13. イースタンの休日(2/6)
翌日の早朝、揃って早起きしたアイリスとシェイラは用意しておいた外出用の高級感溢れる衣服―――とシェイラが素人目に評価した、金刺繍の施された天鱗糸製の装いに身を包み、あの正門前で運命的な出会いを果たした際に乗っていた車に乗り込む。扉は執事のバルゥが丁寧な所作で開け、アイリスとシェイラを中へ誘った。
「これより旦那様のお館へ参ります」
御者が馬を歩かせ、車輪が地を蹴る。石畳の上を進むせいでがらがらと車を震わせるが、そこはクッション付きの座席がうまく吸収してくれているため尻には響かない。
バルゥが黒革で装丁された手帳を右手に、背筋を正して伏目がちに視線を落とす。オールバックの白髪を固める整髪脂の僅かな匂いと紅薔薇の香料が混ざり合う、内臓を潰すような独特な臭気が室内に漂っているせいか、若しくは単純に乗り物に乗り慣れていないためか、はたまたその両方か。
「本日も例年通り、アイリス様のお迎えを兼ねたパーティが開かれる予定です。勿論、シェイラ様用のドレスもご用意しておりますよ」
シェイラは顔を青くして馬車に酔い、それどころの話ではなかった。
「シェイラ、大丈夫かい」
「……………はい」
「大丈夫じゃないみたいだね。お屋敷はそう遠いわけじゃないから、もう少しの辛抱だよ」
アイリスはそっとシェイラの肩を抱き寄せ、背中を擦る。シェイラは頬をアイリスの心臓のあたりに預ける形となり、とくんとくんと耳心地良い鼓動に意識を集中させることで、少しは症状も和らいだようだった。
「到着次第、酔いに効く薬を用意いたしましょう」
「ああ、シェイラの介抱は任せる。私はその間に父への挨拶を済ませてしまうことにするよ」
「……よろしいのですか?旦那様は、シェイラ様にお会いになるのを非常に心待ちにしておられたのですよ」
それはアイリスも知っている。同じ領内、それも同じ街に住んでいながら今まで月に一度手紙を寄こせば多いほうだった仕事人間が、急に週に二度も三度も送ってくるようになったのだから。アイリスとしては、彼の父、ウロメリオ公爵にシェイラを引き合わせるのはあまり面白いことではないし、引っかかるところもある。
「どうして父上がシェイラにこうも会いたがっているのか、私はその理由を聞いていない」
「それは……」
「父上はシェイラの事を私からの手紙の文面でしか知らない。……それ以外に情報網はあるだろうけど、あの家庭を顧みないような男が突然シェイラに興味を抱くだろうか」
とはいえ会わせろという領主の命を無視し続けるわけにもいかず。ならば共に面会してなるべく手元に置いておこう、という心積もりである。
「わたくしは何も聞いておりませぬ故、如何とも答えられませんな……」
「ま、どうあれ一緒に帰る予定ではあったんだ。結果は変わらないさ」
今となっては、シェイラを無理矢理イースタン家に縁組させることを快諾したのも妙ではあったのか。仕方のない事とはいえもう少し周囲の変化に気を配っておくんだったな、とアイリスは内心独り言ちた。
お屋敷の敷地は高い生垣で仕切られ、唯一の出入り口は正面の鉄製の柵扉で閉じている。旧い灯華の花に囲まれた天の使いと竜のレリーフ、中央には右向きの矢に交わる4本の剣というイースタン家の家紋が大きく据えられている。よく手入れされた扉に錆は一つとして無く、開ける際も殆ど音を立てずにゆっくりと開いた。
「シェイラは一旦客間に通して、そこで休ませるように。私が戻るまでは傍に付いていてくれ」
「かしこまりました。どうぞごゆっくり」
寄り添うシェイラをそっと離し、肩をバルゥに任せたアイリスは一度襟を整えて門を越える。学園の庭に引けを取らずイースタン家の庭園もよく整えられ、夏季に映え、まるで太陽のような花を咲かす太陽草がアイリスの背丈ほどにまで背を伸ばしていた。白塗りの玄関口には家付きの侍女が数人、アイリスとシェイラの到着を待っている。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま」
一番に声を発したのは侍女長のミサンガだ。
「シェイラに酔いを抑える薬を。私は父上に挨拶してくる」
侍女が扉を開けるが早いか、薄い上掛けを預けて勝手知ったる館を歩いていく。一度身なりを整えてはどうかという侍女の提案にも、丁寧だがどこか突き放すように断った。
2階中央、一際目立つ扉がウロメリオ=イースタン公爵の執務室だ。アイリスはふぅと一息吐き、2、3回扉をノックした。
「アイリスです。只今帰りました」
少しの間が開いて、低く唸るような返答が返ってくる。
「入れ」
この部屋はアイリスか執事のバルゥしか入ることが許されていない。そしてアイリスがここに足を踏み入れたのは、幼い頃の一度だけだ。
扉の向こうには、執務机で領内の重要な事務処理を行うウロメリオの姿があった。ブロンドの漂う銀髪や皺を走らせる藍目、すっと通る鼻筋、薄い唇といった顔つきは、やはりアイリスの血縁であることを感じさせる。アイリスがこのまま老いたなら、恐らくウロメリオによく似た姿になるだろう。
アイリスが執務机の前に立つと、ウロメリオは手を止めてアイリスの眼を見る。
「お前がここへ来るとは、どういう風の吹き回しだ?」
片眉を吊り、アイリスをして稀に見る表情の変化に内心驚いた。
「それは私の台詞です父上。らしくもなく催促してくるなんて、人が変わってしまったのかと思いましたよ」
互いに表情一つ変えずに言葉を交わす。一つ一つ踏みしめるような文言の往来は、互いに某かの意地があるのだ。
「儂とて人の子であり人の親だ。早くに母親を失ったお前は儂の手を借りるまでもなく育っておる。…………たまには父親らしい事もしてやらねば、死んでから説教をくらいそうでな」
「―――父上、何の事か話が見えません」
すると、机の引き出しを開けて紙束をいくつか取り出す。それはここ数ヶ月、アイリスが父親へ向けて送った手紙だった。
「今までは定期報告……いや、生存報告に近い内容だったが、ここ最近のお前の報告はこのシェイラという者のことばかり。それに今年は休暇に連れ添うことも考えているというではないか。嫌でも察しがつくぞ」
に、と歯を見せるウロメリオ。アイリスは人生で初めて、父の子供っぽい笑顔を見た。
「シェイラ嬢と上手くいっているのだろう?将来家族となるやもしれぬ息子の伴侶を見定めるのも、家長たる儂の仕事よ」
「…………え?」
「仮にシェイラ嬢が平民とて問題はない。隣はさておきヴォレインの婚姻制度に厳密な身分制限は無いし、それにお前の母親も元は平民の出であるからな」
それは初めて知った。
「ちょ、ちょっとお待ち下さい父上」
「いや、愛想はよいがどうにも他人と距離を取っているように思っていたが、愛する者ができたようで儂は安心しとるぞ」
再び元のしかめっ面に戻ったウロメリオが、一枚の紙をアイリスに差し出した。婚姻契約書だった。
「……父上、ひとつ、お伝えしたいことが」
「何だ?」
これまでの気苦労は何だったのかと眉間を押えるアイリスは、この誤解を解くべく真実を突きつける。
「シェイラは男性です」
アイリスは人生で初めて、父の驚いた顔を見た。