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「え?」
チェロアがはっと息を飲む。
「そうだ! この人たちは喉が渇いていたのよ。お水ある?」
「早く言いなよ。水くらい、いくらでもあるよ」
いささか不思議な事情から、この町ディルムは砂漠の真ん中にありながら水に困ったことは一度もない。町のそこら中にある井戸や泉にいつでも冷たい清水がこんこんと湧いているのだ。柄杓で汲んだ水を差し出すと、男は子どもを床に下ろし、そっくりそのまま飲ませてやった。子どもは喉を鳴らしてあっという間に飲み干した。その間に二杯目を用意する。
押し頂くようにして受け取り、ゆっくりとした動作でそれを飲んだ後、男は深々と頭を下げた。
「どうもありがとう……」
彼の喋り方に、訛りはほとんどない。この辺りじゃ全く見かけない猛禽類のような風貌や見るからに暑苦しい黒い(ただし多分に色あせている)マント、奇妙な文様の縫い取りがある帯や頭巾は明らかに彼が「よそ者」であることを示しているのに。
一体何者で、この町で何をしているんだ?
事情を多少は知っているはずのチェロアは、素知らぬ顔で僕の置物をいじっている。
だから仕方なく、しゃがみこんで男と目線を合わせた。子どもが何事か呟く。不気味な、意味のさっぱり分からない響きだった。
眼前で男は座り込んだままぼんやりと瞬きしていたが、やがてふいとうつむいた。
「すぐに出て行く。だから、言わないでくれ」
「な、何を?」
あまりに藪から棒だ。
「俺たちがここに来たことを……」
僕は思わず明後日の方を向く。うだるような真夏の昼間だから、窓の外には陽炎すら見える。もっとも、家の中も大して変わらないが。後で中央広場に涼みにいこうかしら。
「誰に?」
「まもなく誰かがくるだろう」
「誰か、って」
暑さでどうにかしちまったのか、この人。そう思っている間に、男は子どもを抱えたまま立ち上がろうとして、また力なく崩れこんだ。
チェロアが気遣わしげに僕を見るが、あえて目を逸らした。この家の主は僕だ。安穏な生活に垂らされた劇薬のようなこの二人をどう扱うかは、僕が決める。
よく見ると男は何日も寝ていないのか、落ちくぼんだ目の下に濃いくまができていた。顎から頬にかけてまばらに生えた無精ひげは髪と同じく真っ白で、くすんだ顔色と変わらない。子どもの背中をたどたどしく撫でる汚れた指先は軽く痙攣していた。
「別に、すぐに出て行かなくても。そんなに疲れてるのに」
「……駄目なんだ」
男は頑なにそう言い張る。目を覗き込むとぱっと光が散ってすぐ消えた。
この人が、本当に魔法使い? 覇気もなければ畏怖させるような底知れなさもない。ただ深い深い疲れと怯えに沈み込んでいる哀れな人間だ。
チェロアが静かに問いかけた。
「追われているのね」
目に見えて男がうろたえる。そのまま口もきけないみたいだから代わりに僕が聞き返す。
「なんでそんなこと分かるんだよ」
「私の仕事が何か知ってる?」
「警吏隊長補だろ」
チェロアの父親は町を治める長官だが、長官の弟__即ち彼女の叔父は警吏隊長だ。隊長補佐としての彼女はかなり優秀らしく、誰にでも分け隔てなく快活に優しいので、人々からの信頼も厚い。仕事の中身はというと主に町律違反の取り締まりだ。都から遠く離れた砂漠の小さな町だからこそ、治安の維持には神経を使っているという訳だ。
町律は実に多岐に渡る。例えばだね、飲酒の禁止に始まって、路傍での夜明かし、不潔な身なりでうろつくこと、生肉を食べること、身元の保証がない者の定住禁止……。ちょっと歩いたらすぐ何かの町律にあたって罰金をとられてしまう。そういえばこの男だって既にいくつかの決まりにひっかかっているだろう。
