2-24
「教団員は始末してきました。あの後周りをしつこく嗅ぎ回っていたので。早くディルムに行きたいと思っていたんですよ」
「弟子のあの子は?」
「少し前に独立させました。技術だけならもう十分です。ガラス工なら私の他にもいますしね」
それより、と、近況もそこそこにティウは辺りを見回す。
「この町には魔法がかかっていますね」
「分かりますか?」
「ええ。あまり上手くかかっているので少し驚きました」
「ヒヅリという青年の仕業です。あの……あなたが名前を出した」
ティウはにこやかにうなずく。
「承知していますよ。あの子は成功したんですね。よかった」
腰が抜けるかと思った。
「成功? じゃあ__あなたは、全て知っていたんですか?」
「全てというか。ヒヅリに魔法を教えたのは私ですからね。ガラス細工の技術と一緒に。魔物とのつきあい方も」
「あなたが?」
「そう驚くこともないでしょう。九年間、楽しい時間でした。彼はなかなか覚えが悪くて、時間がかかりました。やる気だけなら一等賞ですが」
「あなたが、彼を唆したんですか?」
「唆した? おや、まだ分かっていないみたいだ。あの子が、自分で計画を建てたのですよ。自分の目的を達成するために。私は援助をしただけです」
「一体どんな魔法を使ったんでしょう」
「知りたいですか」
ティウは立ち上がった。
「水源はどこですか? この町にもカーレーズがあるのでしょうね。そこを見に行きましょう」
今度は、ティウを案内して地下に降りることになる。地下に根差す、氷が水に溶けるその場所をティウは見たがった。身をかがめて注意深く観察し、そっと指を水路の縁に滑らせた。見せてくれた指には緑色の粉が微かに付着していた。
「これです」とティウは言う。そして、同じ色の粉が入った瓶を見せた。
「同じ薬が入った瓶を三本、ヒヅリが持っていきました。毒ですよ。死にはしませんが」
これを飲み水に混ぜて、町民全員が口にするよう仕向けたのでしょう。
「飲んでみますか? 途端に世界が変わりますよ。強い幻覚作用と不安を引き起こします」
とんでもない。飲むはずがない。
ところが、後ろから手を伸ばし、瓶を取った者がいた。
「なるほど、これか!」
ナキシュニだ。いつの間に後をつけていたのか。
「あのヒヅリとか言う奴……怪しいと思っていた。まさか毒を飲ませていただなんて」
ティウが目配せしてきた。これは誰です?
すっかり高慢さを取り戻し、ナキシュニは叫ぶ。
「あいつを捕らえろ! これが動かぬ証拠だ。ヒヅリこそが反逆者だ」
「俺はあなたの部下じゃありませんから……」
「ではチェロアを呼べ。あいつの手でヒヅリを捕らえさせろ。いい気味だ、火をつけてやった後もこそこそ仲良くするなどと」
呆れを通り越して悲しくなった。
「チェロアはあの火事でひどく傷ついた。あなたの愚かな行動のせいで、彼女はミリという大事な友達を失ったんだ。それなのに、また彼女から仲間を奪うのか?」
ティウが「ミリ?」と呟いた。ナキシュニは一瞬だけ「誰だ?」という視線をティウに向け、それからまた俺に詰め寄った。
「何故あいつの肩を持つ? 言ったはずだ。魔物は悪だ、殺して当然だと。つるんでいたあの若造も、人間の裏切り者だ」
「あなたは真神教の偏った教義に引きずられ過ぎだ。もう少し考えを改めた方がいい。リートと二三日暮らしてみたらどうだろう」
「オグマ君、それは無理だよ」
脇からティウが静かに言った。
「この御仁はもう手遅れだ。それに、リート君が可哀想だよ。どんな扱いをされるか想像できないのかね」
口調は相変わらずだった。ティウという男は、決して声を荒げない。腹を立てた時も、悲しい時も。ただ、減速していく声に粘り気が増す。
「そうだよ、もう手遅れなんだ。何もかも」
それからの動きは一瞬だった。
目にも止まらぬ速さでナキシュニの手から薬瓶を奪い取り、ティウはその中身をナキシュニの口に全て注ぎ込んだ。
弾き飛ばされた蓋が足下に転がった。呆気にとられている場合ではない。慌ててティウをナキシュニから引き離した。殺してしまうのではないかと不安になった。
ティウの手から逃れたナキシュニは水路の側にうずくまり、激しく咳き込んだ。唾ばかりが滴り落ちる。
ティウの顔を見れない。いつも通りのにこやかな顔をしていたら怖くて逃げたくなってしまう。
「今の薬は……」
「ヒヅリが使った薬ですよ。何百分の一に薄めて使っても、かなり頭が混乱します。それがどうでしょう……」
最後まで言うまでもない。今のナキシュニには、世界がどう見えているのだろう?
