2章『父に呪いを―その4』
暗闇にも濃度がある。夜が深まるにつれ、濃度は高くなる。
高まるとどうなるか。視覚と聴覚が過敏になる。
弥生は姉妹部屋から余計な音が消えたのを悟った。耳に入るのは、糸のように細い、規則性のある寝息だけ。
弥生は時計を手に取る。
頃合いかな。
時間を確認した弥生は、ベッドスペースを囲んだカーテンを、指先でそろそろと開けた。
目の前に広がる闇に、弥生はさっそく声を発しそうになった。何とか耐えて、息を呑む程度ですませた。
弥生は暗所にさえ困らなければ寝つきが非常に良く、夜中に目を覚ましたことなどあまりなかった。そんな彼女が今、夜中に体を起こして電灯のない室内を見ているのだ。
安心という言葉はない。背筋が凍りつくほどの不気味さを肌で感じていた。
怖い。
それでも弥生は、その怖い場所に飛び込むつもりだった。安全地帯ともいえるベッドから、黒く濁った液体の中に飛び込む覚悟を作っていた。
四つん這いで、もそもそとベッドの上を動き、音を立てずにそこから抜け出る。
室内の空気は濡れているかのように冷たい。肌寒さに弥生は肩を震わせた。
弥生はベッドの二段目に目をやった。布団に包まった小春。小さな妹は壁に貼ったアイドルポスターに体を向けた状態で寝息を立てていた。
聞き慣れたいつもの寝息とは若干違っていたものの、乱れのない安らかな息遣いということには変わりない。
大丈夫そうね。
弥生の知っている限り、小春は寝つきが大変いい。布団に入って一度熟睡モードの寝息を立て始めると、朝までそれは止まらない。
十数年間、小春と同じベッドをともにしてきた弥生は、脳の中に溜め込んだ昨日までの夜の記憶をじっくり回想させた。
小春が夜中に目を覚ました、というシーンは思い当たらない。
丑の刻参りをこれから始める弥生にとって、それは最善であった。
ところが、都合のいい発見に酔った弥生は気づいていない。
小春の夜中に目を覚ましたところを、見たことがないのは弥生自身もまた深い深い眠りについていたからである。
そうとも知らずに、自分の計画に穴はないと、完璧だと決して疑わない弥生。
身につけている衣類を脱ぎ捨て、パンツ一丁になると、衣装ダンスから一着のワンピースを手に取り、袖を通した。
肘までの袖、膝には少し満たない丈の長さ。そう。春用ワンピースだ。色は白。これからすることになる呪いとは不釣り合いの、可愛らしい花の飾り襟がついている。
さすが春用。裏地がしっかりしていて寒さを感じさせない。と弥生は感心する。
儀式用の白装束を身に纏った弥生は、枕に隠しておいた丑の刻参りセットを取り出した。
手鏡を首から提げる。
それからもう一つ、秘密のアイテムを手に持つ。
よし。これで準備万端よね……やるぞ!
声が出せない代わりに、弥生は心の中で雄叫びを上げた。軽く気合いを入れるポーズをとる。
それが姿見に横向きで映っていた。
これから丑の刻参りをするにしては、おぞましさや、禍々しさが足りていない。
滑稽のようにさえ思えてくる。何かが足りず、呪いという感じではない。
弥生は鏡にふらりと歩み寄った。
まじまじと自分の顔を見つめて、弥生は、「あっ」、と小さく漏らした。
化粧をしていない!
