表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

【第1話】 前夜




― 紀元前 200年 ―




 豪雨が地を叩き、夜の森が悲鳴を上げていた。




「はぁ……はぁ……まだ来るか……!」



 楚の武将・項伯は泥を蹴り、暗闇を駆け抜ける。

 背後では追手の松明が雨に揺れ、じりじりと迫ってくる。



「項伯殿、こちらへ!」



 突如、闇の中から呼ぶ声がする。

 黒衣の男が、雨に濡れながら手を伸ばしていた。



「貴様は……!張良!」



「急いでこちらへ。長くはもちません」



 二人は廃屋へ転がり込み、項伯は荒い息を吐いた。



「なぜ、助ける? 私は楚の者だ。

 今は味方でも――明日には、敵だぞ」




「かつての恩を返しているだけですよ。

 あの時、私を逃がしたのは、あなたでしょう」




「恩……そんなこと、忘れていればよかったものを」




「いえ、忘れません。私は、恨みも恩も忘れぬ性質でね」




 追手の足音が近づく。

 項伯は短剣に手をかけた。



「張良。ここにいては、お前まで死ぬ」



「死ぬわけにはいきません。まだ果たすことがある」



「ほう。沛公と天下を取るつもりか?」




「沛公が天下を取れる男かどうかは……まだ分からない……

 だが、あなたが今死ねば、後の世に未来はない。



「未来?」



「歴史というものは、不思議なもので」



 そのとき、張良は静かに笑った。




「一人を助ければ、一国を救うことにもなる」



 項伯は息を呑む。

 その真剣な眼差しは、命を懸ける価値を宿していた。



「そうか。ならば私は、生き延びよう」

 ………この命、いつか必ずお前に返す。」




「返す相手は私ではありません。

 乱世の……正しき未来へ」



 扉の向こうで追手が怒鳴る。



「誰だ!そこにいるのは!!」




 張良は迷いなく外へ出た。



 豪雨が二人を切り離す。



「この辺りに人影は? 見たなら言え!」



「いえ、何も。見えませんでした」



「貴様….嘘ではあるまいな……?」



「この雨では、何も見えませぬ。

 どうか、お通りください」




 追手は舌打ちし、松明が遠ざかる。

 張良は雨を浴びながら、そっと短く息をついた。



「項伯殿、さあ、行きなさい。

 今度、会うときは――」



「敵同士か」



「ええ。ですが」



 張良は振り向かず、ただ言った。




「―どうか、死にませぬように」








――――――――――――――――








―それから数年後―





秦都・咸陽近郊。


かつて天下を統一した秦国は、

国内の反乱の波にに押し潰されようとしていた。


 



―沛公軍・陣営―





地図を睨んでいた沛公が、

決意をにじませて張良へと顔を向ける。




「張良。秦を落とすなら、今しかないんだよな?」




張良はわずかに目を伏せ、慎重な面持ちで静かに答えた。




「はい。しかし……沛公様。

 懐王のお言葉を、お忘れでは?」




懐王が発した“掟”が頭をよぎる。




『先に関中を制圧した者を王とする』




沛公はその言葉を噛みしめるように呟く。




「楚の懐王の掟……誰が最初に入るかで、

 未来は変わるというわけか」




張良は鋭い眼差しで、沛公に告げる




「ならば急ぎましょう。

 ただ――それは項王を敵に回すことにもなります」




沛公は腕を組み、高らかに笑った。


「項王が敵だろうが関係ない。

 俺は、俺の道を行くだけだ。」




張良はその背中に、天下に手を伸ばす男の覇気を見る。




(それでこそ、我が主君。

 この強引さこそが……天下を引き寄せる)






――――――――――――――――







―項王軍・陣営―





焚き火の明かりに照らされ、

范増が焦りを隠せぬ様子で懐王に詰め寄る。





「懐王よ、お願いです。項王様を急がせてください!

 沛公が咸陽を先に取れば――我らの身が危うくなります」




しかし、懐王は静かに盃を回し、ため息混じりに言った。




「范増よ。わしは、楚が天下を取れれば、それで良いのだよ」





「しかし――」




続けようとした范増の言葉を懐王が遮る。




「誰が旗を掲げようと、最後に楚が勝てば同じこと。

 今は沛公をうまく利用する時だ」




范増は歯を食いしばり、拳を握りしめる。




(王は大局を見る……だが、私には見えてしまう。

 沛公を生かせば、項王様が敗れる未来が……)




その執念は、すでに私情を超えていた。





――――――――――――――――






―秦の都・咸陽―





咸陽の城門は開かれ、兵たちは緊張と勝利の興奮をにじませながら進軍していた。その先頭に立つ沛公は、戦場の荒れた空気を吸い込み、はっきりと命じる。




「咸陽は……焼くな。民への略奪も禁ずる。

 決して誰も傷つけるな」




指示を聞いた部下たちは驚き、互いに顔を見合わせた。




「えっ!? そんな……!」




憤りと困惑が入り混じる兵たちへ向き直り、沛公は声を落とす。




「今は力を示す時じゃない。

 民を味方にすれば、天下は俺のものだ」





その言葉を、少し離れた場所からひとりの青年が見ていた。

曹無傷――その表情には影が落ちている。

彼の握った拳の爪が手のひらに食い込む。





(なぜだ……。俺だって命を張ってきた。

 褒美は?地位は?俺は……何のために戦ってきた?)