チェロアがこの人たちをどう扱うか。僕はちょっと見守ることにした。
「あのね、おじさん。こんな辺鄙な町にはならず者が逃げてくることがあるの。厄介事の種になるから見逃しちゃおけないわ」
男はぼんやりと「おじさん?」と呟いた。どうしてもそこが気になるらしい。
「悪いけど、あなたがどんな人間なのか話してもらわなきゃいけないわ。罪人を招き入れる訳には……」
「罪人じゃない」
相変わらずかすれた声で、しかしはっきりと男が答える。
「そう。だけど魔術師だと言っていたのは? あなたは誰で、どうしてここに来たの?」
しばらく誰も口をきかなかった。かまどの火がたっぷり百回は形を変えた頃、やっと男が細い溜息をついて話し出した。
「俺の名はオグマ。生まれは雪領の最北地で歳は三十三。ある理由で真神教徒から追われているが……決して悪事を働いたからじゃない。できることといったら魔法ぐらいだ。この子はリート。一年前に弟子として引き取った」
彼の話にはいくつも驚きがある。まず……
「三十三? 私と十しか違わないの!?」
「とてもそうは思えないかね」
「や……そういう意味じゃ」
「いい、自分でも分かっている。この髪のせいでリートを孫だと思われたこともある」
オグマと名乗った男はリートの頭を優しく撫でた。少しだけ、鋭い目つきが柔らかく和んだ。
「……それに、雪領だって? ここからどれだけ離れてるんだ」
「家を飛び出してからここに来るまで、二十年以上かかった」
目眩がするほどの遠さだ。雪領と呼ばれるのは、ここから遙か北の得体の知れない国々。とてつもなく寒く、氷を少しずつ削り出したような「雪」が一年中降ってくると聞いた。
「雪領じゃ火でできた衣をまとうって本当なの?」
僕が尋ねると、オグマは微笑んだ。
「でたらめだ。あっちでは毛皮を何枚も重ねて着るんだ。ただ、火種を閉じ込めたお守りを懐に入れて温めることはある」
「火傷しない?」
「魔法で柔らかくくるんであるから平気だよ」
「ヘンな動物はいる?」
「氷で出来た翼で空を飛ぶキサラハクチョウとか、足が八つあるネコとか珍しいんじゃないか」
「雪って食べられる?」
「味はしない。雨と同じだよ」
「ここじゃ雨も滅多に降らないわ」
オグマはうなずく。
「前にいた町では水の確保が大変だった」
「雪領からどうしてこの砂漠にきたの?」
「全て詳らかに話すには、三日はかかる」
「リート君はいくつ?」
「五歳だ。といっても誕生日は正確には分からないが」
「どうして追われているんですか?」
「真神教の七つ星教団と喧嘩してね」
真神教__僕にとっては“異教”の名を出してオグマは顔を険しくした。謎めいた教えを信じる人々だ。聖なる力を宿す火を敬わず、杓子定規な規律にわざわざ従い、僕たち聖火の信徒を敵視する。物好きというかもはやはた迷惑な存在だと言う。彼らが一体何を信じてそんなにカリカリと生活しているのかはよく分からない。
七つ星教団はとりわけ過激だ。世界中を放浪して気に入らない者を殺し、周囲の人間に改宗を迫るともっぱらの噂である。この辺りの人間は、子どもの頃によく「七つ星がくるよ」と脅かされている。
真神教徒との対立となると、心証はかなり変わってくる。
「どうやら悪い人じゃなさそうね。まあ、調べようもないことだけど」
「教団のヒトに確かめてみたら?」
「あんたがやる?」
「ごめんだね」
オグマが安堵したようにうなだれた。
「今言った事情からずっとあちらこちらをさまよっていた。情けない話だが一つの職にも長くつけなかったから、金もろくに手に入らなくて」
すっかりやつれきったオグマに抱かれたリートは、痩せてはいるが、血色はそこまで悪くはない。目立つ傷跡もないし身なりだってまずまず整えられている。
