《第一章 魔法学校の劣等生》
~プロローグ~
入学式。俺はこれから何を失い、何を得るのだろうか? 想像するだけで、胸が騒いだ。そんな春だった。
《第一章 魔法学校の劣等生》
桜が散る季節。やさしい匂いが鼻腔を通り抜ける。夏の訪れと春の終わりを予感させる僅かな香り。今日はいつにもまして、温かい日和だ。
この学校に入学して直ぐ、初めてのテストを受けた。その結果が今、校門前の掲示板に張り出されている。今年の入学生は百八十人。一クラス三十人で、六クラスになる。
「えーっと、俺の名前は……」
掲示板の前で群れを成している初々しい一年生。その群れから少し離れた場所で、俺は自分の名前を探している。
「ない」
俺は上から順に指をさしながら自分の名前を探したが、なかなか見つからない。自分ではテストのできはそれほど悪くないと思っていたのだが、どうやら相当悪かったらしい。百五十番台にきても、まだ俺の名前はない。
これより下の順位を確認するには、今の位置からでは無理だ。掲示板の前に群がる学生が邪魔で、物理的に見えないのだ。もし俺に魔法が使えたならば、突風を巻き起こして群衆を蹴散らしているだろう。しかし、俺はまだ魔法を使えない。俺が魔法を覚えるのはこれから。そう、この魔法学校『マジックワース』で魔法について学ばなければ、誰も魔法を使えるようにはならないのだ。
つまりは、俺は今はまだ、ただの凡人だ。凡人にできることといえば、人ごみをかき分けて進むか、人がいなくなるまで待つことくらいだろう。俺は気の短い凡人なので、仕方なく人ごみをかき分けて進んだ。
「ちょっと、痛いわ」
群衆をかき分ける俺の手が少し乱暴に、女生徒の腕に触れた。女生徒は特に声を荒げることもなく、静かな口調でこちらを見ている。
たしか、この女の名前は『マロン』……だった気がする。俺と同じ一年生だ。髪はラピスラズリのような深みのある青色のロングヘア―。全体のシルエットは細身で、足はスラリと長い。肌は雪のように白く、ともすれば病弱に見える。そのくせ唇の血色はすこぶる良く、血脈の赤が白の上に映えている。つまりは、美人だ。
「あ、ごめん」
俺はおぼろげな記憶を思い出していた。入学して直ぐ、新入生どうしで自己紹介をした。そのとき、青色の髪が印象的だったので顔は覚えている。
「あなた、名前は? 名乗りなさい」
少し高圧的な態度でマロンは名前を訊ねてきた。
「ミクニだけど」
「あらそう。もういいわ。あっち行って頂戴」
マロンは急に冷めたようなそっけない態度でそう言うと、そっぽを向いた。向いた先のそっぽには、魔法学校の正門があり、そこには伝説の魔法使い『シャルル・クランツ』の銅像が建てられている。
「なんだよ、名前を聞いといて、それだけかよ」
俺はマロンの態度に少しだけイラついた。たった一瞥で、俺の全てを見定められた気がした。その態度が偉そうで、ムッとした。
まあいい。とにかく今は順位を確認しよう。
俺は気を取り直し、掲示板へと向き直った。そこで、自分の名前を見つけた。
「嘘……」
順位は百八十番。つまりは最下位だった。そして、『ミクニ』という俺の名前の隣に、紙が貼ってあった。その紙に書いてある内容に、俺は戦々恐々した。
『下位三十人は、次回のテストで合格点を取れなければ即退学』
○
魔法学校『マジックワース』には、一年生から三年生までの学年があり、一学年のクラスは六クラスある。クラスによって多少人数は異なるが、だいたい一クラスの数は三十人だ。
クラス分けの基準は年始のテストで決まる。単純に成績の良い順にAクラス、Bクラスと決まっていく。つまり、Aクラスは一番優秀なクラスであり、Fクラスは底辺のクラスとなる。
当然、最下位の成績だった俺はFクラスとなった。
入学してから初のテストを受けるまでは、名前順に割り振られていた仮のクラスだったが、今日からはテストの成績によって決められたFクラスで学ぶことになる。俺は遅れないように、いつもより十分はやく登校していた。
「はぁ、Fクラスかぁ」
俺は正門の前で足を止め、深くため息をついた。気が重かった。少しでも気持ちを軽くしたくて、俺は無意識的に息を吐いていた。ふと、校舎を見上げる。校舎はまるでお城のようで、屋根は天を突きさすように尖っているし、外壁は白鳥のように白い。校舎は三階建てで、一階には一年生が、二階には二年生が、三階には三年生がいる。学校の敷地はとても広く、端から端まで十キロ近くある。校舎の西側には四百メートルトラックのある運動場があり、南の方には森林がある。森林の隣には湖があり、白鳥が優雅に水浴びをしている。北の最奥には、立ち入り禁止の小山がある。
とまぁ、こんな感じでとにかく広い。俺もまだ、全容を把握しきれていない。
「よう、ミクニおはよ」
肩を叩かれた。振り向くと、そこにはこの学校で唯一の、入学前からの親友である『ランダ』がいた。
ランダはツンツンとした短髪で、活発な男だ。運動神経が良く、俺はかけっこで勝ったことは一度もない。性格は陽気で、少し天然なところがある。。
俺とランダは『マッジクワース』が建立している地域から遠く離れた『大和国』出身だ。大和国は世界地図の端の方に位置する、農業が盛んな島国だ。大和国はその昔、独自の文明を開化させ、独自の言語を扱っていた。「ミクニ」という言葉も大和国の古い言葉で、「一人で生きるな」という意味だ。一方「ランダ」は、タンバリンのような打楽器の音が語源であり、「陽気な」という意味だ。
「お前もFクラスか」
「おう、よろしくな!」
俺と同じく、ランダもテストで下位の点数を取りFクラスとなった。俺たちは並んで歩き、これから一年間在籍するFクラスへと向かった。
○
「お前ら席に着け。ホームルームを始めるぞ」
教師がクラスにやってきたので、学生は皆静まり返り、教師へと視線を移した。
「俺の名前は『フラスコ』だ」
フラスコ先生は名前だけ言うと自己紹介をやめて、深くため息をついた。
「お前らFクラスはおちこぼれだということを自覚しろ。俺は付いてこられない奴はおいていくからな。退学したくなければ、必死についてこい」
フラスコ先生は冷ややかな目でクラス全体を一瞥し、もう一度ため息をついた。どうやらFクラスの担任になったことがご不満なようだ。態度からあからさまに見て取れる。
「それじゃ、早速授業を始めるぞ。まずは前回のテストを返すから、名前を呼ばれた奴は取りにこい。これを自己紹介の代わりにするからな。呼ばれた奴の顔と名前を覚えろよ」
そう言うと、フラスコ先生は名簿順に名前を呼び始めた。
「ミクニ」
ほどなくして俺の名前が呼ばれた。俺は席を立ち教壇へと向かう。気のせいだろうか? 視線が痛い。みんなが俺のことを見ている気がする。
「お前が最低点を取った奴か」
おそらく、クラス中のみんなが思っているであろうことをフラスコ先生は口にした。俺は少し嫌な気持ちになったが、特に反骨することなく、テストの答案用紙を受け取った。まあ、最低点を取ったのは事実なので、そもそも俺に反骨する資格はないのだ。俺は頭を掻き、席に戻りながら自分の点数を確認した。
「え!」
思わず声が出た。
「魔法学校『マジックワース』創設以来だぞ。まさか、零点を取る奴がいるとは」
答案用紙の右上には、でかでかと「0点」と書いてあった。
「全問不正解。ある意味すごいぞ。誇っていい。お前は普通の人間だ」
フラスコ先生が呆れた表情でそう言うと、クラス中に失笑が起きた。俺は大変居心地が悪くなり、下を向き、そそくさと席に戻った。
「よし、それじゃ、まずはお前らの解答の何が悪かったか解説してやる」
クラス全員に答案用紙を配り終えると、フラスコ先生はチョークを右手に持ち、黒板に向き合った。そして、でかでかと文字を書いた。
「お前たちは魔法の根本を理解できていない。だからあんな悲惨な点数を取ったんだ。おい、ミクニ」
不意に名前を呼ばれて、ビクッと体が硬直した。
「これを読んでみろ」
俺は言われるがまま、黒板に書かれた文字を読んだ。
「等価交換の大原則」
「そうだ。魔法を使うにはまず、これを理解しなければならない」
そう言うと、フラスコ先生は淡々とした口調で説明を始めた。
○
等価交換の大原則。
この世界の根源的なルール。この世界に生きる以上、誰もそのルールから逃れることはできない。この世界の万物は全て、エネルギーが姿を変えたものに過ぎない。そこらへんに転がる石ころも、草木も、災害も、人の心も、いつかはエネルギーへと『帰る』存在なのだ。
人は皆平然と生きているが、「生きる」ということも等価交換の大原則による賜物であり、そう言った意味では、魔法もまた、等価交換の大原則に従った事象の一つに過ぎないのである。魔法とは何も特別なことではなく、この世のルールに従った、エネルギーの一つの形でしかない。
……とまぁ、訳の分からない文言が教科書の狭いページを埋め尽くしている。
「お前たちはそもそも、魔法を特別なものだと思っている節がある。それは大きな間違いだ。魔法は特別なものではい。お前たちが生きるための対価として時間を支払ったり、活動するための対価として他の生き物を食べるのと同じことだ。ある意味で、生きるということは、魔法と同じ。つまり、お前たちはすでに、『生きる』という『魔法』を使っているんだ」
フラスコ先生は顔を上げて教科書に載っていないことを言うと、再び教科書に視線を落とした。何人かの学生はフラスコ先生の発言をノートにメモしている。フラスコ先生の発言が重要だと思ったのだろう。しかし、俺はメモを取らない。めんどくさい、というのもあるし、何より何が重要で何が重要でないか判別がつかないのだ。零点を取ったのは伊達ではない。
「魔法を使うのは簡単で、使いたい魔法に見合った対価を払えばいい。ただし、それは等価でなくてはならない。そこが魔法の難しいところでもある。この世界の等価交換のルールは厳密で、価値が等価でなければ魔法は発動しなかったり、その効果が弱くなってしまう。そこでだ、魔法使いとして重要なのは、物事の価値を見極めることだ。わかるな? つまりだ」
フラスコ先生は再び黒板に向き合い、文字を書いた。
「まず、『ワース』を見極めること。それが、お前たち一年坊が最初に習得すべきことだ」
黒板にはでかでかと『ワース』という文字が書かれている。ワース? なんだそれは?
