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氷砕ける時  作者: 六福亭
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 そもそも、ディルムの歴史について僕はあまりにも無知だ。自分が町を出た後のこと、もっと昔、この町に引っ越してくる以前のこと。学校には通っていなかったから、文字の読み書きだってガラス細工の師匠の下で初めて勉強することができた。


 他二人も似たようなものだ。そもそも学校で子どもに歴史は教えない。一人二人のとても賢い学者が紙の記録書を石の部屋で管理しているだけ。あとは、親から伝え聞く嘘のような昔話でほんのわずかな歴史の断片を拾う程度だ。魔物が洪水に乗って襲いかかってくるとか、誰が信じるんだろう?


 そんな中、チェロアに秘策があるらしい。


「ディルム史年鑑の今の管理者は、ユリカなのよ。私たちと同じ歳の。覚えてる?」

 ジョムはうなずいたけど、僕にとっては知らない人だ。

「ユリカ? 女の子?」

「ええ。うるさいこと言わない子だから、頼めばきっと年鑑を見せてくれるわ。なんなら歴史講義を始めちゃうかもね」

 一も二もなく賛成し、朝から官庁へ押しかけた。外は夏至祭の真っ最中で賑わっているけど、反対に官庁の中は不気味なほど静まり返っていた。

「長官やナキシュニ隊長は?」

「祭りの主賓よ。今ごろ木の前で焼き肉でも齧っているんじゃないかしら」

「そうか……」

「ジョム、何を気にしてるんだよ」

「いや……今氷の木の下にいたら、ぐっしょり濡れて肉もまずくなる気がして」

「それって肉の心配? それとも父上たち?」

 軽口を叩きながら薄暗い廊下を三人で進んだ。この建物には窓がない。吹き荒れる砂嵐を締め出すためだというが日中は蒸して蒸して仕方がないだろう。

「ユリカ一人なのか?」

「うん、もう一人はこないだクビになった」

「ほんと入れ替わりが激しい職場だよな」

「あら、いいこともあるわ。喧嘩してもすぐ新しい人間関係を作れる」

「ところでオグマさんは?」

「夏至祭の裏方を手伝ってるぜ。リートも一緒に」

 ジョムがすぐに答えた。父親にいつの間にかオグマを紹介したらしい。昨日はジョムの食堂で働いていたとかいないとか。

「もうすっかり馴染んでるみたいだね」

「羨ましい?」

 チェロアが僕の顔を覗き込んだ。淡すぎる光の中では彼女の顔もよく見えない。いつかの地下道に通じるものがある。

「それが出来るなら最初から上手くやれって思っただけだよ。何も僕に助けを求めることはなかったんだ」

「あの時は本当に困っていたわ」

「どうだかね……」

「チェロア」

 控えめな女の声がした。明るく廊下を照らすランプを持って、僕たちを待っているようだった。チェロアが手を振って彼女に近寄った。

「ユリカ。やっぱり、夏至祭には行かなかったのね」

「あなたもね。ジョムと……ああ、ヒヅリも一緒?」

「僕のことを知ってるのかい」

 ユリカは温かい微笑みを見せた。口元にえくぼができる。彼女が小首を傾げると、つややかな黒髪がふんわりと揺れた。

「勿論よ。一度遊んだことのある相手は皆覚えているわ。ミリのことだってね」

「遊んだ? そうだっけ……」

「まだ十歳の頃だったかな。チェロアとミリとあなたがかくれんぼをしていたから、混ぜてもらった。チェロアが鬼で、わたしは氷の木の上に、あなたとミリは古井戸の中に隠れたんじゃなかったかしら」

 呆然としている僕に気がつき、ユリカは付け足した。

「わたし、記憶力は格別いいの。よく驚かせちゃう。ごめんね」

「いや、謝ることはないけど」

「夏至祭の途中にどうしたの? わたしの昔話が聞きたくなっちゃった?」

「実はそうなの」

 チェロアが素早く食いついた。ユリカはくすくす笑う。

「ちょうど良かったわね、娘のためにお菓子を用意してたのよ」

 彼女の仕事部屋は、様々な書物が雑多に重ねられた塚に占拠されているようだった。人間の寛げる空間なんてほとんど見当たらない。ジョムなんかはいつ自分が塚を崩すかとびくびくしながら身を縮めている。わずかに残った床にあぐらをかいてチェロアが座り、一歳ぐらいの女の子が膝の上によじ登った。ユリカの姿は書物に隠されて見えない。彼女の柔らかい声だけが不思議に響いてくる。

「わたしの王国の居心地はいかがかしら」

「すごくいい」

 ぶつぶつ言うジョムを肘打ちしながらチェロアが答える。

 書物の間からぬっと白い腕が突き出した。ユリカが紙に包んだ蜜菓子を配っているのだ。齧ると固められた甘い花の蜜がとろけて口の中に広がった。

「モネちゃん、随分大きくなったわね」

 ユリカの娘をあやしながらチェロアが言った。リートといい、彼女は小さな子どもを扱うのが上手い。

「そうなの。小っちゃな足でもうどこにでもいけるのよ。ついて行くのにこっちは精一杯なの」

「本に悪戯したりしない?」

「わたしもそれが不安だったから、ダミーの本を用意したのよ。何も書いてない、いくらでもびりびりにしていいものを」

 ユリカは小さく溜息をつく。

「本当は、家で面倒見てもらいたいんだけど、そうはいかないわね。旦那も働いているし、姑も母も死んでしまったから」

 チェロアが僕にひっそりと目で合図した。数年前に起こった流行病でユリカの家族が亡くなってしまったのだと、ここに来る前に教えてくれていた。チェロアもその時に母親と兄を亡くしている。僕が越してくる前のことだ。

「それで? どこの、いつの昔話が聞きたいの? 何でもいいわよ。花領、星領、鉄領? 雪領の話も出来るわよ。つい最近、出身の人に教えてもらったばかりなの」

 雪領、と聞いてオグマを思い出す。だけど今は気にかけている場合じゃない。

「今日はディルムの話が聞きたいんだ。過去にあったことを全部」

 ユリカはふふっと微笑んだ。

「全て語るには三日はかかるわよ」

「そこを何とか……半日で」

 僕の無茶な要求に、ユリカは嫌な顔一つしない。朗々と、よどむことなくそらんじ始めた。


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