優しい夜の光と日々のこと
「こうしてお姉ちゃんとふたりきりでドライブに行くなんて久しぶりだよね」
妹はわたしが運転している車の助手席で楽しそうに言った。
「それもそうだね」
わたしは微笑して相槌を打った。
ドライブに行こうよと言い出したのは妹で、わたしも暇だったので簡単にオッケーした。わたしは今日の昼間、神奈川の実家に帰ってきた。帰ってきたというのは、一時的に帰省したとかではなく、文字通り実家に帰ってきたのだ。
わたしは今日の昼間まで、東京の下北沢というところで一人暮らしをしていた。どうして一人暮らしをやめて実家に帰ることにしたのかというと、それは単純に経済的な問題からだ。
わたしは今月のはじめに勤めていた会社を辞めた。会社を辞めたのは、べつに会社が倒産したとか、首になったとかそういうことではなくて、完全に自己都合だ。なんだか疲れてしまったのだ。働くのが嫌になってしまった。それで逃げ出してきたというわけだ。情けないなとは自分でも思うけれど。
でも、ちょっとは言い分もある。だって、わたしは以前勤めていた会社に採用されたとき、事務要員として採用されたはずなのだ。それなのに勤めて一年程も経つと、ひとがいないからという理由で、営業の仕事をやらされるようになった。しかも、ろくすっぽ仕事を教えてもらっていない状態で。そんな状態で現場に行ってもわからないことばかりだし、わからないことがあっても上司はちゃんと仕事を教えてくれないしで、かなりストレスが溜まった。
おまけにノルマみたいなものまであって、すっかりわたしは働くのが嫌になってしまった。こんなことがこれからもずっと続くのかと思うと、耐えられそうになかった。
だけど、わたしもちょっと忍耐力が足りないのかなぁと自信がなくなったりもする。わたしは最近辞めた会社で働く前までチェーン展開しているカフェで働いていたのだけれど、やはりそこも三年経つか経たないかで辞めてしまった。そのときは拘束時間が異様に長くて、それが嫌で辞めてしまったのだけれど、でも、回りのみんなはちゃんと仕事を続けているし、こんなにしょっちゅう会社を辞めているわたしは人間として駄目なのかなぁと気持ちが沈む。
「お姉ちゃん、さっきから何で黙ってるの?」
ふいに横で声が聞こえた。わたしは完全に自分の思考のなかに沈んでいたので、
「ちょっと色々と考えことがあってさ」
と、軽く笑って誤魔化した。
「何考えてたの?」
「うん、まあ色々だよ」
今自分が考えていることを正直に話すのがなんだか格好悪い気がしたので、わたしは返事を濁した。
「色々って?」
と、妹は追及してきた。わたしは軽く躊躇ってから、さっきまで自分が考えていたことを話して聞かせた。最近自分が仕事を辞めたことに対して今自分が感じていること。
「でも、無理して働く必要もないんじゃない?」
と、妹は言った。
「仕事はべつにそこしかないわけじゃないんだし、ゆっくり探してもいいと思うけど」
「でも、こんなことがこれからも続いたらどうしようって思っちゃうのよねぇ」
と、わたしはため息混じりに言った。
「わたしももう二十八だし、三十歳になっちゃえばそんなに雇ってくれるところもなくなってくるだろうし、今みたいこと繰り返してたら大変だなって思ってさ」
「・・・まあ、そうだね」
少しの沈黙があって、その沈黙のなかに、道路を走る車のタイヤの音が静けさを強調するように聞こえた。
「最近、バイトはどう?」
と、わたしは尋ねてみた。
妹はわたしの問に、浮かない表情で短く首を振った。
妹は大学を卒業したあと、就職せずに、軽いひきこもりのような状態でいた。でも、最近になってやっとどうにかひきこもりの状態から抜け出し、友達の紹介で入った出版社でアルバイトをはじめていた。
妹は昔から何事に対しても慎重すぎるというか、臆病なところがあった。とにかく、すごく怖がりなのだ。自分のことを必要以上に低く評価してしまって、行動を起すことがなかなかできない。あんなことは自分にはとてもできないだろう、と、やりたいことがあってもすぐに悲観的に捕らえてしまう。妹は大学を卒業するまでアルバイトをしたことがなかったほどだ。
