30
鼻から息を吸い込めば、香ばしい焼き肉の匂いがする。
バザールを見に行こうとオグマを誘った。オグマが返事をする前にリートが飛び上がって喜んだ。
人々が浮かれさんざめく町を歩くのは楽しい。今までのように一人ぼっちじゃないことで更に心に余裕があった。例えオグマが上の空で考え込んでいるとしても。そんな彼に声をかける町民が何人もいた。少し複雑な気分だ。大事な秘密が皆にすっかり知られてしまったようで。
露店にはありとあらゆる食べ物がある。ジョムの得意料理、米粉の汁なし麺に肉団子。蜜がたっぷりかかったパン。もぎたての果物(秋の熟した林檎や冬のオレンジまで揃っていた)を大量に盛った籠の傍には暑さでとろけそうなキャンデー。遊びの店も忘れてはいけない。賞品を賭けたボール遊び、輪投げ、射的……リートと同じ背格好の子どもたちが群がっていた。
太ももがくすぐったい。見下ろすと、毛並みのいい犬が肉を加えて逃げていくところだった。尻尾を振り回しながら犬は焼いた肉を噛みくだし、溶けるように姿を消した。
思わず大声を出してしまう。
「どうした?」
オグマが驚いている。
「今、犬が……」
指差す方向に奴はもういない。説明のしようがなかった。
注意深く周りを観察すると、やっぱりどこかおかしい。水の中で目を開けた時のように視界がぼやけては、何かが瞬時に変化している。ごく微細な違いでも、喉に刺さった小骨のように違和感を主張してくる。
オグマは本当に気がついていないのだろうか? 屋台に吸い寄せられていくリートを必死に止める彼の表情にはちっとも変化がない。
「オグマさん?」
「ん?」
オグマはすぐに振り向いた。リートも大きく体を反らせて僕になおる。
「最近変じゃないですか?」
口に出してしまってから、少し後悔した。こんな人が沢山いるところで、魔法の話はすべきじゃないかもしれない。
だが、オグマは首を傾げている。
「何が変だって?」
「その……町の様子が」
「そうか?」
オグマは以前のように柔らかく微笑んだ。
「俺にはよく分からない。だが、君が言うならそうかもしれないな」
「僕が言うなら?」
リートがオグマにキャンデーをねだる。懐を探りオグマは肩を落とした。僕はこっそり銅貨を彼に渡す。
「ありがとう」
一つだけ買った雫型のキャンデーをリートが慎重にしゃぶる。うっかり落とすことのないように両脇を僕たち大人で固め、沿道を進んだ。揺らぐ空間はもはや気のせいだと言えないほどに街を変えていく。
夜中近くになって、久しぶりに家に来たチェロアが、やはり興奮して報告する。この間僕も通った地下道の壁が崩れかけている。前見たときはきちんと漆喰を塗り直されていたはずなのに。風邪で寝込む同僚が多くいた。なくしたはずの髪飾りをいつの間にか頭につけていた。実際に見せてもらったそれは、胸が痛くなるほど見覚えがあった。まだ幼かった頃、彼女が気に入っていた星の細工だ。二十を越した女には似合わない。
オグマやリートに髪飾りを見せていた時、ジョムも入ってきた。オグマがはっとして立ち上がり、ジョムがさりげなく押しとどめた。
「町が変だ」
ジョムの声は震えていた。
「みんなおかしい。五年も六年も前の話を今起きたみたいに話してる。どこそこのばあさんが死んだとか、あそこの家で双子が生まれたとか。あと、つる草柄のタペストリーを屋台に飾ってる」
「それがどうした?」
呆れたようにオグマが口を挟んだ。
「つる草柄って、もう何年も前に流行った模様なんです。一時は馬鹿みたいに皆同じ模様の服だったけど、今じゃすっかり見向きもされてない」
「それだけじゃないぜ。今朝は確かに霜が降りてた。だけど昼前には真夏のかんかん照りで、あっちこっちでひまわりが咲いていた。夕方には、麦畑が収穫寸前の実り方をしてたんだ」
