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家のなかのこどく  作者: くろとかげ
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2章『父に呪いを―その1』

   二章


「おはよう」

 朝を迎えると、弥生は枕もとに置いてある写真立てに微笑んだ。笑った女の写真が挿入されてある。

 今から十一年前――小春が生まれたその年に撮られたものらしい二十四歳のころの母、さくらがそこにいた。

 弥生は毎朝欠かさず母親に向けて、「おはよう」と挨拶をするよう決めていた。

 自分の中で母親はまだ生きている、そんな想いを込めての行為だった。

 時刻は十一時。

 目覚ましのアラームを設定していなかったせいだろう。弥生は、少し寝過ぎたと反省した。

 寝床を照らすライトのスイッチを切って、弥生はベッドから出た。右から左に目線を向けて、馴染みきれていない部屋の空気を吸いながら、彼女は引っ越してきたのだということを改めて実感した。カーテンのない窓から外の風景を眺める。

 新しい家で迎える一番初めの朝は、晴れ空だ。

 ベッドの二段目に目を向ける。そこに小春の姿はなかった。(たた)まれた布団だけがあった。

 小春は下かな。

 弥生は、妹が一階のリビングにいると察した。

 自分もそこへ行こうと部屋を出ようとする。と弥生はそこで、ほぼ無意識に、目をベッドの脇にある姿見に向けさせた。

 ただの姿見ではない。壁と一体化された取り外し不可能の縦長の鏡だ。

 弥生の足がふらりと姿見の方に寄る。見えない糸で引き寄せられた、という感じだ。

 鏡の前で、弥生は昨日体験した出来事を思い出しながら姿見の縁部分にそっと右手で触れた。力をほんの少しだけ加え、鏡を奥へ押す。姿見は数ミリだけ動いた。

 姿見から手を離す。

「夢じゃなかったんだ」

 姿見は回転する仕掛けとなっていた。奥には部屋が一つ、隠れるように作られていた。

「何が、夢じゃなかったって?」

 声が聞こえたのと同時に弥生は鏡の中で、自分の背後に、小さな女の子が立っていることに驚いた。

 私服姿の小春がいた。彼女は訝しんだ目で姉を睨んでいる。

 弥生は冷や汗を拭った。鏡を動かしたところを見られたのでは、と不安に思った。

「いつまで寝ボケてるつもりか知らないけど、そこ、どいてくれる? 鏡、使いたいの」

「あ。うん」

 弥生は生返事をして、鏡の前から離れようとした。

 小春のいうとおり寝ボケていたのかもしれない。弥生は姿見を数ミリだけ動かして、それを戻すことができないまま、鏡から離れてしまったのだ。

 姿見の微妙なズレに、小春が気づかずにいてくれることを、弥生は願った。

 そんな姉の心配も知らずに小春はマイブラシを使って、長く伸ばした髪の毛を丁寧に梳き始めた。

 小春は自身の髪の毛を、まるで宝物のように扱い、そして自慢にしてきた。

 弥生の知る限り、手入れを怠ることは決してなかった。

 髪を梳く仕草は、さくらとそっくりである。

 母親を亡くした悲しみで気が狂いそうになった時、弥生は心の拠り所を、母親似で自分以上に仲が良かった小春にした。

 小春を愛し、見守っていこう。

 妹を過剰に可愛がるという弥生の心は、ここから来ていた。

「ん? この鏡、微妙に傾いている気が……」

 唐突に小春がそんなことを口する。更に、不審を抱いた姿見に手を伸ばそうとしていた。

「ああ!」弥生は思わず叫んだ。

 小春はギョッとして、弥生に体を向けた

「な、何よ」

「え。いや。あの……そうだ。小春、もしかして出かけるの?」

 念入りに髪の手入れをしているのと、服装から、弥生は思いついた言葉を口にした。

 淡いピンク色のカーディガン。縞模様を描いたシャツ。手首にはワンポイントのアクセサリ。そして太もも剥き出しのデニムのショートパンツだ。