そんな性格が災いして、色々足踏みをしているうちに妹は就職する機会を逃してしまった。恐らく、彼女は怖かったのだと思う。自分がちゃんと社会人としてやっていけるのか。とんでもないミスをしてしまうんじゃないか、と。自分に自信が持てなかったのだと思う。色んなことを心配するあまり彼女は人生の新しい一歩を踏み出すことができなかった。
そんななか周囲の友達は社会人としてどんどん成長していく。新しい居場所を見出していく。でも、自分はどうすることもできない。気持ちは焦るけれど、自分の内面的な部分を変えることが、どうしてもできない。ただ自己否定の気持ちだけが強まっていく。自分はだめなんだという思いが。そんな状態が、彼女を軽いひきこもりにさせた。
彼女は大学を卒業してからの一年半あまりの歳月を淡い闇のなかで過ごすことになった。そしていま、やっとどうにかアルバイトをはじめることができるまでに回復したとはいっても、まだまだどうしようもなく、彼女の心のなかには淡い闇が広がっているのだろう。
「なんだか生きるのって大変だよね」
妹は呟くように言った。
信号が赤になったので、わたしは車を停車させた。日が暮れて真っ暗になった世界に信号の赤いランプが鮮やかに灯っている。周囲に明るいものが何もないせいか、目の前に灯る信号の光は、妙にもの寂しげに見えた。何かの行き止まりを告げるサインみたい。
わたしは妹の方に視線を向けてみた。妹は車の窓に頭をもたせかけるようにして、窓の外に見える景色を見つめていた。
「だって、生きるっていうことは、つまりは働くっていうことでしょ?お金を稼ぐこと。でも、それがわたしは上手くできないの。働くことができないってわけじゃないけど、でも、ものすごくプレッシャーを感じるの」
妹は説明するように続けて言った。
「働いてるとね、働いてるっていっても、わたしはただのアルバイトだけど、ものすごく疲れるの。もう嫌だなぁって思っちゃうの。・・・こんなの、ただの甘えだと思うけど、でも、そういう感情はどうしようもないの」
信号が青に変わったので、わたしは妹に横顔に向けていた視線を前に戻すと、アクセルを踏んだ。
「アルバイト先で何かあったの?」
わたしは尋ねてみた。すると、返事はなかったけれど、となりで妹が首を振った気配が伝わってきた。
「でもさ、世の中、働くのが楽しくて楽しくてたまらないと思って働いてるひとなんてそんなにいないと思うよ。わたしだって働くのがすごく好きかって聞かれたらそうじゃないし、現に辞めてこうして実家に帰ってきてるくらいだしね。みんな同じだよ。みんな生活のために頑張ってるんだよ」
わたしは妹を説得するように言った。けれど、妹からの返事はなかった。きっと妹が求めていた答えは、わたしがさっき口にしたような一般論では片付けられないことなのだろう。ちらりと妹の方に視線を向けると、妹はさっきと同じように車の窓ガラスに頭をもたせかけるようにして、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
妹程ではないけれど、わたしも大学を卒業して就職する前に、働くということに対して悩んだ時期がある。今から考えればすごく青臭い考えだなと思わないでもないけれど、でも、当時は真剣だった。どうして働きたいわけでもないのに働かなければならないのだろう、と。ほんとうはどうしても働きたいと思っているわけでもない会社に対して、あたかもその会社で働きたいと思っているような顔をして就職活動するのが苦痛だった。嘘を並べたり、へつらったりすることに、どうしても抵抗を感じた。
その当時、というか、今もだけれど、わたしには特にやりたいことというのが何もなくて、就職先を見つけるのも、消去法で選んでいく感じだった。こういうことはやりたくないから、こっちかなという感じ。それでなんとなくチェーン展開しているカフェに就職した。
