第一部 「thyjhwxl thy」 白い白神
撫子小唄
第一部 「thyjhwxl thy」 白い白神
三弦木撫子さん 十七歳 春
一 三弦木撫子さん
差し込む日差しもだいぶ高くなり、
もう、朝日と呼ぶには辺りをはばかられるような時間に、
白を基調としたマンションの一室で、
撫子さんは目を覚ます。
今日の撫子さんの生活は時間に縛られない。
部屋に何かを置くのが嫌いな撫子さんはすっきりとしすぎた部屋のベッドから起きあがると、
寝ぼけ眼をこすりながら、
カーテンを開く。
遙か先には湾岸地区、その更に向こうには平らかを広げる東京湾。
高層階の南東に向いた部屋に良く晴れた空の輝きが差し込む。
フローリングの床を素足で歩き、広々とした部屋の反対側のCDラックから、
――今日は何となく洋楽かな――
と一枚のCDを選んですぐ横のコンポに納めスタートさせる。
刹那的な同性愛の破綻を重苦しく奏でるその曲に満足しながら、
洗面所へと向かう。
――コーヒーは、インスタントで良いか――
――それとも――
そんなことを考えながら。
二 破壊
女性でも、太い声は出る。
人前での怒りでなければこそ根源の憎悪の支配に身をゆだね、
その声はもはや言葉にできなくなる。
蛍光灯の青白い光が不健康ですらある地下室、
打ちっ放しの壁、
黒ペンキで無造作に描かれた三人のシルエット、
デブ、
ノッポ、
小柄なロン毛は女性か。
撫子さんが声を張り上げる。
「う」でも「あ」でもない、
濁声にもならない絶叫の中次々と磁器を投げつけてゆく。
白いブーツ、
ロンググローブ、
ロングスカート、
レザージャケット、
コンクリの壁、
蛍光灯の光、
砕け散る破片、
反響する憎悪。
暗闇の階段を上がってくる撫子さんは、
白い顔を落ち着かせ、
スタジオの若いマスターに会釈する。
真夏の日差しの降り注ぐ街に向かい、
浅黄の小花柄ノースリーブに合わせた、膝下レースのサーキュラーを揺らしながら。
日傘を、携えて。
三 igwxl thy urlilfhm
よく晴れた平日の昼前、
表参道でも裏原でも渋谷でもないその界隈は都内にありがちな、
閑静を通り越した住宅地の静寂の中。
路地を南東に抱いた建物は身をずっと後ろに引き、
空堀のようなドライエリアを庭として構え、
地下に構えたショップ
イグウィクセル スィ ウルリルフゥム
のウィンドウに四月のフォトンが音たてて降り注ぐ様を微笑みに見守る。
左右に分かれた地下一階、地上三階建ての建物を奥まった位置で繋ぐのは、地下から屋上までを貫く螺旋階段。
その螺旋階段と路地を繋ぐ中空の渡り通路以外には、
一階左手のカフェ&スクールにも、右手の美容室にも、
そして ショップ にも
辿り着く為の道は無い。
打ち放しの外観とガラス張りの大きな店舗達がシンプルに、
空間を解放する中を、
鴇色にコーディネートされた長身のゴシック・ロリータがヘッドドレスの下、
無垢の頬の上に新奇の眼を見開きながら、
辺りを見回すように渡りを歩み始めると、
左右の店員が、
次いで階下の店員が目聡く気づき、
そして優しく素知らず振る舞い続ける。
バルーントゥがコンクリートを音たてて降りてゆくと、
ショップの店員の一人が受話器をあげる。
撫子さんは、
その店員に会釈をすると渡りの下、
リボンにレースアップされたオーバーニーのトップレースを擦るように歩を進め、
ショップの前の空堀と路次の間の植え込みだけが外からの視線を遮る地下庭の一角、
日陰のテーブルに腰掛ける。
「どうですか、オーナー」
二階のオフィスから降りてきたマネージャーはロンタイの似合う三十代。
――少し、賑やかしいでしょうか――
撫子さんは微笑みに返すと下げていた紙袋からクッキーの小包を取り出す。
マネージャーはかけながら、まぁ、と驚きに口を開けてみせる。
撫子さんは小包を開け、まずマネージャーに勧める。
――点数が、多くないですか――
それを聞くとマネージャーは安心したように微笑んで、
「白シャツを一点、下げましょうか」
と提案し、クッキーに手を伸ばす。
撫子さんが首を横に振り
――負けますね――
と返すのは、納得した証。
――どうです――
「楽ではないですよ」
気を利かせたカフェの店員が、注文を取りに来る。
撫子さんがアイスのミントティーに決めると、マネージャーがそれを二つ指定する。
――構成を、変えたいと思いますか――
撫子さんが、地下から thy を俯瞰するのを真似て、マネージャーも建物全体を見上げる。
「まだ、納得できてませんからね。thy の三つのお店をそれぞれ独り立ちさせられるぐらいにならないと」
――では、遥さん。次の三ヶ月も管理していただけますか――
遥さんは微笑みに撫子さんを見つめながら、
「ご用命いただければ」
その後、飲み物さえ届けば、微笑みと世間話の時間。
やがて殺風景と紙一重の空間を貫く階段を、マネージャーは二階まで、撫子さんは三階まで上がると、
thy のいつもの一日が始まる。
開かれたガラス戸の奥で、店員が小さく微笑むいらっしゃいませ。
四 (・ん・)
雲の隙間の目立つ昼下がり。
thy の三階から撫子さんが降りてくる。
一階の美容室にいた遥さんが目聡く見つけて手を振ると撫子さんは、
邪気の無い笑みに目を細めて、
カーディガンの袖に隠れ気味の手のひらを、
指を立てて小刻みに降りながら、
渡りを渡ってゆく。
「今の、オーナーですよね」
日の浅い美容師が遥さんに尋ねる。
「そうよ」
「あれじゃ、女子高生ですよ」
何か、変、
と笑うマネージャーに驚く美容師がおかしくて、
店長もくすくすと笑う。
駅前。
制服の少女達より撫子さんは確実に、頭一つ分背が高い。
その撫子さんが、
口をとがらせながらしきりに携帯の画面を確かめるのはどこかかわいらしい。
「ごめんごめん、携帯持ってきてたんだ」
待たせていたのは、撫子さんより頭二つ分背の低い女の子。
「いくよ」
セーラーカラーを翻す勢いでその子はきびすを返すと、撫子さんの前を歩き始める。
ついて行く撫子さんの面持ちは、
見守るようでもあり、追いすがるようでもあり。
少女が数多の店を冷やかしながら、
何か話しかけようとも、
二人の会話はかみ合わない。
恐怖映画の掛かる映画館前で
「見てかない」
と訪ねてきた少女に撫子さんは答えない。
やがて駅前で分かれた後、一人で電車に乗る撫子さんに一通のメール。
「今日もまた
(・ん・)
って顔してたね。
歩いていても、話しかけても、笑うときも困るときも君は
(・ん・)
って顔。
おもしろい。
また、遊ぼうね」
五 味噌汁
ミスチルの曲が好きだ。
戻ったマンションで早起きした撫子さんはベッドしか置いてないような部屋のベッドから起きあがると、
シャワーをすませ、
髪を乾かすのもそこそこに、
味噌汁を作り出す。
白い壁面。
天井から床まで続く一筋の隙間の脇をそっと押すと開く。
ビルトインのクローゼットから背の高い、
折りたたみの丸テーブルを出すと窓際、
フローリングの床にたてる。
椅子も出す。
キッチンから味噌汁とご飯、岩海苔と浅漬けを出してくる。
陽光の差し込む朝餉。
――いただきます――
朱塗りの箸に輝くお米を小さなお口に頬張る。
いい気分。
ミスチルの曲が好きだ。
六 夢
暗闇の中、部屋の隅の常夜灯だけが柔らかな光を灯す午前四時、
泣きながら目を覚ます。
――ヤダ、イヤダ――
常夜灯が部屋の隅に作る陰が何かを孕む。
いつものことだから、
もう忘れてもいいのだということは判っているつもりだ。
愚図るように啜り上げる。
こういうときだけ、感情が止まらなくなる。
いつか、くるのだろうか。
いつか、来てしまうのだろうか。
いつの日か、訪れるのだろうか。
――ヤダ、イヤダ――
七 海
一フロア全て一人暮らしで借り切るのは手広すぎる。
西向きの部屋は調度も含めて日焼けしそうで使っていない。
掃除機をかけるときぐらいしか入らないからきっと、
――私以外の何かが棲んでいるのだろうな――
と撫子さんは考える。
北西の窓を開けて空気を入れ換えるのは黄昏時、
遥かの左手足柄の山脈に隠れんとするは日輪。
橙に照らし出される眼下の町並みは地平まで延々と続く。
背の高い建物は隠れ岩。
その陰は長く青みを宿す。
吹き込んでくる風が撫子さんの顔を洗う。
黒く、素直に長い髪が部屋の奥へと吹き流れる。
海が見える。
やがてこの街を沈め飲み込み茜や神鳴りに煌めく未踏の大地へ連なる海が見える。
水底の都市が夕光を浴びて橙に輝く。
八 げふ
咲ちゃんがCDを探すのを手伝ってCD屋さん巡り。
喧噪の中。
咲ちゃんはアダルトのDVDショップだろうが、中古のCDを扱っていれば全て廻る。
端から見れば撫子さんはぼっと突っ立っているようにしか見えない。
ハウスチェックのスカート丈も短めなので、盗撮されてもおかしくないが、
後ろに目でもあるかのようにその辺りはさりげなく気遣っている。
撫子さんより頭二つ分背の低い制服姿の咲ちゃんがめざとくチェックを入れると、
「行こうか」と店を出る。
撫子さんは従順な足音で付いてゆく。
更に幾つかのショップを巡る。
棚を眺めていると、咲ちゃんから
「行こうか」
と呼びかけられる。
しかし、咲ちゃんのお目当てのアーティストが目の前にあったので、
指し示そうと指を立てた途端
――げふ――
と突然こみ上がったげっぷが漏れる。
咲ちゃんが乾いた笑い声にお腹を抱える。
撫子さんは耳まで真っ赤にしている。
店員さんに注視されるのが恥ずかしくて咲ちゃんの袖を引っ張るのだが、
カーディガンがほんの少し伸びるだけで、
咲ちゃんはけたたましく笑い転げたままだ。
帰りの電車、メールが届く。
色々書いてある。
「ちよーぅける。
(*へ*)
って顔してたね」
思い出すと恥ずかしくて、
また、耳まで赤くなった。
九 威圧感
thy の前庭、ドライエリアは、
懇意にしているお客様にもご利用いただくことはあるが、
基本的には従業員のスペースだ。
カフェ&スクールに雇って三ヶ月経った慶子さんの、
試用期間が終わった。
継続か契約終了か、
遥さんと撫子さんとで面談。
さすがに撫子さんもこういう時にまでセーラー服は着ない。
マーメイドラインのロングスカートに白シャツ。
ビビッドレッドのサテンタイを短く締める。
「すいません、どうも、すいません」
緊張癖のある慶子さんは、すいません、が口癖だ。
ステンレスフレームのテーブルを囲むようにして並んだ、
ステンレスパイプの椅子が三脚。
上のカフェから三人分の飲み物を持ってきた慶子さんが、
飲み物を並べ終わると、
遥さんが指を揃えた手のひらを伸ばして椅子を勧め、
慶子さんがようやく座る。
ホットのアップルティーを遥さんがすする。
山羊の乳を入れたフルーツティーが冷めるのを、撫子さんが待つ。
「永澤さんはもう慣れましたか」
「あ、はい、すいません」
うつむき加減に両手を膝の上に置いていた慶子さんは、
左手で前髪を直しながら答える。
蜂蜜をたっぷり溶かしたアイスウィンナーを目の前にしながら、
ストローを差し込もうともしない慶子さんに気を使い、
撫子さんがやはり、
指を伸ばした手のひらを差し向けて
――どうぞ――
と促すと、
「あ、はい、すいません」
とストローを差す。
今一度、遥さんは飲み物に口を付け、
ゆっくりとした間を作ってから話し始める。
撫子さんは聞き役だ。
遥さんのことをマネージャーと呼び、
撫子さんのことをオーナーと呼んでくる慶子さんを見て撫子さんは、
私のことが怖いのだろうな、
と思う。
よくわかる気がするが、
その理由となる自分の過去を振り返るのが怖くて顔をしかめてしまう。
そんな自分と目があった慶子さんの表情が曇るのを見て、
反省する。
「つまんないこと言いますけど、
やっぱり皆さんの足を引っ張っちゃうんじゃないかなあって、
そう、思います」
斜め上、道路から降りてくる急斜面の壁を見ながら遥さんがもう、
ぬるくなってきた飲み物に口を付ける。
「永澤さん自身はどうなの。続けたいの。辞めたいの。
どちらが第一希望なのかしら」
「つまんないこと言いますけど、
もう少し、頑張ってみてからはっきりさせてみたいです」
「じゃあ時給を正式契約分にして、三ヶ月だけ延長してみましょうか。
その時もう一度話し合って、それから半年契約にしても、一年契約にしてもいいでしょうし。