丑の刻参りには装束に合わせた化粧をしなければならない決まりがあった。
白装束を纏って呪いを行う場合、顔面を白くして朱か黒の口紅を引く必要があった。
「うーん……どうしよっかな……困ったな」
化粧道具はないし。
しばらく考えた末に、弥生は簡単で、素早く顔全体を真っ白にさせる方法を閃いた。
「小麦粉……これっていけるかも」
それはもう化粧とは呼べない手法であった。が、弥生は本気で良策だと思い込んだ。
部屋のドアに迫り、手で触れる直前。弥生は何気なく後ろを振り返った。
ギョッと驚いた。危うく声を上げてしまいそうだった。
ずっと壁を向いていたはずの小春が、いつの間にか部屋を出ようとする弥生の方に顔を向けているのだ。目を閉じ口を閉じ、眉をピクリとも動かさない無表情の顔。なのにそれはまるで、部屋から出ようとする姉の行動を見張っているかのようだ。
「まさか、起きてたり、していないよね?」
小春は一度眠ると朝まで目を覚まさない。自信を持って思っていた弥生だが、今になって心配がじんわりと広がり始めた。
寝た振りをして、こちらをうかがっているのかも。
疑心暗鬼を抱いた弥生は、慎重になって小春に近寄る。
小春の顔は、仄暗い空間に、ぼうっと浮かんでいた。
布団から出た頭部は、暗がりのせいで肌の色というものが感じられない。死んだ人間の生首が転がっているようでもある。
猛獣に向けて手を差し伸ばすかのように、弥生は手のひらを震わせながら、小春の目の前で左右に振った。哀しくなるくらい妹は無反応だった。
小春は眠っているんだ。そうだよ。妹は一度眠りについたら、朝まで起きることはない。
この考えは間違っていなかった。自分を信じた弥生は、小春をこれ以上気にしても仕方がないと、先に進むため姉妹部屋をそろりそろりとあとにした。
廊下に出る。直後、別の驚きが彼女を待っていた。
何これ!
弥生は目にしたそれに、驚怖。体が震えた。ある程度の覚悟はしていたが、想像を遙かに超えた絶望的なまでの暗闇だった。
同じ家の中なのに、部屋の中のそれとは全然違う。視界が暗すぎるあまり、近くにあるはずの階段でさえ距離感が掴めない。
弥生の気分はみるみる悪化。体にも影響し、足から力が抜け膝が折れそうになった。それを防ぐため、右手にある秘密のアイテムの効力を発動させることにした。
親指でスイッチを押す。白い光が前方を強く照らしだした。一気に明るくなる。
アイテムの正体、懐中電灯だった。ただの懐中電灯ではない。直径十一センチのどでかい輪から放たれた光は、ロボットアニメなどで見るレーザー砲並に強力であった。配光も広く、ずっと先にも明かりが届くほどだ。
白い光は、弥生の心の中に安心を与えた。
動悸、呼吸が落ち着くのを待つ。
十分な回復をして弥生は行動を再開させた。
懐中電灯の明かりを頼りに、慎重に階段を下りていく。
ぎぎ、ぎぃ、ぎぃ、ぎぎ。
一段ごとに踏み板から悲痛な軋んだ音。
普段なら気にも留めない音が、今回ばかりは、やたらと大きく耳に響く。
時間をかけて弥生はようやく一階の廊下を踏んだ。二階と比べて広く、水場があるせいか、ひんやりとした空気が満ちていた。更に無音なのだ。しん、とした静寂が建物内を支配しているふうにさえ思えてくる。
弥生は何とも形容しがたい恐怖に駆られた。壊れた人形のような、ぎこちない挙動となる。
弥生は廊下突き当たりの和室に目を向けた。和室のガラス戸に、室内の安っぽい明かりがぼんやりと映し出されていた。
「あいつ、こんな時間まで何してんのよ」
一生がもし、まだ起きて部屋の中で何かしているのだとしたら、大きな物音を立ててしまわないよう配慮しなければならない。
一生は小さな物音でも不信感を抱くに違いない。そして絶対に様子を見にくるだろう。