「ワースとは何ですか?」
一番前の席の女が質問をした。確か『クラルボン』とかいう名前の女だ。メガネをしていて、髪を後ろで束ねている。ポニーテールだ。
「ワースとは、価値のことだ。魔法を使う上で必要な価値のことを、我々魔法使いはワースと呼んでいる」
フラスコ先生はクラルボンの質問に対しても、淡々と答えた。
「ワースを見極め、ワースを手放す。それが『魔法を使う』ということだ」
ワースを見極め、ワースを手放す。頭の中で反芻してみたが、全く理解できない。どういうことだ? 手放すことが魔法を使うこと? んん?
「実は、お前たちが先日受けたテスト、あれはワースを理解しているかどうかを確かめるためのテストだったんだ」
俺はテストの答案用紙を改めて見返した。確かに、テストの内容は価値を問う内容の問題ばかりだった。
例えば、問1の設問は「黄金と一輪のバラ、価値が高いのはどちらか?」というものだったし、問14の設問は「明日死ぬ老人と生まれたばかりの赤ん坊、価値が高いのはどちらか?」というものだ。
「そして、お前たちの点数がなぜ低かったのか。それは、ワースと人間社会における価値は必ずしも一致しないからだ」
「どういうことですか?」
クラルボンが再び挙手をして、話の腰を折った。
「いいか、お前たちが常識と思っていることは、人間が勝手に作り出したものだ。人間の都合がいいように作られた価値だ。しかしどうだ、この世界の根本的なルールや物理法則は人間が作ったものではないだろう? この世界のルールは、人間が生まれる前から存在していたのだから。それは、神が決めたルール、神が決めた価値、それこそが、ワースだ」
フラスコ先生はまるで諭すように、丁寧に言葉を紡ぐ。
「つまり、お前たちはまだ、人間だということだ。前回のテストで高得点を取った者は、ワースを理解できていて、もうすでに魔法使いと言っていい存在だ。一方で、お前たちのように点数の低かった奴は、まだまだ人間社会の価値から抜け出せていない、ただの凡人ということだ」
フラスコ先生は一息ついてから、今度は力強く言葉を吐いた。
「魔法使いと人間は、別の生き物だ」
「ホロホロホロ!」
突如、教室の天井から奇怪な鳴き声がした。俺は反射的に天井を見上げた。
そこには、奇妙な怪鳥が逆さ吊りの状態で止まっていた。全長は一メートルくらいで、体の半分が顔。目は切れ長で、鼻はぺしゃんこ。鼻の下には嘴がある。翼は内側に折りたたまれていて、まるでフクロウのようだ。
「その通りですよ、人間と魔法使いは別の生き物です。人間から見れば、魔法使いは化け物なのですよ。ホロホロホロ。私のようにね」
「伏せろ!」
フラスコ先生が叫んだ刹那、部屋の天井を炎が覆った。俺は訳も分からず、頭を抱えてうずくまった。壁材の焦げた匂いが鼻を襲う。その、普段とは違う異質な匂いが、恐怖をさらに煽った。
「ホロホロホロ。そんなに好戦的にならなくても良いではありませんか。毎年のことなのですからね。ホロホロホロ」
「お前のせいでどれだけの生徒が精神を壊したか、数知れん。いい加減滅せ!」
「嫌でございます」
そう言うと、ホロホロ鳴いている怪鳥はフラスコ先生が出した炎を飲み込んだ。
「あぁ、不味い不味い。それでは、炎の対価を払いましょう」
次の瞬間、怪鳥の身に生えていた羽が全て抜け落ちた。俺は、ゆっくりと落ちてくる羽を見て、まるで、しんしんと降り積もる雪のようだと思った。
羽が床に落ちるよりもはやく、フラスコ先生は一番前にあった机に飛び乗り、さらにそこから勢いをつけて飛び上がり、怪鳥目掛けて突進した。跳飛の衝撃に耐えられなかった机が勢いよく倒れる。飛びかかるフラスコ先生の両手には炎の塊が見えた。
「おお、怖い怖い。ホロホロホロ。今日はもう退散しましょう。払う対価がなくなりましたからね。皆さん。また会いましょう。ホロホロホロ」
フラスコ先生の突進は、むなしく空を切った。怪鳥は、まるで煙のようにゆらゆらと霧散して空気中に溶け出したのだ。
「それが欲しくば対価を払え」
怪鳥は最後にそう言うと、完全に消えてしまった。
○
「先生、さっきのはいったい……」
怪鳥が消えて数分、口を開いたのはランダだった。授業中、散々質問をしていたクラルボンは、まだ無言でワナワナ震えている。
「あぁ、あれは……くっ」
フラスコ先生はフラフラと左右に体を揺らし、倒れ込むように教壇にもたれかかった。
「大丈夫ですか先生!?」
ランダは席から立ち上がり、フラスコ先生に駈け寄った。
「あぁ、大丈夫だ。少しの血と爪を二枚、払っただけだ。悪いが、椅子に座らせてもらう」
そう言うと、フラスコ先生は椅子に座り、深くため息をついた。ランダはフラスコ先生が椅子に座るのを見届けると、自分の席に戻った。
「さっきの化け物は、『魔獣』と呼ばれている」
フラスコ先生は状況を説明しながら、指に絆創膏を巻き始めた。俺はその時、フラスコ先生の小指を見てギョッとした。小指の先にあるはずの爪がなくなっていたからだ。小指の先は皮膚が赤くなっていて、無防備で痛々しかった。
「魔獣って、あの魔獣ですか? この学校内に魔獣は入れないんじゃないんですか? あんな化け物がどうしてこんなところに……」
一人の生徒が小さな声で呟いた。かなり怯えているようだ。確か名前は『カガル』だったかな? 小柄な男だ。
「カガル、安心しろ。あれはある意味無害だ。命を取るような真似はしない。いや、できないと言った方が正しいか。いいか、もしまたあいつに会うことがあっても、あいつの言葉に耳を傾けるなよ。あいつが狙うのは肉体ではなく、心だ。いいな? あいつに出会ったら、あいつの言葉に耳を傾けずに、とにかく逃げろ。まあ、直ぐに我々教師陣が対処するから、あの魔獣に関しては安心していい」
あの魔獣に関しては? 他にもいるのか? 俺は他にも魔獣がいるという示唆を感じた。瞬間、フラスコ先生と目が合った。フラスコ先生は俺の心情を察したらしく、それは杞憂だと言うような表情で続けた。
「他の魔獣にしてもそうだ。この魔法学校『マジックワース』の敷地内にいる限りは安心だ。この『マジックワース』には強力な結界が張ってある。だから、魔獣はこの敷地内に入ることはできない」
「じゃあ、なんでさっきの魔獣は入れたんですか!?」
ヒステリック気味な声を上げたのは、授業中に威勢よく質問をしていたポニーテルメガネのクラルボンだ。
「あれは、入ったんじゃない」
「入ったんじゃないってどういうことですか!? 結界は本当に大丈夫なんですか!」
身の危険を直に感じた途端、真面目で優等生を装っていたクラルボンは疑いの目を爛爛と見開いて詰め寄った。はやくもクラルボンの本性が見えた気がした。何よりも先に出た言葉が、他への非難なのだから。彼女の底は浅いだろう。
「あれはだな」
「あれはきっと、最初から中にいたのよ。魔獣は長生きだと聞くわ。あの魔獣は結界を張る時に、結界の中にいたのよ。きっと、当時結界を張った魔法使いが、敷地内にいるのに気付かなかったんだわ。でしょ? そうでしょ先生!」
フラスコ先生の言葉を遮るように持論を展開したのは、『ミサキ』という女だ。短髪で活発な印象。体は細身だが、太ももがしっかりしているので、何かスポーツをやっているのだろう。目は小さくクリクリしているし頬に肉があるため、小動物のような顔つきだ。
「うむ、まあ、そんな感じだ。とにかく、あの魔獣は例外だから、お前たちは心配する必要はない」
そう言うと、フラスコ先生は立ち上がり、荷物をまとめた。
「授業は終わりだ。残り時間は自習にする」
一時間目の授業はまだ二十分くらいあったが、先ほどの魔獣の出現は予定外の出来事だったのだろう。フラスコ先生は早々に切り上げて、教室から出て行った。
教室に残された生徒たちは、無言のまま終了のチャイムを、ただ待った。
○
次の授業は体育だった。空は晴天。
なぜ、魔法学校のカリキュラムに体育があるのか、俺は大変不満に思う。ご立腹だ。俺は運動が嫌いだ。無目的にトラックを何周も走ることに、何の意味があると言うのだろうか? 魔法使いに体力はいらないだろ。これは俺以外の生徒も少なからず思うところだ。
「今日はトラックを十周してもらう。準備ができた者から始めろ。不正は許さんぞ。ちゃんと何周走ったか数えているからズルするな」
体育の教師はフラスコ先生ではなく、別の先生だった。金髪で髪を後ろで結んでいる。女性だ。体育教師の割にはだらしない体型をしている。いわゆる洋ナシ体型というやつだ。体操着の上からお腹が横に割れているのが見て取れる。三段腹。
「先生、どうして体育の授業なんかあるんですか? 魔法使いに体力は必要ないと思うのですが?」
まるで「みんなの総意を代弁してあげているのよ」と言いたげな顔で発言をしたのは、例のごとくクラルボンだ。
「なんだ、そんなことも教えてもらっていないのか。なるほどな。お前たちはFクラスだったな。いいだろう、走る前に説明してやる」
体育の女教師(確か名前は『スズナリ』だったはず)は腕を組みながら話を始めた。
「魔法を使うのには時間がかかるんだ。それまでの時間稼ぎがどうしても必要となる。そのための体力作りだ。以上」
簡潔に話をまとめたスズナリ先生は「よし走れ!」と勢いよく言うと、指をパチンと鳴らした。次の瞬間、スズナリ先生の指先から赤、青、黄色の煙のような閃光が上空へと発射された。赤、青、黄色の閃光は上空で交わると大きく膨れ上がり、花火のような爆音と共に砕けて散った。
「ほれ、今のが合図だ。そうだ! 周回遅れになった奴には腕立て腹筋もしてもらおう。ほれほれ、走れ走れ」
スズナリ先生の合図と共にFクラスの面々はトラックを走り出した。みんな腕立ても腹筋もしたくなかったので懸命に走った。
先頭をいくのは島国育ちのランダだった。四百メートルトラックをまるで風のようにビュンビュン駆けていく。あいつは昔から走るのが得意だった。
「いいぞいいぞ。走れ走れ!」
スズナリ先生は手を叩いて生徒たちを煽っている。自分は一切動かない。だから太っているのだろう。まったく、体育教師の風上にもおけないな。俺はそんなことを考えながらチンタラと走った。ちなみに、最下位を爆走している。俺のすぐ前にはポニーテールを揺らしながら走っているクラルボンと、小動物のような顔をしたミサキが走っている。
どうやらクラルボンは運動が苦手なようだった。「ゼハーハゼハーハ」と気味の悪いうめき声をあげながら足を引きずるように走っている。一方、ミサキは涼しげな顔だ。運動が苦手というわけでなく、手を抜いているように見て取れた。俺はミサキにシンパシーを感じた。俺もどちらかというと運動が苦手なわけではなく、めんどくさいだけなのだ。
「ミクニ君、だったよね。私ミサキっていうの。覚えてー」
黙して走るのはつまらなかったのだろう。ミサキが話しかけてきた。俺は応えるのにやぶさかではなかった。話しながら走れば、少しは気がまぎれるというものだ。
「ああ、覚えるよ。ミサキ、でいいか? 俺のことも呼び捨てでいいよ、よろしく」
「あんたたち、うるさいわよ! まじめに走りなさいよ、ゼハーハ、ゼハーハペペ」
「ちょっとくらい、いいじゃないのよ。クラルボンだったっけ? 私、あんたのこと嫌いよ。鼻につく。ミクニもそう思うよね」
何とも答えにくい。俺は「はぁ」と、どっちともつかない生返事をした。ここで肯定しても否定してもめんどくさいことになりそうだ。
「私もあんたたちみたいに手を抜く人間は嫌いよ。ゼハーハー、ゼハーハーングゥベペ」
あんたたち、とはひどいな。いつの間にか俺も嫌いな人間にされている。まあ、俺もクラルボンのことはあまり好きではないが。それにしても、クラルボンの呼吸はヘンテコ珍味な形相を増している。なんだ、「ゼハーハぺぺ」って、それは何かの呪文なのか?