「そうよ。学、校」小春はブラシを片づけながらいった。

「学校?」

 小春の視線が鏡から外れたので、胸を下ろした弥生。

 それにしても、そんなにおシャレをして学校に何をしに行くのか。弥生は疑問を抱く。

「そ。春からよろしくお願いします、て挨拶をしに行くの。ノー天気なお姉ちゃんと違って、こっちは忙しいんだから」

「でもさ、春休み中なんだよ。小学校に入れんの?」

「はあー。知らないのね。学校の先生って、新入生とかクラス換えとかで今が一番忙しい時期なんだよ。春休みで脳内がお花畑状態なのは、お姉ちゃんだーけ」

 意地悪っぽくいうが、口調に棘はなく、心なしか嬉しそうだ。

「とゆーわけだから、留守番よろしく。お姉ちゃんは、まだ終わっていない部屋の片づけに専念してね」

 嬉しそうだが、小春のいい方は弥生の同行を許さないものだった。それをピシャリといいつけると、彼女は(さつ)(そう)と部屋を出、階段を下りていった。

「お待たせ。パパ」

「お姉ちゃんは起きてた?」

 小春と一生の会話を耳にした。弥生は姉妹部屋から顔を出して、階段下にいるだろう二人の会話内容を盗み聞きする。

「起きてた。でも頭ん中は相変わらずだったよ。だから私、いいつけてやったの。ちゃんと荷物の片づけを終わらせといてね、って」

「そっか。じゃ、行こうか」

「ねぇ。パパ。挨拶回りが終わったら、町の方で買いたいものがあるの。連れて行ってくれる?」

「お姫様のお望みとあらば、どこへでもお連れしますよ」

「わーい」

 両手を上げて喜んでいる小春の姿を、弥生は容易に想像することができた。

 なるほど。町で買いもの、という予定も入れてあるから、小春はお気に入りの服装だったわけなのね。

「行ってきまーす」

 二人の重なった声。

 弥生は急いで部屋の窓の所へ行き、敷地内に停めてある車に向かう、一生と小春の歩く姿を見下ろした。

 二人の雰囲気がいつもと比べて、まるで違う。と、弥生は感じた。

 パンツから突き出た小春の足はとても細く、何より、そのラインが(なま)めかしい。それが魔性を秘めた黒髪と相まって、大人っぽさを引き立たせている。

 一生の方は、スーツを着込んでいた。が、弥生にとってそれはいつも見る父親の姿であった。

 やはり小春から強い何かを感じる。特に、この色っぽさ。ただ学校に挨拶に行ったり、買い物をするためだけのものじゃない気がする。

「嫌な予感がするわ」

 しかし、どれだけ嫌な予感がしようとも、今の弥生にはどうすることもできず、大人しく走り去る車を見送るしかなかった。


   ***


 弥生は小春にいわれたとおり部屋の片づけに体を動かしていた。

 そして一時間が経つ。

 その進行具合は芳しくはなかった。作業中、小春のことが心のどこかで引っかかり、手を止めていたのだから当然といえば当然だ。

 他にもう一つ。あるものがチラチラと目について、それも弥生の片づけを邪魔する要因となっていた。

 どうしても、気になってしまう。

 弥生はとうとう完全に手を止めて、姿見へふらふらと寄った。

 鏡に映る、顔色の悪い、ムスッとした女。小春のものとは似ても似つかない、パサついた髪の毛。

 それが今の弥生の姿であった。

 弥生は小春の天使のような姿を思い浮かべ、溜め息を吐いた。鏡の中の弥生も、同じように息を漏らす。

 姿見の縁に手を添えて、押すと鏡はゆっくりと重く右に回転した。白を基調とした壁に、長方形の抜け穴ができる。

 穴の奥では、昨晩消し忘れた電球が橙色の明かりを未だに照らし続けている。

 むあっ、と生温かいものが弥生の顔面に直撃。穴の奥からだだ漏れした臭気を、鼻で吸ってしまった。その身の毛もよだつほどの臭いに、彼女は激しい嗚咽を漏らした。あっという間に両腕全体にぞわぞわと鳥肌が広がる。全身が拒否反応を起こしているかのようだ。

