烈風と魔王5
◇
「母上、お久しぶりです」
「あら、ふうたん。そんな畏まらんでもええのよ」
母上はわしに甘いのだが、礼儀作法には厳しい人だった。つい癖で背筋が伸びてしまう。
「烈震さんも心配してるんよ。やっぱりまだ踏ん切りは着かんみたいやけど」
少し寂しそうに母上が目を逸らす。
父である烈震は、わしの事を昔から嫌いなのだと思っていた。
幼い頃に家の道場に出入り禁止になったのも、父がわしを嫌ってだと信じていた。
父と距離が離れる分、おジジ様との距離は近くなった。
簡単な遊びの中でも垣間見る事の出来る如月流の動きの精妙さに、これは生物の人の命に至る技だと理解したのは小学生の頃だった。
この技にわしが触れぬようにしようと配慮している。それが大人の考えだと思っていた。
だが、兄は如月の技に触れ続けているという事に疎外感を感じながらも、そういうものだと納得してきた。
父は如月流と道場に関わる事以外は、わしに対しては普通だったし、家族も皆優しかった。
中学の卒業間際に、父がおジジ様を手に掛ける現場を見てしまった。
押し込めていた蓋が開いたような、そんな気分になった気がする。氷のように冷たい心に、体は火のように熱かった。
反射的にわしも殺されるのだと思い、瞬時に防衛の為の思考が巡った。
わしが生き残るには、相手を父を殺害しなければならない。
そう考えたとき、これまで考えた事も無い、人を殺めるプランが一瞬でまとまったのだ。
自動的にその殺人計画はわしの体を動かしたが、一歩踏み出した時点で、父は恐怖に顔を歪めて逃げ去ってしまった。
わしに、その事実は以外だった。父は強く逞しい存在だと思っていた。
如月家には何か尋常ならざるモノがあると思っていたし、それを一番分かっているのは父だと思っていた。
まさか父が逃げるとは思わなかった。
しかし、それで父の真意も知れた。父はわしの事がずっと恐ろしかったのだ。わしが色々と溜め込んでいたように、父もまた恐怖を溜め込み熟成させていたのだ。
こうなってしまっては、お互いに同じ家に暮らす事は出来ないと考え、わしは高校から下宿する事にした。
アレ依頼、父とは一度も会っていない。兄から聞いた通り、如月家の当主は兄なのだ。父が今どうしているのか、わしに知る方法は無かった。
「父上との事は、わしが悪いのです。いずれ、お会い出来るように、わしも頑張ります」
「ふうたん…。その事でうちはこれ以上何も言いません。それより、これから色々大変やろうと思って準備してきたで」
母上はいつの間にか荷物を持ち込んでいた。
これは、まさか、このままここでわしの世話をしてくれようとしているのだろうか。
非常にありがたいのだが、このままでは魔王と二人きりで、一つ屋根の下計画が破綻してしまう。
「母上、わしには魔王がおります。これからの事は二人でなんとかしますので」
「あきまへん。男の人はなーんも分かっとらんのやから。いざと言うときなんの役にも立たん」
母上の少し強い口調に押されるが、ここで引いてはいけない。
「別に何かあったとしても魔王に頼るだけじゃないんじゃ! わし等二人でやっていくんです! いや、いけると思って…ます」
もはや根性論でしか無いが、それでもこれが今の精一杯の気持ちだ。
母上は少し呆れたような顔をしている。
「これは、相当に本気なんやね? なるほどなぁ。あのふうたんにここまで言わせる男か。ちょっと、うちも様子を見とうなったわ」
「あの…、それじゃあ…」
「分かりました。うちも若いもんの間に入って邪魔するほど野暮やありません。安定期に入るまでは、直ぐに駆けつけられる場所には居るつもりやけど、この場に居座る事はせえへんよ」
これは、落とし所としてはいい感じだ。
「はい。ご迷惑かけますけど、よろしくお願いします」
母上は実家で見た柔らかい表情をしている。わしの気も解けて、実家を出てからの色々な話をした。
―
応接室から魔王と兄上が出てきた。特に悪い感情は感じられない。
魔王の話では、如月家の籍に入る事にしたという。
わしは兄の計略を警戒したが、以後まずそうな事にならないか色々とカマをかけてみたが、特に嘘を言うような事はなかった。
ただ、何か隠している感じはしたが、それが何なのかまでは突き止める事が出来なかった。
魔王としても、色々考えての事のようなので、わしは魔王の意向を尊重する事にした。
兄の話では、如月家の籍に入るには特殊な儀礼が必要なのだそうだ。それさえ済めば直ぐに入籍が可能なのだとか。
怪しげな如月家なのだから、まあ、それくらいのしきたりはあるかと思い、とりあえず儀礼の話は後にしてもらった。
何より、今はわしも安静にしなくてはならないので、ややこしい話は後にする事で合意した。魔王も兄上もそれでいいようだったので、ここはすんなりと話が進んだ。
後は今後の事を考えて、わしの家の環境を整える事になった。
魔王は、例のチートで仕事道具を運ぶ手筈だったが、兄上と母上がいる手前、実行する訳にもいかず、一度、魔王宅まで戻る事になった。
母上は兄上に指示を出して、必要な物を買い出しに行かせた。家の事となると母上が一番の指揮者になるのは、実家に居た頃のままだ。
兄上が買い出し、魔王は荷物を取りに行っている間、母上はわしの住環境を今ある家財道具で整え、妊婦として気を付ける事を教えてくれた。
元々、母上の流派も如月流も殺人術なので、人体の構造、特に体の動かし方についてはエキスパートだ。そこに母上自身の妊婦であった経験が加わったアドバイスなので、内容は非常に的確だった。
―
兄上と魔王が戻り、当面の生活環境は整った。
兄上は実家に戻り、母上は近所のホテルに長期宿泊する手続きに出た。
気付いたら夜になっており、わしと魔王の二人だけになっていたのだ。
夕食は二人で家で食べた。妊娠の影響で味覚が変わったのか、米の匂いとねっとり感が気持ち悪く感じるので、うどんやパンを主食に、母上が用意していてくれた煮物を食べた。
今はまだときどき吐き気がある。暫く油モノは食べたくない気分だ。どういう訳か生のキャベツがそそられので、ボール一杯のキャベツの千切りを、おやつ感覚で常につまんでいる。
わしは安静にするので眠るが、魔王は漫画を描く仕事をしなければならない。わしはおやすみを言って床についた。
――
突然に目が覚めた。久しぶりによく眠ったが、まだ外は暗い時間だ。
目覚めを促したのは普段は無い気配がするからだ。魔王はまだ昨日から漫画を描き続けているようだ。
気配を殺して、魔王が仕事をしている部屋を覗く。
そこには大好きな漫画スーパーピンクの原作者が、正にその原稿を生み出しているところだった。
わしは感動した。プロの漫画描きが漫画を描く瞬間など、そうお目にかかれるものではない。
スパピンが生み出されるに相応しい、筆の運び、迷い、無数の試行がそこにはあった。
魔王の描く姿には、鮮烈されたものは無い。ただ無骨に原稿にぶつかるだけ。故にそれが美しい。
あの最高に浮ついたSF日常漫画が、こうして描かれているという事実を知るのはわしだけなのだ。
わしの中の漫画を描きたい欲が刺激される。しかし今は描く事は出来ない。
そんな心と相反する事情は、わしの体の芯をじんわりと熱くさせるだけだった。