カフェに就職することにしたのは、大学のときにカフェでアルバイトをしていて、その経験が生かせるかな、と、思ったからだ。でも、就職して思ったのは、社会人って大変だなぁということだった。義務と目標と終わりのないサービス残業。売り上げが伸びないと、上司から色々と文句を言われるし、常にピリピリしていないといけない。精神的に疲れる。拘束時間も異様に長いので体力的にもキツかった。なんだか生きるために働いているというよりは、働くために生きているような毎日だったような気がする。それは少しは楽しいことも、学ぶこともあったけれど。
だけど、総体としての感想は、働くということは大変だなぁという感想につきた。お金をもらうのだから、それは仕方のないことなのかもしれないけれど、でも、もう少し余裕が欲しいと思った。決して働きたくないというのではない。怠けたいというわけじゃない。ただ、もうちょっと自分のペースでゆっくり働きたいと思うのだ。仕事に追われる毎日じゃなくて。だけど、こういうことを思うのは甘えだろうか。
そういえば、安藤くんは今頃どうしているだろうか、と、ふと思った。安藤くんというのは、わたしが大学のときに好きだったひとだ。同い年で、学部も同じだった。ほっそとりした、比較的に綺麗な顔立ちをした男の子だった。いつかの大学の昼休み、大学の学食でわたしはその安藤くんと就職のことについて議論したことがある。
安藤くんの将来の夢は小説家になることだった。小説を書く時間がたくさん欲しいから就職はしないつもりだ、と、彼はわたしに語った。それでわたしがでも将来のことが心配じゃないのかと尋ねると、彼は困ったように軽く笑って、それはもちろん不安じゃないといえば嘘になるかなと答えた。
「まだ若いうちはいいだろうけど、歳を取ってくると、なかなかアルバイト先も見つからなくなるだろうし、いざ就職しようと思っても、フリーターだと、雇ってくれるところもそうそうは見つからないだろうしね、実を言うとすごく不安なんだよ」
彼はそう言ってから、わたしの顔を見つめると、どんな表情を浮かべたいいのかわからないというふうに、ぎこちなく口元を笑みの形に変えた。
「じゃあ、やっぱり、就職すれば?」
と、わたしは言った。
「就職して働きながらでも書くことはできるんじゃない?」
わたしの問に、安藤くんは軽く眼差しを伏せた。そして何かを考えるように数秒間黙っていてから、伏せていた目をあげると、
「いや、正直に言うとさ、怖いんだよ」
と、安藤くんは言った。
「就職することが」
わたしは安藤くんの顔を見つめた。季節は夏のはじめで、わたしたちの話している学食の外で、蝉がうるさいくらいわめきちらしていた。
「俺って、そんなに器用な人間じゃないし、要領も悪いし、だから、社会という厳しい環境のなかで自分がちゃんとやっていけるのかって考えると、自信がないんだよ。だから、就職する気になれないのかもしれない。もちろん、小説を書く時間がたくさん欲しいからっていうのもあるんだけど」
安藤くんはそう言ってから困ったように曖昧に微笑した。
考えてみると、あのとき安藤くんとそんな会話をしてから、もう六年近い歳月が経つんだな、と、わたしは思った。知らないうちにたくさんの時間が流れすぎてしまった。あの頃いた場所からわたしはもう随分遠いところまで来てしまった気がする。
大学を卒業するまでのあいだわたしは安藤くんのことがずっと好きだった。とても。でも、わたしは自分の気持ちを彼に伝えることができなかった。
安藤くんは今頃どうしているのだろう。
安藤くんが小説家としてデビューとしたという話は、まだ、聞かない。
妹とわたしはそれからしばらく車を走らせたあと、目についたファミリーレストランに入った。わたしたちは窓際の席に案内されて、向かい合わせに腰かけた。夕食はさっき家で済ませてきたので、わたしも妹もケーキセットを注文した。