そんなことを考えていると、後ろから足音が聞こえてきた。俺は瞬時に後ろを振り向く。目線の先には、ものすごい速さで近づいてくるランダがいた。
「ミクニ、悪いな」
ランダはそう言うと、俺を追い越そうとした。マズイ、このままでは周回遅れだ。腕立てと腹筋が追加だ。それは嫌だメンドクサイ。
「ちょっとマテ、ランダ頼むから追い越さないでくれ。みんなでゆっくり走って、みんなで腕立て腹筋を回避しようじゃないか。平和的な選択だ。採用してくれ」
「なんだよー、往生際が悪いぞ! ミクニだって真面目に走ればいいじゃないか」
「賛成よ」
「ええ、賛成だわ」
気が付くと、俺の右隣にはクラルボンが、左隣にはミサキが並走していた。
「ランダ君、私も賛成だわ。真面目に走りましょう。私は腕立てでも腹筋でもやってやるわ。どうぞ、追い越して頂戴」
「ミクニ、私も賛成。平和的な選択を! お願いしますランダ君!」
クラルボンとミサキは同時に自らの主張を喋った。ランダは少し、困惑した表情をした後、ニヤリと笑いながら俺を見た。
「ミクニ、どういうこと? もうクラスのお嬢さんに手を出したのか? しかも、二人同時に。節操ないなぁ」
「うるさい黙れ。で、どうするんだ? 追い抜くのか、抜かないのか?」
俺はランダに詰め寄った。ランダはうーんと考えるようなそぶりを見せてから、ケロッとした顔でクラルボンを見た。
「ごめんね、クラルボン。今日は天気もいいし、みんなで仲良く走ろうよ、ね」
ランダはこう見えて、紳士的な人間だ。それはあくまでも自称であり、辞書に載っている通りの『紳士的』とは少し意味合いが違うが、まあ、ランダは女子に対して甘いのだ。
「それじゃあ、後ろを走っているみんなにも、追い抜かないように言ってくるよ」
そう言うと、ランダはわざと速度を落とし、後ろを走る生徒と並走して、話しかけた。
「うーむ、そうきたか。つまらん」
体育教師のスズナリ先生は腕を組みながら欠伸をした。
「まあ、それもいい。みんなで仲良くゴールしな」
結果、十周のランニングを終えたFクラスの面々は、横一列でゴールラインを切った。それは見事な、平和的選択であった。
俺はゴールしてから、スズナリ先生をチラリと横眼で見た。そして、ふと思った。スズナリ先生が最初に見せた、スタートの合図。あれは、魔法だったのだろうか? だとしたら、いったい何を対価に払ったのだろうか?
少し、気になった。
「ぐぅー」
お腹が鳴った。昼飯の時間だ。おいしそうな匂いが校庭まで漂っている。今日の給食はカレーだろうか。俺は鼻が良いからスパイシーな香りが良くわかる。俺はツバをゴクリと飲み込み、Fクラスへと戻った。
○
時の流れは速いもので、魔法学校『マジックワース』に入学してから二ヶ月経った。季節はすでに初夏の賑わいだ。
この二ヶ月の間にいろいろあった。魔法について学び、体育の授業で体を鍛え、同級生ともそれなりに仲良くなった。時の流れに身を任すうちに、俺はだいぶん『マジックワース』での生活に慣れていた。
順風満帆。そう感じていた…………つい先刻までは。
「うぁあああ!」
俺は森の中、必死に逃げている。そして、走馬灯のように今までのことを思い返した。
○
最初に思い返したのは、一週間前の「儀式の授業」のことだった。担当教師はフラスコ先生で、相変わらず皮肉交じりの毒気のある授業だった。
「いいか、お前たちにはまだ魔法を使うことは無理だ。そこで、今日は儀式について教えようと思う」
はて? 魔法と儀式は何が違うのだろうか? 予習というものを全くしない俺は、新鮮な気持ちで疑問を感じた。
「今までの授業で再三話したように、魔法を使うためにはまず、ワースを見極めることが必要だ。そして、次にどうするんだったっけ? カガル」
フラスコ先生は、睨むような目つきでカガルに問いかけた。カガルは小柄な男だ。気が弱く、少し疑心暗鬼なところがあるが、話してみると独特で面白い奴だ。
「はい、手放すことが必要になります」
「そうだ。価値を見極め、価値を手放す。それが魔法だ。今までの授業では、ものの価値、つまりワースについて講義をしてきた。今日は価値を手放すことについて教えるぞ」
俺はノートを開き、メモを取る準備をした。座学は眠くなる。手を動かさないと眠気の重力に瞼が負けてしまうのだ。俺は真面目な方ではないが、一週間後に試験がある。次の試験で赤点を取ってしまったら即退学。それだけはどうしても避けたい。故郷の親族に申し訳が立たない。両親や祖父母、さらには近所のおじさんおばさんまで、俺が立派な『呪術師』として凱旋することを願っているのだ。その期待を裏切るわけにはいかない。
「ここで重要なのは、ワースを自分のものと認識しなければいけないということだ」
「どういうことですか?」
すかさずクラルボンの質問が割って入る。フラスコ先生は溜息をつく。
いつものことだ。クラルボンという女、空気を読まずに質問をして話の腰を折るのが大好きなのだ。最初はフラスコ先生も鋭い剣幕で「話の腰を折るな」と怒鳴っていたが、クラルボンは一向に質問するのをやめなかったので、フラスコ先生は根負けした。
「いいか、手放すということは、物の『移動』じゃないんだ。『失う』ことなんだ。一度失わなければ、等価な魔法をその手に掴むことはできない。そして、失うためには、それが自分のものだと認識しなければならない。例えば、消しゴムを借りたとしよう」
フラスコ先生は一番前の席に座っているクラルボンの消しゴムを持ち上げた。
「ちょっと! 返してくださいよ!」
金切り声で怒るクラルボン。まったく、いちいち鼻につく大げさな動作だ。
「はいはい。ほれ」
フラスコ先生は投げるように消しゴムを返した。
「今のは、消しゴムが俺の手からクラルボンの所に移動しただけだ。失ったわけではない。つまり、これでは魔法は使えんのだよ」
何となく、先生の言わんとしていることが理解できた。しかし、この「何となく」を言葉でノートにまとめるのは一苦労だ。この「何となく」を上手に自分の言葉に変換できないのだ。もどかしい。俺は頭を掻いた。
「上級の魔法使いであれば、たいていのものは『自分のもの』だと認識して、手放すことができるが、お前たちには無理だ。それと、もともと自分が持っているもの、自分の一部だと思えるものは、簡単に手放すことができる。例えば、血とか爪とか眼球とか。しかし、それはリスクが多すぎる。まあ、緊急時には自分の一部を失うことも必要になるがな」
俺はFクラスでの最初の授業のことを思い出していた。突然現れた鳥の魔獣に対して、炎の魔法を放ったフラスコ先生。その代償は、少しの血と爪二枚だった。
「そこで開発されたのが『儀式』だ」
もったいをつけてそう言うと、フラスコ先生は黒板に白いチョークで文字を書き始めた。俺は首を上下に動かして、黒板とノートを何往復もしながらメモした。
「儀式を行うために必要なのは二つ。『素材』と『手順』だ。素材は発動させたい魔法と等価なものが必要となる。そして、手順。これは、手放すために必要な手順のことだ」
話がどんどんややこしくなっている。頭がパンクしそうだ。
「手順を遂行することで、簡単にワースを手放すことができるようになる。しかし、これには欠点がある。わかるか? ミクニ」
ノートを取るだけで精一杯だった俺は、不意の問いかけに答えることができず、無言で首を横に振った。
「時間がかかり過ぎるんだ」
フラスコ先生はクリアファイルから一枚の絵を取り出した。そこには、コウモリ、カエル、キノコ、よくわからない棘のある花、これまたよくわからないスライム状の物体、何かの動物の角が見て取れた。さらに、その絵の真ん中には大きな瓶があり、怪しい液体がグツグツと煮えていた。そして、その液体をかき混ぜているのは、魔女だ。
「これは、おそらくお前たちが一番に思い浮かべる、儀式を行う魔女の姿だろう」
確かに、このような絵は良く見たことがある。魔女が出てくる絵本や昔話には、必ずこの絵のようなシーンがある。あれは、儀式を行っている姿だったのか。
「ここに描いてあるコウモリやカエル、キノコは儀式を行うために必要な『素材』だ。そして、大きな瓶でそれらを煮て、さらにその煮詰めた液体を飲む行為、それが『手順』だ」
俺は絵を見てようやく、儀式というものが理解できた……気がした。
「見てわかるだろう、これにはとても時間がかかる。素材を集めるのも一苦労だろう。集めた素材を煮詰めるのだって時間がかかる。さらに、それを魔法の対象となる相手に飲ませないといけない。ちなみに、この絵は『惚れ薬』を作っている絵だ。まあ、とにかくこれはとても時間がかかるし、準備が必要だから瞬発的に使うことはできない。そこで、お前たちが嫌々やっている体育の授業が役に立つんだ。つまりは、儀式を行う間の時間稼ぎをするためには、逃げまどう必要がある。そのための体力だ。そして」
フラスコ先生は一呼吸おいてから話を続けた。
「これからお前たちにやってもらう授業は、素材集めだ」
○
かくして、俺は森の中にいる。