当たり前だろうけど、一生に見つかってしまえば全部が終わりとなる。
弥生は一生が部屋から出てこないことを祈りながら、リビングへと忍び入った。リビング内を通ってキッチンへ移ろうと考えたのだ。
一生がこのリビングにいる可能性を、遅くに思いつく。
が、一生の姿はそこにはない。視覚ではなく感覚で、弥生は察した。
しかし安堵感はない。静寂と、泥沼のような重い闇が、だだっ広い空間を埋め尽くしているのだ。
弥生は気配に敏感になり、視線をぐるぐると巡らせた。一点に留めることができなくなっていた。
懐中電灯で明かりを差すも、指で埃を拭う程度だ。背後には拭えない闇が残っている。
ぞくぞくとする感覚が、弥生の体を蝕む。奥歯を噛み締め、弥生は足を進めた。キョロキョロと目玉が動くせいか、足もとが見えず、何度か膝をテーブルにぶつけそうになった。
キッチンに到着。この場所も昼間の時間帯と比べて夜の印象はずいぶんと違った。気にさえしなかった箇所が幾つか目に入る。天井隅の妙な形をした染み。塗装が一部剥げた収納棚。不気味なところばかりを見てしまう。
弥生は全神経を集中させて、音を立てないよう慎重になって動いた。
この薄い壁の向こうは和室だ。
要注意人物の一生がそこにいるのだ。寝てるのか起きているのか、その判別はできない。
弥生は気配と息を殺して、冷蔵庫に体を向けた。
小麦粉は冷蔵庫の中で保管。市松家ではそうしていた。
もう何年も何年もまえのころ、弥生は、小麦粉を冷蔵庫に仕舞う理由を一生から聞かされたことがある。
それはダニなどの虫が、小麦粉や片栗粉を好物としているらしいからだ。
暑い季節になると小麦粉等を入れた袋の中はそれはもう虫だらけになるらしい。
「だから、使い終わったら忘れずに冷蔵庫に戻してね」
数年も経つというのに、父から聞いた話を弥生は今でも鮮明に記憶に残している。
冷蔵庫を開ける。ガチャン、と音がどうしても出てしまう。弥生の不安は強まる。
周りが静かな分、立つ音はそれだけ大きく聞こえてしまう。
動きを止めて、耳を澄ます。和室の様子をうかがいながら、冷蔵庫から小麦粉を取り出した。そっと冷蔵庫を閉じた。
「良し」思わず小声を漏らす。
あとは家から外へ出るだけだ。と安心した矢先、弥生の中を嫌な予感が走った。
微かな音をたった一度だけ耳にした。それは気のせいだろといえるものだったが、弥生の危機感を煽るには十分であった。
今すぐこの場から離れろ。頭の中でサイレンを鳴らしている。
しかし迂闊にここから飛び出していいものだろうか。という反対意見もまたあった。
リビングキッチンを出たところで、誰かとバッタリ! という可能性を考えて、弥生は動くことができなかった。
モタモタしていると、外側――廊下側から人間の足音がするのを、今度は確実に耳にした。
このスローペースな足音が誰のものか。考えるまでもない。一生のに決まっている。
混乱するあまり、弥生はテーブル下に潜って身を隠す、といった小学生レベルの発想を思いつた。リビング中央に置いてある大きめのテーブルでやり過ごすことを決断。
まさにその直前。
弥生の視界に、あるものが映った。
彼女は急遽、体の向きを変え、そっちに向かった。
リビングのドアが音を立てて開いた。廊下から細く背の高い人影が現れた。そいつは鋭い目つきで広い空間内を見渡す。様々な場所に目を配る。
そして自分以外の人間がリビング、キッチン内にいないことを確認すると、
「おかしいな。気のせいか」
と頭を掻きながら、ぼそりと呟いた。
人影――一生は気づかなかった。
キッチンの隅にある勝手口がわずかに開いていたということに。
***
台所の勝手口を背にして、弥生は息を殺していた。
一生がリビングのドアを開ける間一髪のところで、弥生は勝手口の存在を思い出し、キッチンから外へ出ることができたのだ。