もちろん、その時逆にこちらからお断りすることもあるかも知れないけど」
「あ、はい、そうして下さい」
うつむき加減のまま、降りてきた前髪を左手で直した慶子さんの頬に、
ほんのかすか赤みが差したのを撫子さんは見逃さなかった。
「オーナーも、よろしいですか」
――ええ――
――でも、一つだけ――
――つまらないこと、と言ってから話し出すのを直して欲しいです――
大分冷めたフルーツティーを、一口ずつ飲みながら撫子さんが答える。
遥さんが笑う。
「そうですね。
永澤さん『つまらないこと』と言って話し出すことはないです。
あなたにとっては大切なことなんだから、
だからそれは止めるように気をつけてみて。
オーナーからはその点だけです」
遥さんがそういうと、慶子さんは頬の赤みを強め、
苦笑いを撫子さんに向けてきた。
――頑張ってもらえますか――
「はい」
撫子さんが立ち上がると、
遥さんは「お先に」と二階のオフィスにあがる。
トレーにカップを収める永澤さんからレシートを受け取ると、
撫子さんは三人分の支払いのために、
一階のキャッシャーまであがっていく。
慶子さんは、そんな撫子さんの後ろ姿を眺めていた。
その向こうの青空を、一羽の鴉が渡る。
十 交差点
時には
――どうせ学校に通っていないのだから、これも単なる仮装なのだろうか――
と考えないこともない。
口さがない同業者からその才能を「魔女」とささやかれていることも知っている。
人はまず外見で中身を判断する。
店舗を、空間芸術と見る撫子さんにとっては、
内装や、品揃えだけではなく、
BGM、香り、喧噪、照明、だけではなく、
町並み、だけ、でもなく、
店員、も、
大事な構成要素となる。
接客を見るのに化粧と服装ははずせない。
喧噪の中を歩いても、常に抱くむなしさは変わらない。
あれから五年、どんな湿度の夏も、伽藍堂の胸には乾いた風を運んできた。
神宮前の交差点、
時には、一足ごとにナンパされかねない自分の面立ちに面倒が立ち、
無愛想の冷酷に正面の中空を見つめず歩く。
突然後ろから捕まれた鞄に驚くのはわずか。
おとなしく身を引いて歩を早めようとする。
「お姉さん。これ」
声変わりを迎えていない声の主は背の低い男の子。
横断歩道の上で立ち止まる二人。
「この間の写真、渡したかったんです」
一月前、呼び止められたのは同じ横断歩道の上。
「おばさん、写真撮らせてください」
背の高い撫子さんの胸にも届かない背丈のナンパ師を撫子さんは、
見えないものとし気づかないこととした。
膝丈のタイトスカートに揃いのジャケット。縦にレースの流れるシャツにスカーフをタイにして巻く。
網柄のストッキング。
黒いハイヒール。
巻き上げた髪。
サングラス。
渡り切り、右に足を向けたとき瞳を右に向けたのが間違いだった。
横断歩道の上で名残惜しそうに見つめるのは、
素直に伸びた黒髪の下、輝きの漏れる目を細め、
使い捨てカメラのダイヤルを、
もう、止まっているのになで続けるカメラマン。
立ち止まる。
青信号が点滅する。
男の子が、上目遣いに会釈してくる。
小走りに歩み寄ると差し伸べた手を握らせそのまま向こうまで渡る。
――危ないよ――
「時間、あります」
沈黙。
見つめ合う。
「おばさんみたいな人、なかなかいなくて。
僕のお小遣いじゃ、使い捨てカメラしか買えないけど、
これほら、僕の写真です」
彼は取り繕いすら伺えないほど幼い仕草で、肩から提げた鞄をあさり、
百円ショップで買ったプラスチックのファイルを出す。
ビニール越し、サングラス越しでもその写真が、
無垢故の荒削りのままセンスに支配されていることが伝わってくる。
サングラスを外してうなずく撫子さんの目は細いまま。
それでも、男の子は「あ」と驚きの声を漏らす。
頬が、赤らむ。
男の子の指示で、横断歩道を渡りきった撫子さんは先頭に立ち、
青信号とともにゆっくり歩き出す。
反対側から三歩進んできた男の子が立ち止まると、後ろの歩行者が迷惑そうに避ける。
しかしすぐに男の子が写真を撮ろうとしている撫子さんの面立ちに打たれ、
決して男の子と撫子さんの間に入ろうとはしない。
レンズを見据えながら歩み寄って一回。
よそ見をしながら歩いて一回。
ジャケットを肩にかけ、横断歩道の真ん中で、足を肩幅より開いて立ち、一回。
フェンスに浅く腰掛けて一回。
横顔を一回。
「ありがとう」と終わらせた男の子に軽く手を振って別れたのは、
人垣が出来かけてきたのを嫌ってのこと。
「お姉さん、だったんだね」
よく、判ったものだと思う。
男の子はあの鞄からあのファイルを出してくると、
何枚かを選んで抜き出した。
「これとかこれとか、僕は気に入ってるんだけど」
良く撮れている、止まりだと思った。
目の前の男の子が使い捨てカメラで撮ったことを知らなければ。
「急いでますよね、この間も今日もごめんなさい」
人通りの多い横断歩道の上、
後ろからの歩行者が撫子さんに肩をぶつけて去ったのを見て男の子は、遠慮がちにファイルをしまう。
「焼き増ししたからあげます」
――いいの。ありがとう――
「いつか、お姉さんのように自分に自信を持ちたいな」
写真を見る。
いつの間にか笑っていた自分の姿。
消えた男の子。
都会の雑踏は、子供一人簡単に閉ざす。
つながりは、途切れた。
――名前だけでも聞いておきたかったな――
今まで感じたことのない気持ちが、
撫子さんの伽藍堂の胸を吹き抜けた。
十一 家族
結局、あの男の子を見つけることはできなかった。
制服を着て入っていくとその店員の本当の接客が判る。
もちろん、誰にでも愛想がよければ、点数が捌けるだろう。
客を選びたいなら、若向きの客によそよそしさを作るのもよい。
店に入っても、
「いらっしゃいませ」の一言だけで、
小うるさくもなく、
のんびりと商品の品定めをさせてくれる。
追い立てられるでもなく、放り置かれるでもなく、
程よい空間を保ってくれる。
それでいて、
何かを聞こうとした時には、
自然と隣に居てくれる。
冷やかすだけになっても、「また、お越しください」と、送り出してくれる。
そんな距離感を作れるのは、
インテリアでも照明でもディスプレイでも展示方法でもなく、
ただ店員だけができることだ。
リサーチの合間、店から店へ移るときに撫子さんは、
何度も、その写真を鞄から取りだした。
そのうち、悪い写真ではない気がしてきた。
スーツ姿ではなく、
いや、
thy の営業時間中に、制服姿のまま出向くのは本当は、あまり好きではない。
しめしが、つかないと思う。
いつの間にやらの曇り空。
人混みの渦巻くコンクリート色の街の中、
一人、置き去りの撫子さん。
何か人恋しくなってたまらなく。
いけないと思いながらも thy の渡りに辿り着く。
二階の事務室を開ける前から、
視界の隅に入る従業員の仕草で、
自分が、仏頂面で居ることに気がついてはいる。
――ただいま――
少し、驚いたように顔を上げた遥さんが、
打ち合わせ用の小テーブルから立ち上がってくる。
「珍しい。どうしました」
――ちょっと、寄ってみました――
「下に、智恵ちゃんが来てますよ」
――ああ、モデル撮りの日ですか――
「会ってあげたら、喜びますよ」
優しい微笑みを絶やさずに話しかける遥さんにも無愛想に、
撫子さんはきびすを返す。
扉を開けて、出て行こうとする撫子さんの背中にかけてきた
「お帰りなさい」
の声に撫子さんはほっとして、
踊り場に出てから一回だけ、啜り上げた。
十二 考房 ――アトリエ――
そのまま、下に降りて智恵ちゃんに会いに行くのは、
なんだか、遥さんに見透かされすぎてしまう気がして、
何となく、気が引けた。
階段を上がり、最上階の扉を開く。
考房、に人を上げることは滅多にない。
入り浸ることも無くはないが、
住まい、
ではない。
調度はない。
家具は殆どベッドだけにしてある。
洗面所の脇にある洗濯機では、寝具ぐらいしか洗わない。
焜炉も殆ど使わない。
冷蔵庫も、サラダ用の野菜を買い込んできたときにだけ、
プラグを差し込む。
中に入った撫子さんは名ばかりの制服を脱ぎ散らかすと、
下着姿のまま、クローゼットの扉を開けて、かけてある繋ぎを引っ張り出す。
地の白の上にいくつかの絵の具が乗った洗いざらしに袖を通すと、
棚から画材を取りだし、
机の上に広げる。
色鉛筆が好きだ。
イマジネーションを記録する為に好んで使う。
乾いた雨音を紙面に滑らすと、
箱を、内側から覗いた空間ができあがる。
乾いた雨音を紙面に滑らすと、
カウンターができあがる。
同じ空間に、違う高さ違う向きのカウンターを配置した、
いくつかのスペースを作るとカラーコピー。
ここから先は、
本当に楽しい空想の時間。
空間芸術に一息を入れたお茶が沸いたとき、
考房の扉が、
優しくノックされた。
十三 モデル
ある意味、恐れを成して、
遥さんしかノックしない扉だから、だから油断して開けた。
「撫子さーん、遊びにきたよー」
扉の向こうにいたのは、thy の商品の中から撫子さんが選んだとおりのスタイルに身を固めた智恵ちゃんだった。
――ど、どうしたの――
「ん、遥さんが呼びに行けっていうからさ」
撫子さんがとまどうことも指折り数えての遥さんの仕打ちに降参する。
奥をのぞき込みながら、
「上がってもいい」
と尋ねてくる智恵ちゃんを、腰の前で小さく両手を振って断る。
「じゃあ、撮影立ち会ってもらえる」
――でも、撮影はいつも三谷さんに任せているから――
智恵ちゃんはそれを聞くと、爛漫の笑みを浮かべて
「上がってもいい」
――判った。オーケー――
「じゃあ下で待っているね」
瞳の奥に深みを残して智恵ちゃんは、片手を振って階段を下りてゆく。
繋ぎのままの不作法を嫌い、
制服に合わせて履いてきたローファーに併せて撫子さんは、
赤いチェックのミニスカートを選び、それに誘われて、
赤地に緑の細いチェックでパイピングされたセーラーカラーを持つロングスリーブの白Tシャツを選び、
自然と白い長靴下を選ぶと、
スタンドカラーのデニムジャケットを羽織り、
thy に降りてゆく。
「やあ、三弦木オーナー」
ファインダーから顔を上げたのは、
カメラワークをスポーツと捉えているような髭の濃い眼鏡男。
「今日のイメージは」
撫子さんは困ったように、
――三谷さんの感性を見せてください――
と答える。遥さんが
「オーナーはいつもお任せですから」
と。
優しく肩をすくめる三谷の反対側から智恵ちゃんが一言を漏らす。
「私も三谷さんも、撫子さんが選んでくれたんだよね」
一端、手元のカメラに落ちた三谷の視線が、好奇の波を絡ませて智恵ちゃんの口元に飛ぶ。
――木漏れ日を、楢上さんのお顔に落としてみては――
一同が、thy の前庭に出て撮影会。
三人居る thy の専属モデルの写真は、
月替わりにカフェ&スクール、ヘアサロン、ショップを飾る。
楽しげな智恵ちゃん、機嫌の良い三谷、カットとメイクを施した村瀬さんも含めて、
誰もが満足げに仕事にいそしむ火曜の午後。
如何なオーナーと言えど智恵ちゃんと同い年の小娘に過ぎないはずの自分の一言で、
皆が皆満足して仕事に取り組めることに撫子さんが切ない苦笑いを浮かべていると、
遥さんがそっと肩に触れてくる。
目を合わせるでもなく。
「その写真、どうしたのですか」
いつの間にか手に持っていた撫子さんの写真を遥さんが覗き込むと、
撫子さんはあわてて隠そうとする。
「あなたの写真でしょ」
撫子さんの心持ちにそよ音たてず踏み込んでくる遥さんは、敬語調をわざと外して手のひらを差しだしてくる。
二瞬躊躇って、
撫子さんがそっぽを向いたまま差しだしたせいで、
三谷に、次いで智恵ちゃんに覗き込まれることになった。
「これ、オーナーですよね」
ため息は、不注意な自分に。
「わー、きれー」
撫子さんの表情をほほえましく眺めてくる遥さんに尋ねる。
――三谷さんはこの写真、どう思うのでしょうか――
「ああ、だからか」
――判るんですか――
遥さんが「どういう所で判るんです」と尋ねる。
「背景を少し暈かしても面白いかな、と思いましたけど」
更に三谷は続ける。
「正面から全身をきっちり入れてきたのはどうなんでしょ。
少し、教えてあげられたら楽しいかな、と思いますね。
彼、若いんでしょ」
小学生だろう、と言うことは伏せておくことにした。