 弥生は素早く飛び下がって、二カ所ある部屋の窓を全開にさせた。外の空気で深呼吸を数回して、体内を浄化させる。

「ぷっはぁ」と、吸い込んだ気持ちの悪い空気を、文字通り吐き捨てる。

 やっぱりとんでもないや。それでも弥生は隠し部屋に入ることを決めていた。

 頭で決めたことではない。自然に、そうしようと思ったのだ。

 窓から隠し部屋に体の向きを戻したところで、弥生はまた、あの蜘蛛を見かけ、ハッと目を見開いた。

 普段なら気にも()めなかっただろう。だが昨日から(たび)々(たび)現れるその蜘蛛に弥生は素早く反応した。

 細長い足が八本、灰色の豆粒に生えたかのような、蜘蛛。球体を思わせる胴体には、白い帯に似た模様があった。

 シロオビユウレイグモ。それがその蜘蛛の名称である。

 唐突に現れた蜘蛛はシャカシャカと隠し部屋に向かっている、かのように思えた。

 弥生は大股で蜘蛛を追った。叩き殺すつもりだった。

 ところがシロオビユウレイグモは隠し部屋を目前にして、弥生が気がついた時には姿をふっと消していた。昨日とまったく同じように。

 視界から急に消え去った蜘蛛。

 当然、「あれ?」と彼女は目を点にさせる。

 そして考える。

 私が瞬きをしたその一瞬の隙に、蜘蛛は隠し部屋に入っていったんだ。

 それが蜘蛛を見失った理由だと決めつけ、無理矢理納得させた。

 でなければ遮蔽物もなにもない場所で、シロオビユウレイグモが本当に幽霊みたく忽然と姿を消した、といった信じ難い現象が起こったということになるからだ。


   ***


 湿った悪臭に、鼻がもげてしまいそうだった。だが、それさえ気にしなければ、弥生はすんなりと隠し部屋に入ることができた。

 室内は蝋燭の火のような色の明かりで満たされていた。

 昨日のうっかりが幸いした。

 暗所に悩まされる心配さえなければ、臭いなど大した問題ではない。弥生は奥歯を噛み締めながら、自分にいい聞かせる。

 二畳半ほどの横長の空間に生活感は微塵もない。真っ黒い天井と床板を除いた四方の壁には、数え切れないほどの紙が隙間なく貼りつけられてある。

 壁を隠した紙に目を当てる。全てが、まったく同じで、筆文字が禍々しく書かれていた。

 誰がどういった経緯があって、このようなことをしたのかはもちろん、書かれてある文字の意味、読み方などは理解不能。

 そんな弥生でも、写経をされたものということは、すぐに察しがついた。

 常軌を逸脱したこの部屋は、淀んだ空気の溜まり場だ。狭い空間。だからこそ念のようなものをより強く感じ、まるで生きものに触れられているとそんなことを思ってしまうのかもしれない。

