菅田の世界6
クリームソーダのアイスをスプーンで玩ぶヒグチさんの瞳は、ソーダの緑よりも透き通ったエメラルドグリーンだった。
糸のように細かった瞳が開かれると、吸い込まれそうな、奇妙な魅力を感じる。
異世界人と言われても、疑いようの無いオーラがある。
何故、今までこの雰囲気に気が付かなかったのか、不思議に思うほどだ。
「菅田君は、あっちにあてでもあるんか?」
「あては無いですけど、黒曜石で出来た巨大な岩壁に張り付くような町には行った事があります」
「ほうほう、なるほどな。あそこは町いうよりは、修学旅行でみんな行く有名なお寺みたいなもんや。由緒正しい昔からある場所やけど、今の人の営みからは、ちょっと外れとるから、あてにはならんなあ」
あちらの具体的な情報を聞くのは初めてだった。真偽の程は分からないが、僕が欲しているピースがハマるような感覚がして、一気に興味を惹かれた。
「ヒグチさんは、あの場所に僕が行く事が出来た理由を知っているんですか?」
「別の国の事やから、そんな詳しい訳やないけど、まあ役所に住民登録するようなもんやったと思うで。菅田君の一族は、あっちにルーツがあるけど、こっちに住んどるんやろ? しかも、関係を切っとる訳やないんやから、あっちにも知らせとかんとあかんわな」
僕のルーツはあちらにあるし、あちらは僕を認知している。これは大きな進展だ。
「ヒグチさんは、あちらとこちらを自由に行き来しているんですか?」
ヒグチさんの緑の瞳が閉じて、糸のように細い目が、こちらを面白そうに見てくる。
「ボクは、偶に帰る事はあるけど、殆どこっちで暮らしとるよ。こう見えてライブハウスの店長やってて、それなりに忙しいんよね」
ヒグチさんの懐からスッと名刺が現れて、僕の目の前に差し出される。
「ライブハウスKARMANですか」
「こっちの音楽、特に歌声が好きで、こんな商売やってんけど、結構ハマってもうてな。もう8年くらいになるわ」
ヒグチさんがこちらに来たのは、魔王先生より少し後のようだ。
「あちらにも、音楽や歌はあるんですよね?」
異世界の文化の話を聞くとドキドキする。
「あるけど、こっちみたいに音楽に夢中な奴は、あんまおらんなあ。やっても、皆、趣味の範囲で細々や」
ヒグチさんも魔王先生と同じで、こちらの文化に惹かれ来た人なのだろう。そうであれば、ジャンルは違えど、方向性は同じだから、こちらでも交流があるに違いない。
「魔王先生とは、あちらでもこちらでも知り合いなんですよね?」
「まあ、あっちではそない知らんかったけど、こっちではちょくちょく会いはするかな」
あちらで暮らす人がこちらに興味を持って来るのだから、僕があちらに行きたいと思う気持ちも、あって当たり前だ。
「ヒグチさん! ヒグチさんの力で、僕をあちらに渡らせてもらえないですか?」
いつか、誰かにお願いするつもりだった事が、こんなに早く実現するとは思っても見なかった。
「それは、菅田君の夢をボクに叶えてくれ、いうことなん?」
ヒグチさんは、糸目のままニコニコしている。
「対価は支払います。ヒグチさんが望む物が何なのか分からないですが、お金ならある程度はありますから」
今まで、あちらに行くための準備として、貯金はしてきた。
お金でなんとかなるかは分からなかったが、お金でなんとかなる事もあるだろうと、コツコツ貯めてきたのだ。
「菅田君の夢を叶える義理のない僕に、対価を出してまでお願いするなんて、結構本気なんや。でも、そんな大事を、よう知らんボクに委ねてええんか? 仮にあちらとの行き来をボクが自由に出来るなら、もし、戻りたくなっても、また僕に頼る事になるんやで?」
「僕は、あちらに行けたなら、戻って来るつもりはありません!」
「こちらにある物は全て無くしてもええ言う事か? 仕事も財産も人も縁も無くして、あちらで何をするんや?」
両親や烈風先生、職場の皆んな、そして魔王先生の顔が浮かぶ。
しかし、あの夏にあちらを訪れたときから、僕の心は決まっていた。
「あちらで何が出来るかは分かりません。でも、仕事を見つけてあちらで暮らしていくつもりです」
ソーダとアイスの混じったモノをストローで吸い上げながら、緑の瞳がこちらを見ていた。
「若いのにそこまで気張らんでもええと思うで。そうや、ボクがお試しであっちを案内したるわ。暮らすの戻るのは、その後でもええんちゃうか? それにお試しなんやから、対価も安ーくしとくで。ここのお代を奢ってくれたら、それでええわ」
まさかの申し出に、今動揺している。
そんなに簡単にあちらに行けてしまっていいのだろうか。しかも、案内までしてもらえる。
ただ、ヒグチさんにとっては、あちらに戻るという行為は、大した事では無いのかもしれない。
僕も、田舎を案内してくれと言われたら、簡単にOKするだろう。
このチャンスを逃す訳にはいかない。
「ヒグチさん。あちらに僕を連れて行ってもらえないですか。お代は僕がお支払いします」
僕は、紙のレシートを持って店主に支払いを済ませた。
まだ席に座ったままのヒグチさんが、空になったグラスをスプーンで弾いた。
「決断が早いのはええ事やけど、ほんまにボクに頼んでええ? 僕は親切な振りをした悪魔かもしれへんで」
「悪魔に頼んであちらに行けるなら、もう既にやってますよ」
「悪魔なんてもんは、神の教えから道を踏み外すように誘惑する輩やろ? ボクは、皆が平和に暮らせるルールを敷く神より、自分のしたい事に殉じる者の後押しをする悪魔やと思ってる。悪魔の考え方の方がボクは好きやからね。そういう意味では、今、菅田君は悪魔にお願いしとる訳や。この先に皆の幸せは無いで? 菅田君がおらんなって悲しむ人はいっぱいおるからな。まあ、お試しやから、後戻りは出来るけどな」
悪魔を名乗るヒグチさんの瞳は、より鮮やかな緑に輝いていた。
「誰も悲しまない方がいいですけど、僕も考え方は悪魔よりなんです。あの夏の日に、一旦僕は全部捨てたんです。また僕の手には素敵なモノが集まってしまったけれど、もう一度だって捨てる事が出来ます」
僕は悪魔の誘いに乗るつもりだ。戻れると言われているが、戻るつもりは無い。
「ふーん。そうかー。まあ、いい決意なんちゃうか。ほんで、ここの支払いありがとな。ごっそさん」
ヒグチさんが席を立ち、スタスタと出口の方へ歩き出す。
「それで、あちらにはいつ行くんですか?」
僕が店の鈴が鳴る扉を開けて、押さえていると、軽くお辞儀をしながらヒグチさんが前を通る。
「んー? いつって言われても、もうここはあっちやで」
扉を出た先は、明るいオレンジ色の木の板が敷き詰められた道で、建物は中華ともエキゾチックともとれる建築様式で、全てが極彩色に塗られていた。
慌てて外に出ると、喫茶店はそのままだが、周りの景色は一変していた。
店の立地自体が変わっており、遠くの景色くら、ここが随分と高い場所である事がわかる。
背後には、あの黒曜石の岩壁が空まで続いていた。
僕はあの夏の日に見た、望んで得られる事の出来なかった景色の中に居た。