだった。
高校にしてはなかなか広いこの敷地も、今では闇に閉ざされていて、その広さを感じることができない。そしてつい二時間前まで生徒たちの楽しそうな声で騒がしかったこの場所は、今はとても同じものと思えないほどシーンと静まり返っていた。人影もほとんど見当たらない。
そんな暗闇の中、中庭に備え付けてあるベンチに人影が一つ。はっきり言って顔などまるで見えないが、かろうじて制服から女子生徒であることが見受けられる。
その女子生徒は、誰かを待っているように見える。しきりに辺りを見回し、誰もいないことが解ると、校舎についている、大きな時計を見上げて一つ、大きなため息をついた。
そこに近づく人影があった。影は一つ。ブレザー姿で、ベースボールキャップを目深にかぶっているが、おそらくここの高校の生徒だと予想がつく。
ブレザーの男は女子生徒に限界まで近づいて、背後から声をかけた。
「阪中みゆき」
名前を呼ばれた女子生徒は、振り返った。そして、
「なんであんたがここにいる?阪中みゆきはどうした?」
「もう帰られましたよ。三十分前くらいですかね?」
男の、狐に化かされたような声とは裏腹に、女子生徒の声は少し興奮しているように上ずっていた。
「なぜあんたがここにいる?」
「それはですねえ・・・」
「あんたを罠に嵌めるためだ」
女子生徒――岩崎の言葉をさえぎり、俺が正解を教えてやった。
「あんたはすっかり罠に嵌ったんだよ。最初から阪中なんてここにはいない」
口元しか見えないそいつは、苦々しそうに口元を歪めている。が、すぐに、にやっと口角を上げた。
「俺は何もしていないぜ。何だか知らないが、人違いじゃないか?」
「しらばっくれるのはよせ。何の用でこんな時間に、帽子を目深にかぶって、背後から女子生徒に話しかける必要があるんだ?あんたは昼休み、阪中が密告者であることを知り、俺たちがここに阪中を呼び出したのは聞いてここに来たんだろ?」
黙りこんでいるそいつに対して俺は言ってやった。
「あんたが、斉藤・横山を襲い、日向に対していじめを行っている黒幕だ」
「何のことを言っているか、さっぱり解らないな。だが、こんな冤罪で人の名誉に傷をつけていいのか?裁判沙汰になるぜ」
確かに、こいつはまだ何もやっていない。だが、そんなこと言って逃げられると思ったら大間違いだ。
「苦しい演技は止めろ、山内。俺がお前に気付いてないとでも思ったか?」
表情が変わった。と言っても、見えているのは口元だけだが、上がっていた口角が下がり、真一文字になっている。
「あんたには確か、クラスメート全員にいじめについて聞いてないと言ったが、本当は聞いていたんだよ。まあ、どいつもこいつも口ごもって曖昧な返事しか、得られなかったがな。しかしあんたはなんて言った?知らない、と言ったんだ!はっきり、言い切った。他のやつが全員口ごもって曖昧に返事したにもかかわらず、だ」
そいつは無言で返答する。
「他にもまだあるぞ。最初にあんたに相談を持ち寄ってとき、俺たちは、日向がひどい目に合っている、とだけ言ったのに、あんたはいじめだと正確に把握していた。そして決定的だったのは、あんたが俺たちを紹介したときの日向の反応だ。日向は暗くなった放課後の教室に現れたあんたに対して、明らかに警戒し、敵意をむき出しにしていた。まあ、阪中から、日向によく話しかけている人、として紹介されたときから怪しいと思っていたけどな」
日向に近づいたやつがターゲットになっているはずなのに、阪中が『よく日向に話しかける人』として認識していたやつがどうして狙われないんだ。はっきり言って、黒幕としての才能が欠けている。そして岩崎でも思いつくような、簡単な挑発に乗り、黒幕にもかかわらずこんなところにのこのこ出てきてしまったのは致命的である。
「これでもまだ、自分は関係ないと言い張るのか?」
俺はそいつに近づき、ベースボールキャップを吹っ飛ばした。
「本当に関係ないなら、なぜこんな変装じみたマネをして阪中に話しかけた?クラスメートなんだから普通に話しかければいいじゃないか?それと、俺たちに対して、正体を隠し通そうとした理由も一緒に教えてくれ」
