2章『父に呪いを―その2』
「あれ、いない」
ツン、と少しだけ強気な印象を思わせる少女の声。
弥生は小春が姉妹部屋に戻ってきたところを思い浮かべた。
弥生の想像上で動いている小春は、姿見の回転する仕掛けに気づいていないようだ。室内を見渡しながら、姉が部屋にないことを怪訝に思っている様子である。
隠し部屋の存在を隠しとおせた。と勝手に思い込んで、弥生は安堵の息を吐く。
しかし、次にどうやって隠し部屋から出ればいいのかを、彼女は考える余裕を持てていなかった。
「本当だ。お姉ちゃんいないね」
今度は一生の声だ。
「布団で眠っているわけでもないね」
「ベッドの下にもいない、か」
「ま。存在自体がうっとーしい人だから、いない方が静かでいいんだけど」
「こら。いけないよ」
「だって、お姉ちゃんってば、私たちが出かけていた間、きっと何もしていないよ。部屋はちっとも片づけていない。窓は開いたままだし」
「外から吹く風が涼しくて気持ちがいいじゃない」
「でもでも、変な虫が窓から入ってくるかもしれないよ。ただでさえ家には市松弥生っていう虫がいるんだから」
「まったく小春は。そんなふうにいったら、可哀想だろ」
「あ。そうよね。私、虫は嫌いだけど、お姉ちゃんと比べるなんて酷いこといっちゃった」
「ほら、窓を閉めたから。もう大丈夫だよ」
小春の言葉に、やれやれといった感じだろうか、一生は軽い息を吐く。
楽しげな二人のやり取りに、ただじっと耳を傾けることしかできない弥生。
こうなったら最後まで盗み聞きをしてやろう。弥生は埃がつくことも気にせず壁に片耳をそっと押し当てた。
「パパ、レターセット買ってくれてありがとう。さっそくこれで友達に手紙出そうっと」
「どういたしまして。僕も楽しい思いができたよ」
一生の作ったような言葉に、弥生は少しイラついた。
それでも小春は一生の言葉に満足したらしい。姉の弥生にも聞かせたことのない、とても甘酸っぱいような声で、「うふふ」と笑っていた。
「ねえねえ、車ん中で聞かせてくれてた話の続き、パパがママと出会ったキッカケ、教えてくれる? どうやって知り合ったの?」
「キッカケ。……これをいうと恥ずかしいんだけど、僕の迷子が、キッカケかな」
「大人になってからの迷子って、恥ずかしぃー」
「それはいわないで。仕事の都合で越して来てから日が浅かったんだから。とにかく道が分からなくなったんだよ。焦って道を訊けるような人を探したんだけど、ちっとも捕まらなくてね。そんな状況で神社を見つけて、ここならさすがに一人くらいは誰かいるだろう、って思って入ってみることにしたの」
「そこで、ママと初対面したんだ」
「そういうこと」
「神社にママ一人だけだったの?」
何気なしに思いついたかのような軽い口振りだった。
それに一生は少し黙った。
「いや。確かその時は、さくらくんの友達も一緒にいて、二人と会ったんだ」
「ママの友達? どんな人、どんな人?」
「さくらくんとは同い年で、子供のころからの友達……そう聞いていたよ」
「パパから見て、その友達って、どんな人だったの?」
「悪戯心がある、っていうかふざけてばかりいる人だったよ。自分のことを真っ先に考える、そういったタイプの人間だったなぁ」
「なんだかお姉ちゃんみたい」
「そうだね。弥生も大きくなったら、きっとあんなふうになるだろうね。行動する時の力はとにかく凄くて、目的を達成させるためなら努力は惜しまない人だったよ」
「あ。やっぱ似てないかも……。お姉ちゃんに努力は無理だもんね」
「ははは」と一生は空笑いをした。
「その友達は今もまだこの町にいるのかな。もし会えるなら、パパは会いたい?」
「おいおい小春。もう質問は止してくれよ」
軽いセリフだが、一生は少し深刻な口調でいっていた。
「えー。どうしよっかなぁー」
「でないと、いつものあれ、もうしてやらないよ」
いつもの、あれ。いったい何のことだろう?
