読み取り柱は正常です
読み取り柱が壊れた、と連絡が入ったのは朝一番だった。
保守作業員の男は、工具箱を提げて黒市の酉三番小路へ向かった。
原因不明という言葉ほど、憂鬱なものはない。
できれば読み取り板の交換だけで済ませたい。
蓋を開け、古い部品を抜き、新しいものを挿す。最後に動作確認をして帰る。
そういう仕事が一番いい。
現場は乾物屋、魚屋、古着屋が並ぶ古い商店街。
道の入口に立つ柱の前には、既に十人ばかり溜まっていた。
白髪の乾物屋が読み取り面に札を叩きつけている。
《認証:正常》
《営業契約:有効》
《通行:拒否》
電子音と共に赤い文字が浮かぶ。
乾物屋は男のほうへ振り返り、口を尖らせた。
「ほらな、通られへんやろ」
「見れば分かります」
「ほな直せ」
「壊れてるかどうかは、これから見るんですよ」
朝から元気な老人である。
男は柱の前にしゃがみ込み、工具箱を開いた。
乾物屋は今朝、店へ行こうとしたら突然弾かれた。
昨日までは普通にここを通っていたという。
後ろに並ぶ魚屋も同じ。
古着屋も同じ。
男は順番に札を借りて柱へかざした。
《認証:正常》
《認証:正常》
《認証:正常》
全員、生きている。少なくとも制度上は。
次に契約を確認する。
《営業権:有効》
《区画利用権:有効》
《通行権:有効》
「なんや、契約も生きてるやないか」
「ですね」
「はよ通せ。商売にならへんやろ」
「それは柱に言ってください」
「なんやその言い方。お前、柱の人間やろ。なんとかせえや」
「私は人間の方です」
気持ちはわかるが、物事には手順がある。
しかし、それを逐一説明すると余計にややこしくなる。大概拗れる。
保守屋は技術者だが、相談窓口ではない。
柱の側板を外した。
内部で何本もの細い経文線が淡く光っている。
読み取り部。
認証照合部。
契約参照。
位置照合。
一つずつ検査を掛けた……異常なし。
もう一度掛けた……異常なし。
念のため再起動した……異常なし。
三度目の診断結果が出たところで、男はしばらく柱を見つめた。
「どないした」
「壊れてません」
乾物屋の眉間に皺が寄った。
「通られへんのに?」
「はい」
「それを壊れてる言うんやろが」
その時、小路の向こうから盆を抱えた男が歩いてきた。
最近できた茶屋の主人である。柱の前で立ち止まり、札をかざす。
《認証:正常》
《通行:許可》
何事もなくこちら側へ出てきた。
乾物屋をはじめ、列の空気が変わった。
「おい。なんでお前は通れんねん」
「そんなん、うちに聞かれても分かりまへんわ」
「さては役人に金でも包んだんやろ」
「そんな包めるほど儲かってましたら、ここで茶ぁ淹れてませんえ」
乾物屋が茶屋へ詰め寄り、主人も負けじと言い返す。
周囲まで加わって、柱の前はたちまち責任者探しの様相を呈した。
男は全員を放置して、通行記録を開いた。
昨日。
一昨日。
三日前。
乾物屋は全て通行許可。
拒否が始まったのは今朝の零時からだ。
魚屋も古着屋も同じで、茶屋の主人だけは何も変わっていない。
共通しているのは何か。
男は今朝弾かれた者たちの通行記録を古い順に追った。
弾かれている者は、いずれもこの小路を長く使っている者ばかり。
逆に、通れる者は――。
「この辺、最近何か工事しました?」
乾物屋が鼻を鳴らした。
「したで。水路が詰まったとかでな」
「三ヶ月くらい前ですね」
茶屋の主人も記憶を手繰るように小路を見回す。
「道も少し広げはったんと違いますやろか。半間ほどやったと思いますけど」
男は顔を上げた。
小路は真っ直ぐ伸び、その両脇に店が並んでいる。
入口には今しがた分解した読み取り柱。どこからどう見ても、ごく普通の道だった。
柱の記録から現在の区画図を呼び出すと、石畳の上に青い線が重なった。
現在の酉三番小路である。
続いて乾物屋の通行契約を開く。契約日時は十八年前。
そこに登録されていた当時の区画情報を重ねると、もう一本の白い線が現れた。
青い線より、半間ほど南。
男は二本を見比べてから、何となく嫌なものを見つけた顔で黙り込んだ。
「道がずれてますね」
「は?」
「昔の道はこっちです」
男が指先で白線を追う。
古い経路は現在の石畳から外れ、乾物屋の軒先を掠め、隣の壁を抜けて、そのまま新しい茶屋の中へ伸びていた。
茶屋の主人が瞬きをする。
「……これ、うちの中やないですか」
「ですね」
十八年前の区画図を拡大すると、当然ながらそこに茶屋はない。
古い酉三番小路が、今より半間ほど南を真っ直ぐ走っていた。
三か月前、排水工事で水路を付け替えた際、それに合わせて道も北へ移されている。
石畳を敷き直し、読み取り柱を移し、沿道の店先も少しずつ調整した。
そこまで確認したところで、乾物屋が嫌そうな顔をした。
「……通行契約は?」
男は答えず、十八年前の日付を指した。
答えるまでもなかったらしい。老人の顔がさらに険しくなる。
「まさか」