「当然の報いです」
柔らかい声で吐き捨てて、ティウは足下で悶え苦しむナキシュニに背を向けた。
ナキシュニは泣いていた。
涙も鼻水も涎もぐちゃぐちゃに垂れ流して、幼虫のように丸まっている。大きく見開いた瞳に何が映っているのか、想像すらできなかった。ナキシュニはまた、耳もきつく塞いでいた。
彼の甲高い悲鳴が地下でがんがんと反響し、人が集まってきた。最初は恐る恐る遠くから様子を伺っていたが、ナキシュニが手も足も出ない状態だとじきに悟ることになる。こうなると警吏隊長への畏怖は半分以下に減り、面白そうに近寄って輪を作った。
その中にはククがいた。ファリィも、キースもいた。冷ややかな侮蔑と憎悪を露わに、転げ回るナキシュニを見下ろしていた。誰一人彼を心配する者はいなかった。
この間に、ティウの姿は消えていた。一体どこに行ったのか。探しに行こうと動き出したのを引き留めたのは、やはりナキシュニだった。
地べたに這いつくばったままで、腕だけを目いっぱい伸ばして俺の足首にすがりつく。
振り払うことはできない。当たり前に分かっていた。
「隊長殿?」
屈み込み、目を合わせると尚ぞっとした。黒目が点のように縮んでいた。瞳の中でぶるぶると震え、いつまでたっても定まらない。
「隊長殿」
再び呼びかけた。ナキシュニは乾燥した唇を舐め、やっとのことで声を絞り出した。
「お前も……来い」
「どこに?」
「ここは魔物だらけだ……牙を剥いた狼型やら、象型やら。皆、私を囲んでいるんだ。私を殺そうとして……」
「あなたが見ているのは魔物じゃない」
きつく言い返したのは、周りの人々の心情を気にしてのことだった。
だが、ナキシュニは耳を貸さない。
「魔物に決まっている! あんなに恐ろしく、醜いんだ。あんなの人間じゃない。ゆっくりと近づいてきて、私の反応を楽しんでいる、食べる前にいたぶろうという算段なのか……訳の分からない歌を歌っている。耳が壊れてしまいそうだ」
ここはむしろ静まりかえっているのに。
薬の作用でおかしくなったナキシュニに報復してやろうとする者はいない。その必要がないからかもしれない。彼らが手を下さなくても、ナキシュニは地獄に落ちている。
「神よ、助けたまえ……違う、神などどこにもいない。神なんてくそ食らえだ。光もない。真っ暗だ。闇の中に私と魔物だけがいる。早く、早く逃げないとチェロアはミーバスに奪われてしまう。ヒヅリがミリと一緒にいる。兄上に会わなければ。町が、町が。燃える前に脂を用意して消えない炎を作るんだ……そうだ! そこのお前!」
「は、はい?」
ナキシュニは俺の腕をつかみ、目を輝かせた。
「私の周りに火をつけろ、今すぐだ!」
「駄目だ。あなたも皆も焼け死ぬぞ」
「魔物など皆焼け死ねばいい! 白い顔が赤く染まれば雑音も止んで祭りの……」
ナキシュニはもう正気じゃない。分かってはいたが、支離滅裂にまくしたてる姿を間近で見ていると理由もなく腹が立ってくる。
こんな風に考える自分を嫌悪した。うっとうしい? 何を今更。とっとと見捨てて逃げ出した方がいい? それができないからここに俺はいる。何一つ得がなくてもリートと離れてまでもナキシュニに付き添っている。
だが、もううんざりしているのだ。自分は。
どいつもこいつも、寄ってたかって自分の妄想を押しつける。一方的に浮かれ騒いで、こちらの困惑も知らないで。それでも理解しようと、俺がどれほど努力したことか。