ほんの眉間を細めた笑みのままで。
十四 狂気
この世に、
浪費しきれない富はない。
富は、一所に集めて初めて富で、
分配すれば唯のがらくただ。
前日から撫子さんが甲斐甲斐しく準備したリビングには、
揚げたてのコロッケと、千切りのキャベツ、
ほうれん草のおひたしと、漬け物の付け合わせ、
炊きたてのご飯とおみそ汁、
醤油とソースと芥子と塩胡椒。
丸テーブルを囲むようにした三人分の食事。
戸棚にはグラスと皿が収められ、
窓ほどの大きさのテレビと調和した音響機器がサイドボードの上に並ぶ。
厚手のカーテンの向こうにはレース地が、窓枠の左右にまとめられ、
天井の間接照明とは別に蝋燭の灯りが無表情を浮かび上がらせる。
座席にかけているのは三体の肌色人形。
一人は巨漢、ガウンを纏う。
一人は長身、シャツとパンツ。
そして小柄な一人は長い頭髪を模した毛糸のかぶり物を乗せられている。
何一つ不自由のない団欒の居間。
夕食時の光景。
撫子さんが纏うのは、
白いブーツ、
ロンググローブ、
ロングスカート、
レザージャケット、
切り出しナイフ。
夕餉の団欒風景を懐かしむように目を細めた撫子さんは、ゆっくりと目を閉じ、
目を開けたのは、赤の他人。
まだ湯気を盛んに立てる味噌汁を左手で掴むと、
髪の長い肌色人形ののっぺりとした口元に無理矢理宛がう。
切り出しナイフを握ったままの右手で髪を後ろに引き下げ額に味噌汁をかける。
巨漢のかける椅子を蹴倒す。
飛び上がり両足をそろえて巨漢の頭を踏みつぶす。
そのまま前のめる所を踏みとどまり、もう一度巨漢の腹を蹴り上げる。
転がった椅子を振り上げ戸棚に打ち付ければガラスの弾ける喧騒と共に煌めきが一面に飛び散る。
巨漢に馬乗りになると切り出しナイフの刃を顔に、そして胸に突き立てる。
赤い綿がはみ出してくる。
容易に断ち切れぬ布地が肉の艶めかしさを表しても、
骨のない体はどこまでも切っ先を潜り込ませる。
顔だったふくらみを左足で踏みしだいたまま、胸から腹へと切り裂く。
部屋の隅に蹴り飛ばす。
大股に食卓に歩み寄りそのまま黒髪の人形の方に食卓を蹴り飛ばす。
惰性に滑りゆく黒髪人形の後ろに急ぎ足で回り込むと、
左手で首をそらした瞬間に右手で喉笛を掻き切る。
切り口から赤綿が盛り上がる。
今一度食卓を倒れた巨漢の方にけり出せば、かろうじて残った食事が部屋の端まで飛び散る。
息を整えるでもなく、
目の前の食卓を失った長身の前に立つと、
左手を柄頭に添えたナイフに体重を乗せてその胸に突き立てる。
止まる。
ガラスと食事が散乱した隅に赤く染められた綿をはみ出させる人形が二体転がる寛ぎの居間。
止まる。
そのまま、力なく両手を離す。
曇りガラスのはめられた引き戸を開ける。
廊下に置かれたポリバケツを湛える灯油。
右手で持ち上げ部屋に戻る。
左手を底にかけ、部屋の奥の黒髪人形めがけてかけ飛ばす。
白いレザーのロンググローブに覆われた右の手を、
白いレザーのロングスカートに設けられたポケットに差し込み、
白いレザーケースに収められたライターを取り出し、
火を灯したまま投げつけると同時に駆け出す。
小規模な爆発と共に炎の支配が始まる。
殺された三体の人形が赤く照らし出されてゆく。
炎が団欒を音たてて蝕んでゆく。
撫子さんが飛び出してきたのは、巨大な倉庫の中央に侘びしく置かれたプレハブから。
高い位置に設けられた窓から、細く夕日が差し込むばかり。
薄暗い倉庫の中、仁王立ちの撫子さんの睨み続ける視線に観念したかのように、
内から燃えさかる炎の舌に挫けた窓ガラスが、
ひび割れる音を立て中から熱気を漏れ出させる。
火は、瞬く間にプレハブを飲み込む。
噴き上がる黒煙が天井に溜まり始めるとエアクリーナーのファンが自動的に回り始め、
浄化された煙を排出してゆく。
広い倉庫の端に立とうとも、
熱気が肌を焼き上げるようになるまで、
撫子さんは滅びのカテイを見つめ、
満足すると、
重い扉をほんの僅か開き、倉庫を後にする。
埠頭の灯りが煌めく倉庫街。
放り置いても隣の倉庫とは間のある離れの一棟。
すぐ三棟先の倉庫では、パルプロールを忙しなく積み込むフォークリフトが、
機械仕掛けの時計のように規則正しく舞う。
倉庫のすぐ先に止めてあったセダンに歩み寄る。
中から一人の、小柄な中年女が降り、後部座席のドアを開けようと回り込んでくる。
人の良さそうなその女の愛想笑いに笑み返すことの出来ない自分が嫌で、
撫子さんは一層不機嫌になる。
撫子さんが乗り込むと、その女も運転席に乗り込む。
なにか、嬉しげですらあるその態度に猛烈な吐き気を覚え、
自分からドアを開けて吐き戻す。
すると女はまたも車を回り込んできて、
「大丈夫ですか、大丈夫ですか撫子様」と呼びかけてくる。
吐瀉すれば収まるのが常で、
撫子さんは右手を取っ手にかけて体を支え、
左手で彼女を制止する。
彼女が差し出してきたハンカチも断り、
グローブで口元を拭うばかり。
撫子さんがドアを閉めると、
薄暗くなってきた夜空を見上げていた彼女が、
運転席に戻ってから呟く。
「スクリンプラーは、使わないのですか」
不服そうにそっぽを向いていた撫子さんは、
いつまでも彼女が車を出さない事に観念し、
白いジャケットの内ポケットからキーホルダーを取り出すと、
パネルボックスの鍵を取り外して彼女に渡す。
彼女は車を降りると、
小走りに倉庫の方に向かう。
その後ろ姿を見つめながら思いを馳せる。
この世に、
浪費しきれない富はない。
富は、一所に集めて初めて富で、
分配すれば唯のがらくただ。
十五 血族
緩いカーブに沿って長く続く坂の道なりにたわむコンクリートで固められた、
石垣のような外壁が、
厳めしさから近づきがたい印象を与えるスポーツクラブは少々会費に値が張り、
会員は澄ました顔の女か、気取った顔の男か、身勝手な老人しか居ない。
寂しいことに、金持ちに紳士淑女は宿らない。
澄まし顔も気取り顔もおしなべて、
使って汗をかいたままの器具から平然と離れゆく。
いくらか過剰に人数のそろっているインストラクターが、
トレーニングをしたきりのマシンに歩み寄ると、
手持ちのタオルで汗をぬぐい取る。
ろくに器具も動かさぬうちに、通りがかったインストラクターを話敵に、マシンに居座る廉恥知らずの常連もいる。
撫子さんには、それがどうも愚かに見えてならない。
ポリエステルのカーゴパンツと共地の五分袖パーカーは、
共にルーズなラインを保って、
視線から撫子さんを守る。
女性は、
自らを性の対象と見られたくないと口にする癖に、
こういう「当たり前」の所では、容姿に自信のある人ほど薄着になる。
薄着が当たり前かもしれないけれども、それでも、嗜みのない薄着は恥ずかしいものだ、
と撫子さんは思うので、
どうしても、そういう女性を差別的にしか見られない。
エアロバイクを漕いでいると、男同士何人かで固まって話していた中の一人が近づいてきて、
わざわざ撫子さんの隣のバイクを漕ぎ始めた。
素知らぬそぶりで撫子さんが窓の外を眺めていると、
「こんにちは」
と話しかけられる。
少し驚いたように身を引き、
伏し目がちにささやかな会釈を返すのがセオリー。
お金に余裕のある青年は、三人に二人は引き下がらないのも、セオリー。
「割と良く、来てますよね」
遠慮がちに、会釈を返す。
「いつもこの時間ですか」
遠慮がちに、会釈を返す。
「どんなお仕事されているんですか」
困り切った微笑みで小刻みに首をかしげてみせる。
あしらいを続ける撫子さんからは少しばかり距離のある位置のマシンで、
三セット目のバックプルダウンを終えた老爺が、
少し、息を切らせて立ち上がる。
自らの首にかけたタオルでマシンの座面を丁寧に拭く。
無駄なおしゃべりをするでもなく、
黙々と大重量をこなす上に、すれ違う幾人にも挨拶も忘れない姿は、
この、ある種のサロンで、一定の存在感をまとう。
その、容貌愚かなるが如き老爺が、
ゆっくりと撫子さんに歩み寄ってくる。
「何だ撫子、来ていたのなら声ぐらいかけなさい」
柔和な老爺が割り込んできたことに青年は機嫌を損ねるでもなく、
寧ろどこか居住まいを正して照れたように苦笑い。
「あ、三弦木さんのお知り合いでしたか」
「孫です。愛想が悪くて済みません」
ナンパ師の相手は祖父に任せ、そそくさとバイクを降りると撫子さんは、
一人、離れたところにあるマシンに向かってしまう。
トレーニング前に、備え付けのハンドタオルでシートをよく拭いてから、
ウェイトを軽めにセッティングして、
背筋を伸ばして動かし始める。
二セット目の終わり、十回目を力を込めて動かしていると、
急にレバーが軽くなる。
「だめじゃないか、黙って外したりして」
祖父の声は、振り返って見上げた顔も、
いつもの通り優しさを湛えている。
マシンから離れ、ベンチに二人で腰掛けて世間話。
「松濤に一棟設計をするんだが、客人ラインにデザインをさせたら、
どうもクライアント受けが良くない。
もう少しシンプルに、ということなんだ。
一階を美容室に、二階を雑貨屋にというありふれた形なんだが、
やってみないか」
―― 一度、見に行けますか――
「資料はスィに届けておくよ」
――わかりました――
老爺は、一度窓の外に目を馳せる。
「私たちはこの間、鎌倉に紅葉を見に行ってきたよ。
撫子は最近旅行はしたか」
――いえ、忙しいし――
「相手も、な」
撫子さんは少し、気丈に微笑む。
「もう少し続けていくのか」
――はい、来たばかりですから――
「そうか」
「連絡があったのだが」
その一言に撫子さんは表情を変えなかった。
ただ、姿勢が元のままこわばっただけだった。
「また、倉庫を使ったようだね」
――はい――
「うるさいと思うかもしれないが、
もう撫子は普通の人間なんだよ。
一人がつまらないのであれば、
私たちと暮らしていいんだよ。
この世にたった三人切りの肉親なんだから。
中村や、教団の人間とやり取りするのは控えなさい」
寂しそうに肩を落とす撫子さんの背中を軽く叩いて、
老爺が立ち上がる。
「今度私たちの旅行につきあっておくれ。お先に」
最後は二人、笑顔で別れる。
反省に、
元気を失った撫子さんは見るからにしおれたまま、
ウェイトをいつもより軽くして再び、
トレーニングを始めた。
十六 egom
ボーダーのハイソックスと膝上のスカート。
フード付きのパーカーの上にデニムブルゾン。
左右の団子髪からはいくつかの束が飛び出す。
サングラス、ガム。
久しぶりに咲ちゃんに呼び出された撫子さんは、
咲ちゃんの、
ささやかながら根強い不機嫌に僅かばかり戸惑っていた。
歩きながら。
「ほんと、私から連絡しないと連絡くれないんだね」
背の高い撫子さんがうなだれても、端から見れば咲ちゃんの話し相手をしているだけにしか見えない。
「いいけどさ、あ、ここ」
明治通りから入った路地の更に裏路地の奥。
民家と民家の隙間に踏み石が並んでいるのは一見、生活用の私的な通路にしか見えない。
屋根に覆われた径は薄暗く、先の方で左に折れ曲がっているのが見て取れる。
片方の民家の角に小さな、木造りの看板がでている。
人を招くはずの看板が、結界をはぐくみ通りすがりの「私」を拒む。
咲ちゃんはためらいもなく径を潜っていく。
通路を抜けた先にあるのは四方を完全に民家に囲まれながら上ばかりは青空が広がるゆったりと開けた空間。
眼にも鮮やかな色彩の短い階段を上がると、大小様々なイラストで囲まれたステージに上がり、
そのステージに面して改装された民家の一部屋一部屋が、
古着屋や雑貨屋、カフェ、ネイルサロンになっている。
そして壁一面は、色とりどりの装飾。
まばらな客が程よく散らばり、混み合いすぎない空間を醸す。
「ここ、隠れ家」
空間の入り口近く、見落としがちな、
隠れ家じみた古ぼけた螺旋階段の上には、仙人が一人暮らししていそうな小屋。
ミシンの音が響くその小屋の窓から下を覗いていた女性が、
急に作業の手と視線を止めて下に降りてこようとする。
咲ちゃんに気取られぬよう、女性の瞳を凝視していた撫子さんが素早く口に、
立てた人差し指を当て、次いで手のひらを二回、相手に突き出すと女性は、
見開いた瞳に口をつぐみ、訝しげにしつつも腰を落とす。
「どうした」
撫子さんの前を歩いていた咲ちゃんが振り向くのであわててなんでもないそぶりを繕う撫子さんに、
