魔王の漫画2
いつも編集さんが座っている椅子には、突然現れた男の娘が座っている。
あの椅子に座って待たれるという行為は、私に緊張感を与える。
〆切を待つという圧を受けた事は無いが、時折ここに来て様子を見ていく事がある。
編集さんのポリシーらしいのだが、月刊連載には経過での緊張感が重要なのだそうだ。
「それで、私を連れ戻すように言ったのは誰なんですか?」
「さあ、名前は知りませんが、出版社の偉い人からの紹介でしたね。僕が話をしたのは邪悪なS・ジョブズみたいな人でした。何というか悪魔的な感じでしたよ」
なるほど、誰か分からんが、調べればいいか。
「流石に個人的な事で菅田さんを巻き込みすぎなので、抗議の電話をしてきます。大体、この件は直接私に言えばいい事なんですから、失礼過ぎますよ」
「いや、僕にとっては渡りに舟だったので感謝してます。異世界の情報なんて14歳の夏から何も無かったんで、ようやく進展した感じです。だから依頼した人は悪くないですよ」
若いのに気遣いの出来る人だ。流石、大連載を支えるアシスタントだ。
「直ぐ戻りますので、これでも飲んで待っていて下さい」
冷え飲み物がエナジー系の清涼飲料水しか無かったので、やむなくお出しした。
私は缶をお渡しそると海老のように頭を下げながら後退して、寝室に引っ込んだ。
◇◇◆
造りの悪い部屋に辟易とする。未熟な技術とその場凌ぎのエネルギーで動く世界にイラつく。
「久しぶりのこちらには不満か」
白い服を着た女が話しかけてきた。
「貴様は良くこんな場所で暮らせる物だな」
「済めば都だよ。それよりどうだ?何か飲むか? ここはBARと言って酒を嗜む場所だ。酔うという感覚も悪くは無いぞ」
「いらん。低俗な世界から取り入れる物など何も無い」
「なんだ。折角貸し切りにしてやったのに」
この世界に降り積もった無駄を一掃したくなる。しかし、それはあの方によって禁じられている。
この世界に真実の力で干渉は出来ない。それ故に我々はあの方に近づく事さえ出来ない。
わざわざ、この世界の人間に調べさせて、ようやく居場所を特定したのだ。この機会であの方の帰還に漕ぎ着けて、世界の意味を取り戻さねばならない。
「気楽なものだな。真実の世界は無駄を積む余裕は無い。急ぎ、あの方をお迎えせねばならんのだ」
「真実も無駄も、自身が決める事だ。それより電話が鳴っているぞ?」
単純な機械の箱が振動している。遠隔会話すら道具に頼らねばならないとは、なんとも未発達な世界だ。
通話の為に機械の箱を耳元に運ぶ。この動作でさえ無駄を感じる。
『神王国の者だな?要件だけ伝える』
機械の箱から聞こえた声は、間違い無くあの方であった。
同時に体が動かない。腹の辺りが濡れる感覚があったが正体は分からない。
目の前に肉塊が盛り上がり、それが自分の臓物である事に気が付いた。
腹が裂け、内臓が別の生き物のように蠢いている。苦痛は無い。正確には苦痛だけが無い。後の感覚は全てあるのだ。
内臓は形を変えて、腕のようになり顔を握り潰すように迫って来た。
視界が塞がれ間際に向かいの女が見えたが、こちらの状況に気が付いていない。
視界は闇に閉ざされ、辺りからは全く音がしない。
目の前の闇に一筋の切れ込みが入り、一つの大きな瞳が現れた。
『この世界に干渉するならば、この世界の法を持ってせよ。後は好きにしてよいと伝えたな? だが、その範囲であっても私に敵対するというのであれば、容赦はしない。何が敵対したのか理解出来ない内は、悪戯にこの世界に触れる事は止めよ。次は腹では無く頭の中身が飛び出すぞ』
絶対者からの支配。それ以外に形容の出来ない体験をした。
抵抗する余地の無い圧倒的な力量差を目の当たりにして畏怖の念が心を支配した。
そして、同時に想う。やはり、この方を取り戻さねばならないと。