ベースボールキャップを取ったそいつは紛れもなく、山内だった。山内はしばらく下を向いたまま、黙り込んでいたが、くっくと小さく声を出していたかと思うと、大声を出して笑い始めた。そして、
「そこまでバレていたとは、正直驚いた。なかなかの観察力だな。阪中を一人にしておびき出そうっている作戦もあんたが考えたのか?完全に騙された!」
ゲシュタルト崩壊が起きたのか、山内は自分の失態を大声で笑っている。俺たちが見たことのない表情で、かつてこんなおかしかったことはない、というほど豪快に笑っていた。そんな山内を見て、岩崎は困惑したような表情を見せたが、気丈に言った。
「自分の負けと犯行を認めるんですね?」
「ああ、認める。全部俺が指示してやったことだ。あんたたちの推測どおり、俺が黒幕だ。俺は今まで気に入らないやつを実力行使で消してきた。クラスの連中は恐怖で押さえつけた。そして仲間は金で買った。そうやって一つの大きな集団を作って日向ゆかりをいじめていた。あいつが俺をバカにしたからな!お前らの予想は大方当たっていたことを認めよう。だが、俺はあんたたちの安い挑発に乗ってここに参上したわけじゃない。あんたたちと阪中は、どうやら結構深くまで知ってしまっているようだから、間違いがあるようじゃ困ると思って、用心のために来ただけだ」
「そうですか。これは安い挑発などして申し訳ありませんでした」
岩崎は、山内の話など、全く信じていない、という感じで返答した。内容も皮肉めいている。
「それと、さらにもう二つ、あんたたちは間違いを犯した」
山内も、岩崎の話など全く聞いていなかったようだ。気を悪くした様子もなく、何やら気になることを言った。
「ほう。それはいったいなんでしょう?教えて下さいませんか?」
「一つは、俺は自分がしたことは認めるが、負けは認めていない。そしてもう一つは、」
そこで一回区切り、いやらしく微笑みながらためを作った。すると微笑む山内の背後から、いったいどこで待機していたのだろうか、うちの制服のものとはおよそ違う、学ランを来た他校の生徒が三人、現れた。そして、
「ターゲットは阪中だけじゃなくあんたたちも、だったってことだ!」
山内は高らかに叫んだ。
山内の背後から、急に登場してきたそいつらは明らかに真面目そうには見えず、学ランを着てはいるが、学校に行っていないだろうという結論は、少し考えただけで簡単に導くことができる。そんな外見をしている。
そしてどうやら加虐趣味を持ち合わせていそうだ。三人が三人とも、実に楽しそうに、俺たちに近づいてくる。
「最初はどっちがいいかな?やはり女はあとに取っておくべきか」
俺にとって、とっても喜ばしくないことを山内が口走った。気のせいか、三人が俺のほうに向かって行進してくる。手足が震えているのが、見ずとも理解できた。これが武者震いってやつか。初体験だ。寒いはずなんだが、首元や背中にはびっしょり汗を掻いている。しかも外気に合わせ、上昇しようとする体温を抑えるために、俺の身体が躍起になって出している汗と違って、粘っこく、はっきり言えば気持ち悪い。
岩崎の、成瀬さん!という声が聞こえた瞬間、三人組の一人が、俺の首元を掴むべく、棍棒じみた右手を伸ばしてくる。だが、その右手は俺に届くことなく、そのまま停止した。こいつはびびっているのか、顔を歪ませている。
「こういう展開を俺が予想できなかったと思うか?」
はっきり言って強がりにしか聞こえないセリフだが、俺の目の前に屈強なる他校の生徒が青ざめて、脂汗を掻いている事実があるせいか、山内は驚きを隠せない様子が、薄暗い闇の向こうから感じることができる。
俺の右手には秘密兵器、リーサルウェポンが握られている。岩崎印のスタンガンである。どこで入手したかは知らないが(聞いたら危険なことになると思うから、これからも聞かないつもりだ)、どうやら命に支障がないくらいに電圧を抑えてあるらしい。
岩崎がほっとしたような表情をしたのを目の端で捉えながら、俺は山内に向き直った。
「三人、あんたを含めれば四人か。問題ないな」
威勢よく言ったつもりだが、声が上ずった気がする。
「降参して下さい。私たちは危害を加えるつもりはありません」
同時に俺の真横で岩崎もスタンガンを自分のかばんから取り出した。
