3 少女、出会う
突然の出来事というのは、本当に前触れもなく起こるものだ。
私自身が経験しているからこそ当然のように重く受け止められるが、それでもやはり、驚くものは驚く。
そして頭が追いつかない。
「げほっ!ごほっ、ごほ、…っぉえ!ぺっ!」
つい数分前の出来事だ。
昼食に美味しいパンケーキを食べ、持ち帰りで紙袋にどっさり詰め込んで貰った私は上機嫌でお兄様の後ろを歩いていた。
真っ直ぐに馬車へと向かう道、元気な人々が行き交う広い市場、来る時も一度は通った場所で、その時も一切の危機感なんて感じない。
目の前にあるお兄様の背中を追うだけの動作、私としては何も考えていなかった。
敢えて言及するならばパンケーキを早く食べたいということだけ。
鼻歌も歌いかける程の上機嫌さだった私は、次の瞬間に凍りついた。
目に映るもの全てが信じられなくなった。
平和な田舎町そのものだった光景が、一瞬にして赤く染まる。
見えていたロイヤードの背中、シンプルなワイシャツとスラックスという服装だった彼は真っ赤になっていた。
陽の光を浴びているからか、何処かぬめり輝く肉の塊。
何故かは解らないが既視感を覚える背中。
行き交う人間であろう赤い物体も、何事も起きていないように談笑している。
思わず歩みが遅くなり、足が止まってしまった。
「ん?どうしたのルル…」
振り返ったお兄様の顔が解らない。
しかし、それは何度か学校で見たことのある物だった。
理科室にある、人体模型。
正にそうだった。
違いがあるとすれば、動いて、喋って、窪んだ真っ黒な眼窩があるということ。
落ち着け、落ち着け、急にこんなことが起こるなんて有り得ない、何かある筈だ。
さっき食べたパンケーキに幻覚を見るような薬でも盛られたとか。
それにしては同じ物を食べたお兄様はいつもと変わらない態度だ。
強張る顔を隠す為に、口許まで片手を上げる。
「ぎょえっ!?」
見えた自分の手が異様に白く不思議に思ったが、それを察すると同時にとうとう奇声が口から飛び出た。
角ばった白く細い棒が、動く。
白骨標本にしか見えない自分の手を眺め、背筋がひやりと冷たくなった。
怖い、怖い、何だこれ、どうなってるんだ。
助けを求めようと顔を上げれば、人体模型が私へと手を伸ばして来るのが見えた。
咄嗟に身を翻し、駆け出す。
「えっ…ルル!?」
歩く人体模型の群れを必死に掻い潜り、なるべく誰もいないであろう場所を目指して走る。
建物は変わらない、町並みはそのままに、人間だけが変に見えていた。
表通りを離れ、裏道なのか暗く細い場所を行く宛もなく駆け、疲れてから漸く立ち止まり、冒頭に戻る。
思う存分に吐き、胃液しか出てこなくなった頃に落ち着きを取り戻した。
や、やっちゃった…?ヤバいぞ、お兄様に変な子だと思われたかもしれない。
可愛い妹キャラでいこうと思っていたのに、これがバレたら速攻でゲロインに降格だ。
くそ!
きりきり痛む腹部を手で抑え、立ち上がる。
幸いにも紙袋に入っているパンケーキは無事らしく、もう食欲はないが無駄にしなくて良かったと安堵した。
未だに自分の手も、何なら脚も骨に見えるがもう良い、気にしない、そう見えるだけで実際に私が白骨化した訳ではないと思うし。
深く息を吐いて気を取り直し、ロイヤードの元へ戻ろうと通って来た道を振り返る。
幾分か冷静さを取り戻した私は、其処に転がる人体模型を見つけた。
うおお!?鑪を踏み、立ち止まってから凝視する。
こ、これは、人間、か?
ぴくりとも動かないそれに近づき、人差し指でつんつんしてみる。
感触は模型っぽくはない、と言うか、見えないけど布がある。服か?