そのくせ、誰も俺を信用しない。肝心な時に必要とせず、自分たちの世界に閉じこもって、説明もなしに引きずり込んだ。
いつだって、力になろうとしていたのに。
「ナキシュニ」
もはや届いているかどうかも分からない、意味のない言葉の列挙を続けるナキシュニに俺は言った。
「今味わっておられる苦しみは、全てご自身が育てたのです。もはや逃れることはできないでしょう」
ナキシュニは口をつぐんだ。よろめきながら立ち上がり、よたよたと逃げ出した。追いかけるつもりはない。
ナキシュニは行ってしまった。疲れと失望感がどっと噴き出して、立っていられなかった。
あんなこと、言うべきじゃなかった。もう既に深く後悔している。ナキシュニにはもう俺しか頼れないのだと、薄々分かっていたのに。そして、人から頼られるのは好きだったはずなのに。
今、こんな風に考える自分はおかしいのだろうか? ナキシュニに対してすべきなのは、甘やかすのではなくその罪を断ずることではないか? リートの安全のために、ヒヅリたちの悲しみのために。
罪なき人々の虐殺。姪の友達の焼殺。そして、多くの異国人の監禁。どれを取っても悪意の他に見えるものがなく、背筋が凍る。同情の余地などない。
ナキシュニの犯した過ちはあまりにも多く、一つ一つが重い。何故こうまで道を誤ったのか? どこかに引き返せる道はなかったのか? 花領を覆う砂漠のように道なき道を無理矢理切り開いて行った結果が今のナキシュニだ。彼が迷わないよう、導き諭す先人はいなかったのか。
砂漠の中で正しい道など、どこにもありはしない。次々と形を変える価値観の中で、自分を見失わぬようと思えば、何者も受け付けない頑迷さで完全武装する他ない。さもなくばちっぽけな自我など砂嵐で吹き飛ばされてしまう。星明かりを頼りに方角を定めて、孤独な旅を続けて、とうとうたどり着いた先はしかし蜃気楼であったり、期待よりも繁栄していなかったり。そうして失意のままに来た道を戻る旅人もいれば、どこにもない理想郷をずっと探し続ける猛者もいる。
アミールという名誉ある称号に憧れたナキシュニ青年の気持ちは非常に分かりやすい。こんな片田舎で終わりたくないという焦り。まだ見ぬ都への憧れ。田舎者と嘲笑された怒り。しかし、様々な感情を抱えて目的地を目指す内に、ナキシュニの進路は大きく逸れてしまった。長い軍隊での経験によって、或いは真神教徒の交わりによって。たどり着いた場所から見える景色があまりにも血みどろなことに、ナキシュニはいつ気がついたのだろう。足下には出世のために踏みにじった「魔物」の骨が堆く積み上がっている。
自分も同じだ、とその時はっきり気がついた。リートを守るために、何人の真神教徒を不幸にしたか分からない。いつかきっと、リートへの執念よりも己への復讐の方を恐れなければならない時が来るのだろう。
いずれにせよ、ナキシュニはもう終わりだ。あの錯乱具合では、とても公の場に出ることはできない。警吏隊長の地位を降りることになるだろう。
そうしたら、地下の人々の境遇も少しは改善する。期待を込めて、周囲で囁き交わす人々を見渡した。ファリィは雪領に帰れるかもしれない。キースもククも、何の気兼ねなく日の照らす地上を歩ける。ヒヅリも__
ヒヅリは、何を目指しているのだった?
