6. アイリスの勧誘(3/3)
「……朝?」
シェイラは鳥の囀りで目を覚ます。アイリスが居なくなった後、自分の思ったより疲れていたせいかベッドで寝落ちしてしまったことは覚えているが、その後一度起きたような、その辺の記憶が夢だったのかどうか判断できずにいた。時間でいえばざっくり半日以上眠っていたことになる。
起き上がるために身を捩ると、背中に何か人肌ほどに暖かいものが触れた。それに何だか枕が硬い。触れると、筋肉質でよく鍛えられた誰かの腕だった。頭の傍は上質な白い布地で覆われ、袖先は金の刺繍が施されている。シェイラはどうしてか、いつの間にか腕枕されていたようだ。
シェイラの身動ぎで腕の主が目を覚ます。掛けられたシーツがふわりと取り払われ、身を起こしたシェイラは眠気眼を擦って傍らのアイリスに問い掛ける。
「なんで腕枕……?」
くぁ、と欠伸をひとつ。
「私の指を取られたのでね」
「指?」
「こちらの話だよ。朝食は食べるかい?昨日はずいぶんとぐっすり眠っていたようだったから、夕食の時にも起こせなかったんだ」
言われてみれば酷く空腹だった。自覚した途端、シェイラの腹からくぅ、と小さく声がする。少し恥ずかしくて、お腹をそっと隠した。
「フフ、では広間へ行こう。既に料理人が準備している頃合いだ」
廊下を抜けた先、ここへ来た時にも一度座ったことのある大テーブルの広間は、天井のステンドグラスからの色とりどりの光で明るく照らされていた。カートに乗せられた料理が料理人の男性によって運ばれ、既に座っている何人かに提供される。座っているどの人物も、アイリスと同じ制服を着こなしていた。
「おはようございますアイリス様。昨晩は自室で済ませるとのことでしたから、ここでのお食事は実に1週間ぶりですな」
一際恰幅のいい、口髭をたくわえた男性が奥の部屋から現れ、アイリスに話しかける。ドワーフに見紛う体型だが、れっきとしたヒト種である。
「おはよう、チーフ・バベルサ。出先ではずっと君の料理が恋しかったよ」
「はっはっは!そう言って戴けるとはこのバベルサ、より腕がなるってもんです」
大樽のようなお腹をぱしんとはたいて眩しい前歯を覗かせる。バベルサはそこで、視界の端の黒い何かに漸く気付いたようだった。
「おっと、この坊っちゃんが例の子ですかい」
「ああ。悪いが、1人分追加で頼めるかい?」
「勿論!もう御用意できてまさぁ」
シェイラとアイリスが席に着き、バベルサはカートに乗った料理を二人の前に置く。あたたかな野菜のスープからは食欲を誘う鳥と香草の香りが立ち、焼きたてのバケットが添えられている。今まで食べてきた簡単で質素な食事とはかけはなれたその朝食に、シェイラはどう食べていいのか分からなかった。ちらりと隣を見ると、アイリスはパンを千切ってスープにつけて食べている。なるほど、と納得したシェイラは見よう見まねでパンを手に取り、千切ってスープに潜らせ、口へ運ぶ。
「どうだい坊っちゃん」
シェイラは目を見開く。それから一心不乱にパンを千切り、スープとともに食べ始めた。こんなに美味しいものがこの世界にもあったなんて。もう遥か昔に味わい、忘れかけていた記憶が甦る。簡単に手に入っていた、当たり前のものが懐かしい。あっという間に、すっかりスープの皿は綺麗になっていた。
「はっはっは!よっぽど腹が減ってたみたいだな。おかわりならあるが、いるかい?」
バベルサの声ではっと我に返ったシェイラは、自分を微笑ましく見るバベルサやアイリス、その他テーブルに座っている生徒会の者らしき人物達に気付く。ぽっと顔を紅くして深く俯いた。
「さあ、腹ごしらえも済んだところで、昨日の件を改めて報告させて貰う」
赤髪のディンゴはその場の全員の注目を集めた。空になった皿は既に料理人達によって回収され、テーブルの上には食事のかわりに報告書の束が人数分配られた。勿論、シェイラ以外。
「今月に入ってウェストゥーム家絡みの事案は5件、そのうち暴力沙汰まで発展したのが2件だ。恐らくアイリスの不在にかこつけて起こしたんだろう。さらに止めに入った風紀と、被害にあってた生徒1人に対して脅迫。家ごと潰すだのなんだのと喚き散らかしていたらしい」
はあ、と頭を抱えるディンゴ。
その右隣に座っている、シェイラより少し背の高い薄藍色の髪の青年――カミヤ商会の跡取り息子、エーゲ=カミヤが、書類をパラパラと捲りながら言葉を続けた。
「被害者の生徒は貴族階級じゃない子で、ちょっとした無礼に対してウェストゥーム側が過剰に制裁したみたい。今は休学して実家に戻ってるよ。……学内での階級差は規則で禁止されてるけど、外で因縁つけられないとも限らないから別の街へ引っ越すかもしれない、って」
難しい顔で腕を組むアイリスに、ディンゴが問うた。
「……どうする?これ以上放っておいたら、俺達生徒会の存在意義が問われかねん」
「あの糞野郎の狙いは会長でしょ?また前みたいにボコボコにしちゃえば……」
「バカ野郎、そんなことしたら次に何をしでかすか分かったもんじゃない。……腐っても相手は四騎士の家系の人間だ。アイリスがウェストゥームと戦ったのは騎士祭の見世物の一環としてだっただろ。単なる実力差を根に持って騒ぎを起こしているんだろうが、この程度で収まってるのも、言い方は悪いが好都合だ。奴が本気でアイリスを襲ったり、これ以上の事件を起こせば、学園内で収まる問題じゃなくなる。最悪イースタンとウェストゥームの間に亀裂が入るかもしれん」
「でも会長に相談するってことは、風紀じゃ手に終えなくなってきたんじゃないの?」
言葉に詰まるディンゴ。
「会長、もう生徒会としてなにか手を打たないと……」
エーゲはすがるような視線をアイリスに向ける。
広間に静寂が満ち、水底のような光陰のゆらめきが床をさざめく。アイリスは顔をあげた。
「ではこうしよう。来月行われる定期試験で、私は彼と一騎討ちをする。互いの学籍を賭けてね」