まず、我々新入生に課せられたのは、儀式に必要な素材集めだった。魔法学校『マジックワース』の敷地には、儀式に必要な素材を集められる森や湖がある。そこで素材を集めて、儀式を行うことが期末試験の一つとなっているのだ。当然、筆記試験もある。儀式の実技試験と筆記試験の合計で点数が決まるのだ。そして、この試験で赤点を取ると、即退学だ。まったく、世知辛い。
○
『マジックワース』の森は深い。一度足を踏み入れて一、二分ほど歩けば、すでに森の果ては見えなくなる。一応、歩道はあるものの、生える草木はどこ吹く風である。人工的に作られた歩道はすでに、植物に覆い尽くされ、敗北を喫している。
「それじゃあ、まず、役割分担をしましょう」
森に入ってすぐ、クラルボンがメガネの位置を直しながら、さも当然と言うよう」な顔で仕切り始めた。
素材集めの課題はグループで行うことになっている。俺のグループメンバーは、俺、カガル、クラルボン、ミサキの四人だ。ちなみに、グループはフラスコ先生が勝手に決めた。理由を聞いたところ「テキトウ」と一言。俺はその一言に感心した。つまりは、テキトウに決められたグループで、俺はテキトウに素材集めをするつもりでいた。
しかし、テキトウを許さない不穏分子が約一名、俺の前に立ちはだかる。真面目や正義を美徳とし、愛しいズルを嫌う……だけならまだいいのだが、それを他人にも強要してくる野蛮人。そう、クラルボンだ。
「今回私たちの班が集めなければいけないのは、『ヴァンパイアコウモリ』、『勿忘草』、『ジャイアントキノコの胞子』、そして『二頭フクロウの羽』よ」
そう、俺たちはこんなへんてこりんなものばかり集めなければいけないのだ。それにしても、ほとんど聞いたことがない。こちらの大陸ではどれも有名なものなのだろうか? 少なくとも『勿忘草』以外は、大和国に存在しない素材だ。ちなみに、この四つの素材を集めて行う儀式は、『変化の儀式』だそうだ。なんでも、自分の姿を他のものに変えることができる魔法らしいが、俺はあまり興味がない。どうせなら、『惚れ薬を作る儀式』とかの方が良かったな。
「素材はちょうど四つよ。四人でそれぞれ一つずつ分担しましょう。その方が効率的だわ」
「ちょっと、何勝手に決めているのよ!」
クラルボンを途中で止めたのはミサキだ。ミサキは小動物のようなつぶらな瞳をギラギラと光らせている。ミサキとクラルボンは仲が悪い。お互いハッキリと「お前が嫌いだ」と宣言している仲だ。
「いいじゃない、別に。効率的な方があんたもいいでしょ? ねぇ、カガル君もそう思うでしょ?」
「え、あ、うん……」
急に話を振られたカガルが歯切れの悪い声で頷く。俺は無言で不動だ。このいざこざに関わりたくはない。
「ミクニはどう思う?」
ミサキが俺に話を振ってきた。俺は無言不動を貫くつもりだったが、話しかけられた以上、応えなければ角が立つ。仕方あるまい。
「うーん、どっちで」
どっちでもいいと言いかけて、一瞬口ごもった。ミサキとクラルボンの怒気を含んだ瞳がこちらを睨みつけていたからだ。おー、怖い怖い。俺は高速で思考をフル回転させた。そして、一つの案を思いつき、提案した。
「わかった。クラルボンの案を採用しよう」
瞬間、クラルボンが偉そうな顔で鼻を鳴らし、ミサキが顔を膨らませて不満をあらわにした。俺は二人のそんな機微を無視して話を続けた。
「集める素材は四つ。そこで、誰がどの素材を集めるかだけど、これはミサキが先に決めて、クラルボンはあまりものにする。これでどう?」
今度はミサキがうれしそうな顔で頷き、クラルボンが舌打ちをした。
「そうしましょう! それじゃ、私は『勿忘草』にするわ」
ミサキは即断した。俺はそうだろうよと思った。だって、『勿忘草』は、すぐそこに生えているのだから。
「ちょっと! そこは公平に」
「あんたの案を採用してあげたんだから、いいでしょ別に」
「はぁ? ふざけんじゃないわよ!」
さて、これは困った。今にもキャットファイトが始まりそうな勢いだ。どうしたものか。横目でチラリとカガルを見る。カガルはまるで子犬のようにフルフル震えている。役に立ちそうもない。しょうがない。俺は一度深くため息をついてから、近くに生えている『勿忘草』をむしり取った。そして、石ですりつぶして粉末状にして、二人目掛けて吹きかけた。
「ちょっと! 何すんのよ……あれ?」
「私たち、なんでこんな言い争いしているんだっけ?」
『勿忘草』には、とある薬効がある。その名の通り、記憶を消す……ことはできないが、昂っている感情を抑える鎮静効果がある。たいていの人間は感情が先行した行動を取っている。イライラするから暴力を振るうし、悲しいから泣くのだ。いつだって、行動の前に感情がある。そのため、感情が収まれば、「どうしてこんな行動をしているのだろうか?」と、ふと、我に返るのだ。その一連のさまを要して、この草は『勿忘草』と呼ばれている。この草は大和国にも生えていて、鎮静効果を目的として良く使われている。
「よし、事態も収まったことだし、役割分担をさっさと決めて、素材集めを始めようか」
俺はクラルボンのかわりに話の主導権を握ると、サクサクっと役割分担を決めて、グループを解散させた。
○
「よう、ミクニ。調子はどうだい? 素材は見つかった?」
森の西南方向へ進んで三十分ほど経った頃、ランダとばったり出会った。森の中には百人を超える学生たちが素材集めの目的で入っているので、いくら深くて広い森だとしても、他の生徒とすれ違うことは珍しくなかった。実際、ランダと出会う前にも三人の生徒とすれ違っている。
「いや。まだ見つからないよ。ランダ、お前は何を探しているんだ?」
どうやらランダも一人で素材を探しているようだった。俺のグループと同じように役割分担をするグループは珍しくないようで、先にすれ違った三人の生徒もそれぞれ単独行動をしていた。
「俺は『二頭フクロウの羽』を探しているんだ」
「え? お前もか?」
俺は、てっきりグループごとに集める素材が違うと思っていたので驚いた。
「なんだ、ミクニも同じ素材を探していたのか」
「それなら」
「悪い」
それならと言いかけたところで言葉を封じられた。ランダはいつもそうだ。人の話を最後まで聞かない。せっかちなのだ。それにしても、先ほどから何か匂う。甘い匂いだ。
「このあと一度、グループで集まるんだ。だから、ミクニと一緒に素材を探すことはできない」
「さいですか」
「でも、協力はしようじゃないか。『二頭フクロウの羽』を見つけたら、ミクニにも分けてあげるよ。その代り、ミクニが先に見つけたら、俺にも分けておくれ」
「わかった。ところでランダ、お前、チョコレート持っていないか?」
「え? どうしてわかった?」
やっぱりか。さっきから、ランダの体から甘い匂いがしていた。ランダの奴、授業中だというのに、お菓子を持ち歩くなんて、悪い奴だ。
「ふふん、俺は鼻が良いんだよ。先生には黙っていてやるから、一つおくれ」
「昔からミクニの嗅覚は侮れなかったよなぁ。どんなに隠しても、匂いで直ぐにばれるんだもんな。ほれ」
ランダは苦い顔をして、渋々チョコレートを俺に渡した。俺はチョコレートを直ぐに口に入れた。甘い。歩き疲れた体に糖分が染みわたる。これでもう少し頑張れそうだ。
「それじゃ、俺もういくから」
ランダはそう言うと、小走りで去って行った。
俺はランダが木々の奥に消えて、姿が見えなくなったのを確認してから「ふぅ」と一息ついた。
「つれないお方ですね」
「ああ、全くだよ」
「ホロホロホロ」
「…………」
瞬間、体が硬直した。全身から冷や汗が噴き出した。俺は恐る恐る目だけを動かして、真横を確認した。
「うぁあああ!」
そこにはなんと、あの怪鳥の魔獣がいた。抜け落ちたはずの羽は元通りになっていて、不気味にこちらを見て笑っている。俺は叫び声をあげながら、フラスコ先生の言葉を思い出していた。
『とにかく逃げろ』
俺は師の言葉を忠実に守り、一目散に逃げだした。
○
森の中を駆け抜けるのは難儀だ。そこら中に木々が生えているし、枝やツルが体にビシビシ当たって痛い。ハエやアブも飛んでいるし、木の葉が日差しを遮っているため薄暗く、視界が悪い。地面には根っこがあり躓きそうになるし、土の柔らかいぬかるみもある。転んだら終わりだ。木にぶつかっても終わりだ。俺は何度も木にぶつかりそうになったが、奇跡的に木にぶつかることなく、ここまで全力で駆けた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
呼吸が速くなる。心臓が痛いほど拍動している。後ろを振り向く。そこにはまだ魔獣の姿が見える。追いかけてきているのだ。
「あ!」
「え!」
俺が視線を前に戻した瞬間、ぶつかった。衝撃が体を襲う。俺は思わず尻もちを着いた。ぶつかった相手も同じように尻もちを着いて地面に倒れた。
「急にぶつかってくるなんて、あんまりじゃない」
ぶつかった相手は、女生徒だった。たしか、マロンとかいう女だ。キレイな青色の髪が乱れている。肌は病弱に見えるほど白い。そのくせ、唇だけは活火山のように赤く、血色が良い。瞳は銀河のように輝き、鼻はスッと伸びていて高い。俺は非常事態を忘れて、思わずその美貌に見惚れた。