その様子を苦々しい表情で見ていた山内だが、またもや口角を上げ、得意のいやらしい笑顔を作った。楽しそうに笑い、
「あんたたちいいよ。非常に面白い。だが、まだ詰めが甘い」
今度は四方八方から同じ学ランを着た他校の生徒が続々と姿を現した。その数は軽く十人を超えている。
「俺がこういう展開を予想できなかったと思うか?」
山内は、俺が先ほど言ったセリフをそっくりそのまま引用した。俺にこう言われたのがよほど頭に来たのか、もしくは今の状況を皮肉った嫌味だろう。
「さっきも言ったが、あんたたちはいろいろ知りすぎている。最低でも斉藤君くらいは弱ってもらわないと困るな。勢いあまって殺してしまったら、そうだなぁ、少々厄介だが、お父様に頼んで何とかしてもらおう」
簡単に囲まれてしまった俺たちはその場に立ち尽くしていた。岩崎の顔には、少なからず恐怖の色が浮かんでいる。
周りにいる他校生アーミーを制し、山内がゆっくり近づいてくる。そして俺に顔を寄せて、
「どうだ?この状況も予想できてたか?」
すっかり勝ち誇った顔だ。俺は言ってやる。
「ああ。この状況も予想済みだ」
言い終わったか否か、山内は俺の顔に思いっきり右フックをかまし、俺をぶっ飛ばした。これも初体験だ。今日は初体験づくしだ。全く嬉しくない。感想は痛い!の一言だ。
「強がりはたくさんだ!普通の凡人の癖に、この俺を見下すな!俺をバカにするな!俺は山内コンツェルンの一人息子だぞ!内務相の甥だぞ!」
頭がいかれたのか、妙なことを言い出した。
「家族の自慢なんてどうでもいいんだよ。お前自身は何者なんだよ。お前個人はいったい何ができるんだよ」
いかれた御曹司殿はもう一度、俺を殴った。感想は相変わらず、痛い!しか出てこない。
「あんたは自分の立場を理解していないようだな。だが、俺も鬼じゃない。状況を理解できていないようなやつをいきなり殺すなんてことはしない。助かる道を示してやろう」
そう言ってお優しい御曹司殿は、俺に向かって右足を差し出した。
「まず誠意をこめて謝りな!額を地面につけて精一杯謝りな。そして俺の靴を舐めて、俺に忠誠を誓いな!」
何か勘違いしているな、こいつは。今は江戸時代じゃないんだぜ。こいつをこんな風に育てたお偉い山内コンツェルンの代表取締役の顔が見てみたい。
「そっちの出方によっちゃ、許してやらないこともなかったが、もう許さん。徹底的にいじめてやるよ」
「何言っている?聞こえなかったのか?日本語が解らないのか?あ・や・ま・れ!」
山内の言っていることを無視して、俺は質問で返す。
「あんた、神を信じるか?」
「はぁ?」
あからさまに変な顔をした山内。
「そんなもん信じるわけないだろ?」
「じゃあ、奇跡を信じるか?」
「いい加減にしろよ。まさか、神様が奇跡を起こしてくれてこの状況を打破してくれる、なんて考えてるんじゃないだろうな」
「それこそまさか、だ。俺も神なんて信じない。奇跡なんて単なる偶然だ」
「さっきから何言ってるんだ?結局この状況が解ってなかったみたいだな。もういいよ。こいつを殺せ!」
などと強気なセリフを吐いていた。だが、御曹司殿の自慢のアーミーどもは動く気配がない。
「そのセリフ、そっくりあんたに返すよ。周りを見てみな」
俺の言葉に、いぶかしみながらも、山内は周りを見渡した。
そこには山内の他校生アーミーをはるかに凌ぐ、屈強な戦士たちがいた。空手部、柔道部、合気道部、ボクシング部、その他いくつもの格闘系クラブに所属している生徒が、俺たちを囲んでいる他校生アーミーの周りを、さらにぐるりと囲んでいた。その数、およそ四十人。
「俺は信じちゃいないが、斉藤はキリスト教徒。本気で神や奇跡を信じていたようだ。そういう敬虔なクリスチャンには、どうやら奇跡は起こるみたいだぜ」
これは予想外だったようで、山内はかなりたじろいでいる。彼自慢の他校生アーミーもびびりまくって今にも逃げ出しそうである。そんな迷える子羊たちに俺は救いの手を差し伸べてやることにする。
「これまたさっきも言ったが、俺たちは危害を加えるのが目的じゃない。それに目的は山内一人だ。他の連中は逃げたきゃ逃げていいぜ」
言い終わるか否か、俺と岩崎の周りにいた他校生アーミーは、蜘蛛の子のように、散り散りになって闇の中に消えていった。