「ちぇ。じゃあ質問は止め。その代わり、今からしてよ」
「いいけど。大丈夫かな? お姉ちゃんに見つからないかな? 急に階段を上がって来て、部屋に現れるかもしれないよ」
「パパって案外、ビビりだね。大丈夫だよ。階段を上がる音がしたら、素早く中止にすればいいんだから」
くすくすと笑う声。子供っぽいようだが、大人が持つ妖しい色気を秘めているようでもある。
妙な恐ろしさが弥生の胸を苦しめた。息苦しい。口の中もカラカラに乾いてしまっている。
これからいったい何が始まるのか。弥生はその先の展開に不安を抱きながらも、待った。
言葉を発したのは一生だった。彼は囁くようにいった。
「じゃあ小春、こっちにおいで」
「はぁい」
それから沈黙。急な静寂に、弥生の頭の中では耳鳴りが響く。
壁の向こうでいったい何が行われようとしているのだろうか。腹の底から嫌な予感が迫り上がってくる。弥生は心臓が爆発してしまいそうな思いをした。
二人は私に内緒で何をしているのだ。
だめだ。思考が働かない。
ただ、これ以上は聞き耳を立てない方がいい。
分かっていながらも、弥生は耳に神経を集中させていた。
小さな足音が聞こえる。小春が一生に歩み寄っているのだろうか。
静寂の中で聞こえる音だからこそ、弥生の緊張感は増した。壁越しの足音と、心臓の鼓動音が重なる。
そして。
小さな。本当に小さな、息遣いが、壁の向こうから弥生の耳にかろうじて届いた。
「はう……」
どこか色っぽく、あるいは苦しげで、切なげな、それでもって歯切れの悪い吐息。一つの呼吸を幾つかに分割させた感じの、もどかしいものであった。
「気持ち、いぃ」
震える、少女の声。
「どんなふうに、いいの?」
「くすぐったくて」くぐもった息とともに、小春は言葉を漏らした。「息がかかって、ふにゃぁって、全身から力が抜けるの」
長い言葉を、まるで薄切りにでもするかのように小春は区切る。
「小春のここも、ふにふにしてて、いい感じだよ」
「やん。つねらないでよぉ」
「ふふふ」
小春の甘い声音に、一生は驚くことなく、あたかも、当たり前であるかのように振る舞った。
「ふぁ」
鈴を転がすような声。
「今日はずいぶん、良さそうだね」
「うん。初めてのころと違って、くすぐったいだけじゃないからかな」
「こんなことされて喜ぶのは、きっと小春だけだよ」
「ぷっ。パパ、遅れてるよ。こんなの知識くらいなら、みんな、それなりにあるんだよ。イマドキの子はね、昔と違って、もう普通じゃないんだよ」
「…………」
「小学生でも人は殺せるし。仲の良かった友達をつまらない理由で殺したり、家族を平気で裏切ったりもするんだよ」
そこで一度、小春は言葉を切った。
「好きなら、親とえっちなこともできるんだよ」
「小春は、そんなふうになりたいの?」
「うふふ。どうなりたいかは正直良く分かんないや。でもね、ただの良い子ちゃんにはなりたくないな。それだったら悪い子で結構。だって悪い子の方が、その方が、楽しいんだもん」
「そうか。それでも良いと思うよ」
ほんのわずかでも体に自由があれば、弥生は叫び声を発しながら隠し部屋から飛び出て、二人の行為を止めようとしただろう。しかし今の彼女には目に涙を浮かべることしかできなかった。立ってはいられなくなり、そろそろと膝を折ってその場に座り込んだ。
「ふふ。こうしている時のパパ、私の頭を良く撫でるよね」
「嫌?」
「ううん。嬉しいの。もっと撫でて」
「小春は間違いなく、さくらくんの娘だな。長くて綺麗な髪から、強い魅力を感じるよ」
「パパ。もう、私だけを見ていて。お姉ちゃんなんか、放っておいてさ」
やがて弥生は意識が朦朧とし始めたことに気づいた。加えて、急激に全身が重くなる。
弥生は体が横に倒れていくのを感じた。意識はゆっくりと遠ざかる。
倒れた弥生の視線の先に、あの小さな木箱があった。木箱の蓋が、少しだけ開いている。その内側、真っ黒い内部から蜘蛛が一匹、にゅっと姿を現した。ところで弥生の意識はぷっつりと途切れた。
***
弥生は真っ暗な背景の中で突っ立っていた。目の前には、二人の人間。スポットライトを浴びるようにして登場したその二人とは、一生と小春である。二人はなぜか全裸だった。
いや。もう一人が、二人の間で立っている。弥生は目を凝らした。