彼は荒く息を吐き、近くの兵に向かって囁く。




「使者を……楚へ出す。沛公は咸陽に居座り、

 富を得て、王を名乗るつもりだと伝えろ」




驚いた兵士が声を上げた。




「まさか、沛公殿を裏切るおつもりか!?」




曹無傷は目に怒りと怯えを混ぜ、必死に言葉を吐く。




「裏切りじゃない……真実だ。

 このまま放っておけるか……!」




その震える声は、自分自身にも言い聞かせるようだった。




――――――――――――――――






―項王軍本陣―




楚の大陣では、焚き火の煙が夜風に流れている。

酒宴の余韻が残る中、伝令が走り込んできた。




「報告!!沛公、既に咸陽へ突入!

 関中を封鎖し、王宮に居座っているとのこと!!」




杯を持っていた項王の眉間に、怒りが刻まれる。

力強い腕が動き、杯は地に叩きつけられた。

酒が地面に飛び散る。




「何だと……!?」




すかさず、范増が一歩踏み出し、口角を歪める。





「見よ!私が言った通り!

 あの男は危険です、項王様!

 今すぐ奴を討つべきです!!」




項王は苦い沈黙の中で考え、

やがて、炎のような目を范増へ向けた。




「……全軍を関中へ!

 沛公を討ち、天下を正す!!!」




范増は眉を吊り上げ、心のうちで嗤う。




(これで良い。これで天下は項王様のものに。)





――――――――――――――――





―夜・咸陽郊外―




雨音だけが響く暗い夜。

張良は書簡を巻き、外の様子を窺っていた。

兵たちが松明の灯りを遠く巡らせる中、一人の影が現れる。




「張良殿!楚軍より使者が……項伯殿が来られました!」





兵の報告に、張良はわずかに息を呑む。




(項伯殿が……?何事だ。)




張良は、すぐに沛公へ向き直り、低い声で告げる。



「用件は不明ですが、必ずお会いすべきです。

 あの方は……我々に手を貸していただけるはず」




沛公は顎を引き、幕の端へと視線を向ける。




「通せ」




雨を背負った男――項伯が姿を現した。

荒い息を整え、張良に目を向ける。




「張良……あの時、以来だな。」




張良は深く頭を下げた。




「項伯殿。こうして再び会えましたこと光栄に思います。

 して、本日はどういったご用件でしょうか」




項伯は視線を沛公へ移す。

その目には、急ぎを促す焦りが宿っていた。




「手短に話す。今、項王様は非常に怒っておられる。

 『沛公が王宮に居座り、自ら王を名乗るつもりだ』

 という話を信じてしまわれたのだ」




沛公は、その瞬間に驚きの表情を見せる。




「俺はそんなつもりは、

 一体、だれがそんなことを…」




項伯はその先の言葉を遮るように一歩迫る。




「分かっている!だが、范増が項王様を動かしたのだ。

 あの男は、お前を、明日殺す算段を進めている」




張良は息を止め、拳を固める。




項伯は懐から短刀を抜き、まっすぐ沛公の手へ押し付けた。





「明日、鴻門にて宴が開かれる。表向きは和睦だ。

 しかし、実際は和睦などではない。

 お前を討つための算段が用意されている。」




その言葉を聞いて、沛公と張良の表情がさらに強張った。

項伯は続ける。





「項王軍は、まず沛公を討った後、

 その場で、沛公軍を殲滅するつもりなのだ。」






沛公が驚きを隠せない表情を見せつつも、ゆっくりと口を開く。





「なるほど。つまり罠か」





項伯は、声を低く絞り出す。




「だが、私もこの宴に同席する。

 かつての張良の恩に報いるためだ。

 お前を生かすために、私もこの命を賭けよう」




張良はその言葉に、唇をきつく噛み締める。




「項伯殿……」




「礼は不要だ」



項伯は静かに首を振る。




「張良よ。あの雨の夜、お前は言ったな。

 『どうか、死にませぬように』と」





張良は記憶の重さに目を伏せる。




「今度は俺が言う番だ。

 沛公を……どうか生かせ。そして、生き延びよ。」




沛公は短く息を吐き、項伯を見た。



「これは、大きな借りだ。だが必ず返す」



項伯は幕をくぐりかけたところで、ふと足を止めた。

背後から、雨を切るような声が落ちる。




「最後に一つ、言わねばならぬことがある」




張良と沛公が同時に視線を向ける。

項伯は振り返らず、ただ闇を見据えたまま続けた。




「先の情報――楚へ入ってきたのは、

 外部からではない。ここだ。お前たちの陣中からだ。」




張良の目が見開かれる。




「……そちらに、ありもしない情報を流した者が?」




「間違いない。その者は、沛公の身近にいる。

 お前たちの命を……楚へ売ったのだ」




沛公の拳が音を立て、机に食い込む。




張良は声を潜め、問い詰める。




「項伯殿。その者は、一体……。」




項伯は言葉を遮るように、低く吐き捨てた。




「分からぬ。だが、もう“次”は無い。

 このままでは、沛公は殺されるだけだ。」




沈黙が幕舎を凍らせる。

濡れた松明の火が不安定に揺れた。



沛公がゆっくりと立ち上がり、闇を睨む。



「……裏切り者か。俺の目の前にいながら、

このような姑息なやり方で、俺の首を狙うとは」




項伯は短く続けた。



「だからこそ、誰も信じすぎるな。

 味方の顔をした敵が、貴様らの一番近くにいる」




張良は無意識に周囲を見渡す。

長年、共に戦ってきた仲間の姿が、すべて疑わしく見えた。




項伯は雨を背負い、最後の言葉を投げた。



「明日の早朝、鴻門の会で待つ。

 来るなら――命を捨てる覚悟で来い」




そうして、夜の闇へ消えた。




張良は深く息をつき、

沛公へまっすぐ視線を送った。




「必ず、生きて帰りましょう、沛公様」




沛公は口元に不適な笑みを浮かべた。



「面白い。覇王と美味い盃を交わしに行くとしよう。」







――――――――――――――――



(つづく)




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