2. シェイラの入学(2/3)
アイリスの発した殺気は一瞬だった。執事はそれ以上喋ることなく、学園へと向かっていくアイリスが見えなくなるまで頭を下げていた。シェイラにしてみれば執事である彼の言い分も尤もであったので、元はといえば自分が事の発端だのにと、申し訳無さげに彼のことを見上げる。それに気付いてか、執事の男性は主人を見送ってからシェイラに声をかけた。
「シェイラ様、先程は申し訳ありません、アイリス様のお立場をと考えるあまり、あなたのことを侮辱してしまった。私の不肖の至るところでございます」
「いえ……あなたの言ったことは当然だったと思います。僕なんかと喋っていたら他の貴族になんと言われるか分かったものではないですから」
数瞬の間が空く。
「……ご聡明であられる。きっと大成されることでしょう。さあ、学園を案内いたします」
シェイラは断ることも出来ず、彼の……というよりアイリスの好意に甘えることにした。正門から学舎までは色レンガで組まれた大きな一本道となっており、両脇は手入れの行き届いた美しい庭園が広がっている。噴水の周囲には珍しい蝶がひらひらと舞い、花壇に咲くエンジュソウの花で休憩する。ベンチに今は誰の姿もないが、時間によってはそこで過ごす学園の生徒を見ることが出来そうだ。
大理石のアーチを潜った先に、目的の学舎はある。年季の入った校舎は築200年とも言われ、改築に改築を重ねて時代時代を写してきた由緒正しい建築物だ。その現在の外見は大半が大理石とレンガで構成され、所々には緻密な彫刻が刻まれている。キュルシット神話に登場する剣と知の神をモチーフにした像が、学舎前の広場の中央、大噴水の上に鎮座していた。
「何というか……凄い場所ですね」
「ヴォレイン王国内で最も古い歴史を持つ場所のひとつ故、その荘厳さは筆舌に尽くしがたいものでございます」
校内も似たような装飾が散見されたが、外観より落ち着いているような印象を受ける。寮生の多いこの学園で、華美な光景をひたすらに見続けるのは学生本分に悪影響だとされたのだろう。確かに、甲冑に囲まれた部屋で学びたいという奇特な者は少なそうだ、とシェイラは物言わず納得する。
ところで、とシェイラは話を切り出す。目的の学園事務へはあと少しのところであった。
「アイリス様はここの生徒会長と仰られていたと記憶しているのですが、どういった方なのでしょう。僕は街に出たばかりで、このあたりの貴族様の事情には疎いのです」
「アイリス様――アイリス・イースタン様は、この領地を治めておられるウロメリオ・イースタン様のご子息でございます。幼き頃より剣術や魔術に長け、お父上に勝るとも劣らぬ秀才でありながら、人一倍の努力家でもあらせられる。次期当主という重い責任を若くして負っておられる苦悩は、私どもには秤知れぬところがございましょうが、とても立派な方でございますよ」
学生の身でありながら、貴族としても苦労しているようだった。だがそれをしてああいう振る舞いが出来る強い人だとも言えるのだ。もし自分にそんな重圧が降りかかりでもしたら、などと考えるだけでも厭になってしまう。
そうこう話しているうちに目的地に到着したシェイラと執事。受付の女性は執事の顔を見ると、にこやかな笑顔で話し掛けた。どうやら知り合いであるようだ。
「ごきげんようバルゥさん。こちらまでお顔を出されるなんて珍しいですわね」
「ええ、少しこちらに用がございまして。この方……シェイラ様の入学手続きをしていただきたいのです」
「あら……失礼かと存じますが、この坊っちゃんは」
「正門前で道に迷っておられたようで、アイリス様が私に案内せよと命ぜられた次第でございます」
「そうでしたか!じゃあ早速手続きを始めますわ。シェイラくん、編入手続きの書類、親御さんから預かっていないかしら」
……書類?
