菅田の世界7
突然、望んでいた場所に居た。
空気が違う、匂いが違う、音が違う、色が違う、何もかも僕の居た世界とは異なる。ここは紛れも無く、あの夏に訪れた、あの場所だ。
いきなり世界が変わったので、全く頭が回っていないが、心の底から湧き上がるワクワクを、確かに感じている。
「そんで、こっちに来た訳なんやけど、菅田君はどうしたいん?」
「え、そうですね。とにかく仕事を見つけないと、とは思ってます」
「こっちに菅田君が考えとるようなカッチリした仕事は、あんま無いかもな。それに、なんで仕事をする必要があるんや?」
「それは、こっちで暮らしいくには、仕事をして衣食住を整えないと、と思いまして」
糸のような目に戻ったヒグチさんが、上着の袖をヒラヒラさせている。
向こうで見ていた姿と、何か違う気がする。ヒグチさんが小さくなったのか、上着が大きくなったのか、とにかく少し違和感がある。
「あっちの人みたいに暮らしいる奴は、こっちにはあんまりおらんのよね。そもそも姿の無い奴、食べない奴、ひとところに留まらない奴、こっちはそいつの望みの分だけ暮らし方があるから、菅田君の言う暮らしは、かえって難しいかもな」
ただの路地を太刀魚のような細長いモノが飛び交い、鳥の頭をした小人が何も無い影から、何かを箸で挟んで壺に放り込んでいる。
確かに、ここでは僕の知る常識は、何一つ通用しないように感じた。
「それでしたら、僕はこっちで何が出来るか試してみたいです」
手が見えなくなった長い袖をフラフラさせながら、ヒグチさんが近づいてくる。
「菅田町、手えだして」
「こうですか?」
手のひらを上に向けると、ヒグチさんの黒い上着の袖口が置かれ、何か小さな物の感触がした。
僕の手には、色糸で編まれた複雑な柄の紐のような物が置かれていた。
「それは、この世界に触れるきっかけになる御守りみたいなもんや。まずは手首に巻いてみてや」
手首に巻くと、紐は僕の手首の径と全く同じ長さになった。皮膚に触れているがチクチクしない。緩やかな空気の流れが当たっているような、あって無い感覚という不思議な質感だ。
「これをどうすればいいんですか?」
「まずは認識することや。御守りの内は菅田君に触れとるが、外は世界に触れとる。そう認識すれば、世界と菅田君は繋がっとる事が分かるやろ?」
手首の感触を確かめようと意識を集中すると、周りの空気が吸い付いてくるような感覚がする。
「なんか、空気が集まるような、大きな物に当たってるような感じがします」
「よっしゃ、それが世界を引き寄せるゆう事や。後は、そうやな、何か身を守る事でも想像してみたらとうや?」
身を守ると聞いて、僕の好きなアニメのウィンダムが頭を過ぎった。
僕の手の内に、光が棒状に集まって感触まで感じるようになった。
「なんやソレ、ウィンダムのレイブレードやないか。身を守れ言うたのに武器を出してくるなんて、菅田君は物騒やな」
「いえ、これは、その。ウィンダムに詳しく無い人には分からないでしょうが、レイブレードは戦闘未経験だった主人公が、身を守るため改造によって自在に動作する道具に改変したのが始まりなんです。これは武器にも防具にもなる存在なんです」
ヒグチさんが口角を上げて笑う。
「ええで! 菅田君。そういう事がこの世界では重要なんよ。意思によって世界を改変し、その先へと伸ばす事で自分の望みを叶える。ここではみんなそうして生きとるんや」
僕はいきなり手の内に現れたレイブレードに興奮していた。
レイブレードを紐のように伸ばし、10mは先にある小石を拾ったとき、これは紛れもない光子力場変幻刀、通称レイブレードでそのものであると確信した。
こんな事がいきなり出来てしまう世界、やはりここは僕の思い描いていたとおりの場所だ。
「ここでは、皆んながこんな事が出来るんですか?」
「やろうと思えば出来るかもやけど、ウィンダムを知らんこっちの奴が、おんなじように出来るとは思えんな。まあ、それは菅田君のオリジナルいう事やで。ただし、皆んな自分のオリジナルは持っとるもんや。もし誰かの望みとぶつかったとき、それが有利に働くかは、そいつの意思力次第やな」
意思の力が現実に働く世界。僕の思い描いた以上の場所だが、一つ気になる事がある。
魔王先生から習った現実改変の方法とはあまりにも違いすぎるのだ。
あの方法は、現実的では無いし、とても回りくどいのだ。
魔王先生が僕に教えくれていた事は、無意味な事だったのだろうか。
何故、魔王先生がそんな事をするのか、その理由ははっきりとしている。それは、僕にこちらの世界への興味を持たせない事だ。
こんな事を覚えてしまえば、僕はこちらに来てしまうと考えだのだろう。だが、僕はこれを知ってしまった。もう戻る事は出来ない。
「僕のやれる事は少し分かってきました。でも食べたり休んだりするのを止める事は出来ないので、どこか落ち着けるところを探したいです」
「うーん、そやな。それやったらボクの国に行くのはどうやろ。ここはまあ中立で、どこの国いう訳やないんや。いうてしまえば、ここからならどの国にだって行ける。ボクの国やったら、ボクが勝手も分かるし、案内もしやすい。それに、菅田君みたいな考えの奴も多い方やと思うで」
ヒグチさんは、何から何まで親切だ。逆に何故そこまで親切なのか、そこが少し気になる。
ただ、僕はこちらの世界では、まだヒグチさんに頼る事しか出来ないのも事実だ。
「ヒグチさん、僕をヒグチさんの国に連れて行って下さい。まずは、そこでこの世界の糸口を探したいです」
「ほうか。やったら、パッと行ってしまおうか」
ヒグチさんの袖口から、ピンク色に光る水滴が地面に落ちる。
地面の極彩色の板が盛り上がり、僕とヒグチさんをゆっくり空におしあげる。
足元がいつの間にか板から生物の表皮のようになっている。しっとりとした質感から海獣に乗っているような感じがするが、全体像は大き過ぎて把握出来ない。
恐らく、巨大なマンタかクラゲのような生物の背に乗って、僕達の高度はどんどん増している。
高所からの景色で、今までいた場所が、巨大な峡谷に張り付いた蜘蛛の巣のような土地にあった事が分かった。
何もかも大きくて、空には大きな月のような物がいくつも浮かんでいる。
周囲には岩塊や幾何学的な構造物まで浮かんでおり、空に上がっても、その賑やかさの密度は地上と変わりない。
行く先に巨大な水塊が浮かんでいるのが見えた。まるで、空には浮かぶ海と呼べるほどに巨大で、底が知れない。
僕達を乗せている生物らしき物は、巨大な水塊に向かって飛行している。
周りの物が巨大で、風圧も無いので気が付かなかったが、実はかなりの速度で飛行していた。
このままでは水塊に飛行機並みの速度で突っ込む事になる。
このままでいいのか?ヒグチさんに聞こうと思ったときには、既に水塊に衝突していた。
水に濡れた感覚は無い。ただ、ぬるりとした感触の物の中に入ったとい事だけは分かった。
いきなり上だった場所が下になったような浮遊感がして、僕達は広大な草原に湧く小さな泉の上に浮かんでいた。