肝心なことを忘れていた。ティウがヒヅリの企みの全貌を知っているのなら、彼から話を聞きたかったのだ。いや、知っているというより、ヒヅリを唆したのはティウなのかもしれない。俺に「ディルムに行け」と言ったように。
それにしても、ティウがあそこまで怒るとはね……。
散らばり始めた人々の中からククを見つけて尋ねた。
「隊長殿に毒を飲ませた男を見なかったか?」
「あっちに行ったよ」
ククが指差す。水路の奥だ。地上だとちょうど広場の方角にあたる。
どきりとした。このまま進むと氷の木の根に行き着く。
ククに礼を言ってから走った。水路はまだまだ長い。彼らの居住空間はカナートの末端に過ぎないのだ。
普段なら、中心部への道は柵で閉ざされている。(何故知っているのかと言えば、リートが勝手に水路の奥まで探検しかけたことがあったからである)しかし今、その柵はめちゃめちゃに壊されていた。
誰がやったのか。検証するまでもない。道は一本しかないのだ。
「ティウ!」
ランプで先を照らし、大声で呼ばわった。返事はない。しかし、前方で微かな物音がする。固くはない。近づくと正体が少しだけ知れた。水の中を探るような音だ。
「ティウ?」
そこまで来ると水路はだんだん細くなっていく。同じ地下でも、先程までいた場所とは随分温度が違う。気づけば腕に鳥肌ができていた。
ばしゃばしゃと水をはね散らす音に混じり、男の荒い息づかいと柔らかい何かをこねくり回す音が顕著に聞こえる。ティウは一体何をしているのだろう?
「ティウ」
もう三度目になる。
「ここですよ」
静かな声が返ってきた。反応があったことに少なからずほっとした。
近寄ると、ティウはちらりと顔をこちらに向けた。その表情は少しも乱れていない。聖なる水に腰まで浸かっていた。ちょっと目を動かすと、凍った樹木が柱のように頑健にそびえ立つ。
水は相当冷たいに違いない。
「何を……しているのですか」
「探し物がありましてね」
ティウは手招きした。彼を真似して水の中に足を入れようとすると、首を振って押しとどめた。
「どうかそのままで。私の用件にこれ以上あなたをつきあわせるつもりはありません」
もう十分付き合わされている気がするが。誰も彼も、内容を話さないうちはまだ無関係だと思っているらしい。
「一体何を探しているんです?」
「ミリの骨ですよ」
淡々と告げるティウは、俺の反応を楽しんですらいるように見えた。
「そう驚かなくても」
「どうしてここに彼の遺骨が……いや、そもそも何故あなたが……」
「何故私がミリの欠片を探そうとするか? __そう、あなたにまだ言っていませんでしたね」
ティウの顔は青白い。半身水に浸かっている寒さが堪えるのだ。彼の腕を掴んで、無理矢理にでも引っ張り上げてやりたかった。
だが、実行に移す前に、ティウは一歩分俺から距離をとった。彼の手の中は空っぽだ。その手が探している物で埋まるまで、ティウはそこから決して出ようとしないのだ。
「ミリは私の息子です」
一言一言を噛み締めるように彼は言った。
「大地の娘である私の妻が、あの虐殺で無残にも切り刻まれた時、私はまだ十歳だった息子を砂嵐の向こうに逃がしました。妻の埋葬と、魔物たちへ協力の依頼__それさえ終えればすぐに息子を迎えに行くはずでした。しかし真神教徒の妨害は予想以上に長引いて」
やっとディルムに向かった時には、ミリはもうこの世にいなかった。
「あの青年に会ったのはその時です。彼がミリの死を教えてくれました。……同じように家族を失った彼を連れてツヴカムに戻ったのです」
ヒヅリだ。