シェイラは頭上に疑問符を浮かべる。ポーチに入っているのは数日分の保存食と薬草類、ヴォレイン王国周辺の共通通貨が宿一泊分、あと小脇に抱えた魔導書だけ。当然あの髭老人、そんな書類の事などシェイラには一切話していなかった。
「もしかして、持ってない?」
「あ、えと……はい」
幸先が悪いなんてものではない。あれほど感動的な別れをした老人の元へ「学園に入れなかった」などと言いながら戻るのは、流石のシェイラといえど躊躇われた。もしかしたら彼は自身の相当古い記憶を伝にしていたのではないだろうか、とシェイラは己の浅慮さを嘆く。
「だ、大丈夫よ。別に事前に用意しなくても、ここに書類とペンはあるわ。必要なことを記入してもらって、ちょっとしたテストに合格すればいいの」
ごそごそと棚を漁り、受付の女性は紙とペンをシェイラに渡す。上質な紙には編入申請書とあり、その下にいくつかの記入項目が箇条書きに並んでいる。同時に渡された羽ペンは魔導具の類いのようで、勝手にインクが補充され出てくるという優れものだ。
「文字は書けるかしら?良かったら口で伝えてくれれば、私が代わりに書いてもいいのだけど」
「書けるので平気です。……ただ、ちょっと」
問題があるとすれば、受付のカウンターが高いせいで書類を書こうと思ったら床を下敷きにしなければならないことだろうか。この国の人の平均身長がだいぶ高いお陰で、小柄なシェイラは度々苦労してきた。森の家も当然この基準であったので、私物を床に置く癖がついてしまっているほどだ。
「そ、そうね。じゃあ私が代わりに書くわ。ただ最後のサインだけはあなたが自分で書かなければならないから、そこだけはお願いね」
そうしていくつかの質問に答えていく。名前、年齢、出身、履歴等々……最後まで記入が終えてなお、空欄がちらほらとあるようだった。とはいえ街の外から来た者や貧困層の出身で学園に来る者もいたため、わかる場所が最低限埋まれば問題はない。だが、それにしてもシェイラの書類は少々受理しがたい出来となってしまった。
「年齢不明、出身地不明、これまでは森の奥で生きてきて、そのお師匠さん?に勧められてきた……うーん、一応名前さえ解っていれば、テストの結果次第で入学出来ることにはなっているのだけど」
「……何か問題が?」
受付の女性が難しい顔をする。
「最近は良い家柄のご子息様やご令嬢様も増えてきて、そうした方々が他の生徒の身分……というか、そういうのを気になされるの。例えば街の商店の子なら、その後ろにいるのはその子のご両親、アイリス様であればイースタン家、というように。貴方の場合、そのお師匠さんになるのだけど、そういった子が入ってくるのを快く思われない方も一定数いらっしゃるのが現状ね」
「では、喩え僕がテストに合格したとしても……」
「絶対というわけではないわ。でももしかしたら厭なことがあるかもしれない。……十年も前はそんなこと無かったのだけれど」
寂しそうに彼女は語った。
シェイラは迷っていた。ここで入学できたとしても、その貴族様からの陰湿な嫌がらせがあるかもしれない。受付の女性の口ぶりから察するに確実に虐められるのだろう。ただ、お師様の意向を放って学園を去るという選択肢は取りがたい。お師様はきっと、自分に更なる知見を広めさせ、また森の奥から街に出て人々と関わらせようとしたいのだ。二つの選択を天秤にかけるも、揺れは一向に収まる気配を見せない。
しかし、透き通った聞き覚えのある声によって、天秤は大きく傾くことになった。
「もしかしたらと思って来てみれば」
きらびやかな空気を背後に残しながらやってきたのは、シェイラが正門で出会った貴族、アイリスであった。アイリスはにこやかに受付の女性に微笑みかけ、カウンターに放置されていた書類を手に取る。女性は慌てて頭を下げる。この街の当主の子息の突然の訪問に、かなり狼狽しているようだ。
書類を一瞥すると、アイリスはそこに何やら書き込み始める。その所作にもどこか優雅さが滲み出ているようだ。
「これで問題ないだろう、試験は私がする。学園の運営法に則った権限はあるからね。教師の方々に訓練所を空けておくよう伝えてくれないかな」
一方的に話を進めてしまったアイリスは受付の返事も聞かず、シェイラの手を牽いて歩きだす。何が何やら解らないままのシェイラは逃げることも出来ず、ただ小走りにアイリスの少し後ろに付いて行かざるを得ない。
「どこへ向かうのですか?」
「訓練所だよ。入学には試験を通過する必要があるけど、この時間では手の空いてる試験官が居ないからね」
交わす言葉はそこで途切れ、暫く二つの靴音だけが静寂な学舎に響く。広い学園は移動するだけでも時間がかかる。貴族と庶民は半ば隔絶されている、という知識のあるシェイラは訊ねずにはいられなかった。
「どうして僕なんかをそんなに気に掛けるのですか?僕は貴方からすれば何処の者とも知らない庶民なのですよ?……貴方の印象を汚すことになるかもしれない」
再びの静寂。高く翡翠色に染まった天井と、ステンドグラスに差す光が廊下をどこまでも照らしている。跳ねた輝きが白い制服を影に染めた。
「泥の中であろうと、美しい璧には価値があるものさ」
その喩えの意味がよく解らないままに、アイリスとシェイラは学園の一角にある広間へと辿り着いた。