5
その日は誰も攻めてこなかったし、警吏のガサ入れもない。チェロアとジョムが戻ってくるまで僕は牛をひたすら作っていたし、オグマはリートに何やら教え込んでいる。魔法の講義だろう。作業中でも、つい後ろが気になってしまう。
彼らのやり方はとても変わっていた。
全て異国語だから何を言っているのか当然さっぱり分からない。オグマが発する短い言葉をリートが繰り返す。時には同じ言葉を何度も言わせているようだ。かと思ったら、二人は立ち上がって、踊りとしか思えない奇妙な動きを滑らかに練習する。しばらく手元に集中していると、何も物音がしなくなった。振り向くと二人がいない。
これには焦った。出て行ったのかと棒を持ったまま外に飛び出し、一通り探して成果もなく戻ってくると奴らは何食わぬ顔で座っている!
おかげで中途半端にガラスが固まってしまう。これじゃ仔牛だ。集中もすっかり途切れてしまったのだった。
「……散々だったんだよ」
僕の話を聞いて、チェロアは笑い転げた。
「いいなあ、それ。私も見たかった」
「いつでも見せてもらいなよ」
オグマはちらりと微笑んだ。リートを寝かしつけながら。
チェロアとジョムが来たのは夜更け過ぎだった。ランプの優しい灯りの周りに集まり、リートを起こさぬよう密やかに話す。ジョムがレモンの酒を回し飲むために持ってきてくれた。飲んでもオグマはちっとも顔色や態度が変わらない。チェロアはいつもより陽気になる。ジョムは絡み酒だ。
「祭りの牛、できたのかよ」
「まだ。とても出せる代物じゃない」
「あと八日後だぜ。いや、準備も入れると精々五日だな」
「そう急かすな。芸術は簡単には為せないものなの」
「ゲージュツだって?」
ジョムが大笑いする。
「オレだって、毎日芸術的な料理を作ってるさ」
チェロアが吹き出した。ジョムはしょっちゅう自作の発明料理を父親に披露するが、通った試しがない。
「“おいしい”と“見た目がいい”を両立させないからよ。おいしいのにまずそう、おいしそうなのにいまいち」
「失敬な! ……オグマさん、今度味見してくださいよ」
「ああ、是非」
「そのためには、外に出てもいいようにしなくちゃね」
チェロアが腕を組んで考え込む。いつまでも二人を閉じ込めていいはずはない。
「けど、二人が歩いてたらすぐに見つかるよな。よそ者だって」
「素性を完璧に隠したまま普通に暮らすなんて無謀だわ。結局は、町の皆に気に入られるのが一番だと思う」
「長いこと暮らすつもりならね……」
「そう居座るつもりはないんだが。追っ手さえやり過ごせれば、あとはどこへでも逃げるさ」
「祭りの後までは確実に居るでしょう? どうせだったら楽しんでほしいじゃない。__そうだ!」
チェロアが身を乗り出す。
「オグマさんたち、水浴びしたらいいのよ。服も思いきって丸洗いしてさ」
「み……水浴び?」
オグマは困惑しているようだ。
「まずは身だしなみから整えるのよ。きれいな格好をしていたら、教団の奴らも目が滑るかもしれないわ。今のあなたたち、どうしても……ほら、なんというか、みすぼらしさが滲み出ているというか」
失礼な言い草だ。だけどオグマは穏やかに、
「だが、俺たちのために大量の水を使わせる訳にはいかないな」
「水なら不足したことありませんよ」
「いくらオアシスでも限度があるだろう。慢心しているとすぐに干上がってしまうぞ」
オグマの心配はごもっとも。だけどこの町には当てはまらない。
「ティルムにはね、水に困らない秘密があるんですよ」
オグマが眉をひそめた。
「一体どんな?」
「木ですよ!」
僕たちはそれから示し合わせたようにしばらく口をつぐみ、オグマの当惑を楽しんだ。
町の中心、バザールも設営を避ける神聖な広場には、古い古い大木がそびえたつ。何でも町が出来た当時からそこに生えていたのだとか。ノマドの襲撃や内乱、大々的な長官の任命式など、数々の歴史を見守ってきた。だがこの木の最大の特徴は、歴史の古さじゃない。
僕らが広場に近づけば近づくほど、真夏には有り得ない涼しさを感じるだろう。薄い垂れ幕が辺りに下りているかのように、誰にでも分かる気温の変化がある。ひょっとすると素肌には寒いほどかもしれない。
興味を惹かれて広場に入れば、太い枝を八方に伸ばした立派な古木が出迎えてくれる。まず驚くのはその色だ。標準的な木肌の色でも赤でも青でもない。ガラスのように透き通っている。もっと近づいてみれば向こう側の景色すら透けて見える。虫なんて一匹もその周りにはいない。
水晶のようなその美しさに惹かれ、木に触れたとしよう。どんな人間でもあっと驚いてすぐに手を離さざるを得ない。手に残るのは冷たさの残滓といくらかの水分だけ。これは嘘でも幻でもない。もう一度触ってみるとやはり冷たい、とても長くは肌をつけていられない。
そう、この木は氷で出来ているのだ。
木を成しているのは、少しの濁りもない甘い清水、それを凍り固めているのが強い魔法だ。木の根だけは地熱に温められて少しずつ溶け出し、町全体にきれいな地下水を送り出す。町の至る所にある井戸は決して枯れることがない。
どうしてこのような水の恵みを享受出来ているのか。遠い昔の伝説では、砂漠の魔物が贈り物として木を植えてくれたそうだ。その真偽を僕らは誰も知らない。でも、これが奇跡だということはよく分かっている。
そう__この大木のおかげで、水の心配を全くしなくても生きていかれるのだ。もし木がなかったら、隊商ルートから大きく外れたこんな町、とっくの昔に滅びてしまっていた。
火を近づけても、かんかん照りの下でも決して溶けない氷を、オグマやリートにも見せてやりたい。きっと口を開けて驚くことだろう。