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家のなかのこどく  作者: くろとかげ
4/24

1章『新しい家―その4』

 夢を見ていた。

 夢の舞台は、ずっと住んでいた、マンションの一室。色の悪い六枚の畳と、土壁に囲まれた和室だ。不安を煽る乏しい明かりに照らされたこの部屋に窓はなく、息苦しい。

 部屋には弥生の他に、大人の女が布団の中で仰向けになっていた。

 女は眠っていた。

 しかし安らかな眠りではない。

 眉を(ひそ)めて、「ふー。ふー」と荒い寝息をしている。呼吸に合わせて胸の辺りが上がったり下がったりを大きく繰り返していた。

 この女性(ひと)は酷い病気なんだ。弥生の心は不安に満ちていた。

 痩せこけて抉れたように見える頬、目の周りは落ち窪んでいた。顎は肉を削いだように鋭く尖っている。青白い肌に、玉のような寝汗を沢山浮かべ、濡れた前髪が額にべったりと貼りついている。それが頭から黒い血を流しているように弥生の目に映った。

 ふぅー。ふぅー。ふぅー。

 苦しげな息遣いは両耳を塞いでも決して消えない。決して小さくなることもなかった。

 重油のように弥生の耳にしつこく残った。

「やめてぇー!」

 弥生が絶叫を上げる。

 引き金を引いたかのように、視界全体が一瞬にして真っ暗闇となった。

 突然のことに、パニックを起こした。頭を抱え、体を丸めて、小さくなった弥生は恐怖のあまり、肩を細かく震わせていた。

 暗闇の中、げほっ、げほっ、と咳き込んだ音が部屋中に響き渡る。

 女の激しい咳は、喉の辛さが伝わってくるほど痛々しいものであった。

 だが弥生は動けない。苦しむ彼女に声一つかけることさえできず、オロオロとするばかりだ。

 暗闇に目が慣れて、弥生の視界に悶え苦しむ女の姿が映った。

 女は空気を吐くだけの悲鳴を長く長く発していた。裂けんばかりに口を大きく開かせ、次の瞬間。

「うぎぎぃぃぃ」

 舌を突き出しての、絶叫。

 それを境に、女はやがて人形のようになってしまった。

 室内にはぞっとするような静寂が漂い始めた。弥生は感じる静けさと、死のイメージを結びつけた。

 女は死んだのだ。

 あれほど耳に染み込んでいた女の息遣いが、実は幻聴であったかのように今では何も聞こえない。それが逆に不気味であった。

 停電が直る。

 しかし、もうここは和室ではなくなっていた。

 広々とした青白い部屋。その隅に弥生は立っていた。空気は重苦しく、全体的に薄暗い印象であった。弥生の頭の中に、和室にいた記憶はすでにない。

 弥生の他にも、室内には、人の形をした影が沢山、亡霊のように存在していた。影はみな、同じ方に顔を向けていた。

 視線の先には、細長い木の箱。

 背中を押されたのかもしれない。弱々しい足取りで、弥生は箱に歩み寄り始めた。

 おどろおどろしさがある。そんな木の箱に、弥生は本当は近づきたくなかった。

 だが足が勝手に動くのだ。箱との距離はどんどん縮んで、とうとうそれの前で立ち止まる形となった。

 木箱の蓋は開いていた。

 弥生は、恐る恐る内側を覗いた。

 発光しているかのような白装束に身を包んだ女の人が、胸の辺りで手を組んで、仰向けに寝かされていた。目を閉じて口を結んだ、安らかな寝顔だった。

「ああ」弥生は思わず漏らした。

 胸の奥底から、熱い感情が込み上がってくる。

 これは白装束、というより、

 死に装束だ。つまり、女を入れたこの箱は、棺桶。

 弥生は震える手を伸ばし、美しい死人の頬に触れようとした。

 バチン!

 弾けるような音が天井から降ってきた。

 暗闇。電灯の明かりが途切れ、再度、停電が起こったのだ。

 が、数秒後にそれは治まり、闇はすぐに晴れた。弥生の視覚は早くに光を感知することができた。

 しかし、安心という文字を、弥生は見ることができなかった。

「ひっ」弥生は短く叫んだ。

 安らかに眠っていたはずの女の目が、大きく見開かれた。唇も裂けんばかりに広げて、奥からグロテスクな赤黒い舌を突き出している。

 弥生は後ずさった。

 同時に、あっと気づく。

 青白く、重苦しい空気が充満していた室内はなく、六畳の和室に戻っていることに。

 しかし先ほどと違うのは、女は布団ではなく、棺桶に入った状態のまま、ということであった。

 棺桶の中の、死に装束の女は、苦悶の(ぎよう)(そう)を浮かべ、白濁とした眼球で弥生を睨んでいた。

 いや。死に装束を纏っているのではない。装束と思い込んでいたそれの正体は、小さな生き物であった。(うじ)(むし)みたく無数に(ひし)めいている、真っ白い蜘蛛だった。

 蜘蛛は一匹一匹が乱雑に、激しく動き、暴走しているかのようであったが、弥生の方へじわじわ這ってきているふうに思えた。

 生理的嫌悪がそうさせるのか、弥生の全身をむず痒さが襲う。

 おぞましい光景。にもかかわらず目を外すことができない。

 蜘蛛の腹部分は丸々と膨らんでいた。一方、女の体はみるみる空気の抜けたゴム人形みたく著しく萎んでいたのだ。

 蜘蛛が、女から生気を吸い取っている。

 弥生はこの場から逃げようとした。が、足が思うように動かず、後ろ向きに腰を落としただけだった。

 痛みはなかった。尻餅をついてもなお、棺桶をずっと見ていた。

 すると棺桶の内側から、ビールの泡のようなものがブクブクと()り上がってきた。泡を思わせる白い塊は箱の縁からボロボロとこぼれ落ち、畳の上をシャカシャカと這って、真っ直ぐに弥生に迫った。

 弥生の恐怖は極限にまで達した。突如、彼女は下腹部で生温かさを感じた。

 恐怖のあまり緩んでしまったのだ。

 蜘蛛は、弥生の下半身が尿で濡れていようがお構いなしに、人間の体を上へ上へとよじ登る。白い無数の塊が彼女の体を侵食する。ちくちくとした、か細い刺激が全身に広がる。

 最終的に、蜘蛛は弥生の唇をこじ開けて、口内へと入り込んだ。

 やめて。やめて。お母さん……!