ジョムは大きな体をすくませた。
「まるで、魔法をかけられたみたいだ」
僕はそれを聞いた瞬間、咄嗟にオグマを見た。彫像のような顔をちっとも変化させることなく、顎をさすりながらジョムの話に耳を傾けている。
「一体何が起こっているんでしょうね?」
問いかけると、オグマは素っ気なく答えた。
「さあ」
僕とチェロアはこっそり目を交わした。
「ああ、もう一つあるんだ」
ジョムが再びしゃべり出す。
「氷の木を見に行ったんだよ。ほら、灯りを灯すために。そしたら……」
「そしたら?」
チェロアがごくりと唾を呑む。
「木が一回り痩せていた。周りには大きな水たまりが出来ててな、木の表面は濡れてつるつるしてた」
急にオグマが立ち上がった。驚いた僕たちを冷たい目で見下ろし、何も言わずにリートを引っ張って出て行った。
呆気にとられていた中で最初に我に返ったのはチェロアだった。
「何なの、あれ? おかしいわ」
「……ジョムの話にびっくりしたみたいだったね」
「驚いたのはこっちよ。あんな風に出て行くなんて普通じゃない」
オグマの様子がおかしいのは、少し前からだ。そのきっかけは何だ? この異変と関わりがあるのだろうか?
今夜は特に冷え込む。鼻をすすり、三人で話し合う。
「……追いかけた方がいいかな?」
「今ごろ何をしてるか分からないわよ」
チェロアは、オグマをすっかり怪しんでいるようだ。
「あの人には理由がある。よくない魔法を町にかける理由が」
「復讐なんて考える人には見えないけどな」
ジョムが反論した。
「だったら、他の誰が魔法を使えるっていうの? 私たちは見たでしょう。スナネコ団を魔法で懲らしめるところを」
「他にも魔法使いがいるかもしれないだろ。あいつを犯人にするのはまだ早と思うぜ」
「ジョムはさっき、何を見ていたの? あの人は逃げ出したのよ」
「それは……そうかもしれないけど」
「ヒヅリはどう思う?」
意見を求められ、たっぷり考えてから僕は口を開いた。その間、二人は待ってくれていた。
「オグマさんはいい人だ、それは確かだよ。けど、ナキシュニにリートを殺されるところだったんだ。この町を……いや、僕たちを恨んでいても仕方がない」
リートの名前を口に出すと、チェロアの顔が悲しげに歪んだ。彼女はきっと、あの子に対して罪悪感を抱いている。隊長の親戚だからって彼女に罪はないのに。
一方ジョムは、溜息と共にうなずいた。
「オレ、あの二人を探してくるよ。見張りがいた方がいいだろ?」
「ごめん、頼む」
「気にしねえよ」
立ち上がって窓の外を覗き、ジョムはあっと叫んだ。
「見ろ!」
咄嗟に駆け寄った先に広がっていたのは、驚きの光景だった。
何十人の列がとぼとぼと家の前を歩いている。一様に暗い横顔の彼らを剣と鞭で追い立てるのは、見知った顔の多い警吏たちだ。当然その中にチェロアはいない(いたら本当に怖い)。だけど彼女の叔父は列の先頭にいる。今より皺の少ないつやのある顔で、汗を飛ばして行進している。
「あれは何だ……?」
チェロアとジョムはすぐに分かったらしい。
「ヒヅリが町にいなかった時のことよ。叔父上が主導をとって、町の外から来た人たちを皆地下に閉じ込めたの……見て、あの人たちは知ってるでしょう? 地下で会ったわね」
「いつのこと?」
「十年前だよ」
窓から身を乗り出す僕らに目もくれずに歩く人々のあえぎ声が聞こえる。よれた足音が耳に響く。だけど僕には何もできない。
「これは本物? それとも、魔法が見せる幻なのかしら」
チェロアの呟きに応えることはできなかった。
昔起きたことが次々に僕らの前に蘇る。その結果何が起こるのか、知らなければならないと思った。