―――この時俺は、魔法にかかっていたのだろう。
俺は思わず、マロンの乱れた青い髪に触れたいと思い、手を伸ばした。
「ホロホロホロ」
見惚れていたのは数秒で、直ぐに現実に引き戻された。俺は伸ばした手を引っ込めて、後ろを振り向く。すぐそこに魔獣がいる。もう、逃げるのは無理だ。それならせめて……。
「マロン、逃げろ!」
ここは男らしく、マロンだけでも逃がさねば。俺は立ち上がり、両手を広げて魔獣の前に立ちはだかった。
「私の名前はマロンじゃなくて、マリンよ」
マリンだったのか。いや、そんなことより逃げないと! 俺はマリンにもう一度逃げるように言うため、後ろを振り返った。
「魔獣は魔法使いの敵よ。駆逐するわ」
振り返ると、そこには背筋をキレイに伸ばして仁王立ちするマリンがいた。マリンは静かに右手を目の前に差し出すと、何やら呪文のような言葉を発した。次の瞬間、マリンの右手から氷のツララが出現した。その大きさは目測で三十センチは超えているように見えた。ツララの先端は鋭利に尖っていて、刺されば致命傷は免れないだろう。
「ホロホロホロ。おお怖い怖い。その年齢でもう、魔法使いの理を理解していらっしゃる。でもね、そんなに簡単に自分の価値を手放すものではないですよ。ホロホロホロ」
「うるさい。はやく死になさい」
マリンは冷酷な口調で言葉を吐き捨てると、ツララを魔獣目掛けて発射した。
「ホロホロホロ。これはわたくしにも覚悟が必要なようですね。羽だけではとても足りそうにない」
ツララが魔獣に突き刺さった。
「ホロホロホロ」
しかし、魔獣はぴんぴんしている。どういうことだ? 俺は状況に付いて行けていなかった。
「やるわね」
マリンが苦い顔で呟きながら魔獣を睨んでいる。俺はマリンの目線の先を見た。そこにはツララが……あれ? 俺はツララをまじまじと見て気が付いた。なんと、刺さったと思っていたツララの先端が溶けているのだ。どうりでぴんぴんしているわけだ。ツララは魔獣に刺さってはいなかった。
「ホロホロホロ。駆逐はできませんでしたが、あなたの勝ちでございますよ、お嬢さん。私は『光』を失ったのですから。これは大きな痛手でございます」
「ふん」
マリンは腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「お嬢さんに一つ助言を差し上げましょう」
「いらないわ。魔獣の言葉なんか、耳が腐る」
「ホロホロホロ。手厳しいお方だ。まあ、お聞きなさい。あなたはこのままでは、全てを失いますよ。少しは人間らしくなりなさい。そこの少年なんか、見習ったらどうですか?」
不意に魔獣の目線が俺を刺した。俺は何も言葉を発せられなかった。
「さっさと消えて頂戴」
マリンは再び右手を前に差し出し、魔法を放とうとした。その時、俺はある変化に気付き、呼吸が止まるほど驚いた。なんと、マリンの美しく特徴的だったあの青い髪が、真っ白になっていたからだ。なんで!? どうして?? 俺の頭は大変混乱した。
「ホロホロホロ。これ以上の攻撃はごめんでございます。早々に退散するとしましょう」
そう言うと、魔獣は木々の日陰に消えて行った。風が吹き、木々の葉が揺れた。
「マリン、お前その髪……」
俺は魔獣が完全に消えたのを確認してからマリンと向き合った。
「ああ、これ? 対価よ。それが何か?」
マリンは平然としていた。さもこれが当たり前だと言うように。
「対価って、お前、あのツララの魔法のために、あの美しい青い髪を失ったのか? あんなにキレイな髪だったのに……」
俺は酷く残念に思った。
「ええ、そうよ。でも、等価交換をしたまでよ。私はあの青い髪と同じ価値のツララを作った。それは価値を交換しただけで、価値を失ったわけじゃない。それが何か?」
俺はマリンの毅然とした態度を見て、『魔法使いの歴史』の授業を思い出した。
それは、魔法使いと人間の違いを教えられた授業だった。
○
「魔法使いは短命だった。なぜかわかるか?」
誰も手を上げない。俺も当然理由はわからない。見当もつかない。そもそも、魔法使いは短命だということを初めて知った。
俺の生まれ故郷である大和国では、呪術師と呼ばれる人間がいる。大陸でいう魔法使いと意味は同じだ。大陸で魔法使いとなった人間が大和国に戻り、呪術師と名乗っているだけの話。俺の知る限り、呪術師が短命ということはなく、皆ヨボヨボのジジイババアになっても健在だ。
「それには二つの理由がある。一つは、『等価交換の大原則を完璧に理解している』こと。もう一つは、『人間とは違う』ということだ」
『等価交換の大原則』については、理解しているつもりだ。初めての授業でも習ったし、その後の授業でも何度も出てきた最重要キーワードだ。さすがの俺でも覚えている。しかし、もう一つの理由は意味がわからない。『人間とは違う』とはどういうことだ?
「まず一つ目から順に説明していくぞ。ノート取りたい奴は取れ。同じことは二度言わんからな」
冷たい口調でそう言うと、フラスコ先生は黒板に文字を書きながら話を続けた。
「『等価交換の大原則』は、お前たちでもさすがに理解しているだろう。その名のとおり、等価な価値を交換するということだ。例えば……そうだな、仮に『金塊』と『消しゴム』が等価だったとしよう。ミクニ、お前なら交換するか?」
急に指名された。いつもそうだ。フラスコ先生は特に法則性もなく、テキトウに指名をするので、授業中はいつも気が抜けない。
「えっと……交換したくないです」
俺は素直に答えた。だって、金塊と消しゴムだぜ? 金塊があれば消しゴムがどれだけ買えると思っているんだ。
「お前は、相変わらず人間だな。さすがにテストで零点を取っただけのことはある」
フラスコ先生はあきれた表情で溜息をついた。
「いいか、価値は等価なんだぞ? だったら、金塊と消しゴムを交換しても、価値は変わらないんだから、交換してもいいじゃないか」
確かに、そう言われればそうだ。価値が同じなら、交換してもいいということになる。
「魔法使いは価値が同じということを理解しているから、金塊と消しゴムを交換してくれと言われたら、簡単に交換するんだ。なぜかって? 価値が同じだからだ」
「話を変えよう。ミクニ、100ラギッド硬貨十枚と1000ラギッド札一枚を交換してくれと言われたらどうする?」
この質問を聞いて、ようやく少しだけ、先生の言わんとしていることが理解できた。
ちなみに、『ラギッド』とはこの世界の通貨の単位だ。硬貨には、1ラギッド硬貨、10ラギッド硬貨、100ラギッド硬貨、500ラギッド硬貨があり、紙幣には、1000ラギッド札、5000ラギッド札、10000ラギッド札がある。少し前には2000ラギッド札もあったが、あまり需要がなかったため、今はなくなっている。ラギッドには「でこぼこな」という意味がある。むかしの硬貨は製造技術が悪く、でこぼこしていたことから名付けられたらしいが、諸説ありだ。
「えっと……、交換します。価値は同じだから」
「そうだな。そういうことだ。100ラギッド硬貨十枚と1000ラギッド札一枚は、お金としての価値は同じだ。そりゃ硬貨はかさばるとか、紙幣は素材としての価値が低い、といった違いはあるが、お金としての価値は一緒だ」
そうだ。100ラギッド硬貨十枚と1000ラギッド札一枚を交換してくれと頼まれたら、よっぽどの理由がない限り、交換するだろう。だって、価値は同じなのだから。つまり、魔法も同じということか。そして、それが、魔法使いが短命である理由。
「100ラギッド硬貨十枚を『自分の命』に置き換えてみろ。1000ラギッド札一枚を『魔法』に置き換えてみろ。『自分の命』と『魔法』が等価だとしたらどうする? どうだ、わかったか?」
沈黙が教室にはびこる。生徒は皆、頷くことさえできずにいた。
「魔法使いは、簡単に自らの血肉を投げ出してしまう。だから、短命なんだ。今ならこの意味がわかるな? 魔法使いにとって、自分の命さえも、数多ある価値の一つであり、もし仮に、自分の命と等価な魔法を使う状況になった時、躊躇することなく自分の命を投げ出してしまうんだ。なぜなら、価値は同じだから」
思わず、ゾッとした。背筋に悪寒が走った。魔法使いという存在に畏怖した。そして、その魔法使いにこれから自分がなるのだと思うと、胸が苦しくなった。
「魔法使いという生き物は、そういうスケールの中で生きている。自分の命でさえも『特別』ではなく、数多ある価値の一つでしかないと認識している。交換できる価値の一つに過ぎないと捉えている。だから、人間とは違うんだ」
「キーンコーンカーンコーン」
チャイムが鳴った。
「ん、もう終わりの時間か。よし、今日はここまで。続きはまた今度話そう。それと、宿題を一つ出しておこう。教科書二十二ページに載っている物語『魔女と一輪の花』を読んで、感想文を書いてこい。以上」
○
木々はまだ、魔獣が残した風に揺れていた。
