1. シェイラの入学(1/3)
ヴォレイン王国の東の要、人口数千ないし数万人を擁する貿易街イースタン。王族近衛4家のうちの1つが治めるヴォレイン王国指折りの大きな街であり、隣国と国内の貿易拠点だ。ここには世界中ありとあらゆる物品、そして文化が集まると言われている。
大きな街にはあらゆる施設があるものだ。……とはいえ、ことイースタンに至ってはその規模は段違いである。王立私立問わずありとあらゆる産業が許可されているため、およそ考え付く全ての店、施設が本当に存在する。ついでにそれらが暴走しないための非常に強力な衛兵隊も常駐しているため、普通に暮らす分には最も安全な街でもある。
そんな場所にシェイラが訪れた理由は簡単で、ヴォレイン王国には努力義務教育制度が存在するのだ。
数えで10歳から30歳の間で、王立か王家の承認を得た学園に最低1年通う。これを満了した者はそれを示す簡易勲章が与えられ、相応の知識人としての証明となる。多くの場面でこの勲章の有無は重要な判断材料となるため、商人、国家術師、衛兵隊長等の職に就こうとする者や、そうした"上級市民"の子供達は挙って学園へ学びに行く。
こうした背景から学園は知識層ばかり通うようになっているため、国家としての努力義務教育制度が疑問視される声もちらほらとあるようだが、それはまた別の場所で語るとしよう。
さて、実のところシェイラはこの街の土地勘はあまり無い。なぜなら普段食料を買いに訪れるのは、この街の端にある市場ばかりであるからだ。そこが森から最も近いという理由もあるが、一番に、街の中央へはそれ相応の理由がなければ市民でなければ立ち入ることは推奨されていない。入れないわけではないが、衛兵に睨まれ続けることになるのは必至であった。
シェイラとしては買い物の度に睨まれるのはあまり気分が良いものではないため、いつもの露店より先に行ったことは無かった。この度初めて踏み入れるイースタン街内に心踊らせながら、シェイラは少しばかり鼻息を荒くして歩みを進めるのだった。
イースタンに入って暫く、手元の案内と街路を照らし合わせながら目当ての学園へと辿り着こうとしたその時、がらがらと慌ただしく車輪を鳴らす車が脇を掠めていった。
何事かとその先を見れば、もう目と鼻の先にある王立イースタン学園の正面大門の前に馬車はきっちりと停まっていた。漆黒と金縁に彩られた明らかに高級な車の扉が、恐らくはその家の執事であろう身形の整った初老の男性によって恭しく開かれる。それと同時に真っ赤なカーペットが乗降口から扉の向こうまで、風に靡くように敷かれていった。さほど難度の高くない風魔法の一種だな、とシェイラは呑気に考えている。しかし、その思考はすぐに消え去ることとなった。
馬車から降りてきたのは、学園の制服をきっちり着こなした眉目秀麗な青年であった。白銀に輝く髪が彼の歩にあわせて揺れる。すっと通った鼻筋、薄く閉じた、藍色の瞳が覗く切長の目、薄い唇は外の空気を吸って広角をあげ、その美しさはまるで月光の元の蝶を思わせた。
こんな美しい、完成された造形美があるものか、とシェイラは驚愕する。記憶には美しいとされるものを多く覚えていたが、これほどまでに本能的美しさを感じさせられる存在に出会ったのは、そして"他者"に興味を抱いたのは、前回も今回も併せて初めてであった。
美しき青年は、どうやら視界の隅っこで半口開けて突っ立っている奇妙な人間を発見したらしい。シェイラに近い方の眉をぴくりと持ち上げると、真っ直ぐにシェイラの方へと歩きだす。
これには当のシェイラも驚いた。どう考えてもどこかの貴族であろう者が、何の変哲もない一般人である自分へ近付くことがあろうか。さらに言えば、こちらはその貴族様に頭も下げず見つめ続けた不敬な庶民だ。最悪の場合と言わず首が飛ぶ。シェイラは一瞬にしてその思考に辿り着いたものの、今更どうこうできる距離でも状況でもないのだった。
「迷子かい、少年」
「……え?」
美青年は膝を曲げ、シェイラに視線を合わせて優しく微笑む。最低でも街から追放されるくらいの処罰を覚悟していたシェイラは呆気にとられ、先程とは別の理由でぽかんと口を開けていた。
すると、いつの間にか青年の背後に立っていた彼の執事が青年の耳元で囁く。
「アイリス様、間もなく時間でございます。お戯れはこの辺りに」
「おや、私はこの少年を気に掛けているだけだよ」
執事の言葉に耳を傾けない青年アイリスはシェイラの顎先に手を添える。深く黒い瞳が藍色に染まった。
「身形はしっかりしているし、術式のかかった本を抱えている。それでいてこの時間に制服も着ずこんな場所にいるってことは、恐らくは新入生じゃないかな?」
「は……はい」
「やっぱり」
アイリスはすっと背を伸ばし、純白の制服のローブがひらりと流れる。徐に執事の持つ手提げ鞄を引ったくるように受けとると、空いた片手でシェイラを指差した。
「アイリス様、お荷物は私が」
「爺、彼を案内してあげてくれないかな。彼も……そうだ、名前を聞いてもいいかい、黒目の少年」
「ぼ…僕はシェイラと言います。姓はありません……すみません」
下級市民には姓の無い場合も多い。先述のとおり、昨今はそうした市民はさっぱり学園には居なくなってしまっている。そして多くの貴族は下級市民を軽蔑するのも世の常であろう。アイリスというこの青年も、学園に入るのだから少なくともどこかの有力な家の子だろうと考えていたに違いない。話し掛けた人間が姓の無い、ましてやイースタンに住む市民ですらないと分かれば、今度こそ某の処罰を覚悟する必要があるだろう。
「アイリス様!あなた様は学園の生徒会長にしてイースタン家次期当主にございます。民へ慈愛を注ぐことも立派なことではございますが、貴族としての立場というものもお考えにならなければ……!」
「爺、僕の言葉が聞こえなかった?」
「……っ」
シェイラは、まるで周囲の空気が凍りついたかのような雰囲気に全身がざわついた。アイリスの殺気――魔力回路の急激な変位により発生する魔力制動とそれに伴う認識圧――は常人では考えられないほど明確に感じ取ることができた。これは彼が非常に優れた魔力回路を持ち、さらに操ることが出来ることを示している。容姿だけでなく、術師としての才能も天に恵まれているようだった。