「復讐してやろう。そんな意見の合致があったけれど、彼には武器が何もなかったから。十年かけて魔法を教えこみました。ガラス細工だけじゃありません。人の心をおかしくする魔法です。強い意志でもって、町全体の認識を変えてしまえるように。恐ろしいですよ。自分すら欺けるのだから」
概ね成功したようですね。ティウは呟いた。
「あの火事が蘇ったことで、ナキシュニというアミールは途端に衰弱したみたいですね。愉快でたまらない。あんなに多くの罪なき人間を殺した男が、たった数人巻き込まれた火事で動揺しているのだから!」
少しも楽しくなさそうにティウは笑った。いや、ただ歯の根が合わないだけかもしれなかった。
「またヒヅリがね、私に教えてくれたんですよ。焼け残ったミリたちの骨をこの氷の根元に埋めたんだって。だけどまだ見つからない。十年の歳月と共に木が養分として吸収してしまったのでしょうか? もし幻でなく本当に木が溶け始めたら、骨も出てくるのでしょうか」
ティウは透明な木肌にそっと触れた。指先が黒く変色している。俺は思わず彼のむき出しの手首を掴んだ。氷と変わらないほど体温がない。
「もう……やめませんか」
遺骨を見つけたい気持ちは痛いほどに分かる。もう二度会えないのなら、せめて形見を持っていたい。息子が存在した証をこの世に残しておきたい。
それでも、凍傷を起こしてまで探し続けるのが彼のためだとは、とても思えなかった。
「それ以上冷たい水の中にいたら、体がおかしくなる。地上に上がって体を温めてから、また探せばいいじゃないですか。何なら、休んでいる間に俺が根元を掘り返してみますよ」
「あなたが見つけても、そこらへんの小石と見分けがつかないでしょう」
「そんなことはない!」
ティウはよく、俺を何も分かっていない子どものように扱う。腹立たしくて仕方がない。
「そうだ、ヒヅリに会ってきたらどうです。あなたは彼の師匠でしょう。彼に言ってあげてほしい、未来のためにこんなことはもうおしまいにしろと」
「おしまいに?」
ティウが柔らかく尋ねた。危険な調子が潜んでいることに、この時は気づけなかった。
「そうです。もう目的は達成できたでしょう。ミリを殺した真犯人が分かって、相応の罰を受けたでしょう。もう魔法をかけ続けなくてもいいじゃありませんか!」
ティウはさりげなく俺の手からすり抜け、首を横に振った。
「まだです」
「まだ? 何がまだなんです? これ以上魔法で自分たちを欺き続けても、彼らには何も良いことがない! ナキシュニはもう立ち直れない。今なら、彼の罪を皆の前で告発することだってできる! だから、もう氷の木をいじくるのはやめましょう。時間を未来に進めましょう」
「未来? __未来など必要ないのです」
そう、彼は言い切ったのだ。笑みさえ浮かべて。
「我々にはもう過去しか残されていない。時間などとっくの昔に止まっているのです。私はミリを捨てた時に、あの子は十年前に」
その瞬間、俺の目の前で、ティウが倒れ込んだ。水路の中に。
多分、足を滑らせでもしたのだろう。一瞬にして視界から消えたことに困惑したが、本当の恐怖はここからだった。
白い煙が木や水から噴き出し、辺り一帯を隠した。夢中で払い、水路を覗き込んだ時にはもう遅かった。固い響きの不吉な音と共に流れていた水が凍り、ティウを閉じ込めていた。
仰向けになったティウと目が合った。氷の中の彼は呆然としているようにも、落ち着いているようにも見えた。板状の氷を叩く。ティウはぴくりとも動かない。彼の浸かった水ごと固められているのだ。
目にしているものが信じられなかった。このままでは、ティウが死んでしまう。そんなことがあっていいものか?