そうだ、マリンにとって、青色の髪を失うことは何でもないことなんだ。そもそも「失った」と思っていないんだ。失ったのは一時的な事であり、それと等価な魔法を手に入れているのだから。つまりは、「等価交換しただけ」ということだ。交換の前後で価値が損なわれていないのならば、そこに喪失感や後悔といった感情が生まれるわけもない。至極当然な、魔法使いの振る舞いだ。
俺は、魔法使いになるのであれば、マリンのこの振る舞いを見習わなければいけない。でも、どうしても「もったいない」と思ってしまう。あの、青く美しい髪が、どうにもこうにも、惜しいのだ。
「それじゃ、私はいくわ」
マリンはそう言うと、背を向けて歩き出した。
「ちょ、ちょっと!」
俺は、マリンを引き留めた。理由はわからないけれど、このまま立ち去って欲しくなかった。
「何かしら?」
振り返る、マリンの白髪が揺れた。
その時、急に視界が震えた。目の前の景色が万華鏡のようにクルクルと回転した。心臓がやけに静かに鳴っている。
俺は思わず膝をつき、その場に座り込んだ。
「ちょと、どうしたの? 大丈夫?」
マリンの声がやけに小さく遠くに聞こえる。俺は目を瞑った。すると、瞼の裏、光が見えた。何の光だろうか? 俺は手を伸ばす。途端、頭の中に過去の思い出が映像として映し出された。映像は次々と移り変わる。まるで走馬灯のようだ。
桜散る校庭
零点だったテスト
鳥の魔獣
天井を覆いつくした炎の魔法
抜け落ちた羽
スタートの合図に放たれた三色の閃光
お昼時に嗅いだスパイシーな香り
氷のツララ
そして、美しく青い髪
思い出が駆け抜けて、光が近づく。俺は手を伸ばし、光を掴んだ。そして、理解した。この光は、ワースだ。
「ワース、見つけた」
俺は小さく呟くと、強くワースを握りしめた。後はこれを、手放すだけだ。
○
「あなた、どうして?」
「魔法を使ったまでさ」
「なんでこんな意味のないことをしたの?」
「いいだろ別に。等価交換をしただけだ」
「ふん。そうね。私は恩に着る、なんてことはしないわよ」
「ああ、それでいい。これは俺の自己満足だから」
「あらそう。それじゃ、お元気で」
「ああ、また会おう。やっぱり、君にはその青い髪が良く似合う」
「ふん」
マリン鼻を鳴らすと、青く美しい髪を靡かせながら颯爽と森を行く。その後ろ髪を見て、俺はやっぱり美しいと思った。あの価値は、マリンが保持すべき価値だと思った。たとえ誰が保持していても価値は変わらないのだとしても、あの『青』は、マリンが持つべきだ。そう思う。
俺は近くに生えていた赤い花を摘み取り、匂いを嗅いだ。
「はは、何も匂いがしないや」
でも、不思議と後悔はない。何せ、等価交換をしただけ、なのだから。
○
失って初めて気付いた。微細な匂いが、日常を根底から支えていたことを。風の匂いは季節の訪れを教えてくれた。朝食の匂いは目覚まし代わりで、人の匂いはその距離感を音以上に正確に伝えてくれた。自分の匂いは健康のバロメーターでもあり、特定の匂いは思い出のトリガーでもある。
なくても生きられる。でも、なければ少し、不便だろうか。俺はそんなことを思いながら、歩き出した。
いつもより一歩が重い。匂い一つなくなっただけで、踏み出すのが怖いのだ。いつも以上に慎重になる。嗅覚を補うように、視覚をこらした。すると、今までの俺ならばおそらく見逃していたであろう、ある物を発見した。
「これは、魔獣の?」
俺は落ち葉の下に隠れていた白い羽を見つけた。それも一枚だけではない、辺りには数枚の羽が落ちている。俺はその全てを拾い、ポケットにしまった。
○
結局、今日は『二頭フクロウの羽』を見つけることはできなかった。俺は日が暮れる前に寮へと戻った。
俺は今、寮生活をしている。寮は魔法学校『マジックワース』が用意してくれたものだ。寮は『マジックワース』の敷地内にあり、遠方から入学した人間の六割近くが利用している。当然、島国出身の俺やランダも利用している。寮は『さくら寮』、『ウメ寮』、『チューリップ寮』の三寮あり、俺はさくら寮に住んでいる。さくら寮は五階建てで、一つの階には十の部屋と寮生が使える共同スペース、それと共同トイレ、共同洗濯場がある。浴場と食堂は一階のみあり、立ち入り禁止だが屋上もある。
俺の住処は一階の105号室だ。
「ふぅ」
寮に帰り、一息ついた。不思議だ。未だ実感、というものがない。俺は今日、初めて『ワース』を感じた。そして、初めてワースを手放し、初めて魔法を使い、そして、初めて嗅覚を失った。これはとんでもないことだと思う。でも、いかんせん、客観的で実感が乏しい。
ふと、魔法を使った瞬間のことを思い出す。あの時俺は、なぜだかわからないけれど『ワース』を理解できた。根拠は何もないのだけれど、不思議とわかったんだ。
―――マリンの青い髪と何が等価なのか。
ベッドに横になり、目を閉じてみた。光は見えない。一応、手を伸ばしてみる。空を切る。何も掴めない。やはり、あれはあの時だけの特別だったようだ。今は全くワースを感じられない。魔法使いへの道は、まだまだ険しそうだ。
ふと、机の上を見ると、そこにはやりかけの宿題があった。そう言えば、感想文を書けと言われていたんだった。テストの日までに提出しなければいけないことになっている。
俺は大変疲れていたが、頑張って起き上り、宿題である『魔女と一輪の花』という話に目を通した。
○
『魔女と一輪の花』
「どうしたら、魔法使いになれますか?」
私は魔女に訊ねました。ほんの少しだけ、胸がトクンと動くのを、遠くに感じました。
「簡単さ。お前はもう、魔法使いになれるじゃないか」
「どういうことですか?」
「お前はすでに、魔法を使うために必要なものを全て持っているということだ」
「でも、私は魔法を使うことはできませんよ」
「……お前はどうやら勘違いをしているようだね」
「勘違い?」
「そう、お前は魔法というものを自分に『付加』しようとしている。魔法というものを『手に入れよう』としている」
「はい。どんなつらい修行でも試練でも乗り越えてみせます! だから、私に魔法を教えてください」
「そして、お前は魔法を『特別なもの』だと思っている。修行や試練といった非日常を乗り越えて、初めて到達できる領域にある、稀有な存在だと勘違いしている」
「……言っている意味が、わかりません」
「お前は今、生きている。他の生命を喰らい、時間を浪費し、他の人が存在したかった場所をたった一人で占拠しながら、生きている。そして、同じように生きているのはお前だけではない。『生きる』ということは、ありふれていて、けして特別なものではない。……魔法も一緒だよ」
「…………」
「魔法とは、『生み出す』ことではない。『失う』ことだ。魔法とは、『付加する』ことではない。『奪う』ことだ。お前に、『失う』覚悟はあるか? 『奪う』覚悟はあるか?」
「…………あります」
私には覚悟がありました。ここに来るずっとずっと前から、覚悟だけは、この胸にありました。
「そうか。いいだろう、お前に魔法の使い方を教えてやる。なに、簡単さ。さっきも言ったように、お前はすでに必要なものは全て持っている。後はそれを『失う』覚悟と、価値を見極める『観察力』さえあれば、魔法を使えるだろう」
「ありがとうございます」
「お礼なんか言うんじゃないよ。これから教えることは、けしてお前を幸せにはしないのだから」
「……はい」
魔女は悲しい顔で笑っていました。
「いいかい、まず、この世界は『等価交換の大原則』でできている、ということを理解しなければいけない」
「等価交換?」
「そう、この世界のエネルギーの総量は決まっているんだ。だから、どこかが膨れ上がれば、その分他のところがへこむ必要がある。お前は生きるために、ほかの生命のエネルギーを奪っている。時間を対価に払うことによって生きている。そういう意味で言えば、生きるということも魔法の一種と言えるだろう。お前はちゃんと、生きるための対価を払って生きているんだ」
「魔法も……同じということですか?」
「呑み込みがはやいじゃないか。その通りだ。魔法を使いたければ、それに見合った対価を払えばいい。そして、魔法を使う上で難しいのはその『見合った対価』を見極めることだ。この世界の掟は厳格にできていてね、ちょっとでも価値が等価ではないと、魔法は発動しないんだ。つまり、等価な価値を見極める観察眼が必要だということ。そして、等価なものさえわかってしまえば、あとはそれを『失う』だけでいい。自分がその価値に見合うものを持っていないのであれば、『奪え』ばいい」
「それが、覚悟、ということですか」
「あぁ、普通の人間には、難しいことだからね。自分の持っているものを手放すのは誰だって嫌だし、人から奪うということも、簡単ではない。それに、自分の持っているものの『真の価値』を理解している者も、この世にはほどんどいないからね。今こうして、素晴らしい日常を捨ててでも「魔法を使いたい」なんて言っているお前もきっと、『真の価値』を理解できていないのだろうね」
「私は……ただ、奇跡を望んでいるだけです。望んではいけませんか? 奇跡を望むのは、バカのすることですか?」