 気がつけば手に、額に、汗が滲んでいて、弥生は拭った。だんだんと気怠く、体が重くなっていくが彼女は気にしないよう努める。

 部屋の奥には足の短い机。その周辺に置かれてある色々なものを確認しながら、弥生は机の上に目を向けた。

 習字用の筆が数本、(すずり)、口の細い瓶。それから文鎮(ぶんちん)を乗せた一枚の紙。どれもキッチリと形良く置かれてある。

 卓上の紙は、壁に貼られてあるものと同様で、筆字がびっしりと、おぞましいくらいに書き込まれてある。

 呪い。この文字が百以上あったのだ。

 この部屋を使っていた人間は、いったい誰をどれほどまでに憎んでいたのだろうか。

 私が一生を許せないのと同じで、どうしても殺したい人間がいたのだろうか。

 弥生は目に見えない人間の心理を考えながら、紙に触れた。

「あ。もう一枚ある」

 紙の感触で初めて分かった。呪いで埋め尽くされた紙の後ろに、別の紙がもう一枚重なっていた。

 だが墨のせいで、二枚目はピッタリと張りついていた。無理に剥がせば両方一緒に破れてしまうかもしれない。

 ただ、縁、という字だけが確認できた。

 もっと、もっと良く見えないか。電球の明かりを利用し、二枚目を透かしてみようと試すが、やはり一枚目の呪いの字が邪魔で、()以外は確認ができない。

 弥生はあきらめて紙を戻し、今度は近くの瓶を手にした。

 三百ミリリットルサイズの入れものには、中身の液体が半分残っている。

 どうも気になる。液体の正体に興味が湧いた弥生は、蓋を回して、鼻先を瓶口に近づけた。

 量が少ないので、思わず強く()ぐ。

「ぶへぇ! げほっ。がほっ!」

 弥生は激しく咳き込んだ。中身の正体は予想外なものであった。あまりにも強烈だったので彼女は素早く瓶口を塞いだ。

 においを吸い込んだ瞬間、鈍い刺激臭が鼻孔を通り、弥生は頭の中がくらっとしたのを覚えた。

「何これ! お酒?」

 しかも日本酒だ。

 弥生は眉間に皺を寄せる。周囲には独特の湿っぽい臭気が、じんわりと漂っていた。

「なんでこんな所に? いったい何を考えていたんだか」

 顔も分からない相手に弥生は腹を立て、ダンッ、と叩きつけるように酒瓶をもとの場所に戻した。

 後に引くような不快感。

「やっぱりまえの住人は、頭がどうかしているわ。お酒ならお酒って分かるように書いていてくれれば良かったのに」

 と口にしてから弥生はハッと気がついた。

 瓶はラベル等が貼られていない、表示さえ見当たらない、本当にただの無地無色の瓶なのである。

「きっと中身も安っぽい酒に違いないね」

 もしかすると飲酒用ではないのかも。

 じゃあ他にどんな目的で、お酒をここに置いていたのだろうか?

 机の上には酒の入った瓶の他に、数本の筆と硯がある。

 もしかして、習字セット……写経と関係があるのかも、とそんな考えが頭を過ぎる。

「んなわけないか」

 酒の用途がどうしても思いつかず、最終的に弥生は考えるのを止めにした。

 いや。考えることに疲れたのかもしれない。どうせ答えは聞けないのだから。

 机の上から、今度は床に置いてあるものに目線を移す。

 そこには怪しいと形容するに限る木箱が一つ。付箋をとにかく挟んだ本が数冊積まれていた。

 弥生が手に取ったのは、木箱の方だ。

 軽く、大きさは、両手のひらを隠すくらいである。

 細かく見てみると、木箱には黒ずんだ汚れ。それからお札のような細長い紙が、封でもしてあるかのように貼られていた。

 少し色の悪くなったその紙には、蠱、と薄くなった字がある。

 皿の上に虫が三つ。何と読むのか、弥生には見当もつかない。

 箱を振ってみると、中身は空なのか。音はしない。

 まさに、謎の木箱だ。

 小物入れにしては見た目は最悪。

 あれこれと考えながら、結局これも、「わけが分からん」と中身を確認せずに箱を戻した。

 次に、箱の後ろに置いてあった本に手を伸ばす。

 埃が薄く積もっていたが、それ以外に目立った汚れはなく、古めかしいというほどでもない。裏には値段とバーコードがしっかりと印字されてある。

 決して表舞台に立つことはない、マイナーな本であった。

 本当に購入する人間がいるのだろうか、表紙には怪しすぎるほど赤黒い字で、呪い、と大胆なくらいに太く書かれてある。

 全部で四冊。全てが呪いや(じゆ)(じゆつ)に関係した書物であった。

 中には、人を呪い殺す方法を教えます、などと得意げに銘打っているものもある。

 コミックス以外の本に興味を持つことがなかった弥生は、「こんな本がお店で売られているんだ」と手にした本に衝撃を受けた。

「世の中も物騒になったもんだね」

 そこで弥生はまたまた思考を働かせてしまう。

 呪いの字を紙に山ほど書いて、はいそれで終わり……ではないのだ。まえの住人は、本当に誰かを呪おうとしていたのだ!

 呪いで、誰かを死に至らしめようと、本気で実行をしていたのだ。この隠し部屋は、きっとそのために作られた。他の人間に悟られないようにするために、作られたに違いない!