咲ちゃんは物知り顔で講釈を述べる。
「あ、あそこの小屋。
あれはね、この空間のオーナー兼リメイクデザイナーのsayuriさん」
そういいながら咲ちゃんが会釈をすると、sayuriさんが手を振る。
咲ちゃんも小さく手を振りながら、
「わ、すごい。sayuriさん私に手を振ってくれたよ。見たこと無い」
と上機嫌。
カフェで頼んだのは、シンプルなメニューにあったコーヒーと紅茶とスコーン。
銘柄は書いていないけれども、どれも穏やかで良く口に合う。
「sayuriさんはすごいんだ。
元々空き地だったんだって、ここ」
「決して、有り余るお金で作った訳じゃないみたいだよ」
「周りのお宅を説得して、
改装を許してもらったんだって」
「レシートに『大事なお友達、お一人だけにご紹介ください』って入ってるんだよ」
「壁とか床とかは、割とすごいイラストレーターとかが書いてるのもあるらしいよ」
「エゴンって名前は、『ごちゃ混ぜ』とか『でたらめ』みたいな意味なんだって」
「ステージとか、アトリエとか、お店の位置とかはなんか、
有名な空間デザイナーがやったんだって。
その人もなんか、只でやってあげたみたい」
「エゴンって名前は、その人が付けたんだって」
楽しそうに話す咲ちゃんは、最後に一言、寂しそうに呟いた。
「私にも、才能があったらな」
うつむく咲ちゃんの頭を、撫子さんは優しく撫でた。
「ありがと」
咲ちゃんは顔を上げ、寂しそうに微笑んだ。
十七 バス
渋谷の駅から、
宮益坂を上って二四六に出る。
青山劇場前に差しかかったとき、
信号待ちをしているバスの座席にかけていた男の子と眼があった。
きっと、撫子さんも同じ顔をしていた。
口を開けて驚いていた男の子が窓ガラスを軽く叩くように手を振ってくる。
撫子さんも手を振る。
バスが、走り出す。
男の子が身をひねる。
撫子さんはそのまま二、三駆け出す。
案外空いていた道はバスをどんどんと運ぶ。
もしかして。
その思いが拭いきれず半時ほど、撫子さんはその場をうろうろとしていた。
やがて思い直すと、
バスの去った方向に歩み出し、
足はようやく最寄りのバス停にたどり着いた。
都会の雑踏の中。
撫子さんは、一人。
十八 お洗濯
thy に戻るのは急ぎ足で。
辺りを顧みずに螺旋階段を三階まで。
着のままにエプロンを首から下げて、お洗濯。
洗濯機が回っている間は、
アイデアをラフスケッチに落としておく。
やがて脱水が終われば、
屋上。
青空の陽光を、背後の物干し台にかけられた洗濯物が気持ちよさげに受け止める。
撫子さんの前髪を揺らす風が、洗濯物の間を優しく通り抜ける。
十九 比留間 昼
人の身に閉じこめられた境遇では人間、
完璧でなんて居られない。
オーナーとしての傍若無人だけは絶対に避けたいのだが、
それでも、オーナーとしての立場から離れ、
何もかも捨て去って孤独に身を投じてゆかないのは、
やはり自分が汚れた出自の存在だからだろうか。
屋上の洗濯物は作業着やシーツ。
建物の奥側に干してあるので、
thy を使うお客様から仰ぎ見られる心配はない。
ほんの少しのいたずら心で、
正面側のフェンスから下を覗き込もうと歩み寄ったら、
撮影に来た昼ちゃんと目が合ってしまった。
着古したデニムのパンツに、色あせたGジャン。
刈り上げ気味のベリーショートは黒髪に若白髪が混じったまま。
細身の体は、やもすれば不健康に映るかもしれない。
少なくとも、女性の美しさをそのふくよかに求める人からは敬遠されてしまうだろう。
ある意味、女性離れしている。
そのくせ長い手足にまとまりの良い腰つき、
前後への主張を忘れない胸とお尻が、
ドレスに、
映える。
三弦木撫子さん 十七歳 秋 振り返り
二十 黎明
見上げてきた昼ちゃんは
Gジャンのポッケにつっこんだ両手はそのままに、
真一文字に結んだ唇の上に、穏やかな瞳を湛えて会釈してきた。
撫子さんは軽く手を振ると、
すぐに引っ込んだ。
thy のモデルの間口は広くない。
そもそも、そんな構想、撫子さんの脳髄にはなかった。
殺風景の一歩向こうともとれるシンプルの中に機能性と、
半歩迷い込めばおろか不安すら感じてしまうような空間を取り込んだ thy のデザインを済ませた撫子さんは、
ショップアイテムのセレクト、
ヘアサロンの仕切り、
カフェ&スクールの手配、
全てを遥さんに一任した。
すでに次の仕事は二件がバッティングしていた。
店舗の宣伝はしなかった。
オープンした所で、客が集まるわけでもなかった。
むしろ最初の内は、
ヘアサロンを使う客の予約に会わせて、ショップとカフェに人を配置していたぐらいだった。
如何な背ばかりは伸びたとはいえまだ年端もいかない少女でしかない撫子さんが、
名の通った建築家である祖父の手を離れ、
空間デザイナーとして活動を始めたとしても、
何らの努力なしに、
新規の顧客が列成して群がるわけではない。
撫子さんのワークセンスを空間的に伝達する、モデルスペースとして初期の thy は機能した。
「あなた方の言う、『間』のある空間、というのが判らないのよね」
「でしたら一度、私たちのモデルスペースにお越しください」
カフェ、サロン、ショップ、全てがある特定の客のためだけに開店したその日、
午後、
昼ちゃんはふらり、と現れた。
「いらっしゃいませ」
普段はデザインワークス『thyjhwxl thy』のスタッフとして機能しているスタッフは、
予想外の来客にも当たり前のように応対した。
二十一 顧客
空き時間を無駄にすることなく、経験をドキュメントに落とし込んでいた遥さんのおかげで、
三店舗それぞれのマニュアルは整っていたから、
不意の思いがけない来店客に対し、
ショップの店員は不用意に近づきすぎることなく、
それどころか必要もないのに白いままの伝票をめくっては電卓を叩いてみせる。
thy のその日本来の客が撫子さんの言う所の『間』を気に入り、
結果サロンでカットまでしてゆくこととなり、
対応を美容師と遥さんに委ねることにして、
撫子さんは階下のショップへと足を運ぶ。
ガラス張りを大きく取った外観が、
螺旋階段からでも中の様子を手に取るように窺わせる。
店員が、声をかけられた。
「こちら、いつオープンして居るんですか」
呼びかけに歩み寄った店員、が、言葉に詰まる。
入ってきた撫子さんに救いを見出し、
昼ちゃんに「少々お待ちください」と告げると撫子さんに歩み寄り耳打ち。
「営業日を聞かれたのですが、本日は臨時営業だと答えて宜しいですか」
撫子さんがうなずくと、店員は昼ちゃんに歩み寄り、
接客トーク。
「いつも気になってたんですよ。いつも開いてないんで」
「申し訳ございません」
――連絡先でも教えてもらえれば、お知らせすることは出来るのだけど――
店員の斜め後ろに離れて立つ撫子さんの言葉は、半ばつぶやきに過ぎなかった。
それに、昼ちゃんは応えた。
「あ、じゃあ書いていっていいですか。また、寄りたいんで」
おそらく、撫子さんは何事が起きたか判らず、無垢の眼を見開いて、
きょとん、
としていた。そして店員はあからさまに驚いた。
「あ、いけませんか」
昼ちゃんが引けた腰で遠慮するも、撫子さんがショップ中央のテーブルに誘う。
――いえ、まだ始めたばかりの店ですが、ご贔屓にお願いいたします――
あり合わせの注文伝票に氏名と住所、電話番号と生年月日をもらう。
――どういう、お洋服がお好きなんですか――
「デニムのパンツに合うのであれば、何でも」
――スカートとかは――
「女おんなした格好は嫌なので」
その割にはその日昼ちゃんは、ライダースブルゾンの下にフリルのブラウスを着ていた。
「あと、若く見えること。この頭のせいで、いっつも年上に見られるから」
――学校では、何か言われたりしません――
age の欄を見てそう尋ねる。
「私そういうの気にしないんで」
昼ちゃんは続けた。
「あなたも、そうじゃないの」
撫子さんは答えた。
――私は、学校に通ってませんの――
二十二 お得意様
一週間後、連絡を入れてきたのは昼ちゃんの方からだった。
手すきで電話を取ったCADオペの女性から引き継ぐ。
「お電話変わりました、スィのマネージャー、夏山と申します」
「あ、すいません、先日そちらのショップで、店員さんとお話しさせていただいた、
比留間、という者です。
今度、そちらのショップが開店する予定表とかはないんですか」
「恐れ入りますお客様。現在こちらは不定期に開店しているものですから」
「あー、そうなんですか」
昼ちゃんの落ち込んだ声。
遥さんはとっさに、「少々お待ちください」と電話を保留にする。
一緒にミーティングをしていた撫子さんに振り向きざま、
「先日、オーナーがおっしゃっていたお客様から『開店日が知りたい』との問い合わせですが、
お呼びして差し上げません」
遥さんの言いたいことが判った撫子さんは、
――予定は、合わせます――
と頷く。
遥さんは電話にむき直すと、
「確認しましたら明日開店の予定があったのですが、
ご都合、いかがですか。
ええ、お待ちしております。はい、明日は午後から夕方までです」
といくつかの相槌を送って受話器を置いた。
そのまま、一瞥だけを撫子さんに送って電話をかけ始める。
「急でごめんなさい、明日オープンしたいんですけれども。
いえ、予約はないんだけど、うん。
もしかしたらまた、スタッフだけになってしまうかも。
うん、午後からで結構です」
そして挨拶もそこそこに次の電話。
「あ、もしもし明日とかなんですけど、
あー、そうですか。うん。
午後の短時間だけでも、あ、無理ぃ。
あ、いえいえ、次はきちんと段取りを取って。
あ、うん。来週の予定は変更なしです。
はいはーい」
次の電話をかけようとしたところで、遥さんは指を止めた。
「ショップは、私が出てみましょうか」
撫子さんは少し意地悪く眼を細めて笑う。
――明日、そんなに時間ありましたっけ――
「では、オーナーと二人で対応しましょうか」
ため息に肩をすくめる。
――負けますね――
二十三 発想
何度か、繰り返す内に昼ちゃんに気付かれた。
「思ったんですけれども、ここ、
私に合わせて開けてもらってます」
――あら、バレましたか――
「いいんですか」
地下のショップから、渡り廊下を通ってカフェに入っていくいつもの外国人の姉妹を見上げながら撫子さんは答える。
――どうぞ、お気になさらずゆっくりご覧ください――
都会の喧噪から奥まった住宅地の路地に面した thy の通りは、
よほど近所の人でなければ滅多に通りかかる人などいない。
――なにか、特殊なレーダーでも持ってるの――
不定期な thy のオープン日を悉く察知したかのように、決まってカフェを訪れる年の離れた姉妹を
――近所の方かしら――
と意識しながら受け流していると重ねて尋ねられた。
「お店じゃないんですか」
少し、訝しみに眺めなおすようにして。
――今日は、色々お尋ねなんですね――
よそ見をして二瞬考えた撫子さんは、
――お時間、ございます――
と尋ねながら白くて長い指を一本、反らすように地下庭のテーブルを示す。
――お得意様とはゆっくりお話ししたいですものね――
撫子さんが案内するより早くカフェに向かった遥さんは、
二人が腰掛けると同時に、メニューを持ち寄ってきた。
青空天井とはいえ、半地下にある地下庭は、日が陰るのも早い。
結局、日差しが差し込まなくなるまで二人で語り明かしてしまい、
撫子さんは渡り通路を路地の所まで連れ添い、昼ちゃんを送り出した。
ずっと、サロンの中を撮影していたカメラマンが、
サロンの扉を開いて二人の姿を一枚撮影していた。
「あら、三谷さん隠し撮りですか」
「あ、済みません、ちゃんと現像したらお渡ししますから」
三谷は、大人しそうな物腰の柔らかさでそう答えると、フィルムを巻く。
「彼女、モデルさんですか」
「下のショップの、唯一のお得意様です」
遥さんが意外そうに答えると、三谷は続けた。
「もし、メイクしてあげるなら、是非撮らせてください」
三弦木撫子さん 十七歳 春 再び
二十四 gonqu thy chfpyjwndhm
屋上から考房に戻ると洗面台へ。
メイクを確かめて
――少し、きつめかな――
と洗顔。
下地ばかりはお肌を守って。
ベースメイクを簡単に済ませ、