注文したコーヒーとケーキはすぐに運ばれてきて、わたしたちはどちらかというと口数少なくケーキを食べ、コーヒーを飲んだ。
「お姉ちゃんはこれからどうするつもり?」
わたしが残り僅かになったコーヒーを啜っていると、妹がふと思いついたように尋ね来た。わたしは妹の顔に視線を向けた。
「どうするって?」
と、わたしは妹に質問の趣旨を確認してみた。すると、
「だから、これからだよ。仕事を辞めてからどうか決めてるの?」
と、妹はなんとなく責めるような口調で言った。
「うーん。どうしようかな」
わたしはそう答えてから、軽く首を傾げた。我ながら無計画だなぁと呆れてしまうけれど、仕事を辞めてこれからどうするのかはまだ何も決めていなかった。
「でも、ちょっと疲れたからゆっくりしようかなとは思ってる」
と、わたしは答えた。
「何か資格とかの勉強でもしながら」
「ふうん」
と、頷いた妹はけれどわたしの意見にはあまり感心していない様子だった。それから、妹は頬杖をついて、わたしの方にぼんやりと視線を彷徨わせていたけれど、
「ねえ、お姉ちゃんは不安にならない?」
と、心持ち小さな声で言った。
「将来のこと。これからのこと。もし新しい仕事が見つからなかったらどうしようとか。今、世の中って不景気でしょ。わたしたちってもう新卒じゃないし、大したことができるわけじゃないし、だから、このあとどうなるんだろうって、わたしときどきすごく心細くなるの」
「そりゃあ、まあね。不安がないといったら嘘になるけど」
わたしは微苦笑して認めた。
「だけど、お姉ちゃんは案外なんとかなるんじゃないかなぁってわりと気楽に考えてるけどね。もし仮に仕事が見つからなかったとしても、実家があるから、住むところはあるわけだし。なんとかなるかなって」
わたしはそう言ってから、自分自身を元気つけるように空笑いした。
妹はわたしの発言に笑わなかった。どことなく思いつめたような表情を浮かべて黙っていた。わたしはコーヒーカップを口に運んだ。でも、それはいつの間にか空になっていた。わたしはコーヒーカップの中身が空になっていることを目視してから、それをテーブルのうえに戻した。
「・・・わたしの大学の友達にね、会社を首になっちゃった娘がいるの。その娘はほんとに会社のために朝も夜もなく頑張ってたの。だけど、景気が悪くなったからって、簡単に捨てられちゃったの。それってひどくない?」
妹は納得できないというように言った。
わたしはどう言ったらいいのかわからなかったので黙っていた。
「・・・そういう話を聞いていると、わたし、何を信じたらいいのかわからなくなっちゃうの」
妹は頬杖をつくのをやめると、眼差しを伏せて、弱い声で言った。
「せっかく、正社員で頑張っても、そんなふうになっちゃうんだったら、なんのために頑張ってるんだろうって思ちゃって。フリーターのひともお金が少なくて大変だけど、正社員のひとは正社員のひとで、義務とか目標とかにがんじがらめになってて、どこにも行き場がないような気がしちゃうの。・・・わたしたちって何のために生きてるんだろうね」
わたしは妹の発言に対してすぐには答えを見つけることができなかったけれど、
「でも、それは物事の暗い面を見すぎだよ。働くってそんなあんたが考えてるほど大変なことばかりじゃないし。もっと気楽に考えようよ」
わたしはそう言って妹に微笑みかけて言った。けれど、妹はやはり深刻な表情を浮かべたままで何も答えなかった。
ふととなりの窓ガラスに視線を向けると、そこに見える暗闇が妙に黒々としているように感じられた。
ファミリーレストランを出ると、わたしたちはまた車に乗ってあてもなくドライブを続けた。わたしはそろそろ帰ろうかと妹に提案したのだけれど、妹がもうちょっとドライブを続けたいと言ったのだ。
妹は車のなかで黙りがちだった。わたしが何か話しかけても短い返事が返ってくるだけで会話はあまり弾まなかった。妹は窓の外に流れて行く景色に視線を彷徨わせながら、何かについて思いを巡らせているようだった。
