【第1話】 前夜
― 紀元前 200年 ―
豪雨が地を叩き、夜の森が悲鳴を上げていた。
「はぁ……はぁ……まだ来るか……!」
楚の武将・項伯は泥を蹴り、暗闇を駆け抜ける。
背後では追手の松明が雨に揺れ、じりじりと迫ってくる。
「項伯殿、こちらへ!」
突如、闇の中から呼ぶ声がする。
黒衣の男が、雨に濡れながら手を伸ばしていた。
「貴様は……!張良!」
「急いでこちらへ。長くはもちません」
二人は廃屋へ転がり込み、項伯は荒い息を吐いた。
「なぜ、助ける? 私は楚の者だ。
今は味方でも――明日には、敵だぞ」
「かつての恩を返しているだけですよ。
あの時、私を逃がしたのは、あなたでしょう」
「恩……そんなこと、忘れていればよかったものを」
「いえ、忘れません。私は、恨みも恩も忘れぬ性質でね」
追手の足音が近づく。
項伯は短剣に手をかけた。
「張良。ここにいては、お前まで死ぬ」
「死ぬわけにはいきません。まだ果たすことがある」
「ほう。沛公と天下を取るつもりか?」
「沛公が天下を取れる男かどうかは……まだ分からない……
だが、あなたが今死ねば、後の世に未来はない。
「未来?」
「歴史というものは、不思議なもので」
そのとき、張良は静かに笑った。
「一人を助ければ、一国を救うことにもなる」
項伯は息を呑む。
その真剣な眼差しは、命を懸ける価値を宿していた。
「そうか。ならば私は、生き延びよう」
………この命、いつか必ずお前に返す。」
「返す相手は私ではありません。
乱世の……正しき未来へ」
扉の向こうで追手が怒鳴る。
「誰だ!そこにいるのは!!」
張良は迷いなく外へ出た。
豪雨が二人を切り離す。
「この辺りに人影は? 見たなら言え!」
「いえ、何も。見えませんでした」
「貴様….嘘ではあるまいな……?」
「この雨では、何も見えませぬ。
どうか、お通りください」
追手は舌打ちし、松明が遠ざかる。
張良は雨を浴びながら、そっと短く息をついた。
「項伯殿、さあ、行きなさい。
今度、会うときは――」
「敵同士か」
「ええ。ですが」
張良は振り向かず、ただ言った。
「―どうか、死にませぬように」
――――――――――――――――
―それから数年後―
秦都・咸陽近郊。
かつて天下を統一した秦国は、
国内の反乱の波にに押し潰されようとしていた。
―沛公軍・陣営―
地図を睨んでいた沛公が、
決意をにじませて張良へと顔を向ける。
「張良。秦を落とすなら、今しかないんだよな?」
張良はわずかに目を伏せ、慎重な面持ちで静かに答えた。
「はい。しかし……沛公様。
懐王のお言葉を、お忘れでは?」
懐王が発した“掟”が頭をよぎる。
『先に関中を制圧した者を王とする』
沛公はその言葉を噛みしめるように呟く。
「楚の懐王の掟……誰が最初に入るかで、
未来は変わるというわけか」
張良は鋭い眼差しで、沛公に告げる
「ならば急ぎましょう。
ただ――それは項王を敵に回すことにもなります」
沛公は腕を組み、高らかに笑った。
「項王が敵だろうが関係ない。
俺は、俺の道を行くだけだ。」
張良はその背中に、天下に手を伸ばす男の覇気を見る。
(それでこそ、我が主君。
この強引さこそが……天下を引き寄せる)
――――――――――――――――
―項王軍・陣営―
焚き火の明かりに照らされ、
范増が焦りを隠せぬ様子で懐王に詰め寄る。
「懐王よ、お願いです。項王様を急がせてください!
沛公が咸陽を先に取れば――我らの身が危うくなります」
しかし、懐王は静かに盃を回し、ため息混じりに言った。
「范増よ。わしは、楚が天下を取れれば、それで良いのだよ」
「しかし――」
続けようとした范増の言葉を懐王が遮る。
「誰が旗を掲げようと、最後に楚が勝てば同じこと。
今は沛公をうまく利用する時だ」
范増は歯を食いしばり、拳を握りしめる。
(王は大局を見る……だが、私には見えてしまう。
沛公を生かせば、項王様が敗れる未来が……)
その執念は、すでに私情を超えていた。
――――――――――――――――
―秦の都・咸陽―
咸陽の城門は開かれ、兵たちは緊張と勝利の興奮をにじませながら進軍していた。その先頭に立つ沛公は、戦場の荒れた空気を吸い込み、はっきりと命じる。
「咸陽は……焼くな。民への略奪も禁ずる。
決して誰も傷つけるな」
指示を聞いた部下たちは驚き、互いに顔を見合わせた。
「えっ!? そんな……!」
憤りと困惑が入り混じる兵たちへ向き直り、沛公は声を落とす。
「今は力を示す時じゃない。
民を味方にすれば、天下は俺のものだ」
その言葉を、少し離れた場所からひとりの青年が見ていた。
曹無傷――その表情には影が落ちている。
彼の握った拳の爪が手のひらに食い込む。
(なぜだ……。俺だって命を張ってきた。
褒美は?地位は?俺は……何のために戦ってきた?)
彼は荒く息を吐き、近くの兵に向かって囁く。
「使者を……楚へ出す。沛公は咸陽に居座り、
富を得て、王を名乗るつもりだと伝えろ」
驚いた兵士が声を上げた。
「まさか、沛公殿を裏切るおつもりか!?」
曹無傷は目に怒りと怯えを混ぜ、必死に言葉を吐く。
「裏切りじゃない……真実だ。
このまま放っておけるか……!」
その震える声は、自分自身にも言い聞かせるようだった。
――――――――――――――――
―項王軍本陣―
楚の大陣では、焚き火の煙が夜風に流れている。
酒宴の余韻が残る中、伝令が走り込んできた。
「報告!!沛公、既に咸陽へ突入!