色味を抑えてナチュラルに作っていく。
本日のヒロインと張り合う愚は出来ない。
けれども、せめてそばにいておかしくない格好だけは取りたい。
壁のクローゼットを開けて中からショートマーメイドのワンピースを取り出す。
――大分時間かかっちゃったな――
靴箱から、サンダルの一歩こっちにいてくれる背の低いミュールを取り出し、
あわて気味に突っかけると、
いそいそと階段を下りてゆく。
サロンのお客様の人数を絞っているから、一角だけが騒がしくとも、さほど混み合っている感じがしない。
見通しのいいガラス張りのウィンドー。
ガラス扉を開ける前から、村瀬さんが昼ちゃんにメイクしているのが見える。
――こんにちは――
「ようやくのお出ましですか」遥さんが微笑みながらまず、声をかけてくる。
村瀬さんは視線を合わせずに会釈。「どーもー」
昼ちゃんは視線をこちらに向けてくれる、彼女の視界には入りきらないけれども。「こんちわー」
地髪をヘアピンで要領よく固定された昼ちゃんは既にウィッグネットをかけられている。
三谷が、メイクアップ風景を手遊びに二、三納めている事に油断していたら、
撫子さんは自分が被写体になっていることに気がついた。
驚いて口を縦に丸く開いた表情がさらに、そのままファインダーの餌食になる。
ほんの気持ち、撫子さんがへそを曲げたへの字を作ると。
三谷は涼しい顔で「本当に仲がいいんですね」と目を伏せながらフィルムを巻く。
すねるのも大人げないと撫子さんが涼しい顔を作るのを、
遥さんはにこやかな笑顔だけでからかうばかり。
不意に村瀬さんが
「ん、どうした」と尋ねる。
「大したことじゃないんだけど、最近思ったんですけれども、私の顔、左右対称じゃないなって」
空笑い。「完璧に対称な人なんていないさね」
「まあね、でも、この鼻何とかならないかなあ」
村瀬さんはナチュラルベージュのチークを取り上げる。
「こっち、あ、こっちだな。鼻の横に明暗を付けて」
昼ちゃんの判りやすいように説明しながらブラシを掃く。
「見る人の印象を錯覚させるのも女の嗜みだね。でも、」
はてなの一文字を浮かべる昼ちゃんに村瀬さんは続ける。
「あんたの顔は十二分に整っている方だよ。
その鼻の僅かな形が、
あんたをマネキンじゃなくて人間にしてくれているのさ。かわいがりな」
二十五 傲慢
男性はその年若いほど、
アイドルという幻影と大衆媒体の目眩ましにそそのかされる。
確かに整っては居るだろうけれども、
あれくらいの娘達、割と街中にいる。
当代女性は自らが美を背負わされているからこそ、
厳しい審美の眼を持つ。
村瀬さんが凝ったメイクを手際よく進めていく。
遥さんも三谷も、サロンのスタッフも撫子さんも、誰もが見とれてゆく昼ちゃんに、
空気を入れるように揺すられたウィッグが被せられると、
背筋が、
凍る。
ヘアダイクロスを掛けられたままだというのに、
どうして綺麗なんだろう。
焦げ茶色の巻き毛が揺れる。
いくつか、いくつもカットを入れ、ワックスとブローで整えてゆく。
最後に、クロスを取り外す。
GジャンGパンの着こなしがお忍びを隠しきれないでいるかのよう。
赤という言葉ではあまりにも物足りない紅は生地の質感が艶色を唇に添える。
見慣れ飽きたサロンのセットチェアに腕を絡ませて横に座る崩れ方は富める者の挑発か。
穏やかな三谷の視線が狂気の剣呑に輝く。
フラッシュの閃光と異なる光が漏れる。
鬱になるほどシャッター音を聴いた後は、
決まって午後の紅茶。
ショップの前庭の日だまりは、
長すぎる休憩の一時。
昔話に花が咲けば、
「一点も買い物をしたことのない私を『お得意様』って呼ぶものだから、
てっきりからかわれているのだと思ってた」とからかわれるのが決め台詞。
傾いた陽光が陰りを伸ばしてきたら、
そろそろとお開きの合図。
ウィッグを外した後は決まってメイクを全て落とす。
乱れた髪だけは流してあげるけど、
ブローは本人任せ。
自然体。
帰り際、シャドウメイクのポイントを確認し、
色味まで細かく教えてあげる親切に素直に耳を傾ける昼ちゃんの姿を見つめる。
人は完璧ではいられない。
人には完璧を求めるべきではないし完璧であればそれは人ではない。
むしろ些細な歪みをは許容してこそ、
人は初めて人らしい。
他人に完璧を求める愚は犯したくない。
けれども、自らを完璧に近づけるべく歩む気質は、
抱き続ける美しさもあろうか。
ふと、そんなことを思う。
あざ笑う。
人の身に閉じこめられた境遇では人間、
完璧でなんて居られない。
オーナーとしての傍若無人だけは絶対に避けたいのだが、
それでも、オーナーとしての立場から離れ、
何もかも捨て去って孤独に身を投じてゆかないのは、
やはり自分が汚れた出自の存在だからだろうか。
三弦木撫子さん 十八歳 梅雨前
二十六 ピエール
撫子さんを半ばアイドル視している一部の、つまりは大多数の thy のスタッフは、
冬はレザー、夏はリネンの判りやすいコーディネートを崩さないその男の車が着くたびに、
心の中で、一つ、ため息をつく。
凝ったメダリオンをレースアップしたコンビネーション・シューズの皮底で、
本人としては小気味良く床を打ち鳴らしながら、
膝を伸ばした踵を大股に、
渡り通路を渡ってゆく。
胸には、大きな花束を抱え。
眼があった窓向こうのカフェの店員には無論の如くウィンク。
会釈には微笑み返して螺旋階段を二階へと上がる。
一つ、深呼吸。
右手の甲でノック。
「こんにちは、淵上ですよ」
――気障って、一歩手前までが粋だよな――
「あら、聞こえてたらどうするんですか」
「何です、オーナーはなんとおっしゃっていたんです」
「何でも『気障って一歩手前までが粋』なんだそうですよ」
困り顔の撫子さんをよそに、しれっと言い放った遥さんの言葉に淵上は、
伏せた目の手を額に当てて天を仰ぎ、大げさに照れてみせる。
「こうして、大きな花束まで持ってきたクライアントにあんまりですよオーナー。
これはいよいよ一度お食事にお付き合いいただきませんと」
行儀を正した撫子さんの氷の微笑みにも、
淵上は動じない。
「や、これはこれは、いつもながらに手厳しいですね」
窮するとムスターシュを右手の人差し指と親指でつまむ癖は直さない。
――ご注文は――
遥さんは微笑みを崩さずに尋ねる。「それで、今回のご注文は」
ゆっ、く、り、とシナモンティーを口に含み、
香りはあっさりと楽しんだ淵上はおもむろに尋ねた。
「オーナーは、『黒の破滅』を形には出来ませんよね」
流し目は、挑発的に。
「これまでの三店はどれも、私の想像を遙かに超えるすばらしい作品でした。
おかげさまで、売り上げもまずまずです。
そこで今度は、そろそろ私の趣味にこだわってみたい。
こう見えても私、子供の頃はやんちゃだったんですよ。
だから退廃的な、破滅的な、騒がしい、おぞましい、
そんな、オーナーの作る雰囲気と真逆のお店が欲しいんです」
言い切った淵上は、年若いながらお高くとまった懸想人を凹ませたつもりの優越感に目を閉じて微笑む。
そのせいで撫子さんが軽んずるように薄く微笑むのを見逃した淵上は、
遥さんが寂しそうに眼を細めるのを心配と受け取った。
「いやいや良いんですよオーナー。
オーナーはまだ若い。私の半分の歳でしかない。
きっとこれから作風の幅を広げてゆかれると思うんです。
ただ、私が余所に発注をするとしても、
まずオーナーをお伺いしてから、その次のデザイナーを捜すのだということを知っておいて欲しいだけなんです」
些かばかり長い沈黙は、
撫子さんの柔らかな穏やかさと、
淵上の優越に満ちた優しさと、
遥さんの母性から来る緊張を照らす、
窓からの明かりを絵画のように記憶させた。
不敵。
――お高くなりましても宜しいですか――
「いま、なんと」
淵上があわてて撫子さんと遥さんの顔を交互に眺める。
「特別料金でも構いませんか、と。私は余りお勧めしませんけれども」
呟くように遥さんが答える。
淵上は驚きに口を半ば開く、そして、
「まずはデザイン画を起こしていただけますか」
――そこから、費用が発生しますよ――
「万が一デザインをお気に召さなくとも、お買いあげ頂くことになりますが」
一度、口髭に手をやった淵上は、遥さんの、いつになく引けている物腰に思い違いの優しさを見せる。
「結構です」柔らかく傾けた手のひらを差し向けながら「相応のデザインとなりましょうから」
遥さんには撫子さんにも、淵上の余裕が動揺を押し隠せずにいる、と見える。
そして二、三のやり取りを済ませ、期限を二週間後と定めると、
来た時と同様に、
些か細身に過ぎる腕と足を伸びやかに振り回しているつもりで、
淵上は thy を去った。
今一度応接に腰掛ける撫子さんにお茶を入れようとした遥さんは、
誰にも見られていないつもりのオーナーが、
甘噛みに綺麗な並びをそろえる歯の白さをのぞき見させるように、
薄く微笑むのを視界の端に感じた。
唇が、
耳元まで避けるような。
三弦木撫子さん 十八歳 春分
二十七 煤
「あれぇ、ここ」
ストリートを久しぶりに訪れた咲ちゃんは、建物のあまりの変わりように、
かつての姿を知っていた並べての者同様、
辺りを憚らず驚きの声を上げた。
「焼けちゃったの」
緩く続いたカーブが急に反対側に折れ曲がるその先にはもともと、
やや小振りながら「白堊」の名にし負う洋館風のショップが赤い屋根を頂き、
その前を通りかかるだけの者にも「お客様」と呼びかけてくれる雰囲気を醸していた。
いま、そこには焼け焦げた二階屋がある。
見上げれば屋根が所々抜けていて、その向こうの青空が覗いている。
正面の壁に黒々と穿たれた穴は窓枠を辛うじて残しておらず、
その向こうを落ちてきた梁か何かが斜めに遮る。
その向こうには、
やや陰が落ちるようにディスプレイされた商品が並ぶ。
不思議に思って一歩あゆみ寄ると、
一階の天井と二階の床を貫く穴があることを、壁の穴越しに見つけてしまう。
その向こうにも、何かが陳列されている。
なんだろう。
それとなく気になってしまい、
高熱で一度融け形が歪んだ扉の、煤けた上に傾いた取っ手を引く。
扉の裏に焼け残ったプレートが貼り付けてある。
『人はいつも、すんでの所で火事から逃れて生きている。』
二十八 密林
「いらっしゃいませ」と店員に迎えられなければ今でも、
店とは感じられないかもしれない。
樹脂で固められているとはいえ、
本当の焼け跡のように煤けた室内。
はがれ落ちた壁や、焼け崩れた天井が垂れ下がり、
LEDのイルミネーションが水のようにあちこちをしたたり落ちる。
BGMは時たまの雀のさえずりと店外の喧騒。
照明は天空から漏れる陽光。
室内を狭くならないように上手に配置された商品はどれも、
素材や形や色や飾りに、
決まって一癖持っていて、
着る者に挑戦するかのよう。
遮る廃材が隙間から視線を届かすために、
商品の配置、いや建物の様子そのものも気になってつい、奥へ、奥へと足が進む。
鉄骨がむき出しになったような左巻き階段は穴が開いているようでしっかり補強されており、
上がると二階では生活雑貨が不揃いに置かれている。
まるで、
「いらっしゃいませ」
背筋が伸びすぎていて上品が嫌みに見える店員が、
上がってきた咲ちゃんに歩み寄ろうと、
凝ったメダリオンをレースアップしたコンビネーション・シューズの皮底で床の大穴に足を踏み入れる。
靴が乗っかったことで、初めてガラスの嵌め込まれていることに気がつく。
照明が、反射を上手に窘めていて気がつかない。
ローライズのパンツを吊ったギンガムチェックのサスペンダー。
背を反らせた分、胸とお尻を突き出していると見えなくもない姿勢。
襟の立て具合を何度も指で確かめ、
「ごゆっくり、ご覧ください」
と言いながら振り返る仕草。
ピエール。この人の名前はピエールだな。
ピエールの名に何の意味もない。
単純に咲ちゃんの直感がそう感じ、心の中でそう呼ぶと決めただけだ。
二階は一階ほど広くなく、床半分が燃え落ちてしまったように途切れていて、
丁度ロフトのようになっている。
品数は少なく、壁も床も棚も、全て地の色、焦げた木の黒が目立つ。
棚はだんだんと低くなり、奥の方では床と同じ高さになっている。
壁に掛けられたアクセサリーの間隔が開きすぎて、所々何もかかっていないフックが物寂しい。