 そして私たちは、憎悪に満ちたこの家に越して来てしまったんだ。

 電球の明かりが一度、点滅した。まるで弥生の考えに答えたみたいに。

「うわお。ビックリしたぁ」

 弥生の動悸を打った。秒数の経過とともに息苦しくなる。

 しかし、暗闇また呪いに対する恐怖心は弥生にはなかった。

 彼女は興奮していた。満面の笑みを浮かべて、やった! と強く喜んでいた。

「呪いの本! つまりこれに書かれていることを実際に試せば、一生を呪い殺せるってわけなのね」

 弥生は、この部屋を使っていた人間がすでに、本書の内容に従い人を呪い殺したものだと決めつけていた。

「いいね。さぁて。この本はどんな呪いを私に教えてくれるのかしら?」

 焼死か。溺死か。それとも原因不明の病死か。事故死か。

 期待で胸を膨らます弥生。一人気味の悪い笑みを浮かべて、両手で本を開いた。

 ぱらりぱらりと流し読みでとにかくページを進める。

「んん。んんんーー」

 悩ましげな声が漏れている。理由は単純明快。国語が苦手の弥生にとって、それは超がつくほど難解で、ちっとも理解できなかったからだ。

 脳みそをフル回転させても、頭に入れられたのは全体の一割にも満たないだろう。

 そして求めていた情報を見つけられなかったのも、唸り声を上げた原因の一つだ。

 難解な文章。隙間のない文字。小さなスペースに申し訳程度の写真。

 弥生は疲労を感じた。

「本の売り文句が、人を呪い殺す方法を教えますなのに、不必要な知識ばかりじゃない。数百年前の人間が(おこな)ったっていう記録ぅ……はっ? そんな蘊蓄、今はどうだっていいのよ。あーあ、これじゃあ教科書と一緒だわ」

 だが、それでも読み続けて、一つだけ分かったことがある。

 人を呪うということは非常に面倒くさい! ということであった。

 あれをすれば、これをやれば、手軽に簡単に呪えちゃう。殺せちゃう。そんな子供のオモチャみたく単純なものではなかった。

 自分の中にある、恨みや憎しみのエネルギーを、ゲームみたいに相手にぶつけて呪う。

 そんな甘いやり方はどこにも存在しなかった。

 弥生は、付箋が挟まれていたページを開く。

 ページには、呪いを実行するには()(とう)を行って、神あるいは悪魔などから強力な霊力を借りる必要がある、とのことが書かれていた。つまり宗教的な行為が必要であることを意味し、場合によっては念力、霊力等を高める必要がある。とのことだった。

 霊力を高める方法として、最適で簡単なのが、(はん)(にや)(しん)(ぎよう)の写経であるとその本はいっていた。般若心経には()(どく)を得るための他に、呪いとも関連があるらしかった。