どうして服と皮膚だけ見えなくなっているのかは考えても解らないと諦め、死んでますかー?と揺さぶってみた。
死んでたら見なかったことにして逃げよう。
私には関係ない。
「う、うぅ…」
あ、生きてる。
それはそれで困ってしまう。
見捨てる訳にもいかず、大丈夫ですかと更に声をかけるが返事はぐうううという音だけだった。
獣の唸り声かと焦ったが、音の発生源は目の前である。
単純に腹の虫だろう。
パンケーキが詰まっている紙袋を置き、食欲ないのであげますよと告げれば人体模型が顔を上げる。
ぐっ…気持ち悪い。
錯覚だとは思う。
でも、ただでさえ記憶の中にある理科室にあった人体模型は気味の悪いもので。
半身しか中身を晒け出していないあれは、眼前にある現実とは比較にならない程にマシだったのだと思い知らされる。
あげます、どうぞ、と単調な言葉しか出てこない私はおずおずと顔を逸らした。
また気分が悪くなってきそう。
「ぐ…っく、しかし、施しを受けては…!我等の掟が…!」
拒否の姿勢を見せながら紙袋をしっかりと掴み、声からして男だと思われる人体模型が上体を起こすなり中のパンケーキにかぶりついた。
食べるんかい。
いや良いけど。
どうぞどうぞと促し、建物の壁に背を預ける。
目を擦っても瞬きをしても、やはりグロテスクな生き物がパンケーキにがっついているようにしか見えない。
そして心なしか嗚咽混じりの声が聞こえる。
う、え、そんなにお腹空いてたのこの人…。
良いよもう全部食べて、どうせ食欲ないし。
項垂れる私に、きっちり紙袋の中を空にした人体模型は改まってこう話し掛けてきた。
鼻声なのは気づかないフリをしてあげよう。
「…世話になった。我等の掟では食い物を与えられれば服従するという決まりがある、お前を主と認めよう」
は?いや、そんなこと急に言われても…と言うか認めなくても良いんですけど。
低く唸るような声音で告げられた台詞は、私を唖然とさせるには十分だった。
何の話ですか待って下さいよ意味が解りません。
ただでさえ混乱している状態ではあったが、必死に言われた言葉を脳内で反芻し、噛み砕き、つまりこういうことですね!と自分なりの言葉に変換する。
「つまり私の犬になりたいってことですか?」
「…そうだ」
顔を見ても筋繊維があまり動いていないので表情が読めず、本気かどうかの判断に迷う。
悪い人ではなさそうだけど、こういう時ってどうするのが良いんだ。
知らない人だし、声からして男だし、でも泣いてたし。
あまりにも突拍子のないことを言ってきた人に、不審感どころか人体模型キモいという感想もなくなった。
「えーと、お名前は何でしょうか」
「…名は、捨てた」
「そうですか、ではポチと名付けましょう」
「…うむ」
不服そうな雰囲気が漂っている。
良いじゃないですかポチ、犬っぽくて。
すん、と小さく鼻を啜る音が聞こえ、素知らぬ顔を心掛けながら「ではポチ、行きましょうか。ついて来て下さい」と表通りを親指でくいっと指差す。
ヘイ!カモン!ハウス!
先程まで嘔吐していたことを悟られぬように全力で不遜な態度を貫く。
ポチは最後にぐいっと真っ暗な眼窩付近を手の甲で拭い、立ち上がる。
咄嗟にぎゅいんと顔を逸らした私は、此方ですよーと促した。
服だけが透けて全裸を見ることになるか、皮膚まで透けて体内を見ることになるか。
ぶっちゃけ全裸だった方がキャー!で終わりそうな平和感があると思う。
何が言いたいのかと言えば、皮膚も透けているが殆ど全裸に見えるのであまり見ないであげた方が良いのではないだろうかということ。
見てません見てません。
掟だの何だのとは関係なく、面白そうだという安易な理由から馬車までポチを連れ帰った私を待っていたのは、御者と微笑みの爆弾を抱えたお兄様だった。
あ、あら、お兄様、やっぱり馬車の所で合流しようと考えたんですね?気が合いますー!私もそう思ったんですー!
猫をすっぽり頭から被り、うふふふふと微笑む。
その爆弾を爆発させてはいけない。
「ルル…本当に心配したんだよ僕は…」
「はい、すみません」
「きっと此処に集まろうとすると考えて、待っていたんだ」
「はい、すみません」
「…誰かな君の後ろにいる人は」
「ポチです!」
怒り心頭なお兄様へ平謝りの姿勢を取る。
へこへこしている私からポチへと視線を移した兄の冷たい眼差しに、慌てて紹介を始める私。
始めが肝心、出だしで勝負。
「先程お知り合いになった方なのですが、とても貧しい生活をしていたそうなのです。あまりの空腹に倒れているところを偶然見つけてしまい、思わずパンケーキを全て差し上げてしまいました。彼はそのことを恩に感じ、役に立ちたいと申し出てくれたのです!自宅もないみたいですし、それならば是非と我が家へ来て住み込みで働いて貰おうと考えました!」
「そう、優しいねルル。でも駄目だ、元の場所へ帰して来なさい」
「私がちゃんとお世話します!」
「犬や猫じゃないんだ。困っているからと言って、何処の誰かも知らない人を連れて帰る訳にはいかないよ」
「大丈夫です!私の犬です!」
「ルル…」
こめかみを抑えて項垂れるお兄様のご尊顔を拝むことが出来ない自分の不調に苛立つが、それよりもこのままではポチが帰されてしまうということに慌てる。
正直に言うと、あまり出掛けない私は自宅にいる人としか話す機会がない。
更に、外のことを聞いてもはぐらかされることが大半だった。
我が家と懇意ではない見知らぬ人ならば色々と都合が良いのだ、私には。
まあまあ、ポチにとっても都合が良いでしょう。
合理的に考えましょうや。
ギブアンドテイク。
持ちつ持たれつ。
譲る気は御座いません。