夜の十時を過ぎて寝静まった静かな町並みの光が時折思い出したように妹の横顔を淡いオレンジ色の色彩に染めて、そんな淡い光に照らし出された彼女の横顔は何だか哀しそうに映った。
沈黙が気になって、わたしは車のラジオのスイッチを入れた。すると、車のカーステレオから流れ始めたのは、最近有名なりはじめたばかりのロックバンドの歌だった。そのバンドは女性がボーカルのスリーピースのバンドで、わたしは彼女のその透明感のある、まるで青色の色素を帯びたような歌声が好きだったので、耳を澄ませた。
最初から無駄だってわかってた、と、彼女は歌っていた。わかってたけど、どこかで信じていたの。もしかしたら大丈夫かもしれないって。望はまだあるかもしれないって。だけど、やっぱり駄目だった。全ては失われてしまった。信じていても、信じていなくても、やっぱり結果は同じなのね。悪い結果しか訪れないの。落ち込むと、わたしは思い出す。いつかあなたが聞かせてくれた歌を。太陽の黄金色の光みたいな優しい歌を。そしてあなたの暖かい眼差しを。
すごく抽象的な詩だな、と、思った。彼女が伝えたいことはぼんやりとしか伝わってこない。でも、そんなぼんやりとした感情の塊こそが、もしかしたら彼女の伝えたいことなのかもしれない。
聞いていて、わたしがまず感じたのは喪失感だった。そして、諦念。信じていても、信じていなくても、結果は同じ、という言葉。でも、確かにそういうことってあるなぁと思う。何かを期待していて、でも、裏切れたくないから、傷つきたくないから、どうせ駄目だろうと思っていて、でも、ほんとうは心のどこかで期待していて、そんな気持ちを見透かされたように、やっぱり裏切られる。がっかりする結果が訪れる。
でも、この歌がただ単に暗いだけじゃなくて、少し優しく感じられるのは、いつかのやわらかな記憶のくだりがあるからだろう。傷ついた心をほんの少し照らしてくれる、暖かな温もりを持った記憶。
それから、わたしは唐突にみっちゃんのことを思い出した。
みっちゃんというのは、わたしの高校のときの友達だ。高校のとき、わたしとみっちゃんと他の友達数人で、バンドのマネごとのようなことをしていた時期がある。流行りの曲をやったりするコピーバンドだ。文化祭や小さなライブハウスでヘタクソな演奏を披露したりした。
自分たちのオリジナルの曲をやることはなかったけれど、でも、一曲だけ、最後に記念みたいな形でオリジナル曲をやったことがある。
そのとき一緒にバンドをやっていた娘のなで、唯一みっちゃんだけが本格的にギターをやっていて、それでみっちゃんが作詞も作曲も全部やったのだけれど、その曲を卒業記念みたいな形でライブハウスでやったのだ。そのときやった曲の雰囲気と、今さっき聞いた曲の雰囲気が少し似ているな、と、思った。哀しみと優しさが混ざり合ったような曲。
みっちゃんが亡くなったのは、わたしが大学四年のときだった。
「・・・最近、わたしって駄目だなぁってつくづく思うの」
わたしが考え事をしている側で、妹がほとんど呟くような小さな声でポツリと言った。
わたしはハンドルを握りながら、ちらりと妹の顔に視線を走らせた。そしてまたすぐ前に視線を戻した。
「今のバイトさきにね、めちゃくちゃ仕事ができるひとがいるの。そのひと、四十歳くらいのひとで、でも、全然おばさんっていう感じゃなくて、キャリアウーマンみたいな感じ。すごくカッコイイの。常に前々へと進んでいってる感じ。
そういうひとを見てるとね、わたし、息苦しくなっちゃうの。自分ってこのひとに比べたら全然だなぁって。このひとみたいに意志も強くないし、努力もしてないし、なんで自分はこんなんなんだろうって惨めな気持ちになる。
じゃあ、自分もそうなれるように頑張ればいいんだろうけど、でも、駄目なの。わたしにはとても無理だなぁって思っちゃって、そこで止まってしまう自分がいるの。そしてそんなことを思っている自分がまた嫌になる」