不揃いの箸、片方は皿だけのペアカップ、手書きの値札、古ぼけた時計。
普通、雑貨店と言えば過剰なほどの品揃えが売りなのに、
ここの二階は、どこか侘びしい。
ピエールは、隅の方に置かれたスチールの、これもご丁寧に焦げて煤けた、
その割にはしっかりしている机に向かうと、
店内に向かってかけ、ノートパソコンでなにやら作業を始めた。
まるで、骨董屋の隠居を気取るかのように。
忙しなく伝票か何かをめくって作業しているようで、
そのくせ店内に目を配っているようで、
どこか話しかけてもらいたそうにしている雰囲気が、
一見の咲ちゃんにも伝わってきてしまう。
「ここ」
咲ちゃんの一言に店員はあごを強調するかのように顔を上げてくる。
「ガレージセール、みたいですね」
「焼け跡からの、再出発です」
二十九 エスケイプ
「なんか、切ない」
呟くように言った言葉に店員は、襟の立ち具合を確かめるのと同じ仕草で、
鼻の下の口ひげを右手の人差し指と親指でつまむと、おもむろに立ち上がってきた。
「火事って、最悪の出来事ですよね」
続けて
「思い出も、人の命も奪ってしまう」
二言を話す間に店員は、お店をぐるりと回って咲ちゃんに歩み寄ってくる。
「退廃的、それがメインコンセプトなのですが、この店の一カ所だけ救いがあるのですよ。
宜しかったらどうぞ、探してみてください」
そして
「ごゆっくり」
と言いながら店員は、天井から階下までを示すように腕を大きく回して促すと、
自らの仕草に満足したのか、咲ちゃんに目配せしてみせた。
自らを信じると書いて自信と読む。
咲ちゃんは、
この人、よっぽど自分の態度に自信があるんだなあ、
と呆れずには居られない。
お客、逃げちゃうよ、と思わずには居られない。
居られないけれども、
なにか、うらやましかった。
時間に任せて、二階を隅々まで覗くように二周、ぐるぐると回った咲ちゃんは、
しかし、二階のディスプレイは元々、
点数も少なくどこかのっぺりとしているように単純だから、
それ、と言える物に突き当たらないので、
何となく階下に向かう。
もういいか。
とも思っていたが、机に戻っている店員が、階段を下りていく咲ちゃんを期待たっぷりに覗き見した気がして、
一階ももう一度だけ経巡ることにした。
相変わらず、梁や壁が崩れたような店内は、
良い物だけど高い物が並べられていて、
とても手が出ない。
それでも、どの服も何か一つ主張があって、見ている分には十分面白い。
視線を遮る瓦礫から、肩だけ覗かせた黄色いレザージャケットや、フリルだけ見せつけるボトムに惹かれて、
つい、奥へ、奥へと向かう。
斜めの柱を回り込んだ時、
歪に、
焼け焦げていない床を見つけた。
ほんの二、三歩。
歩み寄る。
裏口だろうか、燃え残った頑丈な鉄扉に嵌め込まれた、背の高い格子越しの窓ガラスから陽光が差し込んでいる。
その陽光に照らし出されるように一本の柱の裏、
焼け残った床の上に古ぼけた地下への扉があって、
柱から一帯にかけて、
イルミネーションの滴りが辺りを潤す。
地下室への扉に嵌め込まれたのぞき穴のガラスに、
「look!」と黄色いペンキで落書きされている事に気がつき、
膝を折り曲げて覗き込むとそこには、
黄泉へと続く階段の底、ぬいぐるみのお婆さんがミシンの前、
今作り上げたお洋服を小さな腕で抱え上げるのは子供達、
忙しなく階段を駆け上がろうとしてくる。
満面の笑みは、生き延びた事への喜びか、働ける事への喜びか。
「ありがとーございましたー」
キャッシャーの店員さんの挨拶が耳にはいる。
顔を上げる。
この店で買い物をする気はなかった。
この先もこの店の服を買うことはないかもしれない。
けれども、
咲ちゃんはもう一度二階に上がると、
ミサンガを一本取り上げた。
「これ、ください」
素知らぬふりでデスクに向かっていた店員は、
「見つかりました」
と尋ねてくる。
頷きながら眺めていると、二階の隅にあるキャッシャーに向かい、
紙袋にミサンガをしまう仕草の嫌みが、気障の向こうの優しさを隠しきれないで居るような。
「ありがとうございました」
階段を下りている時に気がついた。
茶色い紙袋の隅には焦げ茶色のプリントで、
お婆ちゃんの手作りアクセ
とある。
一階の扉を開ける時、ありがとうございました、と送り出される声を背に、
咲ちゃんは、
また来よう、
いつかお洋服を買おう、
今度は、あの子を連れてこよう、
と、
そう思った。
三十 更改
人柄は、天候も呼び寄せるのだろうか。
まだショップが開店の準備すらする前の朝。
路地から降りる崖が thy の前庭に落とす陰の中、卓を目の前に腰掛けて、
撫子さんは、
渡りの下の通路に落ちる陽光を眺めやる。
涼しさの中に清々しく身を浸すことの出来る朝は、
桜もまだ咲かぬというのに、
今日がどれだけ暑くなるかを予告するかのようだ。
――時間との、勝負だな――
これからのことに思いを馳せるあまり、
眉間に目を細める笑みを浮かべていたところを、
ティーセットを持ってきた遥さんにまんまと見つかってしまう。
「なにかまた、企んでいますか」
尋ねる遥さんはもちろん本気ではない。
――いえ、晴れて良かったな、と考えていました――
撫子さんの取り繕いの笑みは小さな悪戯を見つけられた男の子のよう。
視線をそらすように見上げたヘアサロンでは朝から、
モデル一人の為に村瀬さんやアシスタントがあれこれと立ち回る。
ショップを、サロンを、カフェを、オフィスを、考房を、屋上を、そしてちぎれ雲の向こうの青空を、
ゆっくりと眺めている間に遥さんがお茶の支度を終える。
「それにしても、良く晴れましたね」
――そうですね――
一口含んだミントティーは緑とも青とも付かない淡い香り。
それだけ。
小鳥のさえずり、
路地を通るヒールの足音、
エンジン音、
風。
――これからは良い季節になりますよね――
「夏物はごてごてしていないから、と言いたいだけでしょう」
笑う。
――冬物、嫌いじゃないですよ――
「周りの物を全て除いた角に一点だけディスプレイされた商品を捌くの、
大変なんですよ」
笑う。
「水着を、少し艶やかに扱っても良いですか」
――どんな――
気を留めた撫子さんに挑むように。
「重ね着がはだけて、覗いてしまっているような」
二拍、次いで三拍思案。
――どのくらい――
「今考えているのは三点」
座ったまま、遥さんが伸びやかに左腕を泳がす。
「ムエトツに二つと、ユィウォントに一つ」
左右に分かれた地下のショップは、向かって左を m-etz、右を yjwnd と呼び分ける。
「全て、中央の高い位置に」
撫子さんは、恥ずかしくなさそうなそぶりを装って尋ねた。
――下着みたいに見えませんか――
遥さんは、飲み物にゆっくりと口を付けた。
「桜から梅雨の明けるまで、それをうちのショップでやってみようかと思うんです。
どうでしょう」
まっすぐに見つめられる。
観念する。
――では、次の三ヶ月もお願いできますか――
「ご用命いただければ」
そろそろ、モデルの準備も終わる。
会話の間に訪れていた三谷が、
二人を促すようにサロンから一枚、シャッターを切った。
「いきましょうか」
――日差し、苦手ですね――
笑う。
笑いあう。
三十一 散歩
総勢支度を調え、thy を出る時、布帆ちゃんが慌てたように使い捨てカメラを取り出した。
――集合写真――
撫子さんがそう尋ねると、上目遣いに頷いてきて
「みんなで」
と一言。
すかさず三谷が「撮りましょうか」とカメラを受け取り、
渡り通路を当たり前のように渡っていってしまう。
布帆ちゃんがしかし、ためらうようにカメラを渡した表情を、
撫子さんは見過ごさなかった。
丁度、少し早めに出勤してきたカフェの永澤さんが通りかかる。
「おはよーございまーす」
駆け出すように三谷の後を追い付いた撫子さんは、振り向いた三谷に手を差し出す。
え、これ、
と撫子さんの真意を掴みあぐねている三谷から受け取ったカメラを永澤さんに渡すと、
その三谷の手を引いて戻ろうとする。
「僕も一緒に、ってことかな」
突然カメラを渡されて戸惑いのまま救いの視線を三谷に向ける永澤。
取り残された永澤に精一杯の説明をしながら皆の所に引っ張られてゆく三谷。
撫子さんの目には感謝の眼差しをよこす布帆ちゃんの顔しか映らない。
高校一年生のこの時期になってもまだ、
十五歳のままで居るその極みの早生まれが原因というわけでもないだろう。
布帆ちゃんの丸顔は一言でいえば幼い。
果実のように薄紅の差した頬。
百五十にようやくの身長はありふれた小柄な背丈。
普段着ではルーズなウェアを選ぶ為、
メリハリのない外見が、一層平凡に見える。
人見知りの気後れに黙り込んでしまう愛想笑い。
勢いの良い喋り方に接するほどあごを引いてしまう上目遣い。
「再来週、誕生日」
――お祝い、何が良い――
「ううん、いい」
―― thy のスーツとか、お姉さんぽいんじゃない――
「高い物は、いいです」
趣向を変えて、thy とは別の場所で撮影をする。
そこまでの散歩道。
普段は、人の一番最後を歩く癖のある二人が、
お喋りに夢中で、
皆の先頭を歩いている。
布帆ちゃんのお母様は、
お目付役として付いて来ているのではなく、
布帆ちゃんに望まれて、
付き添いできている。
道すがら、今日の撮影の内容を今一度説明するのは遥さんのお仕事。
説明を半ば話半分に聞いているのはこの子にしてこの親あり。
その目は、
背の高い撫子さんと楽しげに話し合う愛娘の笑顔に優しく注がれる。
「あの子は」
「はい、どうしました」
遥さんも、お母様が半ば上の空で話を聞かれていたことに気が付いていた。
そこにふっと出たかのような一言。
「いえ、あの子は話せますのねえ、撫子さんと」
母の、眼差し。
三十二 開店前
明治通りから入った路地の更に裏路地の奥。
民家と民家の隙間に踏み石が並んでいるのは一見、生活用の私的な通路にしか見えない。
その片方の角に、木造りの看板さえ出てなければ。
撫子さんなどは心持ち、屈むようにしないと入っていけそうもないその通路を前にして、
布帆ちゃんは躊躇う。
程なく遥さん達が追いついてくると、
お母様の手を握り
「今日は、この先で撮影するんだって」
と伝える。
格好としては先導しているのかもしれないが、その表情はあからさまに迷っている。
「あら、面白そうじゃない」
お母様がそういうことでようやく、それでも手を取り合って布帆ちゃんは通路を潜る。
屋根に覆われた径は薄暗く、先の方で左に折れ曲がっている。
その角を曲がると途端に、
青空が広がるゆったりと開けた空間。
目の前にある、眼にも鮮やかな色彩の、
短い階段を上がると、
店舗に改装された民家の背中に囲まれた空間がステージから一望できる。
「いらっしゃーい」
頭の真上から声が降り注ぐことに慌てた布帆ちゃんとお母様が
「わっ」
と、声をそろえながら肩をすくめ見上げると、
はるか上、青空を背負う小屋から結い上げた髪にターバンを巻き付けた女性が見下ろしてくる。
「おはよーございます。今日はよろしくお願いしまーす」
遥さんが大きな声で挨拶をすると、
女性は小屋を出て、
先ほど入ってきた通路の出口近くから頼りなく伸びる幹にまとわりつくような螺旋階段を、
静かに降りてくる。
遥さんが、布帆ちゃんを女性に紹介する。
「こちら、連れてくるのは初めてですよね。
tyh のモデルの一人、長谷江布帆ちゃん」
「初めまして」
布帆ちゃんは、女性が結い上げた髪の上に、カラフルなターバンを巻いている事に興味を示しながら、
上目遣いにお辞儀をする。
「初めまして、この空間、egom の主催者sayuriです」
sayuriさんも、丁寧にお辞儀を返す。
「それと、布帆ちゃんのお母様です」
「本日は、娘をどうぞよろしくお願いいたします」
「あ、いえいえ、私は場所を提供するだけですから」
距離感を保ちながら控えめに手を振るsayuriさんを見つめる、同年配の遥さんの目が光る。
「sayuriさん、布帆ちゃんに着せたい物ない」
お愛想の表情に一転、華が咲く。
「あるある、有るのよー可愛いのが」
展開に戸惑う布帆ちゃんを尻目に、目線を交わして喜ぶ遥さんと撫子さん。
向こうでは村瀬さんが燻らす紫煙。
三谷は早くも、三脚の準備に取りかかっている。
三十三 歌
sayuriさんのリメイクしたアイテムはつまり、悉く一点物でしかない。
