0. シェイラの旅立
「……時の流れとは斯くも早いものよ」
最寄の街まで徒歩1週間、人の立ち入らぬ森の奥にぽつりと建つ質素な家。古いながら手入れが行き届いており、所々修復され過ごすのに不便ということはない木造家屋だ。
そこに住む白髪の老人は、立派に蓄えた髭を撫でながらそう呟いた。その装いはまるでみすぼらしく、古めかしい刺繍の施された布が彼の歴史を物語っているようだった。しかし伸びきった眉から覗く鷹のように鋭い目は、彼が未だなお力のある人物であることを如実に表している。
彼の目の前には齢12かそこらの少年がおり、真新しいローブを満足げに羽織っていた。この世界では数少ない黒髪黒目、彫りの浅い顔は実年齢から相当幼く見え、ある時街に出た際には露店の婦人から大人気であった。
「お師様、この頃はそればかりですね」
「何を他人事かのように言う。お前を拾い、この何にもない森で育てあげ、そして独り立ちするというのだ。老いぼれ心にも寂しさくらいあるぞ」
「でしたら僕と共に街へ出ればよいのでは?イースタンは僕ら2人が追い出されるほど狭い街ではないでしょう」
「そうしたいのはヤマヤマなのじゃがな……」
青年の提案に老人は少々ばつが悪そうに視線を避けた。 老人の意図がわからない青年は、ただ不思議そうに首をかしげる。
支度の整った少年が扉の前に立つ。街に出て違和感のない術師らしい正装に、大きめのポーチを肩から提げている。内側に印を施し内容量のかさ増しされた特別製だ。
老人は少年に向きなおし、その手にある分厚い本を渡した。地味ながら細部にかけて丁寧に装飾され、魔術による特殊な鍵が掛けられた魔導書であった。魔術に関する古今東西の知識、そして老人と少年しか知り得ない、とある事について書かれている。その詳細を理解できる者はそう居ないと思われる、歴史的にも偉大な書物だ。
貴重な魔導書を渡された少年は顔を引き締め、真っ直ぐに老人を見る。
「兎角シェイラよ、お前はこれから独りで生きてゆくことになる。儂の言った戒めを守るのだぞ」
「はい。……お師様も、どうかお元気で」
最後に老人と少年は抱擁を交わす。
彼らの間に血の繋がりは無い。だがしかし、そこには確かに親と子の絆が見てとれるものであった。どれほどこうしていただろうか、どちらからともなく互いの腕を離し短く握手をし、少年は踵を返した。