妹はわたしが黙っていると、話続けた。そして話終わると、また黙った。沈黙のなかに、ディスクジョッキーの妙に軽快な話し声が響いた。
「だけど、思うんだけど」
と、わたしは少しの沈黙のあとで言った。
「あんたのいけないところはそうやってなんでかんでも思いつめちゃうところなんじゃない?」
と、わたしは言った。
「お姉ちゃんはもうちょっと気楽に考えていいと思うけどなぁ。そんなに完璧にできなくたって。ちゃんと自分なりに真面目に頑張ってれば。世の中みんながみんな完璧にできるわけじゃないし、極端なことを言えば、あんたなんかよりも全然適当に働いてて、それでもなんとかやってるひとだってたくさんいるんだから。深刻に考え過ぎだって」
そう言ったわたしの発言に、妹はあまり納得しなかったようだった。なんたが怒ったよう表情を浮かべて黙っていた。
でも、妹の言っていることも少しはわかるような気もした。世の中には自分なんかよりも何十倍も優秀なひとたちがいて、そのひとたちはわたしを置いてどんどん前々へと進んでいってしまう。そのひとたちの生き方はとても前向きで、先々のことを見据えていて、考え方もすごくまともだ。自分もそうなるべきだと思って、でも、そうできなくて、息が苦しくなる。
たとえていうと、マラソンを走っているような感じに近いかもしれない。自分の前を走っているひとに必死に追いつこうとするのだけれど、苦しくてこれ以上早く走れそうにない。そのあいだに前のひとの背中はどんどん遠く小さくなっていってしまう。
「・・・わたしがわたしじゃなかったら良かったんだけどなぁ」
わたしの思考のあとを追いかけるように、妹がため息をつくように呟く声が聞こえた。
喉が渇いたと妹が言い出したので、飲み物を購入することにした。といって、わたしたちが今走っているのは海岸線の道沿いでコンビニがありそうな雰囲気ではなかったので、目についた自動販売機で間に合わせることにした。
海岸線の道に車を止めると、わたしも妹も車を降りた。車を降りると、海からの弱い風が肌を打った。冷たくて心地よい風だ。そしてほんの微かに夏の匂いがする。そういえば今日は六月の終わりで、もう少しで夏がはじまるんだな、と、意味もなくわたしは自分の気持ちが弾むのを感じた。
自動販売機でわたしは缶コーヒーを買い、妹はミルクティーを買った。
「お姉ちゃん、ねえ、見て」
と、妹がわたしのとなりで急にはしゃいだ声を出した。どうしたのだろうと視線を向けてみると、妹は海の方を見ていた。
「月がすごくきれい」
妹はにっこりと口元を笑みの形に広げて言った。
わたしは妹の顔に向けていた視線を正面に向けた。ちょうど空の高い場所に上った月が夜空を淡い銀色の光に染めている。月の光は海面にも静かに広がり、見ていると、その月の光を辿っていけば、月へと歩いて渡ることができそうにも思えた。
わたしはそんな幻のように静かで美しい光を見つめながら、ゆっくりとさっき買ったばかりの缶コーヒーを飲んだ。砂糖がたくさん入ったやたらと甘いコーヒーだ。でも、たまに無償にこんなひたすら甘いコーヒーが飲みたくなることがある。これはコーヒーというよりはまたべつの種類の飲み物だなぁと感心するように思った。
「ずっと昔にさ」
と、妹がわたしのとなりで口を開いて言った。
「こんなふうにお姉ちゃんとふたりで海を見ながら缶ジュース飲んだことあるよね」
わたしはとなりでさっき買ったばかりのミルクティーを飲んでいる妹の横顔に視線を向けた。
「確か、お姉ちゃんが車の免許取ったばかりの頃」
そう言われて思い出した。あれは確かにわたしが大学二年生の頃だ。夏休みを利用して車の免許を取ったわたしは、免許を取ったその日の夜に妹をドライブに誘った。夜の海にドライブに出かけた。そしてそのときもこうやって道端に車を止めて、ふたりで缶ジュースを買って海を見ながら飲んだ。あの頃はそんななんでもないことがいちいち新鮮で楽しかったことをよく覚えていた。
