魔王の漫画14
+++++++
漫画を読むのは子供だという意識がまだ強い時代に、私は田舎から出てきた。
田舎にはうんざりだ。特に家業に関わる事は二度としたく無い。
自分の中ではっきりと決別して、誰にも語る事無く、こちらで生活を始めた。
安アパートを借りて、日雇いの仕事で過ごす日々は、厳しいものであったが、新しい環境に触れる楽しさの方が遥かに勝った。
世間の景気か良かったのか、肉体労働を続けるだけで、お金が貯まった。
特に浪費する先も見つかっていなかったので、お金は貯まり、別の景色を見ようと国を渡ったりもした。
世界は刺激に満ちていたが、田舎の景色とダブるところもあり、結局はこの国に戻って来た。
各地の娯楽にも触れたが、一番しっくりきたのは、オタク文化だった。
当時オタクは卑下されて当然の存在だったが、漫画に傾倒するのは比較的許された。
漫画の本は至るところにあり、簡単に無料で読む事が出来た。
狭いアパート暮らしの私は、漫画を購入する事なく、飲食店の待ち席に無料で置かれているもので済ませていた。
月曜日の深夜に行きつけのラーメン屋で、週刊漫画雑誌を読むのが恒例になっていた。
そんな生活が続く中で、読んでいた漫画雑誌に新連載が始まった。特に珍しい事では無いが、折角なので一話に触れたが、これが妙に引き込まれた。
絵のタッチは古く、少年誌に似つかわしく無い、ガッツリ設定のSFで、当時の漫画の流れを無視していた。
何故引き込まれるのか気になった。何度か繰り返して読むと、その度に発見がある事に気づいた。
未知のSF設定を絵だけで説明する工夫、初めて読む場合に目に付くセリフだけで概要が分かる工夫、何より驚いたのは、この作者は物語の登場人物達には決して解けない謎を、読者に問うているのだ。
漫画とは、こうも緻密に描かれるものなのかと感心した。
毎週月曜が楽しみになり、段々と月曜が待ちきれなくなってきた。
ラーメンに入って直ぐに週刊誌を開き、後ろの方にあるあの漫画を一番に読んだ。
そんな生活を5週ほどしたとき、ラーメン屋の客に話しかけられた。
「にいちゃんよ。ここはラーメン食う場所だぜ? そんな子供騙しの本とながら喰いじゃ、ラーメンに失礼なんじゃねえの?」
額に赤いペイズリー柄のバンダナを巻き、レンズの汚れきった銀縁眼鏡に、細面に不精髭の中年男性だった。
「別に誰かに迷惑かけている訳ではないので、あなたには関係ないでしょ」
ニヤついた目付きに、嘲笑を込めた口角、明らかに絡んできている輩だった。深夜の店には多いのだが、この客は酒に酔っていない。明らかにシラフで喧嘩を売ってきているのだ。
「関係はおお有りよ。俺はラーメンの話ししてんだ。漫画はしまってラーメンに向き合えって事がいいてえんだ。行儀が悪いんだよにいちゃんはよ。漫画が読みたきゃ自分で買って読みな。ま、そんな子供向けの漫画買うより、味玉入れた方がいいわな。ガハハッ!」
下品に笑う男にプチんと理性の切れる音がした。私の行儀が悪いのは私のせいだが、漫画を馬鹿にされて悔しかった。
こんなに漫画は面白いのに、この男は読まずに批判だけしてくる。それが許せなくて、どうにか漫画の面白さに屈服させたいという心の炎が燃え上った。
―
あれから二時間、漫画の凄さ魅了について男に話して聞かせた。
男はニヤついたままで、下品に笑うが、私の語る半端な漫画の面白さを、論理的に突いてくる。
私は負けたく無かったので、半ば論理の破綻した感情だけの言葉を口にしていた。
ラーメン屋の閉店時間まで議論は平行線で、私と男は最後の客として追い出された。
「にいちゃんよ。まだ話し足りなくねぇか? 続きはウチでやろうや」
そう言って、分厚いボロボロの二つ折り財布から、小指と親指で紙幣を抜いて、それを振ってタクシーを止めた。
私は男の誘いを受けてタクシーに乗った。車内でも議論は続き、車が何処を走ったかも記憶していなかった。
タクシーは巨大なマンションの前に止まり、男は履いた雪駄からズルズルという音を出しながら建物に入って行った。
私は男に付いてマンションの最上階に到着した。綺麗な建物の中に分厚い扉が付いている。
男はキーホルダーがジャラジャラ付いた鍵で扉を開けると、そこはまた別の世界が広がっていた。
広いはずの玄関や廊下には本が積まれており、空気はむせ返るようなインクの匂いだった。
「まあ、上がんな。きたねえとこだが、茶ぐらいは出すぜ」
雪駄を脱ぎ捨てた男は、さっさと部屋に入ってしまった。
「神夢々先生。どこ行ってたんですか? 早く原稿上げて下さいよ」
ごちゃごちゃした作業机の隙間から、七三分けで白いワイシャツにノータイの疲れたサラリーマンのような人が顔を出した。
「鏑矢ちゃんよ。ちょっと客が居るから奥使うんで、茶頼むわ」
「二時間だけにして下さいね」
私は漫画熱にやられてここまで来たが、周りの異世界感から徐々に正気に戻っていた。
ここは漫画の制作現場であり、あの男は間違い無く漫画家なのだ。
私がこの家の応接室に入ったタイミングで、ようやく完全に熱から覚めていた。
促されたのでとりあえずソファーに座る。私は脳内で様々な言い訳を練った。
「にいちゃんよ。俺の漫画はおもしれぇか?」
おー、お!? 俺の漫画? 確かこの人はカムノマ先生と呼ばれていたが、私が擁護した漫画の作者は、神夢々冷とか言う読めない名前だが、カムノマレイと読めなくは無い。
「もしかして、ショッキングムーンの作者の方ですか?」
「そうだぜ。俺の名前は神夢々冷。商業誌ではそう名乗ってる」
これは完全に嵌められている。しかし、何故、原作者が自分の漫画をあそこまで批判するのか、それが分からない。
「う、そうとは知らず失礼な事を言いました。ですが、何故あんなにご自身の作品を批判されたんですか?」
「おいおいおい。俺が描いているのは漫画だ。作品じゃねえよ。そんな高い所に置くものじゃない。手に取って目先30センチ先にあるもんだ。それに俺が今描いてる漫画は、人気じゃない。批判も何も巷で言われてる一般論を言ったまでだ」
嫌に冷静に突っ込みを入れてきたの、一般読者のトレースだったからか。それにしたって自分の漫画なんだから、愛着があるものなんじゃないか?
「一般論を言われたって、私は一読者ですよ。私がショッキングムーンを毎週楽しみ読むのは、私の自由ですよ。いくらあなたが作者だからと言って、漫画の好き嫌いを決める権利は無いでしょう?」
漫画家の男は、手を叩いて下品に笑った。
「ディひぃやあーー! 確かに! それについてはにいちゃんに間違いはねえ!」
ノックの後に応接室の扉が空いて、さっきのサラリーマン風の人がお盆を持って入ってきた。
非常に丁寧にお茶がテーブルに置かれた。サラリーマン風の人が去ろうとするところ、漫画の男が止めた。
「鏑矢ちゃんよ。このにいちゃんをアシスタントとして雇おうと思うんだけど、どうよ?」
え、急展開? 私の感情は完全に置き去りになったが、今思えばこれがターニングポイントだった。