さくらだった。一生、さくら、小春の三人が横に並んで、何もいわずに無感情の目を弥生に向けていた。疎外感。弥生は向けられる視線からそれを思った。実際、三人と弥生との間には若干、距離があった。
どうして自分は、三人と対立しているかのように向き合っているのか。
弥生はこれに疑問、何より不安を抱いて、呻きながら歩み寄ろうとした。しかしいくら足を動かしても、どういうわけか距離は縮まらず、手さえ届かなかった。
自分は一人なのだと。弥生はふいに孤独を思った。
すると、弥生は背後で気配を感じて、思わず後ろを振り返った。女の人がすぐそばで立っていた。
「誰?」
かと思えば、昨日神社で会った牧野であった。
彼女も三人と同じく、無表情。ところが弥生と顔が合うと、にたり、と唇を歪ませた。
不気味な笑みをたたえる牧野。その右頬に変異が起こった。ぐにゅり、と白く細長い何かが、皮膚下から表面に浮かび上がったのだ。
内側から皮膚を破って現れたのは、無数のシロオビユウレイグモであった。
***
意識を取り戻して瞼を震わせながら、弥生は目を開いた。頭は重く、思考が回らない。
自分が気を失っていたことにも思い出すのに数秒かかった。すっかり埃まみれとなった体に、力が思うように入らず、彼女は手足をふらつかせながら立ち上がった。
酷い夢を見ていた気がする。
そうだ。部屋を出なくちゃ。
霞がかかったような頭を片手で押さえながら、そう思いついた弥生。
何の警戒もなく姿見を平然と回転させて、彼女は隠し部屋を抜け出た。
あとになって、小春が姉妹部屋にいるという可能性を考えていなかったことに、あっと気づく。
幸い、室内に自分一人だけだ。弥生は胸を撫で下ろした。
しん、とした静寂と、冷たい空気が漂っていた。隠し部屋に充満しているヘドロのような空気と違って、深呼吸をすれば体が少し軽くなったような気がした。
喉の渇きを覚えて、弥生は飲みものを求め姉妹部屋を出た。
弥生は一階から細々と人の声を耳にする。
楽しそうで、とても明るい。そう思いながら階段の踏み板に足を乗せた。
一階に下りると今度は、「きゃはは」という笑い声が上がった。
目に見えるドアの向こう、リビングからそれは聞こえた。
ああ、小春がいるんだな。と弥生は光明を見た地獄の亡者のように、ふらふらとリビングのドアに手を伸ばした。
しかし弥生の手は寸前のところで止まる。断続的に上がる小春の笑い声に、弥生は嫌な記憶を呼び覚まさせてしまった。
意識しないよう努めていたが、不可能だった。
隠し部屋で盗み聞きしてしまった、あれを、弥生は思い出し、脳内で再生させてしまった。
一生と小春の、おぞましい行為。壁越しに聞こえた二人のやり取り。
「まるで現実のものだとは思えなかった……」
あんなことはドラマの中だけの出来事で、実際には決して起こりえないだろうと、信じていたかった。
そして、困惑していた。今、自分はどんな顔をしているのか。小春と顔を合わせた時、ちゃんと目を見つめられるだろうか。
頭の中を駆け巡る不安に悶々としていると、リビングのドアが唐突に開いていった。
「わっ!」「きゃあ」
廊下に響く、二重の声。
ドアを開けて現れたのは、弥生が悩み、少し距離を置きたいと思っていた小春だった。
「ビックリした。お姉ちゃんか」小春は目を見開いていた。
妹と対面する心の準備ができていなかった弥生は、思わず彼女から目線を下げてしまった。返す言葉にも間を空けてしまい、
「小春、帰っていたんだ」と白々しくいうのがやっとだった。
「あ。うん。今、帰ってきたところよ」
「え! 今? たった今、外から家に帰ってきた、てこと?」
小春の思いもよらない返答。弥生は小春が口にした言葉の意味を聞く。
「他にどんなとらえ方があるのよ?」
「つまり二階にはまだ上がってないってこと、だよね」
「…………さっきから変なことばっかり。ついに頭がどうにかなってしまったの?」
小春はたった今、外から帰ってきたばかりで二階にはまだ上がっていない。
まとめると、そういった結論になる。
矛盾している。弥生の中にある記憶と、小春の言葉が上手く噛み合わない。
自分が隠し部屋で聞いた、一生と小春のやり取りは何だったのか。
さっき二階で、一生とイチャイチャしていなかった?