撫子さんのオーダーは、
「欧風のティータイム、がオーナーのリクエストです」
遥さんの言葉に光彩を右に寄せてsayuriさんは一逡巡。
徐に「フォークロアなロリータは一つどうだろう。
あとこの子、子供っぽく、大人っぽく作るの」
大人しくしている割に、成り行きの見極めを求めて布帆ちゃんの両目は忙しなく動く。
――可愛らしいのを二点、お姉さんっぽい装いを三点か四点――
撫子さんがすっきりとそう告げると、
部下としての視線と業者としての視線が集まる。
それを見上げる布帆ちゃんに
――で、いい――
と尋ねる。
「うん、ありがとう」
通じ合う。
どうしても幼く見える布帆ちゃんだから、
ナチュラルなメイクで最初に柔らかさを撮り、
その上に陰影を付ける段取りでクールを撮影する。
喧騒に取り囲まれた環境の静寂。
住宅地の隠れ谷。
肌寒さを清々しく残す朝もじわりと日輪が天頂を目指せば、
開店の時間。
客も訪れる。
大きな方向性を決めてしまった後は、撫子さんの出番はない。
誰も撫子さんの意向を無視できない環境で、
しゃしゃり出れば只の恥さらしでしかない。
いつまでもここにいるのはただ、
奥手な布帆ちゃんの代弁をする機会に控えているだけのことだ。
いくらsayuriさんと egom 各ショップの了解を得ているとしても、
営業への影響を極力抑えて撮影を勧めたい。
全体を取り仕切るのが遥さんのお仕事だから、
遠近に聞き耳を配る。
短い合間あいまに布帆ちゃんの視線がお母様に戻るのに気が付いて、
お母様を省みるとその視線は、
離れた所でぼんやりとしている撫子さんに注がれていた。
とりあえず、近くにいたお母様の方に声かけする。
「どうか、されました」
「いえ、あの、撫子さんが何か歌ってらっしゃる様で、どんな、歌なんだろうと思いまして」
「歌、ですか」
遥さんがもう一度振り返っても、撫子さんが歌っているように見えなかった。
「すみませーん」
三谷から呼びかけられる。
「あ、すみません、ちょっと」
「あ、いえいえまた後で」
その場は、流れてしまう。
帰り道。
昼前には終わったけれども、
慣れない場所で慣れないことをした気疲れに、
気が抜けたように大人しく歩く布帆ちゃんをお母様が労る。
地下鉄の駅と thy との分かれ道に差しかかる。
「そういえばあなたは、撫子さんの歌の意味判るの」
お母様の何気ない質問に、きょとん、と振り返る布帆ちゃん。
「撫子さんが歌っているのなんて、聴いたこと無いよ」
あれえ、といいながらお母様は、遥さんに確かめる。
「さっき撫子さん、歌ってらしたわよねえ」
この場の誰よりも長く、深く撫子さんと関わってきた遥さんもついぞ、
歌っている撫子さんに巡り会ったことはなかった。
「たぶん、オーナーは歌ってなかったと思うのですが」
と戸惑いながら撫子さんを確かめた遥さんに撫子さんは
――どんな歌詞か、お気づきになったか尋ねてもらえますか――
と、布帆ちゃんよろしく頬に赤みを差しながら尋ねてきた。
驚いたままいわれたとおり遥さんが尋ねると、
「いえ。ただ何となく、歌ってらしたような気がして」
と愛想笑い。
安堵の撫子さんを驚きで見つめるのは遥さん。
撫子さんの言葉は全て判っているつもりなのに、
と思ったのは布帆ちゃんも同じ。
――歌詞は内緒なんですよ――
そう笑って見せた撫子さんの仕草は、
布帆ちゃんには物悲しく見えた。
三十四 九蛇穴
ほんの何日も空けずして、三谷の現像はすぐに終わった。
撫子さんの気遣いで、
布帆ちゃんが来られる日に合わせて、
写真を持ってこさせた。
「こんにちは」
折良く、応接のソファに布帆ちゃんを座らせた途端、三谷が顔を出した。
応接に通すと、大きめの封筒二つから、写真の束を取り出す。
布帆ちゃんは口を閉じたままあごを引き、
そのくせ、照れくささを隠しきれないように口角が上がっている。
可愛らしい布帆ちゃん。
おすましの布帆ちゃん。
気取り顔の布帆ちゃん。
冷淡に笑む布帆ちゃん。
もちろん、撫子さんも遥さんも、ショップやサロン、カフェ&スクールを飾るにふさわしい写真を求めて、
印画紙の一枚一枚を眺める役だ。
でも、
――緊張してるのが、いいですよね――
とか
――あらら、大胆――
とか
――笑顔、素敵ね――
とか、
仕舞いには
――ふーん、へーえ――
と並びの良い歯を見せて微笑んでみせる。
三谷は、そのやり取りを耳にしながら、カメラをあちこちと弄っている。
布帆ちゃんは真っ白い、細い指の小さな手を頬の横に当て、
お顔を隠しながら写真の一枚一枚を確認している。
どんなに撫子さんが気に入ったとしても、
布帆ちゃんの納得しない写真は使わない約束だ。
すると布帆ちゃんが「あっ」と声を上げた。
布帆ちゃんの可愛らしさを引き出す次の台詞を考えるのに没頭していたわけではない。
それでも、遥さんが「あら」と三谷の顔を確かめるまで、テーブルの上の写真に目を落とそうとはしなかった。
四枚の連作
egom の日陰の中、手すりにもたれ掛かり涼風を楽しむ撫子さん。
後ろから、そっと歩み寄ったsayuriさんに話しかけられる撫子さん。
口を縦に大きく開けて、sayuriさんの言葉に狼狽える撫子さん。
頬を赤らめうつむく撫子さんと、その肩に手を置き慰めるように笑うsayuriさん。
――いつの間に――
ほんの僅か、でもしっかりと赤みの差した頬を布帆ちゃんは楽しそうに見つめてくる。
撫子さんの、どこか本気混じりの視線が差し込む。
「最近思うんですけれども、
写真家にとって一番大切なのは」
全く意に介さないように語り出す三谷のふてぶてしさを見ていると、
一人癇癪を起こしている自分だけが幼く思える。
ため息。
「嗅覚、じゃないのかなって思うんですよ」
「嗅覚」
布帆ちゃんが呟く。
柔弱な仕草と穏やかな話し声で、人様の領域に大胆に踏み込んでくるのだから、
やはり三谷は大人で、自分は子供なんだろう。
「だってこれほら、ネガもこれだけしかないんです。
このとき、
どんなお話をしていたんです、オーナー」
――九蛇穴見たわよ、やっぱり、女なのね、ですって――
「国道六十四号線沿いに、火災現場のようなショップが出来たの、ご存じですか」
遥さんが三谷に説明をする。
「退廃、のオーダーを受けたオーナーは、堕悪のイメージだけで終わらせなかったんです。
店の片隅にほのぼのとしたマスコットを置くことを提案したんですよ。
焼け跡からの、再出発を感じさせる。
それを見たsayuriさんは、オーナーが冷酷になりきれないと見抜いたんですね。きっと」
大人しく聞き入り、ようやく理解した布帆ちゃんが呟く。
「女だもの、
死より、
誕生がいい」
遥さんが気が付いたことに、三谷が気が付く。
撫子さんは、優しく布帆ちゃんを眺める。
布帆ちゃんにせがまれて、
その四枚は焼き増しすることになった。
三十五 ぶっきらぼう
ベッドの中でまどろむィリーヤの携帯が鳴る。
鳴音に十分気が付いているのに、出ない。
ようやく鳴りやむと、再び鳴る。
出ない。
寝返りを打つ。
頭をかく。
「ああ、もう」
そういうと手を伸ばし、携帯を開く。
「もしもし、姉さん、何」
「テフクヴスに寄ってるの、なんでよ」
「ミノヴァが」
「全くミノヴァを甘やかしてばかり」
「え、いいわよ私は、二幕から見るから」
「あ、そうか」
「だいたいこの時期に胡桃ってどんな酔狂よ」
「見る方も見る方だけど演る方も演る方だわ」
「一、二幕はくだらないから、とにかく三幕から見ます」
「え、チケット」
「久喜先生が預かってくれるの」
「ていうか何で置いていってくれないのよ」
「判りました。行きます」
「うん、じゃあね」
電話を切る。
体を起こし、背中に届くブロンドヘアーをかきむしる。
「全く」
三十六 tefukws thy wsrm-etzhm
開放感のあるガラス張りから日差しが気持ちよく差し込むカフェで、
この春から中学校に進む妹を前にしてウェノーは、
通話が終わったばかりの携帯電話を折りたたむと、
長嘆息してみせた。
あきらめ顔のミノヴァが声をかけあぐねていると、
店長兼講師の久喜が、自らティーを運んでくる。
「珍しく水曜日に講義。ということもないですよね」
直ぐの黒髪を結わえ、薄色の三角巾でまとめた頭。
縁の強い眼鏡。
エプロン。
他方のウェノーはワンピースとハイヒール。
混じり気を入れない北欧の血がさせるのか、
ブロンドはしっとりとした艶、上品に鎖骨を舞う。
ミノヴァはスカートとブラウス。上に丈の短い厚手のボレロを纏う。
短めの髪が丸く頭を覆うのは、すでに思春期に差しかかった面立ちが将来を予告する。
二人とも、上背以上にその細長い手足が虚空に優雅を描く。
彫りの深い顔立ちが気安く話しかけることを怯ませる。
「今日はちょっと、出し物を見に行く予定なんですけれども」
両眉を寄せて困った顔。
その実、日本語に不自由しない。
「えー、どこまで」
「トリペルアハト記念講堂」
「反対側じゃない、わざわざ寄ってくれたんだ」
するとアイスカフェオレに散々ガムシロップを溶かしたミノヴァが口を開く。
「ウェノーに、おしゃれな所でお茶がしたいって言ったら、ここに連れてきたわ」
妹の軽口に頬に色を差して窘めようとする姉を尻目に、
久喜は重ねて問う。
「どうかなここ、おしゃれですか」
「そうね、悪くないわ」
無垢の笑みを差し向けるミノヴァの顔は、まるでお人形さんのようだ。
三弦木撫子さん 十七歳 秋 振り返り 再び
三十七 常連客
久喜としては、
自由に、やらせてもらっている事に感謝もしているが、
寂しさも感じる。
放任が、無関心故のものだとしたら、切ない。
店を始める時から、オーナーにもマネージャーにも、それほど口を挟まれた記憶がない。
寧ろこわごわ用意した自分の着想が、
すんなりと通った時は拍子抜けした。
決められていたのは、殆ど名前ぐらいのものだ。
はじめの頃は、不定期に開けていた。
本当に、週に一度くらい。
人様が口に入れるものをお出しするお店がそれでは、
客の入りようがない。
閑散とした店舗は、それだけで客を拒む。
いつまでも、新築の臭いが取れない店内を少しでもなじませようと、
誰も呑まないコーヒーを入れ、
誰も呑まないハーブティーを入れ、
パンとケーキを一人で焼く。
刻み、
混ぜ、
泡立て、
捏ね、
整え、
待ち、の間に別を進め、
焼く。
いつもの繰り返しにしか成らなくとも、
作っている時は楽しい。
指先の感覚に判断させる為、時には目をつぶりながら対話する。
匂いの変化に気を配りながら、心でも味見、耳でも味見。
一息つけば、
誰に食べてもらおうかな。
たった一人二人のお客様が、ショップにサロンに案内される。
それが終わればティータイムミーティング。
大半は余り、
お客様がお帰りになった後の打ち合わせで振る舞う。
その繰り返しに変化をもたらしたのが、
ヤーセン家の長女と末娘だった。
「いらっしゃいませ。
お二人様ですか」
が、異人さんだー。
三十八 言葉遣い
「こちら、掛けさせていただいても宜しいでしょうか」
英語で話しかけられたら何て返そうか、
久喜の頭は動転で一杯だったから、
「い、イエス。あ、オーケー」
と言いながら、促すように手を差し伸べる。
肌の若さ以外は全て洗練された大人の女性が、
細長く背丈は稼いでいるものの、仕草が幼い少女を奥に促し、
自分は、手ずから椅子を引いて、柔らかく腰掛ける。
当惑と忸怩に顔を赤らめた久喜が、
お冷やとお品書きを運び寄る。
緊張で渇いた喉が掠れたような「失礼します」挨拶を絞り出すと、
少女が、あどけなく笑う。
「私達、日本語で大丈夫よ」
女性は冷ややかに窘める。
「ミノヴァ、恐れ入りますが私たちには日本語でお願いします」
聞く耳も持たず品書きに目を通すミノヴァ。
「この肉桂の紅茶って、何かしら」
久喜も、ようやく構えなくて良いのだと頭で理解できる。
「シナモンティーなんですけれども、より、ニッキに近い香りです」
「ニッキ。ではそれを」
ミノヴァは素っ気なく言い切ると、品書きをたたんで久喜に差し出す。
女性の方は少女の所作に嘆息すると、落ち着きのある声で
「ダージリン、お願いします」
と大人しく品書きをたたむ。
久喜が二つの品書きを受け取り「少々お待ちください」と奥に向かうと、
お小言が始まった。