素手で殴りつけても、氷にはひび一つ入らない。その内嫌な音がして拳が痛んだ。次は短剣を抜いた。楔の要領で氷の根に切り込んだ。焦れながら長い時間をかけて刃を押し込み、やっと離すと刃先が欠けただけだった。
「決して溶けない氷……か、」
その硬さによって、この木は神聖さと町の安息を守ってきたのだろう。また決して溶かせない、壊れない木だからこそ、ヒヅリたちは偽りの魔法に頼らざるを得なかったのだろう。
しかし、今! どうしても氷を割らねばならない理由がある。憎たらしいことに益々輝きを増していく太古の魔法に挑むのだ。
ランプの火を取り出した。魔法をかけると、思いのままに形を変える。小ぶりな金槌でも、黒い刃の斧でも。まだ火であった頃の熱を宿したまま、力一杯氷に刃を打ち込んだ。跳ね返されても構わず向かって行く。何度も何度も何度も何度も、ありったけの怒りと切望をぶつけた。
どうか、彼を返してくれ。だって、このまま死を迎えるような悪いことを彼はしていないはずだ。ヒヅリやナキシュニやチェロアが今も地上で息をして、何かを思いながら自由に歩けているのなら、ティウだって同じであるべきだ。
返せ、返せ、返せ! その固い扉を、開いてくれ!
炎から出来た斧は、次第に熱を増し、柄を握る手のひらが焼けた。だからかけた魔法を調整し、何よりも冷たくなるよう命じた。火傷と同じ感触と共に振るう斧は、俺に冷静さを与えた。
薄々は分かっている。もう手遅れだ。
『手遅れなんだ』
ティウの言葉が不意に蘇った。どうしてこんな時に。脈絡も必要もない。一層焦りをかき立てる。手遅れだなんていう悪魔の囁きに耳を貸すつもりはない。手を降ろし休んだ時にだけ、本当に手遅れになる。
ぴしりと音がした。希望が膨らむ。いかに魔法の木といえど、不滅ではないのだ。斧を振りかぶった姿勢のまま、木を調べた。不格好な幹に縦線のようなひびが入っていた。
再び打撃を再開する。軋むような音は次第に大きくなっていく。氷の欠片が何百も飛び散って溶けた。もう少し……なのだろうか?
手の痛みが少し収まったので、また斧を内部から熱した。熱で氷が溶け始めているようにも見える。それでも手を休めることはない。幻に騙されるのはごめんだ。本当に木を破壊してしまうまでは決して諦めない。
とうとう、激しい音をたてて大きな氷片が剥がれ落ちた。ティウを覆う氷が少し動いた気がした。
自分が今していることは大罪だ。そんな考えがちらりと脳裏をかすめた。ヒヅリたちの狂言どころではない。氷の木が破壊されれば、ディルムの水源が枯渇する恐れもある。
だが、それがどうしたというのだろう?
今足下で凍りついているのがティウでなくても、リートでもヒヅリでもチェロアでもジョムでも__ナキシュニであっても、俺は必ず氷を砕こうと試みる。それが正しいと頭の天辺から足の爪先まで信じているからだ。
周りの変化を顧みる余裕はない。ただひたすら斧を振るった。ティウに届くまで。息は上がり、腕や手は痺れてもう感覚もほとんどない。それでも狂気じみた破壊はやめない。
氷の塊を最後まで砕ききった時、時間そのものがなくなっていた。
自分の周りには何もない。ただ飛び散った氷片が溶けて大きな水たまりができていた。地下水路は消え失せ、俺はただ一人だだっ広い砂漠の中に呆然と立ち尽くしていた。
そして、ティウの体はどこにもなかった。
どうして。どこにいったんだ。抜けていく力と一緒に、誰に届くあてもない問いを呟いた。分かったことはただ一つ、何もかも無駄だった。ティウは戻ってこないし、俺は取り返しのつかない過ちをしでかした。町の皆はどこに消えたのだろう? リートは、ヒヅリたちは?
それから時間が経って、リートの呼ぶ声が聞こえるまで俺はただその場に座り込んでいた。
湿った足下の砂の中に、白く浮き上がるものがある。何も考えずに拾い上げ、軽い骨状の欠片であることに気がついた。