「あれからもうずいぶん時間が流れちゃったんだね」
と、妹は少ししんみりとした口調で言った。
「かれこれ八年なるのかな」
と、わたしは言った。そして言ってから驚いた。あれからもう八年もの歳月が流れてしまったなんて上手く信じられなかった。
「今年で二十四歳かー」
妹が嘆くように言った。
「すごく歳とったなって思う」
「二十四歳なんてまだまだ若いじゃん」
と、わたしは妹の方を振り向くと笑って言った。
「お姉ちゃんなんて二十八歳だよ。二十四歳で歳ならお姉ちゃんなんてどうなっちゃうわけ?」
わたしは笑っておどけて言った。すると、妹もつられるようにして少し口元を綻ばせた。でも、それからすぐに妹は真顔に戻ると、
「でも、二十四歳ってもっと大人だと思ってたなぁ」
と、少し小さな声で言った。
「高校生の頃とかって二十四歳のひとってすごく大人のひとっていうイメージがあったけど。でも、全然違うんだね。内面的には高校を卒業したくらいの頃とあんまり変わってない気がする」
そう続けて言った妹の声は少し寂しそうにも聞こえた。
「確かにね。お姉ちゃんも二十八歳だけど、内面的ものってあんまり変わってないし、自分が大人になったっていう実感はあんまりないかも」
わたしは妹に共感して言った。ひょっとすると、もっと歳をとって、たとえば五十歳とか六十歳になっても、内面的なものは変わらないのかもしれないと思う。
妹はわたしの発言に頷くと、思い出したようにミルクティーを一口啜った。そしてやや間をおいてから妹は静かな声で話し出した。
「高校の頃ってさ、特に根拠もなく自信があったんだよね」
わたしは妹の横顔に視線を向けた。妹の瞳のなかには月の光が何かの名残のように淡く溶け込んでいた。
「・・・どう言ったらいいのかわからないんだけど、とにかく、これからの未来にはたくさんいいことがあるんだって思ってた。これからどんどん楽しいことがあるんだってそんなふうに思ってた」
わたしは残り少なくなってきたコーヒーを啜りながら黙って妹の話に耳を澄ませていた。微かに海の波の音が聞こえた。
「でも、そういうのって、当たり前だけど、幻想でしかなくて、実際には上手いかないこととか、大変なことがたくさんあって。というか、これから生きていくにあったって、もっともっと大変なこととか、やらなくちゃいけないことがあって・・・だから」
妹はそこまで言葉を続けると、それ以上どう言ったらいいのかわからなくなってしまったのか、ミルクティーの缶の上に視線を落としたまま黙りこんでしまった。
しばらくの沈黙があって、その沈黙のなかに耳元を吹きすぎていく弱い風の音と、微かな波の音が聞こえた。
「まあ、確かに、現実ってわたしたちが考えているほどそんなに甘くはないし、親切でもないよね」
わたしは黙っている妹の横顔に向かってそう宥めるように言った。そして言ってからわたしはふとみっちゃんのことを考えた。
みっちゃんはわたしが大学四年生のときに交通事故に遭って亡くなった。
バイトからの帰り道、原付に乗っていて、カーブを曲がり切れずに壁にぶつかって亡くなってしまったという話だ。でも、実際は自殺だったのかもしれないという話しもあって、真相はよくわかっていない。わたしは高校を卒業してからみっちゃんとはすっかり疎遠になっていて、みっちゃんが亡くなったということも、友達伝に聞いたのだ。
みっちゃんは高校を卒業してからもバンド活動を続けていて、大学を卒業したあとはプロを目指するつもりでいたという話だった。でも、当然みっちゃんの両親はそれに反対で、何度か両親と対立のようなことがあったと友達から聞いた。
最終的にはみっちゃんは両親に説得されて就職することにしたようだったけれど、でも、本当の意味では納得したわけではなくて、ずっと悩んでいたという話だ。だから、もしかすると、みっちゃんは思いつめて自殺してしまったのかしれないというのが、友達の意見だった。というのも、現場にはブレーキをかけたあとが全くなかったという話だからだ。みっちゃんはもしかすと、バイトからの帰り道、突発的に死にたくなってしまったのかもしれない。