一人になってしまっては、もはや何もできない坊ちゃんには、選択肢は一つしか残されていなかった。
「悪かった!俺がしたことは全面的に謝る!だから、だからどうか・・・」
「まあまあ。少し落ち着いて下さい。私たちはあなたと話し合いがしたかったんですよ。だからこんな暗がりではなく、明るいところで落ち着いて話そうじゃありませんか」
そう言って、岩崎は地面に転がったままの山内の首根っこを掴むと、まだ煌々と電灯が点いている昇降口へ引っ張っていった。
「さて、山内さん。我々があなたに望むものはたった一つです。クラスメート・横山さん・斉藤さん・阪中さん、そして日向さんに。誠意と反省をこめて謝罪して下さい。本当なら直接言っていただくのが筋だと思うのですが、その辺は妥協しましょう」
左手に持っていた自分のかばんを置き、何やらごそごそしたあと、憤然と胸の前で腕を組んだ。どうやら準備万端のようだ。
こう言ったが、対する山内のほうに反応がない。この期に及んでまだ駄々をこねているのか、この坊ちゃんは。呆れるね。それにとても面倒だ。
岩崎も俺と同じような気持ちになったのか、
「私は力ずくとかあまり好きではないのですが、これ以上抵抗するなら手段を選んでいられません。私は、良き友人たちのために心を鬼にしましょう」
後ろに従えていた屈強な戦士の一人に合図を送った。その熊みたいなやつは、のっしのっしと、下を向き立ち尽くしている山内の前に躍り出た。
それを見て、慌てたのか、
「ま、待ってくれ。謝る。今すぐ謝る。すまなかった。俺は少しやりすぎたようだ。反省している。これからはこんなバカげたこと絶対にやらないと誓う!だ、だから許してくれ!」
実力行使に簡単に屈した山内は、手のひらを返したようにあっさりと頭を下げた。
しかし、心を鬼にした岩崎にその誠意は全く届かなかったようで、山内の坊ちゃんの要求は却下され、
「頭が高いですよ?誠意を見せたいなら、それなりの態度っていうものがあると思いませんか?」
早い話が、岩崎は土下座を要求した。まさに鬼。一つ突っ込んでおくなら、こいつは被害者ではない。
そんな岩崎の態度に自尊心を傷つけられたようで、山内はしばらくうらめしそうににらめつけていたが、屈強な戦士を前に相変わらず選択肢は一つしかない。
「早くして下さい。それとも彼に手伝ってもらいたいのですか?」
岩崎に弱点を的確に見抜かれている。先ほど以上に機敏な動きを見せ、山内はとうとう土下座を決行した。
「申し訳ありませんでした!もう二度とこんなことはいたしません。どうか私にご慈悲を!」
「解りました。ここまでして下さったら、きっと皆さんも許して下さるでしょう」
あっさりした山内の態度に、加虐趣味に目覚めてしまった岩崎は物足りない様子だったが、不承不承うなずいた。
「成瀬さんは何か?」
突然俺に振られた。俺は別段力を注いでいたわけじゃないし、こいつに個人的な恨みはないから特に言うことはない。が、唐突に個人的な恨みを思い出した。
俺は正座している状態の山内のネクタイを掴んで、強引に立たせたあと、豪快に右のこぶしを顔面に炸裂させた。
「これでおあいこだ」
二発ぶん殴られたことを思い出したのだ。
「あんたのやったことは、紛れもなく犯罪だ。それ相応の償いといけないわけだが、それは明日解る。せいぜい神に祈るんだな。もしかしたら、奇跡起きるかもしれないぜ」
俺が言い終えると、山内はさっさとこの場から逃げ出していった。
一応これで事件のほうは終焉を迎えた。
岩崎は、自慢の格闘系クラブアーミーを解散させると、俺たちもやっと帰路につくことができた。
「これで本当に終わりますかね?」
「大丈夫だろ」
「山内さんはちゃんと反省してますかね?」
「そりゃ無理だろ。だからこうしてちゃんと最後の一手を考えてあるんだろ」
岩崎は、そうですね、と言ってしばらく黙っていた。
駅までの道のりは、なんだかいつもと違う景色に見えて、ちょいと早めのクリスマスイルミネーションをつけているイベント好きの家も、いつもと違って何だか穏やかな気分にさせてくれた。
駅に着き、電車に乗ったとき、ふと思った。何でこいつはこんなにしんみりしているんだ?