「大丈夫っぽい、よね」
一生に見つかっていないと分かって、弥生は神社に急ごうとした。
気になるのは、今の時間だ。丑の刻参りを、決められた時間内に終わらせられるだろうか。
やるしかないのだ。外に出てしまった以上、あとにはもう退けない。だから必ず成功させる。弥生にはそんな気持ちがあった。
表情を引き締め、彼女は足を前に出した。
「痛うぅ」
第一歩を踏んだ瞬間。弥生の顔が苦痛で歪む。足の裏から鋭い痛みが走り抜けた。
奥歯を噛み締めて苦痛に耐えながら、弥生は目線を足もとに落とした。
弥生は素足だった。それが砂利を思い切り踏んづけていた。親指ほどの大きさのある石が、足の裏の肉にめり込んでいるのが分かる。
どんなに痛くても、靴を取りに戻ることができない。仕方ないとあきらめて、弥生は裸足のまま神社へ行くことにした。
足を動かせば苦痛の連続。弥生は猿みたいに歯を剥き出しにして、声を漏らさないよう、根性で乗り切ろうとした。
弥生の心は急いだ。
リビング前を通過しようとした弥生は、その大窓に、ふっと目をやった。
窓越しの室内。黒い家具、黒い壁、黒い天井。そこはもう一家団欒を楽しめる場ではなく、不吉な黒で満たされた空間であった。
そこに一カ所だけ、ぼうっと、白色が浮かんで見えた。鉛のように重く鈍い白だった。それは一生の身につけているパジャマの色。
一生はテーブルの付近で立っていた。弥生が目を向けた、そのすぐ先にだ。幸いにも彼は、大窓に背中を向けた状態で、室内をキョロキョロと見渡していた。
もし一生が窓から外を覗いていたら……。
そうであった時のことを考え、弥生はゾッとした。
だが幸いにも一生は室内を見渡している。
つまりこれは、運が私に味方してくれている。
そう強く信じた弥生は、石を踏んづけた痛みも忘れ、リビングから自分の進むべき方向に視線を戻した。今なら茨の道でも歩いて行けそうな気となっていた。
庭を通り抜けて、弥生はようやく家の敷地内から出ることができた。
痛み。その次は氷のように冷たいアスファルトが続いている。
ひゅぅぅぅ、と、獣の唸りを思わせる風の音。山の木々が激しく煽られざわめいていた。
体温はみるみるさらわれていく。考えればワンピースのみなのだ。屋内では大丈夫と思っていた弥生だが、外だと肩を抱くようにして寒さに耐えていた。
不気味な模様を描いたような暗雲が、月を完全に隠している。街灯のない田舎道には本当の夜がある。家の中で感じる暗闇とは、また違うのだ。強力な懐中電灯を使っても暗所に対する恐怖は、八割は残っていた。
夜道、というものを知らないわけではない。
ただ山の夜は、都会のものと比べて、闇がその倍は濃いのだ。
道のずっと先から伝わる威圧感。奥の闇の中で、魔物でも潜んでいそうだ。舌なめずりをしながらこちらの様子をうかがっているのを弥生は想像した。
呼吸が乱れ、軽い目眩に体がふらつく。それでも弥生は勇気を振り絞って前進した。
しかし決意とは裏腹に、力は湧かない。今にも倒れてしまいそうなのが本心であった。
それだけは防がねば。と考えた末に弥生は、すぅっと息を吸って、
「わっ! わっ! わぁーーーーっ!」
叫んだ。弥生が思いついた方法は、声を出して暗闇に対する恐怖心を吹き飛ばそう、といったものだった。ただその叫び声はいつまでも震えていた。
***
目の前のおどろおどろしさに弥生は少し躊躇ったが、行かねば、と意を決して、木のトンネルにその身を沈めた。
獣や虫、あるいは妖怪などが好みそうな土の道。大きな石もゴロゴロと転がってはいるが、丸みを帯びた踏み石も埋め込まれているため歩きやすく、弥生の足は血まみれにならずにすんだ。
骸骨を連想させる枝々が時折揺れて、手招きをしているかのようだ。