◆◇◇
「早かったですね」
「まあ、私も逃げ出した身なので、強く言える立場では無いのですよ。ですが、いたずらに周りを巻き込むのは如何なものかと抗議したまでです」
ひとまず今の状況の原因は突き止めて対処したが、問題は目の前の人物がやる気満々だという事だ。
「それで、あっちにはいつ戻るんですか。やはり偶には実家に帰らないとですよね? その時は僕もご一緒しますね」
やはり、あちらに行く事自体は反故にならないか。
「実はうっかり帰る事は出来ないのです。事情は少々複雑なのですが、私は家業を継ぐのが嫌で逃げ出して来たのです。戻れば簡単には帰って来る事は出来ません。そうなると、夢にまで見たこの連載が終わってしまう。それだけは、どうしても嫌なのです」
色々と省いてはいるが、これは素直な私の気持ちだ。偶然に私の手に転がり込んだ連載ではあるが、手にして以上は絶対に手離したく無い。
心情としても理解してもらえるだろう。漫画を描く者として連載程欲しい物は、他に無いはずだ。
「魔王先生は異世界の人なのに、どうして漫画が好きなんですか?」
真面目な顔付きで質問された。
「漫画はそれ一つが世界なんです。なんなら宇宙と言ってもいい。漫画に出会う事は、宇宙の誕生に立ち会うに等しい。紙や電子の上に綴られてはいるが、これは人の想像力が産んだ世界であり、そんな神秘的な物に簡単触れる事が出来る奇跡なんですよ!」
弁に熱が入って厨二くさい事を言ってしまったが、私が漫画に出会って感じたそのままを言葉にした。
漫画という物は本当に凄いのだ。勿論、他に創作の媒体は幾らでもある。ただ、これほど現実世界に親和した質量のある二次元は、漫画だけだと思っている。
「本気で漫画が好きなんですね。うちの先生と似たところあります。僕も漫画好きですけど、あちらに行けるなら今の仕事を失ってもいいです。僕の異世界行きも本気なんですよ」
それはいよいよ不味い。あんな何も無い世界に、この輝かしい才能を埋もれさせる訳にはいかない。
どうにかしてあちらの現実を理解してもらう方法は無いだろうか。
「私が菅田さんをあちらにお連れする事は出来ませんが、あちらの事をお伝えする事は出来ます。それを知ってから、あちらに行くかどうか決めても遅くは無いでしょう」
目の前の女性にしか見えない方の表情がパァっと明るくなる。
「聞きます!聞かせて下さい! 今から始めましょう!」
「待って下さい。私は原稿を描く仕事がありますし、菅田さんにもお仕事があるでしょう。私が漫画を愛する事は前述のとおりです。漫画を蔑ろにする行為があるならば、話は出来ません。まずは菅田さんのお仕事が磐石となって、余裕があるならばお話します」
菅田さんが少し考えたように俯いたが、何か閃いたように表情が明るくなった。
「条件は分かりました。それじゃあ、連絡先の交換は必要ですよね。魔王先生に連絡出来る物は全部教えて下さいね」
なんだか少し嫌な予感がするが、今はこの条件で帰ってもらうしかあるまい。
「いいでしょう。全部と言っても電子IDが二つくらいですよ」
「じゃ、早速交換しましょ」
―
疎通確認もしっかり行い、菅田さんは満足そうだ。
「お帰りになるなら、タクシー呼びましょうか?」
「いいです。自転車で来たので、それではまた来まーす。後、さん付はヤメて下さいね。呼び方は次までに考えておいて下さい」
そう言うと、颯爽と帰ってしまった。
嵐の様な時間が過ぎて、部屋はいつもの静けさを取り戻した。普段使わない神経を使って、若干の方針状態だ。
さっきまで人が居た空気が残っているので、なんなく服を脱ぐ気になれない。
いつも座っている椅子も感触が違うので、居心地の悪さから何となく携帯端末を触っていた。
携帯端末から連絡があった旨の電子音がピコンと鳴った。
早速、菅田氏からの連絡だ。