「いいことミノヴァ、あなたはもう少し口の利き方に気をつけなさい」
「私、失礼なことは言っていないわ」
「です、ます、が全く使えていません」
「ウェノー、まるでお母様みたい」
その言葉で、ウェノーはミノヴァを咎めることを止めた。
キッチンに戻った久喜は、肩で大きくため息をついたことで自分が、
あの陶窯から出てきたような二人に圧倒されていたことに気が付いた。
三十九 支度
一週間のブランクが開いて、
再び、呼び出される。
五時の電車で十四駅、超特急は二駅、丸い緑の四駅、一駅分は歩いて、
九時を少し回って到着。
今日も、店主一人で終わることを厭わない。
前向きに、前向きに。
午後からで、と言われたけれども、それなら、
午後に合わせてパンを焼きたい。
焼きたてのパンの香りをほのかに漂わせてお待ちするのが、
せめてもの持て成しの心意気ではないだろうか。
その人一人だけ待ちかまえていた客は、いつものように金余りの客ではなく、
みすぼらしい細身の大学生の女の子。
サロンにも、もちろん久喜のカフェにも立ち寄らず、
さっさと階下に降りてしまう。
寄ってもらえるかな、
なんて期待していたせいで、ため息が出る自分を久喜は、
薄く笑い飛ばすことで慰めた。
だから、きびすを返し、
奥に引き込もろうとした時、
ドアの開く音がしても直ぐに振り返らなかった。
「こちら、掛けさせていただいても宜しいでしょうか」
控えめにそう訪ねてきた声は、
先週のあの声。
「誰もいないわよ」
とさっさと奥側の席にかけるのも、
先週のあの声。
振り向く、愛想笑いは心からの笑み。
「いらっしゃいませ、お好きなお席にどうぞ」
四十 必然
毎週、
同じような曜日に、
この読みづらい名を付けられた店舗群を選択候補の一つでしかないモデルスペースとしてではなく、
お気に入りの場所として訪れるさえない大学生の女の子に合わせて、
呼び出される。
朝からパンを焼いて支度をしていると、
上り詰めた陽光が少し、角度を持った辺りで登場する。
渡り通路の一足ひとあしに気持ちを注ぐ。
今日は、もしかしたら。
あいにく、いつも通りの素通り、でも、気にしない。
彼女が、螺旋の階段を降りきらないうちから、
渡り通路に別の客が現れた。
今日は三人。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
気品のある姉と、物怖じしない妹と、
短いスカートを着こなす美人。
「こちらにどうぞ」
二人がいつもかける席に促す。
美人は、店の内装をしげしげと見回しながら腰掛ける。
久喜がメニューを取りに外すと、途端に背中向こうで会話が始まる。
「ミノヴァとお姉様があんなに言うから来てみたけど、
別に特別なことは無いじゃない」
「私、そんなに言ったかしら」
「空気よ。喫茶店は時を過ごす所でしょう」
そんな会話が聞こえてくる。
三姉妹、睦まじい。
オーダーをテーブルに並べる。
まだ、他の客も来ない。
人は、不思議なもので、
何度店を開けても空しく寂れるばかりだったのに、
こうして、客が入ると、二の客、三の客が続く。
それが、まだ来ない。
「三姉妹、なんですね」
「はい、妹のィリーヤは冷めていて」
久喜が声をかけたことに戸惑うミノヴァを尻目に気品のある姉が応えると、
ィリーヤは素知らぬ顔で飲み物に口付けする。
「いつもご贔屓にありがとうございます。私は、久喜といいます。お姉様は」
「私はミノヴァよ」
末っ子の割り込みに面食らう久喜と姉を置き、
座り格好の良いィリーヤが鋭い目つきで窘める。
「ミノヴァ、お姉様からでしょう」
「どうして、姉妹揃っているのだし、次期当主の私から挨拶するのが礼儀だわ」
「人の上に立つことと傍若無人は違います」
久喜が姉妹の口喧嘩に呑まれていると、
これまで見たこともないような険相を静かに浮かべた長女が二回、
人差し指でテーブルを叩いた。
「余所様の前ですよ」
途端に、飲み物にミルクを混ぜる末娘。
次女は背筋を伸ばしたまま、素知らぬ顔で飲み物に口付けする。
四十一 家柄
「私はウェノー。ウェノー・ヒビィ=ヤーセンです。
四つ下がィリーヤ。十一個も離れているのがミノヴァです」
久喜は、持っていたお盆を抱えるようにして応じる。
「済みません、おくつろぎの所割ってしまって」
「そんなこと仰らないでください、店員さんにはいつもお世話になっているのですから」
「あ、いえいえ。いつも店を開けるたびにお越し頂いて、
感謝しているのはこちらの方なんですよ。
再来週、来月からは週三回は開けられるかと思いますので、どうぞご贔屓に」
久喜が頭を下げて退こうとすると、
一言多いミノヴァが、一言を余計に発した。
「でも、私たちの講義も週一回だから、週三回もは来られないわ」
その一言には、久喜も、ウェノーもィリーヤも、
きょとん
としてしまった。
わだかまりを解いた久喜がウェノーと話し込む。
お互い、
巡り合わせはまれなほど投合させていながら、気持ちはまるっきりすれ違っていたことに笑い合う。
もう、素知らぬ他人同士ではない。
他の客が来て、ウェノーとミノヴァの講義の時間が近づく。
会計の時、
「その、社会人講座ではどんなことを勉強されているんですか」
ウェノーは恥ずかしそうに
「『復讐の連鎖を超えた教育』というテーマで、社会学教育論を」
と応える。
久喜は嫌みなく受け流したが内心、
外人の金持ちは英才教育に選ぶものが違うなあ、
と思った。
三弦木撫子さん 二十一歳 初夏
四十二 報道権力の、傲慢
thy の三階のオフィス。
マネージャー席の遥さんが冷淡な皺を眉間に寄せて雑誌のページをめくる。
近くのスタッフは皆、気にしない素振りで仕事に向かうが、
内心、心の視線は背中向こう、肩向こうの遥さんに注がれている。
少し、離れた席で執務するスタッフはそのまま、遥さんを盗み見る。
無視を決め込むわけではないが、とらわれず、
記事に一通り目を通した遥さんは、一つ、ため息で気持ちを整えると、
机の上の名詞を取り上げて、受話器に手を伸ばした。
コール音と同時に、録音モードのスイッチも入れる。
「月間ズュース編集部様で宜しいですか。
わたしく、デザインオフィス スィユィクセル スィの夏山と申しますが、
小牧敏さんいらっしゃいますでしょうか」
家の電話に出るような声で応対した男にしばらく待たされると、
多少愛想を繕った声で、小牧なる男が電話口に出た。
挨拶も、そこそこに。
「あの時、三月十五日にお越し頂いた時、写真はお断りしましたよね。
この写真の商品の配置は、三月十八日からのものなんですけれども、」
一体、どういう事でしょうか、という遥さんの言葉に被さるように小牧の言葉が始まる。
「いや、他誌の取材は受けたことは無いということは聞きましたけれども、
弊誌の取材もお断りとは聞いてなかったですね。
基本的には夏山さんにお話しいただいた内容で構成してますし。
お話しした内容は事実でしょ。
それに建物の外観でしょ。
人物の顔が判るわけでもないし、風景ですよ。
誰がどう撮って、どう使おうとそれは自由ではないですか」
相手が話し終わるのを更に一秒待って告げた。
「奥付にある編集人の本多勝さんに代わってください」
「え」
「あなたでは話にならないと申しております。日本語判りません」
「いや今私が対応してあげてるじゃないですか」
あくまで、
冷淡に。
「代われっつってんですよ。判りません。かけ直しましょうか」
非道く、神経をすり減らした一週間の結末は、
編集長名での、
謝罪文と今後の対策を文書で受け取ったこと。
撫子さんの
――私たちは私たちの活動を、地道にやって行きましょう――
――忘れましょうか――
ねぎらいの言葉が救い。
四十三 五周年
撫子さんの二十一回目の誕生日に届いた一通の詫び状を、
ファイリングしながら、
ふと、
大人になったなあ、
と、思う。
もとより、
些細に捕らわれることを潔しとしない、
そういう理屈は弁えている子だった。
でも、理屈だから、
ねぎらいを口に出来るほどの余裕はなかった。
「五周年か」
――ん――
「いえいえ、でも、あの写真。一体いつの間に撮ったんでしょうね」
四十四 移ろい
五年前はまだ小さなオフィスで、
thy の二階だけでやり取りしていた。
何もかも、始まったばかりで拙くて、
一つのものしか見えなくて。
今では、サロンもカフェも、別館を持つようになった。
何人ものスタッフが巣立っていった。
他方で、外出先の立ち寄り場所の一つ、ぐらいに顔を出していた撫子さんも、
考房をオフィスにレイアウト替えすると同時に、
毎朝、きちんと通うようになった。
人は、時に立ち止まることが出来ない。
「一時になりますね」
お昼は、いつも二人で、
――昨日もでしたけど、今日もパインに行きません――
「OK」
二人、階段を降りる。
降りきった所で、カフェの店長を務める久喜が、それとなく出てきた。
――どうしました――
「お疲れ様です。どうしました」
久喜は、戸惑いの視線を店の外、thy 正面の路地に向ける。
「あれ。あ、いたいた。あそこの男の子」
立てた右手の親指を外に向けるその先には、
あどけなさを残す少年が、使い捨てカメラらしきものを弄びながら、
thy を眺めつつ行き来しているのが見える。
「さっきから、何度かこちらに向けて撮影しているみたいなんです。
この間の雑誌のこともあったし、
まさか、
とは思うんですけれども」
途端に、二人の顔つきが代わる。
「デザイナーはこちらで待っていてください」
――はーい――
二つ返事で撫子さんは階段を二、三段もどる。
手すり越しに既視感を覚える撫子さんを残し、遥さんが一人、渡り通路を行く。
警戒させぬよう、よそを見ながら渡る。
渡りきるまでは無事成功。
少年の視線が、こちらに、注がれていることに気が付く。
躊躇うことなく歩み寄る。
「こんにちは」
「こん、にちは」
確かに、彼の手には使い捨てカメラ。
見たところ、小学生高学年、という所か。目つきにまだ、素直さが残る。
肩から下げた小振りの鞄は、彼がまだ成長しきっていないせいで、どこか大きく見える。
遥さん、前屈み。
「ちょっと聞きたいんだけど、この建物の写真、撮ったりしていた」
「はい、四枚ほど。いけなかったですか」
先回りの質問は、緊張の度合いを示す。
「どうして、撮影していたのかな」
「あの、僕、趣味で写真撮っています。
これほら、僕の写真です」
彼はそう言うと、肩から提げた鞄をあさり、
百円ショップで買ったプラスチックのファイルを出す。
「ほんとに、それだけなのかな」
そう言いながら写真をめくる。
写真は、「真を写す」ものではない。
どこから光の当たる、
どんなものの、
どんな瞬間、表情を、
どのような構図で捉えるか。
昔の、光画の方が、よほど真を突いている。
もっと、引き延ばしてみたいな、
そう思える写真をめくっていく。
一番、最後のページに何故か、見慣れた写真があった。
四十五 彼の名は
その写真は横断歩道の上、
雑踏を背景に、
一人のOLが、
右からのそよ風を受けながら左を見つめ、
こちらに、
歩み出してくる左足。
膝丈のタイトスカートに揃いのジャケット。縦にレースの流れるシャツにスカーフをタイにして巻く。
網柄のストッキング。
黒いハイヒール。
巻き上げた髪。
サングラス。
「この写真」
「盗み撮りじゃないです。ちゃんと挨拶しています」
慌ててそう告げてくる少年に、微笑みかける。
「これ、いつ頃撮ったの」
「一年生の時だから、ずっと前です。
四年前、です」
「そっか、
お姉さんね、この人知っているかも」
そう告げると遥さんは、大声で撫子さんを手招きする。
「デザイナー」
最初は訝しげに見ていた撫子さんだが、遥さんが何度も手を振るので、
久喜を後に残して渡り通路を小走りに駆け寄る。
日差しが、強い。
先に気が付いたのは少年の方だった。
「デザイナー、この写真、見覚えありません」
――これ、私――
「この子が撮ったんですって」
遥さんの言葉に被さるように、少年が声を上げる。
「お姉さん、お久しぶりです」
四年前、鬱ぎ込んだまま雑踏の横断歩道を渡った気持ちは直ぐに消え去った。
ただ、あの時よりずいぶんしっかりして見えるようになった。
深まった青みの空が高い天に広がる。
――久しぶりだね。君、名前は――
「僕は安楽、安楽樹です」