「霊力を高めるために、ね。なるほど。私も、これをしなくちゃいけないのかな?」

 室内を見渡した。

 自分もこの部屋にあるのと同じくらい、膨大な量の写経をしなくちゃいけないのかな。

 と、すっかり思い込み、重い溜め息を吐いた。

「どうしたものか」

 弥生は何日もかけて、こそこそと筆を墨で濡らして文字を書いていられる自信がなかった。同じことを継続させて行うといのが苦手であり、達成できたという記憶がなかった。

 でもしかし。せっかく呪いという武器に触れることができたのだ。

 分かりづらい。三日坊主だからといって、このまま本を壁に投げつけてしまうのは少々もったいない気がする。

 弥生は一瞬だけ脳裏に浮かんだ、あきらめる、の言葉を延期にさせることにした。もう少し冷静になって欲しい情報を探してみることにする。

 埃まみれの床板に腰を下ろす。

 文章が難解であると感じていた弥生。彼女はとりあえず、付箋を挟んだページだけを開き、更に挿絵を見て、そこから内容を把握するという作戦に出た。

 この探し方が正解だったのか、弥生はようやく、人を呪う方法、を見つけだすことに成功した。

「こ、これよ」

 どうして今まで、この呪いの代名詞ともいうべき方法を思いつかなかったのか。弥生は不思議に思い、妙に恥ずかしくなった。

 開いたページの中で見た、一枚の絵。

 白い着物を纏った女が、火のついた蝋燭を頭の上に三本立て、長い黒髪をなびかせながら木に向かって金槌を構えている。そのかたわらには、巨大な獣が眠っていた。

 今昔図画続百鬼。鳥山石燕。と絵の下にそう記されてあった。

 そして、日本一有名な呪いの名称が書かれていた。

 (うし)(こく)(まい)り。

「真夜中に、神社で藁人形(わらにんぎよう)に釘を打ちつけるやつだ」

 自分でも知っている字面を目にすることができて、小さな安心感を覚えた。

「決まり! これでいこう」

 運命的な出会いを果たしたような錯覚。有名だから効果も抜群。

 そんな二つの理由から、弥生は丑の刻参りを実行して一生を呪い殺すことに決めたのである。

 が、彼女の中にある、丑の刻参りに関する知識は乏しかった。

 言葉そのものは知ってはいるが、細やかな内容を知らない。

 そして弥生はまだ気づいていなかった。

 丑の刻参りをやる自分には、最大の問題点がある、ということに。

「ふむふむ。用意するものは、藁人形(わらにんぎよう)と、五寸釘(ごすんくぎ)。そして鉄槌(てつつい)――つまりトンカチね」

 この三点が必要であることは弥生でも察しがついていた。そして、見事に的中していたので、彼女は得意げになった。

 だが、呪術に必要なものや、ルールがまだまだ他にもあることを、弥生は思い知ることになる。

「なになに他にも……白装束(しろしようぞく)に鏡を身につけ、一枚歯の高下駄(たかげた)を履き、女ならば(くし)を口に咥え、鉄輪(かなわ)を頭から被り、そこに灯した蝋燭を三本立てるぅ?」

 弥生は眉を歪ませながら、白装束、高下駄、櫛、鉄輪を身につけた自分の姿を想像した。

「化け物だな」ぼそりと呟く。「大道芸でもやれっていうつもり?」

 本を相手に不満をぶつけるが、残念なことに本から弥生に返事がくることはなかった。

「それで。準備が整ったら? んーっと、人の目に入らぬよう道中気をつけながら丑の刻に神社へ赴き、境内の奥深くにある老木に、呪いたい相手に見立てた藁人形を釘打ちする。ふむふむ、なるほどね」

 丑の刻参りに関する記述はまだあった。左端で文章が切れていて、次のページへ続いているのだが、弥生はそれに気づけなかった。

 彼女は手を止めて、呪いたい相手の顔――一生の顔を思い浮かべた。

 同時に、すぐそばで、乾いた音を耳にした。

 こと。と。

 本当に小さな音であり、気のせいかなと思う弥生だったが、顔は勝手に音のした方へと向いていた。

 視線の先には、汚らしい木箱。

 弥生は顔を近づける。彼女はバカバカしい発想だと思いながらも、木箱が独りでに動いて音がしたのだと、一瞬だけ信じてしまった。

 実際は箱が動いたような形跡は、なさそうである。

 もしかすると、空箱じゃないのかも。

 ふっとした思いつきから弥生は、怖ず怖ずと木箱に手を伸ばした。

 とん。

 また、音が聞こえた。だけど、さっき聞こえたものとはどこか違う。今度は聞き覚えのある音であった。そして、今のは、少し遠くからしていた。

 とん。

 まただ。

 ハッキリと耳にすることができた。

 木板を握った拳で軽く叩いているかのような、そんなイメージが弥生の中で描かれた。ゆっくりとしたリズムで、少しずつ大きくなる。音そのものが近づいてきている。

 弥生は、開け放ったままにしてある姿見に顔を向けた。

 音の正体が、階段を上がる人の足音だということに遅れて気づく。

 とん。

「ヤバ……」

 弥生は焦る。どうやら、一生と小春がいつの間にかこの家に帰ってきていたらしい。本を床に置いて、弥生は立ち上がる。今、外から聞こえてくる足音は、きっと小春のものだ。最悪なことに階段を上がりきったところかもしれない。

 非情にマズいぞ。弥生は、小春に隠し部屋の存在を知られたくなかった。このような薄気味の悪くて、誰かを呪い殺そうとしていた部屋を、もし小春が見てしまったら、きっと繊細な妹は絶叫を上げるに違いない。

 そうなる危機感を強く抱いた弥生は、隠し部屋から早く出ようと急いだ。

 しかし、彼女が姿見を跨いで、姉妹部屋に戻れることはなかった。

 隠し部屋を飛び出るはずだった弥生。しかしどういうつもりか彼女は姿見を閉じてしまい、隠し部屋に残る形を選んでいた。

 弥生は、隠し部屋から出ようとする瞬間に見てしまった。姉妹部屋の入り口であるドアが、すぅっと横に動くのを。

 あのまま隠し部屋から出ようとしていれば、ドアを開けて入った小春に見つかっていたに違いない。そんな危惧の念が、隠し部屋に閉じこもるというとっさの判断を弥生にさせたのだ。

 彼女は息を殺し、気配を消していた。身動き一つせず、今にも壁が透けて姉妹部屋が見えてしまいそうなくらいに、一点をじっと睨んでいた。

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