「そのままです」
契約上、乾物屋たちが通行権を持っているのは、現在の酉三番小路ではない。
十八年前に存在した酉三番小路だった。
道の名前は同じ。場所だけが半間ずれている。
読み取り柱は、その違いを律儀に照合していた。
「せやけど、昨日までは通れたで」
もっともな疑問である。
男が更新履歴を確認すると、工事後の新しい区画は三ヶ月の間、仮登録として扱われている。
旧区画からの移行期間として、昨日までは古い契約でも通行できたらしい。
「区画更新が昨夜、確定してますね」
正式な道路情報として登録されたのが、昨夜の零時。
そこで移行期間が終わり、柱は古い契約を古い道にだけ適用するようになった。
つまり今朝、突然壊れたわけではない。
昨夜、正常になったのである。
「ほな、わしはどないして店へ行ったらええねん」
乾物屋が訊いた。
男は何も言わず、空中に残る白線を指した。
乾物屋、茶屋の主人、男の三人が、揃って茶屋へ目を向ける。
「念のため試しましょう」
「ちょ、待っとくれやす。店の中ですえ」
「契約上は道です」
男は保守端末から旧経路の照合を継続したまま、三人で茶屋へ入った。
まだ客のいない店内には、磨かれた卓が四つ。
座布団と湯気を立てる鉄瓶、その奥に帳場がある。
その真ん中を旧小路の白線が一直線に貫いていた。
入口から二つの卓の間を通り、帳場の脇を抜けて裏口へ。
どう見ても店内だが、表示の上では立派な道だった。
乾物屋がおそるおそる一歩踏み出す。
何も起きない。さらに二歩、三歩と白線の上を進んだところで、軽い電子音が鳴った。
《通行権:確認》
乾物屋が立ち止まった。
「通れたやないか」
「……いや、うちの店なんですけど」
茶屋の主人だけが、一向に納得していなかった。
念のため、男は今度は茶屋の賃貸契約を確認した。
店舗利用権、営業権、什器設置権。
どれも有効で、茶屋がここで営業していること自体には何の問題もない。
ただ、契約の末尾近くに小さな一文があった。
《既存の通行権を妨げないこと》
男は表示を閉じた。
乾物屋たちには、旧道を通る権利がある。
茶屋の主人には、ここで店を営業する権利がある。
それらを全部一緒に成立させた結果、茶屋の中を人が通ることになった。
昼過ぎには、酉三番小路の読み取り柱から行列が消えていた。
代わりに、茶屋の中へ行列ができた。
「すまんな」
乾物屋が卓の間を抜けていく。
茶屋の主人は鉄瓶を睨んだまま黙った。
その後ろから魚屋が桶を担いで入り、ぽたぽたと床へ水を落としていく。
続いて古着屋が反物を抱えて通り抜けた。
やがて荷車までやってきた。
「それは無理ですやろ!」
さすがに茶屋の主人が叫んだ。
「わしに言うなや。柱に言え」
乾物屋は朝に聞いた台詞をそのまま返し、荷車を招き入れた。
男はその騒ぎを背中で聞きながら、店先で保守票を埋めていた。
《認証照合:正常》
《契約照合:正常》
《位置照合:正常》
《機器異常:なし》
少し迷ってから、最後の欄にも記入する。
《通行障害:解消》
工具箱を閉じたところで、茶屋の主人が店から飛び出してきた。
「ちょっと待っておくれやす」
「はい」
「これ、なんとかならしまへん?」
店の奥では荷車の車輪が座敷の縁に引っ掛かり、乾物屋と魚屋が二人掛かりで持ち上げている。
どう見ても問題の解消した生活ではないが、通行障害そのものは確かに消えていた。
「通行権を新しい道へ移せば大丈夫ですよ」
「ほな、それをやってもらえませんやろか」
「私は柱の保守なんで」
「でしたら、どちらに頼んだらよろしいんです?」
男は旧道に紐づいた契約情報を調べた。
表示された契約者は四十三名。
通行権を新しい道へ移すには、その全員について契約変更への同意と再照合が必要になる。
茶屋の主人はしばらく何も言わなかった。
その沈黙を破るように、店の奥から乾物屋の声が飛ぶ。
「すまん、次、荷車もう一台来たで!」
茶屋の主人がゆっくり天井を仰いだ。
「……柱だけでも止めてもらえませんやろか」
男は工具箱を持ち上げる。
「正常な柱を壊したら、私が怒られるんですよ」
「ほな、うちはどないしたらええんです」
もっともな質問だった。
だが、保守屋にできるのは壊れた柱を直すことだけだ。
そして今回、柱は最初から壊れていなかった。
「柱は正常ですので」
一礼して、男は茶屋を後にした。
背後で荷車の車輪が何かにぶつかり、続いて茶碗の割れる音が響いた。
男は振り返らず、工具箱を提げ直して次の現場へ向かう。
今日の修理件数は、まだ一件も減っていない。
この短編では、認証も契約も仕組みも正しく動いているのに、そのすべてを守ろうとすると、なぜか人の暮らしだけがうまくいかなくなる社会を切り出しています。
『電脳虚界合戦』本編では、認証や契約、組織の仕組みを通して、制度が人を守り、秩序を支える一方で、その正しさからこぼれ落ちるものを、別の人物たちの視点から描いています。