「そんなことはないよ。そもそも奇跡なんてのは、あまりに美化され過ぎているからわかりにくいかもしれないけれど、その本質はたいしたことはないものだから。奇跡なんてそこらへんに溢れている、価値のないものだからね」
「奇跡に……価値はない? どういうことですか!?」
私は、奇跡を望む自分の心をバカにされた気がして、腹が立った。
「奇跡にたいした価値はない。それを理解していない者が多すぎるから、奇跡は起きない。それだけのことだ。奇跡の本当の価値を理解し、それと見合う等価なものを差し出せば、それだけで奇跡を起こせる。それなのに、人は奇跡よりもずっと価値の高いものを差し出して、奇跡を起こそうとしている。それが間違いなんだ」
「あの人に、笑って、明日も生きて欲しい…………それは、価値のない奇跡…………」
「気付け! 誰かの生きたくても生きられなかった笑顔の明日と、お前が望まない苦しみの明日は等価なんだ。感情を捨てろ。社会性を捨てろ。もっと俯瞰的に、真の価値だけを見極めろ!」
「魔法、見せてください。実際に、今、ここで!!」
「……いいだろう」
そう言うと、突如として、魔女の体は砂のように崩れました。
「え!? え、ええ??」
私は突然の出来事に、訳が分からなくなり、大変混乱しました。
「……これは?」
魔女の砂をかき分けるように、小さな赤い花が、地面から出てきました。
「この花と、魔女の命は等価ということなの……」
結局、私は魔法を使うことはできませんでした。ありふれた日常が奇跡と等価だとは、思えなかったから。私にとって大切なあの人の命が、道端に咲くみすぼらしい花と等価だと、どうしても、思えなかったから。
○
あれから三日経った。俺は三日間森の中を彷徨った。しかし、『二頭フクロウの羽』を手に入れることはできていない。テストは明日に迫っている。空を見上げると、赤い。夕刻だ。これは困った。素材が集まらなければ、儀式を行うことができない。できなければ、点数が入らない。点数が入らなければ、退学だ。それは勘弁してほしい。
「おーい、ミクニー」
「おお、ランダ!」
もう時間もない。闇夜の森は危険すぎる。これ以上の探索は不可能だ。ならば、後はランダに託す他ない。
「ちょうどいいところにきた。『二頭フクロウの羽』手に入れたか?」
「いーや。残念だけど」
俺は思わず頭を抱えた。最後の頼みの綱であるランダもダメだったか……。
「その様子だとミクニもダメだったみたいだな」
「ああ……」
ふと、ある考えを思いつく。悪い考えだ。ポケットの中に手を入れる。嗅覚がなくなったせいか、いつもより敏感な触覚が、滑らかな毛並みをなぞる。ばれるだろうか? いやでも、同じ羽だし、『二頭フクロウの羽』を見たことはないけれど、きっと似たようなものだろう……うん、よし。
「うん、見つけたよ」
「ほんとか!?」
俺はポケットから羽を取り出した。当然、それは『二頭フクロウの羽』ではない。
「おお! 本当だ、よく見つけたな。エライぞミクニ」
「ああ、まあな」
「サンキュ! 今度お礼するからな」
そう言うと、ランダは俺の手から羽を乱暴にむしり取り、去って行った。
ランダ、悪い。それは偽物なんだが……まあ、許せ、友よ。
気が付けば空には一番星が見えた。もう帰ろう。俺はトボトボ歩いて帰路に着いた。
○
時の流れは無常で速い。気が付けば、試験当日である。
「お前たち、勉強はしてきたか? もう一度試験の注意事項を説明してやるから、耳の穴かっぽじってよく聞けよ」
試験直前、フラスコ先生が改めて試験の注意事項を説明してくれた。
一つ、赤点取ったら即退学。
一つ、試験は筆記試験と実技試験の合計点数で合否を決める。午前中に筆記試験、午後に実技試験を行う。
一つ、実技試験はグループごとに行う。試験内容は儀式を成功させること。
一つ、カンニングや不正は問答無用で零点。
フラスコ先生の話をまとめるとこんな感じだ。
「それじゃ、早速筆記試験始めるぞ。テスト用紙が全員に行きわたるまで裏にしておけ」
一年F組のいつもの教室のいつもの席に俺は座っている。窓際の一番後ろの席だ。一番前の席には落ち着かない様子で貧乏ゆすりをしているクラルボンの姿が見える。右の方にはひょうひょうとした表情のミサキと、どこか悟りを開いたような顔をしているランダが見える。カガルはこれ以上小さくなれないほど縮こまっている。
俺の手元にテスト用紙がきた。一つ、深呼吸をして、目を閉じた。かすかだが、光が見える。これは、ワースだろうか? 判別がつかないが、なんだかうまく行きそうな予感がした。
「それでは、始めろ」
俺は鉛筆を握り、テスト用紙を表にして、問題に目を通した。
それは不思議な感覚だった。何となくだけど、答えがわったのだ。何と何が等価なのか、感覚的にわかる。やはり、ワースを感じ、魔法を使ったおかげなのだろうか? いや、まてよ、これは……。
俺は改めて問題をまじまじと見る。これも、それも、どれも、授業中に習った内容ばかりじゃないかっ!
必死の勉強のおかげで、どうやら筆記試験は大丈夫そうだ。俺は軽快に筆を走らせた。
「やめ。鉛筆を置け。今から答案用紙を回収する」
テストの時間が終わり、解答用紙が回収された。手ごたえはばっちり。あとは午後の実技さえうまく行けば、赤点は大丈夫だろう。しかし、その実技が問題だ。
―――失敗。
その言葉が頭を過る。俺は一抹の不安を感じながら、溜息をついた。用意した素材が偽物なのは、それはそれで大問題なのだが、俺にとって問題なのは別のことだ。儀式に必要なのは「素材」、それと……
「どうだった?」
考え事をしていた俺に話しかけてきたのは、カガルだった。カガルの声は小さく、覇気がない。目の下にはクマが見て取れた。おそらく、徹夜で勉強していたのだろう。カガルはけして、頭の悪い人間ではない。しかし、極端に自分に自信がないのだ。だから、必要以上に勉強をしたのだろう。無駄な努力というやつだ。しかし、カガルにはこの「無駄な努力」という言葉が良く似合う。もちろん、いい意味でだ。無駄ではあるが、無価値ではない。そこに、俺はほほえましさを感じてしまう。
「まあまあ、かな。あとは午後の実技次第ってとこ」
「そっか。俺は全然ダメだったよ。退学かなぁ。俺、退学させられるのかなぁ」
カガルは弱音を吐いているが、俺は何となく、カガルも手ごたえがあったんだなと思った。カガルはきっと、手ごたえがあった自分さえ、信じてあげられないんだ。自分がこんなにも上手くいくはずがないと、心のどこかで疑っているんだ。だから、不安になって、弱音を吐くんだろう。俺なんか、「手ごたえがあった、ラッキー」としか思っていない。
「大丈夫さ、筆記試験が良くなかったのなら、実技で挽回すればいいだけのはなしさ。だろ? 大丈夫、カガルは絶対に退学にはならないよ」
「そうかなぁ。そうだといいんだけど……」
俺は根拠のない励ましをした。
「ちょっと、いいかしら」
カガルの後ろから声をかけてきたのはクラルボンだ。クラルボンの隣にはミサキもいる。
「何?」
「午後の儀式について、最終チェックをしましょう」
やはりその話か……。
「何よ嫌そうな顔しちゃって。私たちの進退がかかっているのよ。真面目にやって頂戴」
見てわかるほど、俺は今嫌そうな顔をしている。感情がそのまま表情に現れているのだろう。嫌だ嫌だ嫌だ! できれば今ここで駄々をこねたい気分だ。
「ミクニ、観念しなよ。私だって嫌なんだからね。でも、我慢よ」
珍しく、ミサキが真面目な顔をしている。おそらく、筆記試験のできがあまり良くなかったのだろう。
「わかったよ。それじゃ、『手順』の確認でもするか」
俺は席を立ち、カガル、ミサキ、クラルボンと一緒に人気の少ない体育館裏へと向かった。
儀式を発動させるために必要なのは『素材』と『手順』だ。素材を集めるのは体力も使うし時間もかかる、大変なものだ。一方、手順は、厄介なものであると言えよう。
俺たちが今回行う儀式は『変化の儀式』だ。素材には『ヴァンパイアコウモリ』、『勿忘草』、『ジャイアントキノコの胞子』、そして『二頭フクロウの羽』が必要となる。
そして、手順はこうだ。
一、ヴァンパイアコウモリの皮を剥いで鍋に入れる。
二、勿忘草を細かくちぎって鍋に入れる。
三、ジャイアントキノコの胞子を鍋に入れ、水を入れて火にかける。
四、煮立ったら二頭フクロウの羽を入れる。
五、煮えたぎる鍋の前でダンスを踊る。
六、鍋の煮汁を飲む。
七、ジャイアントキノコの胞子には瀉下作用があるので、排便をする。
八、逆立ちをしながら「プペンポポンパボポンポパレ」という呪文を詠唱する。
以上だ。
なんだこの珍妙な儀式は! こんな恥ずかしい手順を踏まなければ魔法を発動させることはできないのだ。改めて、魔法使いへの道は険しいと実感する。凡人には不可能だろう。
ちなみに、どうしてこんなへんてこな儀式が試験に選ばれたのか、フラスコ先生に質問をしたことがある。なんでも、教頭先生が決めたことらしい。教頭先生とはあまり交流がないが、心底恨んだ。クソ教頭め!