とてもこの先に神社があるなんて考えられない。
一生より先に、私の方が死に近づいているかも。
弥生は笑えない冗談を思った。
「仮にそうなるとしても、行くしかないんだけどな」
と、口ではいうものの弥生の足取りは重い。湿り気を含んだ空気が肌にまとわりつき、容赦なく全身を濡らしていった。
土や植物の独特なにおいが、常に鼻につくため、体だけでなく気持ちの方も悪化し続けていく。
そんな弥生の目に、ようやく神社の鳥居が映った。
「ひっ」
石で造られた鳥居は、暗闇にぼんやりと浮かんで、不吉な灰色をしていた。神社の象徴といっても過言ではないはずなのに、左右の円柱はまるで亡霊でも立っているかのようだ。
鳥居に近づいてみると、指の爪サイズの蜘蛛が、点々と張りついていた。
白い蜘蛛。シロオビユウレイグモだ。
ここの地域は蜘蛛が多いから。
誰かが口にした言葉がふいに頭を過ぎる。
弥生は先の境内で出会った女性、牧野のことを思い出す。
思い出したついでに弥生は、教えられた神社参拝の作法を今回はちゃんと守ることにした。
願いを叶えてもらうためにも神様に敬意を払うのだ。
「と、そのまえに」
弥生は、袋ごと持ってきた小麦粉を使って、それを顔に盛大にまぶした。白い粉は汗を浮かべた肌にペタペタとくっつく。
弥生は自分の今の顔が、どれほど悲惨なものになっているのかを考えないよう努めた。
準備を整え、鳥居に向かって、一礼。
弥生に答えるかのように、鳥居に張りついている蜘蛛たちが一斉にうぞぞと足を動かして退いていった。
先を行く許可を得た。弥生は思い込んで鳥居を抜けた。
参道の真ん中は神様が通る道。だから人間は、中央ではなく端を歩くのが常識。
気をつけて歩く。すると途中で、弥生を背後から追い抜くような風が吹いた。
今、神様が参道を通過したのだわ。と弥生は感動した。
通り過ぎた神が仮に死神だったとしても、弥生は平気だと思った。むしろその死神に頼み込んで、一生を殺してもらおう、とさえ考えられた。
境内を目前にして、弥生は一生のことばかりを考えるようになる。
脳内で必死に動く一生はまるで、殺さないでくれ、と命乞いをしているようである。
「だめだね」弥生は意地悪く呟いた。「お前は呪いにかかって死ぬんだよ」
気持ちを鈍らせないため、弥生はわざと声に出した。
密集する木々を抜けて、開放感ある境内に到着した。
夜空を見上げる。分厚い雲が覆っているせいか、空の位置が低く思える。
風で乱れる髪を無視して、弥生は周囲を見渡した。
夜の境内はまるで深海だ。だだっ広い境内を懐中電灯で照らす明かりは、まるで黒い背景を泳ぐ魚だ。
弥生は注意深く辺りに目を配らせる。
「ま。そりゃ誰もいないわよね」
時間帯を考えれば、人がいないのは当然だろう。それなのに足を止めて、ゆっくりと落ち着くことができない。
何か見えない力に急かされている。体が勝手に先へと進もうとしている。弥生は錯覚した。
拝殿と本殿――両殿の裏手に、弥生の目的としているものがある。
注連縄を巻いた老木。空にまで届いてしまいそうなほど、群を抜いて巨大。その樹齢は見当さえつかない。
「ここに、打てばいいのね」
蓄積した疲労を少しでも軽減させるためにも、弥生は努めて明るくいった。テンションを上げて挑まなければ、前のめりに倒れてしまいそうだった。
老木を睨み、イメージする。草人形に釘を打って、御神木に磔にした光景を。
深呼吸。心を落ち着かせてから、弥生は老木から少し離れた位置に、小麦粉と懐中電灯を置いた。白い明かりが老木を広く照らす。
「さて」
弥生の全身に、かつてないくらいの緊張が走る。キーンと頭痛を感じた。
私は、人を殺すための呪いを、今まさに、やろうとしているのだ。
殺すんだ、一生を。殺すんだ、父親を。やれ! やれ! やれ!
