Act.3-02
涼香の視線をまともに受けた夕純は、「どうしたの?」と困ったように微苦笑している。
「いえ、何となく」
そう答えると、夕純は苦笑いしたまま首を傾げる。
こうして見ると、やっぱり可愛い。
普段の夕純を知らない人がこの仕草を目の当たりにしたら、仕事を男性並みにバリバリこなしているとはとても信じられないだろう。
「で、さっきの質問の答えは?」
「恋のこと、ですか?」
「もちろん」
大きく首を縦に動かしながら強調され、涼香は内心辟易した。
プライバシーの侵害もいいところだ。
「人の恋愛話を酒の肴にでもするつもりですか?」
つい、棘を含んだ言い方をしてしまった。
だが、上司だろうと人の心に土足で踏み込むような真似はされたくない。
涼香は心の底から思った。
そこでようやく、夕純も涼香の気持ちを察したらしい。
夕純にしては珍しく、「そんなつもりじゃ……」と気まずそうに口籠った。
「ごめん、確かに無神経だったわ……。でも、別にただの興味本位で訊こうとしたわけじゃないのよ。それだけは信じて?」
夕純は足をピタリと止め、「ごめんなさい」と謝罪する。
謝られると思わなかった涼香は、すっかり面食らってしまった。
「あ、いえ。私も言い方がきつかったですから」
涼香は少し悩み、「頭を上げて下さい」と静かに促した。
ゆっくりと、夕純が頭を上げる。
その表情は、涼香の機嫌を覗うように怖々としていた。
(なんか調子狂うなあ……)
十歳も上の人なのに、涼香の方が身長が遥かに高いから、逆に華奢な可愛い女の子を苛めているような心境になる。
幸い、この辺は人通りがないから良かったものの、誰かひとりでもこの現場に遭遇していたら、間違いなく、涼香が夕純を苛めていると勘違いされていただろう。
「私もダメね……」
夕純は溜め息を吐くと、再び歩き出した。
涼香も倣って隣に並ぶ。
「好きな子を前にすると見境なくなっちゃって。それをよく分かってるから、気を付けようとしてたのに、また墓穴掘っちゃったわ……」
「――え?」
涼香は思わず、眉をひそめて夕純を睨んだ。
その視線に気付いた夕純は、「あ、違う違う!」と慌てて否定した。
「この場合の〈好き〉は恋愛とは無関係だから! えっと……、〈妹を溺愛する姉〉とでも言った方がいいかしら?」
「私が、唐沢さんの妹、ですか……?」
「――迷惑?」
「いや、迷惑とかそういうわけじゃ……」
「なら、友達は?」
「――唐沢さんを〈友達〉として見るのは難しいんですけど……」
「――そう……」
淋しそうに微笑まれてしまった。また、意地悪をしている気分にさせられる。
「友達、というか、こうしてたまに一緒に飲みに行くならいいですよ?」
そういう関係こそ〈友達〉じゃないか、ともうひとりの涼香が突っ込んできたが、あえてそれは無視した。
だが、夕純に『一緒に飲みに行く』はてきめんに効果があったらしい。
パッと表情を輝かせ、先ほどとは打って変わって満面の笑みを向けてきた。
「飲みに付き合ってくれるだけで充分。それじゃ、また今度違う店も教えるわ。そうそう、私のことは下の名前で呼んでくれていいから。プライベートぐらいは苗字はやめてもらいたいし。私も『涼香ちゃん』って呼ばせてもらうわ」
「りょ、涼香、ちゃん……?」
普段、〈ちゃん付け〉で呼ばれ慣れない涼香は、全身に鳥肌が立つのを感じた。
「もしかして私、調子に乗り過ぎた……?」
恐る恐る訊ねてくる夕純に、涼香は「そうじゃないですけど」と続けた。
「ただ、ちゃん付けはちょっと……。それなら呼び捨ての方がいいです」
「呼び捨て? 下の名前でもいいの?」
「ちゃん付けじゃなければ、下の名前で呼ばれるのは全然構いません。ちゃん付けじゃなければ」
〈ちゃん付け〉を断固拒否している涼香は、強調するために二度繰り返した。
さすがに涼香の必死さは夕純にも伝わったらしい。
苦笑いと同時に肩を竦めながら、「分かったわ」と納得してくれた。
「なら、お言葉に甘えて『涼香』って呼ぶわね。あ、私は好きなように呼んでいいから。呼び捨てが楽なら呼び捨てでも」
「――いや、呼び捨ては出来ないので私は『夕純さん』で……」
さすがに、年上に呼び捨てもないだろう。
夕純を見ている限り、呼び捨ても受け入れてくれそうだが、涼香もそこまで礼儀知らずではない。
「なんか嬉しいわねえ。今の職場で下の名前で呼んでくれるのって涼香以外にいなかったもの」
夕純の腕が涼香のそれに絡まれる。
考えてみたら、涼香は全く同じ行為を紫織にいつもやっては怒られていた。
(今度は私がやられる側になるとはね……)
相手が相手だから邪険に振り払えなかった。
いや、振り払う気もなかったのだが。
(手間のかかる〈姉ちゃん〉だ)
涼香は口元を歪めながら、夕純のなすがままにされていた。
[第一話-End]