「さあ、ダンスの最終チェックをするわよ。配置について」
そして、この手順の中でも特に難関なのがダンスだ。
「ハイ、イチニ、イチニ」
クラルボンの手拍子に合わせて徹夜で覚えたダンスを踊る。基本はボックスの動きだ。右足を前に出すところから始まり、ボックスを踏むように体を揺らす。これはリズムさえつかめばそれほど難しくはない。一方で上半身の動きは複雑だ。言葉で説明するのは大変難儀なのだが、腕を上下に激しく動かしたり、頭の上で回したり、手を開いたり閉じたりしたり、あと、肘の角度が正しくないとダメだったり、とにかく難しい。
「ミクニ、そこ違う。カガルも違う、ミサキあんた練習してきたの? 全然だめよ!」
クラルボンが偉そうに叱咤する。クラルボンは糞真面目だから、毎晩のように徹夜して完璧に踊りを覚えていたのだ。一方、俺とミサキはめんどくさくて練習を始めたのが三日前くらいであり、カガルは運動音痴なのでうまく踊れていなかった。
「そこの角度はこうよ、こう! ちょっと、もっと真剣にやりなさいよ! 落ちたらどうしてくれんのよ!」
クラルボンの熱が最高潮になる。めんどくさいこと甚だしいが、今はクラルボンに従うしかない。何せ、我々の進退がかかっているのだから。さすがにこの土壇場で、何もしないわけにはいかない。今の俺たちにできることは、この中で一番できが良いクラルボンの指導を受けることだ。これは、過去の自分が怠けたせいでもある。粛々と受け入れよう。
俺は少しイライラしながらも、必死にダンスの振りの最終確認をみっちりと行った。
「キーンコーンカーンコーン」
気付けば昼休み終了のチャイムが鳴っていた。
「やることはやったわ。本番、頑張りましょう」
「おう」
「うん」
「そうだね」
気が付けば、四人の間に奇妙な連帯感が生まれていた。俺たちは誰からともなく手を前に差し出し、円陣を組んだ。
○
「よし、始め」
試験は体育館を貸し切って行われる。グループごとに順番に試験を行うことになっており、俺たちのグループは二番目だ。試験を終えたグループは、今日はもう帰っていいことになっている。試験官は『ゲイル』先生が行う。
ゲイル先生は化学の先生で、何度か化学の授業でお世話になったことがある。ゲイル先生は男で身長が高い。体型はガリガリでメガネをかけている。ゲイル先生は授業中に「化学とは、この世界のルールに乗っ取った事象の推移であり、それはワースを理解するために役に立つ」と言っていた。俺にはまだ、化学と魔法の関係性はわからない。というか、化学自体がよくわからない。難しいのだ。
「制限時間は三十分だ」
ゲイル先生はストップウォッチを押した。俺たちは急いで儀式に取り掛かる。
まずはヴァンパイアコウモリの皮を剥ぐ。この作業は女子二人に任せてある。包丁を持っているのはミサキだ。普段から料理をしているのだろう、慣れた手つきだ。その隣では、危なっかしい手つきでクラルボンが勿忘草をみじん切りにしている。今にも指を切りそうで見ていられない。きっと、クラルボンは料理が下手なのだろう。その所作を見れば一目瞭然だ。
女子二人が作業をしている間、俺とカガルは鍋の準備をする。コンロの上に鍋を置き、水を入れる。水はペットボトルの飲料水が既に用意されていたのでそれを使った。さらに、ジャイアントキノコの胞子も準備する。ジャイアントキノコはその名のとおりとてもデカいキノコだ。全長一メートルはある。胞子の取り出し方は簡単で、叩けばホコリのようにわんさか出てくる。儀式にはかなりの量の胞子が必要なので、俺とカガルは抱き付くように何度もジャイアントキノコを叩いた。
「準備できたわよ」
女子二人の作業が終わり、鍋の中に皮を剥がれたヴァンパイアコウモリとみじん切りにした勿忘草、さらにジャイアントキノコの胞子を入れて火にかけた。
数分後、充分に煮立ったのを確認してから、俺は魔獣の羽を入れて、鍋に蓋をした。一瞬、申し訳ないという、後ろめたい感情が過ったが、ここまできたらしょうがない。これでいくしかないのだ。俺は改めて腹をくくり、ダンスの配置へと移動した。
「いくわよ」
「おう」
クラルボンの合図でダンスを始める。右足を前に出しボックスを踏む。腕を上下左右に振り回し、手をグーパーグーパーした。よし、いい感じだ。みんな揃っている。このダンスは四人全員がそろわないとだめなのだ。もう少し。頑張れ俺、頑張れみんな!
「あ」
俺が心の中でみんなにエールを送った瞬間、なんと、クラルボンが足を絡ませて前のめりに倒れた。
「何やってんのよ!」
「あぁ……ご、ごめんなさい……ごめんなさい」
クラルボンは放心状態。怒鳴り声をあげてミサキが近づく。俺とカガルもクラルボンに近づいた。
「ほら、立ちなさい。まだ試験中よ。大丈夫。これくらいの失敗、屁でもないわ」
俺は正直驚いた。ミサキはクラルボンのことを罵倒するかと思っていたからだ。しかし、ミサキはやさしく手を差し伸べた。
「ああ、気にするな。ほら、最後までちゃんと踊ろう」
「ありがとう」
クラルボンは立ち上がった。俺たちは再び自分の配置に戻り、ダンスを再開した。
途中でアクシデントはあったものの、俺たちはダンスを完遂した。次は、煮立った液体を飲む。
「うげぇ!」
ま、ま、不味い! これは不味い。
「うぅ!」
お、おなか痛い! 壊れたモーター音のようにぎゅるぎゅるとお腹が鳴っている。これがジャイアントキノコの胞子による、瀉下作用かぁ! も、もれる!
俺たちは蜘蛛の子散らすようにトイレへと駆け込んだ。
数分後、俺たちは再び体育館へと戻ってきた。みんな、心なしかやつれた顔をしている。
さぁ、最後の段階だ。俺たちは横一列に並び、逆立ちをした。そして、最後の呪文を唱えた。
「プペンポポンパボポンポパレ」
俺たちは今ここに、儀式を完遂した。
○
寮に帰り、鏡を前に溜息をついた。鏡の中には、いつもと変わらぬ俺がいた。ただ、一点を除いて。
「お前たち、なんだその姿は」
ゲイル先生は、必死に笑いをこらえているようだった。無理もない。今回の儀式では、『鳥』に変身するはずだったのだ。しかし、俺たちが変身したのは『ウサギ』だった。しかも、耳だけ。俺の頭には今、ウサギの耳がぴょこんと生えている。
「いや、確かにウサギは一羽二羽と数えるが、鳥ではないぞ?」
俺たち四人は誰も笑えなかった。鳥ではなくウサギに変化したということは、それはつまり、失敗を意味していたからだ。四人そろって意気消沈。
「ふふ、お前たち命拾いしたな。鳥ではないが、ちゃんと変化は成功しているようだ。一応、評価の対象にしてやろう。俺が担当で良かったな。よし、今日はもう帰っていいぞ。試験の結果は一週間後だ。それまで学校は休み。お前たち、入学してからほとんど休んでいないだろう? ゆっくり休め。以上」
そう言うと、ゲイル先生は手で顔を隠して「ふふ」と笑った。
いったい何がいけなかったのだろうか? やはり、『二頭フクロウの羽』ではなく『魔獣の羽』を使ったことが原因だろうか? それとも、クラルボンがダンスを失敗したせいだろうか?
まあ、終わったことだ。これ以上考えても意味がない。俺は考えるのをやめて、ベッドに入った。もう今日は疲れた。ゲイル先生はちゃんと評価の対象にすると言ってくれた。たとえ実技の点数が悪かったとしても、何とかなるだろう。今回のテストは実技だけでなく、筆記試験の点数も加味されるのだ。正直、筆記試験は手ごたえがあった。たぶん、おそらく、メイビー、大丈夫だろう。
俺は合格を願いながら眠りについた。
○
一週間の休みが終わった。この一週間、俺はランダと共に『マジックワース』の敷地を出て、大陸の都会と言われる街や有名な観光名所を見て回った。もしかしたら、これが見納めになるかもしれない。それなら、思う存分大陸の空気を満喫しよう。俺とランダはそんな気持ちで楽しんだ。
そして、再びここ魔法学校『マジックワース』に戻ってきた。今日は試験の結果発表日。結果は春先のテストの時と同じく、校舎の入り口前の掲示板に張り出される。俺はドキドキしながら掲示板に目をやった。こんなにドキドキしたのは、いつぶりだろうか?
「え……」
俺は掲示板を見て絶句した。まさか、こんなことがあるなんて……。いったいどうして、なんで。
―――合格者、ミクニ、クラルボン、ミサキ、カガル、ランダ、ラスカル、ププン、カンザス……以上。
合格者は計八人。俺とランダのグループ以外、みんな落ちていた。
「Fクラス、八人になっちゃったけど、どうなるんだろうな?」
気が付けば、クラルボンにミサキ、カガルにランダ、それとランダと同じグループだったラスカル、ププン、カンザスも掲示板の前に集まっていた。
「もう、Fクラスは解散だ」
後ろから声がしたので振り向くと、そこにはフラスコ先生がいた。いつも通りの冷めた目だ。
「お前たちには他のクラスに編入してもらう。クラルボン、ミサキ、ミクニ、カガル、お前たち四人はAクラスに行け。ランダ、ラスカル、ププン、カンザスはBクラスだ」
「フラスコ先生は……」
「ん? 俺か? ふふ、晴れてお役御免、ということだな」
Fクラスがなくなったのだから、フラスコ先生もクラスの担任をやめることになるのは必然か。フラスコ先生はどこか「清々した」というような態度をしているが、気のせいだろうか? 俺には、どこか残念そうな目をしているように見えた。
「ふん、お前たちみたいな落ちこぼれの子守から解放されて、本当に良かった」
どうやら気のせいだったようだ。フラスコ先生は鼻で笑いながら侮蔑の目で俺たちを睨んできた。
「フラスコ先生、ありがとうございました」
誰からともなく、俺たちは感謝の言葉と共に頭を下げた。他のみんなはどうか知らないが、少なくとも俺が合格できたのは、フラスコ先生の授業のおかげだった。
「健闘を祈る」
感謝の魔法はきっと、フラスコ先生に届いたのだろう。フラスコ先生は似合わない言葉を口にして、少し照れくさそうだった。