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氷砕ける時  作者: 六福亭
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 僕はジョムと顔を見合わせる。一瞬のうちに合意に達し、駆けだした。

 人混みを先に抜け出すと、確かに広範囲な煙が見えた。まずいことに、僕の家がある方向らしかった。

 真っ先に思い浮かぶのはチェロアのことだ。今どこにいるんだ? 火事に巻き込まれていたら? その前に、燃えているのはどこなのか__?

 予感は的中した。ごうごうと恐ろしい音をたてて火の粉と家の粉塵を撒き散らしているのは、愛すべきガラス工房だ。

「ヒヅリ!」

 誰かが僕らに飛びついてきた。安堵で足の力が抜ける。膝をついたらジョムに引っ張り上げられた。

「離れた方がいい! 火が移るぞ」

「平気だよ……」

「平気じゃないから言ってんだよ!」

 僕らの後ろに次々と人が集まってくる。水をかけようとする親切な人もいたけれど、ほんのちょっとの水では到底火は消えやしない。他の家からは多少離れているから、建物を壊す必要はない。

 だから、皆、家が焼け落ちる様をただ見つめていた。気づけば町民の全員がいるんじゃないかと思うほど人だかりができていた。ナキシュニも、長官も、エインもいた。ジョムの父親は慌てふためいていた。

「……ヒヅリ」

 チェロアが声を落とす。顔が真っ青だ。

「何?」

「オグマさんが……」

 瞬間的に、頭が真っ白になった。

「オグマさんが!? どうしたんだ!」

 チェロアはすぐに答えずに浅い呼吸を繰り返す。炎に照らされた彼女の目は真っ黒で揺れていた。

「オグマさんが……」

 頭痛がした。誰かが、ぐわんぐわんと頭の中で鐘を打ち鳴らしているような。我を忘れて叫んだ。

「あいつはどこにいる!?」

「おい、落ち着け!」

 ジョムが肩を強く掴んだ。

「落ち着いてなんか……」

「オグマさんなら、そこだ」

 ジョムが指差したのは背後の群衆だ。いや、少し違う。数が多すぎて皆同じに見える顔の列から間違い探しをするまでもない。

 彼らは、列の少し前に出ていた。彼ら、と呼んだのは、例によってリートを抱えているからだ。僕らと同じように呆然と炎を見守っていた。だけど、二人をそれ以上見つめていることはできなかった。

 一際背の高い人間が、ふらふらと進み出てきた。馬から崩れ降りて、誰かの制止も振り払った。腰に吊した御自慢の長剣が重たげに引きずられ、地面に痕を残した。馬は自由になると音もなく人垣の周りを走り回った。

 そんなまるっきり現実味のない光景の中で、ナキシュニは確かにこんなことを口に出した。

「あの時だ……」

 チェロアが何か言おうとして、ジョムに止められる。今のナキシュニは不気味だ。がくがくと震えながらも、触れる者を傷つけるような奇妙な手の動きを見せていた。忠実な彼の手下が背中を遠慮がちに叩いた時、少しの間も置かず蹴り飛ばされてしまった。

 誰も、彼に近づかない方がいい。決して口には出せない共通認識が僕らの間に広がった。

「あの時の火事が……蘇った!」

 投げ出すような絶叫に、人々はざわめいた。

 僕たちだって。ナキシュニが言ったことに驚いていた。背中がじくじくと痛むのを錯覚ではなく感じていた。

「あの時」とはいつのことを指すのかを、僕らは知っている。一番よく分かっている。だって、僕こそが当事者だから。


 十年前、僕たちのささやかな家が燃えて、僕は全てを失った。死者もいる。一緒に生活していた陽気な少年ミリ。そう、彼は殺された。ひどい傷を負った僕は命からがら町から逃げ出したんだ。

 ずっと口に出さないように努めてきた。無かったものにして、時間が降り積もっていけば。あの忌まわしい記憶にわずらわされることはなくなるだろうと信じていた。

 だけど、その愚かな希望は暴力的な手段で打ち砕かれた。ナキシュニの悲鳴に呼応して、誰もが口々に囁く。そうだわ、昔の火事と同じ場所だわ。こんな偶然ってある?

 氷の木が溶けた__この事実に気づいている人間はディルムに何人いるのだろう? 今起きた__いや、この現象はただの記憶の再現に過ぎないのだろうか? __火事によって怪我人が出ていたら?

 もはや秘密をしまい込んでいることはできないのだ。僕ら三人でどうにかできる話じゃない。町全体で認識を共有しておかなければならない。

 僕の視線を受けて、ジョムとチェロアがうなずいた。僕よりも遙かに発言権のある二人は、呆気にとられている皆に話し始めた。

 ふと目を上げると、ナキシュニが逃げるようによろよろと離れて行くのが見えた。付き添っているのは驚いたことにオグマだ。リートを下ろし、ナキシュニの腕を肩に回してゆっくりと歩かせている。

 頭を軽く小突かれた。

「おい、お前」

 思わず無視すると、今度は肩に肘を載せられる。重い。

「僕の名前はおいでもお前でもないよ」

「何でも同じだろ」

 怒ったような口調で言い返すエインの脇をちょうどガラスの馬が通り抜けた。

「あいつらの言ってること、本当なのか?」

 エインの声は小さかった。

「信じられない?」

「そりゃそうだろ。木が溶ける? そんな馬鹿なこと……!」

「だったら見に行けばいい」

 いつものような下卑た笑みや人を苛立たせるだけの言葉を撒き散らすのではなく、エインの顔は真剣だった。

「僕はちゃんとこの目で見た。一回り小さくなった木の周りに大きな水たまりができていたよ。それに、」

「それに?」

「一点をさ、どこでもいいから何分かじっと見てみなよ。少しずつ不可解な変化を起こしてる」

「ふうん……?」

 エインは素直に炎燃え盛る僕の家(ああ、僕の家……)に目を凝らした。

「あんまり見過ぎると目を痛めるよ」

「お前がやれって言ったんだろうが!」

 だっていきなり眩しい火を見つめ始めるとは思わなかったんだよ。

「で? 何か分かった……」

 確認する必要はなくなった。大勢の見守る中で、あんなに無残だった火事場の炎が溶けるようになくなり、家も元通りになっていた。

 元通り? ある意味では。僕はこの親しんだ家の差異に気がついた。壁の色、屋根の痛み具合、家の前に放置された錆びかけの道具。そのどれもが十年古い。

 まだガラス工房でない時の家だ。懐かしさに鼻がつんとした。今にもミリや兄弟が出てくるような錯覚まで__

「ヒヅリ!」

 僕の腕を引いたのはエインだった。

「分かった、分かったよ。確かにへんてこりんなことが起きてる。それじゃあ、オレたちは何をすればいいんだ?」

「そ……そんなの僕にも分からないよ」

 チェロアの話を聞いた警吏たちが隊長抜きで深刻に話し合っている。ジョムの周りには店持ちや青年たちが集まっていた。彼らにとって困るのは何だろうとちょっと考えた。

「それに……これから何が起こるんだ? 歴史の本なんて開いてみたこともないのに」

 これからユリカは大忙しになるんだろうな。

 僕は、見せてもらった絵や、昔話を思い出してみた。

「そうだな、次に起こるとしたら……青い鉢巻きが流行るってことだな」

 ぽかんとしているエインが少しだけ可笑しかった。


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