こんな組み合わせは、よく知っている。
大人一人子一人で何とかこの町に辿り着き町の人々の冷たい視線や嫌がらせに耐えながら暮らし始める。やっとの思いで得たわずかな食料は全て子に回してしまうので、いつになっても満たされることがない。それでも糧を得るためには働くしかない。暮らしを改善する余裕などとてもないままで一年、気づけば五年と過ぎていく。
参ったな。もう既に助けてやりたい自分がいる。
家の中には、ガラス細工がどっさり並んでいる。来る夏至祭に出品する物だ。匿うとしたら、小さな子どもに壊されないように、棚の上に上げて置かねばならないだろう。しょっちゅうチェロアたちが泊まりにくるから、壁際には余分な寝具ととっておきの保存を積んでいる。二人を泊める分の準備は充分にあるようだった。
「しばらくこの家にいたらいいよ。なんとか教団をやり過ごすまでは」
ディルムはほとんど皆が聖火信徒だ。狂信的な異教徒なんて足を踏み入れることすら許さないだろう。
「……いいのか?」
「ええ。僕の名前はヒヅリ」
名乗った時、オグマはわずかに目を瞠った。
「ヒヅリ?」
「……僕、あなたに会ったことありましたっけ?」
「……いや」
「私はチェロア。さっき名前は教えたっけ? お腹空いてるでしょう?」
「少し……」
しかしオグマたちの腹は大きく鳴った。チェロアがおおらかな笑い声を上げる。
「ここにはろくな食べ物がないわ。うちから分捕ってくる」
「勝手に決めつけるなよ」
チーズの塊ならあったはず。あとは水、それだけは有り余っている。
「もっとましな夕食を作ってあげる。待っててね、お客さんたち」
リートの赤くひび割れたほっぺたを軽くつつき、チェロアは身を翻して出て行った。
彼女がいなくなると家の中は途端に静かになる。立ち上がろうとするオグマを押しとどめ、うっちゃったままの棒を取った。すっかり冷え固まったガラスは火に入れることで再び柔らかくなる。
「ガラス……?」
オグマが興味を持ったようだ。
「そうですよ。僕はガラス職人だから」
この町で唯一の、と枕詞がつく。もっともガラスは頑丈さでは土を焼いたものには遙かに及ばないから、あまり繁盛はしていない。だけど家から滅多に出なくていいし、ややこしい人間にかかずらうこともないので、僕はこの職を気に入っている。
ふと隣に気配を感じた。いつの間にかリートが側に来ている。ガラスの種に触ろうとするので、慌ててその細い指をつまんだ。
「駄目だよ、火傷するから」
しかしリートはぽかんと見返すばかりだ。気づいたオグマがリートに何事か異国語で言った。するとリートがぴょこんと後ろに退く。
僕の視線を受けてオグマはばつの悪い顔をした。
「この子には、ここらへんの言葉が分からないんだ」
「じゃあ、あなたが逐一伝えてくれないといけませんね」
リートはオグマの後ろから僕の手元を見つめている。またオグマが短く言葉を発する。
「今は何て?」
「邪魔をしてはいけないと」
「そりゃありがたいけど」
子どもに興味を持たれるのは嫌な気分じゃない。色とりどりの透き通ったガラスを、ただの粉から作り上げる様子はさぞ子どもをわくわくさせられるだろう。
「僕の言うことをちゃんと守るなら、ガラス細工を作ってみてもいですよ」
リートの顔がぱっと輝く。しかし、オグマは疑うような目つきだ。
「いいのか?」
「その代わり、魔法とやらを見せてくれませんか?」
「いいだろう。どんなものが見たい?」
「選べるものなんですか?」
「勿論。悲しいもの、楽しいもの、面白いもの。さあどれがいい」
まるでバザールの果物屋だ。
僕が「面白い物」と答えようとした時、チェロアがずかずかと幕をめくって戻ってきた。
「声くらいかけろよな」
「かけても変わらないじゃないの」