などと、小春に訊ねることが弥生にはできない。
これはどういうことなのだろうか。
「そういえばお姉ちゃん、部屋の荷物ちゃんと片づけてくれた?」
「いや、まだだよ」
「んもう。私とパパが出かけていた間、ずっと何をしていたの――」
もしかして……。私。
一つの可能性が、頭の片隅で誕生する。
「もしかして、また寝てたりしてたんじゃないでしょうね」
そうだ。私、夢を見ていた……のかな?
半信半疑だけど、小春と一生のあれ(・・)は私の悪夢の一片だと思うのが自然だ。
そう考えることで小春の言葉から感じていた矛盾もなくなる。同時に、心に安心と余裕ができる。
「うん。そうみたい。私、夢を見ていたみたい」
頭を掻き、あっけらかんとしながら弥生は、小春越しにリビングを見渡して、人が一人足りていないことに気づいた。
「あれ、一人いないけど」
「パパなら、会社で歓迎会をやってくれるらしくって、帰りは遅くなるみたい」
一生は出かけてから帰ってきていない。つまり当然、二階の部屋には上がってきていない、ということになるのかな。
腕を組み、うんうんと頷きながら、一人笑いを浮かべる。
「そうかそうか。そういうわけなんだね。ねえ、小春?」
小春はいつの間にか姿を消していた。二階へ行ったのだろう。
「ありゃりゃ。いなくなってる。ま、いっか」
不安を取り除くことができて、調子を戻した弥生。今度は急激な空腹に見舞われた。腹部から恥知らずな音を出す。
弥生は、リビング内を通ってキッチンへと移動した。
途中、壁にかけられた時計に目をやる。
午後三時。
「この家に来てから、知らない間に丸一日が経過しているのね。早いものね。でも何だか不思議。ずっとまえから暮らしていたかのような気がする――」
と感慨深くいうが、弥生はキッチンスペースに立って、ここで初めて右手の隅に磨りガラスの勝手口があると気づいた。
「勝手口の存在は今、知ったけど」
そういいながら、冷蔵庫に手を伸ばした。
中には、卵、牛乳、ハム、小麦粉や野菜類を確認。それから食パン。
弥生は、ハムサンドを作ることにした。
ズボラで、大雑把で面倒くさがりやな弥生ではあるが、料理は好きだった。
それは母親が死んで、自分たちでご飯を作る機会と必要ができたからだ。
母親の死というキッカケがなければ、料理なんて絶対にしなかっただろう。軽量カップやスプーンを使って分量の指示を守るなんて、自分らしくない。
必要な食材を手に取りながら、弥生はそのことをいつも考える。
さくらが死んでまだ日が浅いころは、父方の祖父母――一生の両親が遠くから、姉妹の世話と家事をしに訪れることが度々あった。
しかしそれを一生は、申し訳なく思ったのか、それとも煩わしく思ったのか、
「もう来なくてもいいよ。あとは僕たち三人で何とかしていく」と両親に電話越しで告げた。
母方の祖父母はすでに他界していた。
さくらと同様、怪死したのだと弥生は聞かされた。
***
完成させたハムサンドをもそもそと食べ終え、弥生は流し台へ食器を運んだ。
洗いものの最中、弥生は包丁を手に取り、その刃渡りに真っ直ぐ目を向けた。
そしてある妄想にふける。
妄想の中の自分は、手にした包丁を逆手に持ち直し、高く掲げ、それから一生の胸に目がけて振り下ろしていた。鋭い尖端は肉を抉りながら、骨に到達するまで深々と沈んでいく。
「気分がいいだろうな。これができたら」
一生は、病気で苦しむ母を見捨て、好き勝手にしていた。父は母を見殺しにしたのだ。
許せない。
包丁を握る手により強い力が入る。弥生は今にでも一生を刺し殺してやりたい衝動に駆られた。
我慢を続けた殺意は、むくむくと今にも張り切れんばかりに膨張を続けていた。
弥生はまた想像する。包丁で一生を刺し殺す、といった光景を。
一生を殺せ。本能がそう急かしているかのようであった。
それでも弥生は、肉体に害を与えて死に至らしめる、といった殺人をするつもりはなかった。物理的な殺人はもう古い。それも刃物で人を刺し殺すなんて、頭の悪い人間がすることだ。
「私はそんなことはしない。そんなことはしない」
これが弥生の答えであった。
つまり私には呪いしかないのだ。一生を呪い殺すしかないのだ。