命を粗末するべきないはないけれど、でも、もし仮にみっちゃんが死ぬことを選んでしまったのだとしても、わたしはそのみっちゃんの行為を強く否定することはできないな、と、感じた。わたしも、ときどき、みっちゃんほどではないにしても、大袈裟に気持ちが沈みこんで、この先生きていてもいいことなんてなにもないだろう、と、つい悲観的に考えてしまうことがあった。自分という存在を消し去ってしまいたいと衝動的に思ってしまうことがあった。
だから、みっちゃんの気持ちも少しは理解できるような気がした。生きていると、上手くいくことよりも、上手くいかないことの方が遥かに多いし、今という現状を維持するのにも、ものすごくエルネギーを消耗するし、疲れる。自分では頑張っているつもりでいても、回りからはもっと頑張れ、もっと努力しろと言われる。こんなことがこれからもずっと続くのかと思うと、思わず生きるということから、逃げ出したくなる。わたしは弱いし、あまりにもちっぽけだ。
「どこかにさ」
いくらか長い沈黙のあとで、妹が口を開いて言った。わたしは妹の横顔に視線を向けた。
「みんなが幸せになれる世界があったらいいのにね」
と、妹は言った。
「誰も傷つかないし、誰も哀しまないで住む世界があったらいいのになって思う」
「そうだね」
と、わたしは口元を弱く笑みの形に変えて頷いた。そしてそれからわたしは妹の横顔に向けていた視線を目の前に向けてみた。
すると、海のうえに静かに溶けた淡い銀色の光が目を打った。海面で砕けて無数の細かい光の粒になった月の光は目の網膜からわたしの心に沈み込むと、そこに何か哀しいような感じのする光の水たまりを作っていった。
帰りの車のなか妹はすぐに眠ってしまった。瞳を閉じた妹の横顔は何かに深く傷ついて、疲れきっているように見えた。
わたしは暗い海岸線の道をひとりで黙って運転しながら、いつかした安藤くんとの会話を思い起こした。あれは確かわたしが安藤くんと知り合って間もない頃のことで、そのとき、安藤くんは今度はじめて自分で物語を書いてみようと思っているのだとわたしは話してくれた。
その話をしてくれたときの安藤の顔はほんとうに活き活きとして、明るい瞳の輝きがあった。わたしが試しにどんな話を書くつもりなのかと尋ねてみると、彼は照れ臭そうに笑って、いい小説だよと答えた。その物語を読んだひとが少しでも幸せな気持ちになれたり、希望を持てたりすることができるような小説が書きたいと思っていると彼はわたしに語った。
そういえば、みっちゃんが高校のときに作った歌も、優しい歌だったな、と、わたしはふいに思い出した。わたしたちが高校生のときに最後の思い出作りのような形で作ったオリジナル曲。
それは恋とか愛の歌ではなくて、歌を歌うことが楽しいという歌だった。嫌なことがあって落ち込むみことがあっても、歌を歌っていると、優しい気持ちになれるんだ、と、みちゃっんは歌っていた。寂しくてひとりぼっちでも、歌を歌っていると、ひとりでも平気だって思えるんだ、と、みちゃんは続けていた。暗闇でも平気さ。希望なんてなくたって歩いていける。
どこからともなくみちゃんの歌声が聞こえてくるような気がした。そのまるで海の青色の色素をおびたような透明感のある歌声が。やわらくて穏やかでそしてほんの少しだけ哀しいような感じのする歌声が。
きっと安藤くんは物語を書き続けているだろう、と、わたしは思った。厚い暗闇の層を突き抜けてどこか明るく輝く場所へと辿り着けるような物語を。
でも、その場所に辿り着くまではまだまだ時間がかかる。いくつもの急なカーブがあるし、たくさんの坂を登っていかなければならない。
家に辿りつくまでにはまだまだ距離があった。海岸線の道はずっと続いている。
わたしは目の前に広がる暗闇をじっと見つめた。