関中を封鎖し、王宮に居座っているとのこと!!」
杯を持っていた項王の眉間に、怒りが刻まれる。
力強い腕が動き、杯は地に叩きつけられた。
酒が地面に飛び散る。
「何だと……!?」
すかさず、范増が一歩踏み出し、口角を歪める。
「見よ!私が言った通り!
あの男は危険です、項王様!
今すぐ奴を討つべきです!!」
項王は苦い沈黙の中で考え、
やがて、炎のような目を范増へ向けた。
「……全軍を関中へ!
沛公を討ち、天下を正す!!!」
范増は眉を吊り上げ、心のうちで嗤う。
(これで良い。これで天下は項王様のものに。)
――――――――――――――――
―夜・咸陽郊外―
雨音だけが響く暗い夜。
張良は書簡を巻き、外の様子を窺っていた。
兵たちが松明の灯りを遠く巡らせる中、一人の影が現れる。
「張良殿!楚軍より使者が……項伯殿が来られました!」
兵の報告に、張良はわずかに息を呑む。
(項伯殿が……?何事だ。)
張良は、すぐに沛公へ向き直り、低い声で告げる。
「用件は不明ですが、必ずお会いすべきです。
あの方は……我々に手を貸していただけるはず」
沛公は顎を引き、幕の端へと視線を向ける。
「通せ」
雨を背負った男――項伯が姿を現した。
荒い息を整え、張良に目を向ける。
「張良……あの時、以来だな。」
張良は深く頭を下げた。
「項伯殿。こうして再び会えましたこと光栄に思います。
して、本日はどういったご用件でしょうか」
項伯は視線を沛公へ移す。
その目には、急ぎを促す焦りが宿っていた。
「手短に話す。今、項王様は非常に怒っておられる。
『沛公が王宮に居座り、自ら王を名乗るつもりだ』
という話を信じてしまわれたのだ」
沛公は、その瞬間に驚きの表情を見せる。
「俺はそんなつもりは、
一体、だれがそんなことを…」
項伯はその先の言葉を遮るように一歩迫る。
「分かっている!だが、范増が項王様を動かしたのだ。
あの男は、お前を、明日殺す算段を進めている」
張良は息を止め、拳を固める。
項伯は懐から短刀を抜き、まっすぐ沛公の手へ押し付けた。
「明日、鴻門にて宴が開かれる。表向きは和睦だ。
しかし、実際は和睦などではない。
お前を討つための算段が用意されている。」
その言葉を聞いて、沛公と張良の表情がさらに強張った。
項伯は続ける。
「項王軍は、まず沛公を討った後、
その場で、沛公軍を殲滅するつもりなのだ。」
沛公が驚きを隠せない表情を見せつつも、ゆっくりと口を開く。
「なるほど。つまり罠か」
項伯は、声を低く絞り出す。
「だが、私もこの宴に同席する。
かつての張良の恩に報いるためだ。
お前を生かすために、私もこの命を賭けよう」
張良はその言葉に、唇をきつく噛み締める。
「項伯殿……」
「礼は不要だ」
項伯は静かに首を振る。
「張良よ。あの雨の夜、お前は言ったな。
『どうか、死にませぬように』と」
張良は記憶の重さに目を伏せる。
「今度は俺が言う番だ。
沛公を……どうか生かせ。そして、生き延びよ。」
沛公は短く息を吐き、項伯を見た。
「これは、大きな借りだ。だが必ず返す」
項伯は幕をくぐりかけたところで、ふと足を止めた。
背後から、雨を切るような声が落ちる。
「最後に一つ、言わねばならぬことがある」
張良と沛公が同時に視線を向ける。
項伯は振り返らず、ただ闇を見据えたまま続けた。
「先の情報――楚へ入ってきたのは、
外部からではない。ここだ。お前たちの陣中からだ。」
張良の目が見開かれる。
「……そちらに、ありもしない情報を流した者が?」
「間違いない。その者は、沛公の身近にいる。
お前たちの命を……楚へ売ったのだ」
沛公の拳が音を立て、机に食い込む。
張良は声を潜め、問い詰める。
「項伯殿。その者は、一体……。」
項伯は言葉を遮るように、低く吐き捨てた。
「分からぬ。だが、もう“次”は無い。
このままでは、沛公は殺されるだけだ。」
沈黙が幕舎を凍らせる。
濡れた松明の火が不安定に揺れた。
沛公がゆっくりと立ち上がり、闇を睨む。
「……裏切り者か。俺の目の前にいながら、
このような姑息なやり方で、俺の首を狙うとは」
項伯は短く続けた。
「だからこそ、誰も信じすぎるな。
味方の顔をした敵が、貴様らの一番近くにいる」
張良は無意識に周囲を見渡す。
長年、共に戦ってきた仲間の姿が、すべて疑わしく見えた。
項伯は雨を背負い、最後の言葉を投げた。
「明日の早朝、鴻門の会で待つ。
来るなら――命を捨てる覚悟で来い」
そうして、夜の闇へ消えた。
張良は深く息をつき、
沛公へまっすぐ視線を送った。
「必ず、生きて帰りましょう、沛公様」
沛公は口元に不適な笑みを浮かべた。
「面白い。覇王と美味い盃を交わしに行くとしよう。」
――――――――――――――――
(つづく)