トンカチ、草人形を両手で構えてみる。やっとそれらしい格好になった弥生、心臓が早鐘を打つのを感じながら、そろそろと足の裏を擦らせて老木に迫った。
左手で人形を木に押しつけた。草人形の胸部分に、ポケットから取り出した釘の尖端を添える。
右手のトンカチを掲げ、頭上から勢いに任せて振り下ろした。
ガンッ! トンカチと釘がぶつかり合う、金属音が短く響いた。
「一生、死ね!」
ガンッ!
「一生、死ね! 一生、死ね! 死ね死ね死ね!」
弥生は手を休めることなく激しく釘を打つ。草人形に釘の尖端を沈めていく。風の音に負けないほどの弥生の叫び声が、境内に谺する。
「一生ぉ」ガンッ。「死ね」ガンッ。「死ね」ガンッ。
「死ね」ガンッ。「死ね」ガンッ。「死ぃぃ」ガンッ。「ねっ!」ガンッ。
一心不乱に右手を振るう少女の体から、大量の汗が飛び散っていた。乾燥した冷たい空気の中、何度も何度も叫んでいたため、口内はすでに乾き切っていた。
そして、とうとう弥生は口から声が出せなくなってしまった。右手を振るう力も、風船が萎むように、みるみる低下していった。
それでも弥生は儀式を続けた。続けながら、ぼんやりと思った。
ああ。とうとう私、神社で丑の刻参りをしているんだ。こんな場所で、こんなシチュエーションでトンカチを握るなんてね。普段なら絶対に触らないだろうな。必死になって人形に釘を打ち込んでいるんだ。私ってもう普通の女の子じゃないんだな。
でも、これで、一生が死んでくれるんだから、いっか。
ああ、人形に釘を打つだけで、亡くすことのできる人の命って、なんだか、むなしいわ。
考えながら弥生は手を動かし続けた。しかし腕に力は込めていなかった。
出せなくなった声の代わりに、ひゅーひゅーと荒々しい呼吸を吐く。
やがて手を止めた弥生は、自分が打ちつけた釘と、草人形を冷静な目で見た。
人形には釘が三本。無残にも胸に突き刺さっている。
「これだけ打てば、大丈夫よね」
私の呪いはきっと一生の胸に届くはず。
弥生は空を見上げた。どんよりとした分厚い雲はすっかり晴れていた。
空にはうっすらと青い色。
目を閉じて、息を整えるための深呼吸。達成感のあとの放心。それでも弥生は、耳をピクリとさせて、ザッ、といった音を聞いてしまった。
でもこんな時間に、人がいるわけないよね。
足音っぽく聞こえたのも、空耳だよね?
「何をしているの? こんな時間に、こんな場所で」
空耳ではなかった。弥生は心臓を鷲掴みにされたかのような気分となって、恐る恐る後ろを振り向いた。
見られた? 人に見られた!
そこには痩せ細った、背の高い女が立っていた。死相が現れたような顔で、弥生をじっと見つめていた。弥生はすっかり混乱し、口をパクパクさせていた。
「あ、あのあの、あの……」
そこで弥生はハッとする。
相手の顔に見覚えがあった。
「何よその顔。お化けみたい」女はクスリと笑った。
背後から弥生に声をかけていたのは、一昨日に神社で会った牧野という女であった。