「おい」
「え?何ですか、成瀬さん」
「どうした?何しんみりしてるんだ?」
一応とはいえ、生徒会長からの依頼も、日向の問題もいい形で終わらすことができたのだ。いや、まだこれからやることが残っているのだが、とはいえひとまず、ここは喜ぶところであり、少なくともしんみりするようなところではない。こいつのことだ、いつも以上にハイテンションになることは火を見るより明らかだと思ったんだが。
「相談第一号を首尾よく解決したんだ。これからは相談も増えるかもしれないぞ。嬉しくないのか?」
「いえ、嬉しいです。全部ひっくるめてこんなにうまくいくとは思わなかったので、何だが不思議な気がして」
よく言う。いつも簡単そうに解釈して、解決を誰よりも信じていたのはあんたじゃないか。『こんなにうまくいくとは思わなかった』なんてセリフ、どの口で言いやがるんだ。
要は、こいつも心のどこかで不安だったのだろう。勢いだけで設立してしまったわけだし、依頼が来なかったときはかなり不安だったはずだ。来たら来たで、一発目にしてはやけに難題、それに付随して自体はどんどん大きくなるばかり。不安で押しつぶれそうだったに違いない。口先だけでも大きく出て、成功を信じなければやっていけなかったのだろう。
「たぶんイベントのあとの喪失感みたいなものだと思います。実感できないんですよね、首尾よくうまくいったということが。明日には元の私に戻っていると思います。明日になれば実感できると思います。だからあまり心配なさらないで下さい!」
「もともとあんたのことは心配してないよ」
「そ、それはどういう意味ですか!」
「あんたが強い人間だって知っているからな」
「・・・それはどういう意味ですか?」
全く違うトーンで同じセリフを言った。
「今日は世話になったな。格闘アーミーやスタンガンも。助かったよ」
「いえ、そんな!当たり前のことをしたまでです!」
「そうか」
俺はそこで話を切った。もう今日は疲れた。二発も殴られたし、妙な汗も掻いたし。心も身体もボロボロだ。玄関開けたら二秒で寝ることができる自信がある。こういう日は電車がのろく感じてしょうがない。いつもは見落としがちな、ありきたりな風景にも目がいってしまう。
「あの・・・、成瀬さん?」
「何だ?」
「えっと、どうしたんですか?何だが、今日は、お優しいですね・・・」
「そうか?」
「そ、そうですよ!いいいいつもはそんなこと言って下さらないじゃないですか!」
ただ単純にあんたがお礼を言われるようなことをしていないだけじゃないか?とはさすがに言わなかったが、そう思ってしまうほど俺は意識していない。
「俺もなんかおかしいのかもな。あんたと同じで、きっと明日には元に戻るだろうよ。今日はいろいろありすぎた」
岩崎は納得いかないようで、まだ何か言いたそうだったが、口を開いては躊躇って、意を決したように顔を上げたはまたうつむき、を繰り返していた。結局何も言わず仕舞いだったが、意外なことに、岩崎は上機嫌で窓の外を見ながら、時々思い出したように穏やかに、楽しそうに微笑んでいた。
今日はやはり何か変な日であるようだ。岩崎はいつも以上に情緒不安定になっているようだ。
「さっきから何ニヤニヤしてんだよ。あんた、今度は気を抜きすぎじゃないか?」
「そっ!そんなことありませんよ!ていうか、ずっと見てたんですか?」
俺がずっと観察していたことに気付いた岩崎は、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながら怒るという高等技術を見せた。
「俺もどこかおかしいようだから、今日はいいが、まだ全て終わったわけじゃないんだぞ。明日は最後の詰めをするんだからな」
「解ってますよ!任せて下さい。完璧にやり遂げてみせましょう!」
「頼むぞ。こう見えて、俺はあんたを結構頼りにしてるんだからな」
俺がこう言った直後、俺が降りる駅に到着し、ドアが開いた。
「なっ!や、やっぱり成瀬さん変です!絶対変です!」
そのあとも顔をさらに真っ赤にしながら何やらわめいていたが、発車を告げるベルの音に阻まれて、何を言っているか、俺にはさっぱり解らなかった。
そんな感じで、人生で一番疲れた今日は終幕を迎えた。はあ・・・。