 弥生は救いを求めるかのように、母を呼んだ。

 ガリッと弥生は口の中に入った蜘蛛を噛んだ。

 口の中で灰の味が広がった。


   ***


 弥生は弾けるように上半身を起こした。眠りから目を覚ましたのだ。

 首を左右に振り、弥生は辺りを見渡した。自分が今いる場所を確認して、引っ越してきたことを思い出した。

 頭に手を当て意識を回復させながら弥生は、まだ脳内にこびりついている悪夢のことを思い出した。

 断片的で、曖昧な映像。点を打つように、頭の中でいくつか再生される。

 狭い和室。苦しむ女。断末魔。停電。それから……。

 弥生は俊敏な動作でベッドから飛び出た。

 夢の中での出来事とはいえ最大の失態を犯してしまったことを思い出す。彼女は下着のウエスト部分に手をかけ、ゴムを前に伸ばした。

 太ももと、下着の股部分をじぃっと覗き込む。手を伸ばし、そこに触れた。

 しっかりと確認を行い、下着から手を離した。

「大丈夫よね」

 夢の中では不覚にも失禁をしてしまったが、現実では太ももに大量の汗を掻いただけですんだらしい。

 問題の夢の内容は、弥生が過去に体験した出来事の再現であった。

 蜘蛛という、多少のアレンジはされていたが。

 狭い和室の中で、弥生は母親の死を目の当たりにした。そして偶然にも停電が起こった。死の直後に暗闇。弥生が、暗い場所に恐怖心を抱くようになったキッカケとしては十分であった。

 夜は、明かりなしでは眠れない。対策として、クリップライトをベッドに装着させ、薄くだが光を浴びながら眠るようにしていた。

 枕もとには万が一のことも考慮して、懐中電灯を置いてある。

 弥生はベッドから離れた。

 家の正門が覗ける窓の前に移動した。

 外にはすでに夜の(とばり)が下りており、空は色を変えていた。

 弥生は目線を下ろす。敷地内に一生の車は見当たらない。外食に出かけた一生と小春は、まだ帰ってきていないようだ。

 踵を返して、窓に背を向けた。

「ひっ」

 振り返った視線の先に、人の顔があった。

 痩せた男の顔。

「なんだ。びっくりさせやがって」

 弥生は喧嘩でもするかのように、大股で歩み寄った。

 ベッドの二段目。小春の就寝スペース周辺に、アイドルのポスターが数枚貼られていた。若手の男性アイドルが気取ったポーズを取り、笑みを浮かべていた。

 小春はすっかり夢中になって、憧れを抱くほどになっていた。

 弥生は、小春お気に入りのアイドルの顔を、忌々しげに睨んだ。弥生は小春と違って、そのアイドルが嫌いだった。八重歯をチラつかせる笑みが気に入らなかった。自然なものではなく、練習して作り上げただろう、というふうに見えたのだ。

 そして今、そのアイドルを受けつけないもっとも明確な理由が、弥生は分かった気がした。

 写真の中の男はその面影が、どこか一生に似ている。

 ということは、と弥生は、アイドルの性格を一生と重ね合わせて、きっと中身もロクでもないものなのだろうと想像した。

 それなのに小春に気に入られている。考えると腹が立ち、弥生は勢いでそいつの顔にグーパンチを食らわせていた。

 バンッ!

 風船が割れたような、乾いた音。意外と大く鳴ったので、弥生は焦って殴りつけた拳をサッと引っ込めた。

 殴った感触。音。この二つから、壁は薄く、実は脆いのではと推測が浮かんだ。

 実際弥生は、殴りつけた拍子に、壁に穴を空けてしまったのだと本気で心配した。

 が、壁に穴は開いていない。

 安心。と一緒に奇妙な感覚に訝しむ。

 壁を殴った音が、軽すぎる。もっと、ドシン、と低い音がしてもいいはずである。

 あることが気にかかり、弥生は周辺の壁も軽く叩くことにした。音を聞き比べてみるのだ。

 するとやはり、姿見のある壁からは、薄いベニヤ板を叩くような何とも頼りない音が鳴る。他からは硬い音がし、その違いは歴然としていた。

 この時、弥生の頭の中で、普段なら思いつかないであろう疑惑がふっと浮上する。

 隠し部屋。

 いつか見たドラマの影響だろうか。壁の向こうに部屋がもう一つあるのでは、と妄想を描いたのだ。

 忍者屋敷で見かけるようなどんでん返しの仕掛けが、きっとここに。

 淡い期待を込めて、弥生は手当たり次第に、壁のあちこちをグイグイ押してみる。

 本当にあった。

 触れた箇所は、姿見の縁。押すと、ググッ、と低い音とともにそれは確かに動いた。

 ドキッ。心臓が大きく鼓動を鳴らした。

 意外。感動。驚き。弥生の中で感情が弾け、暴れ始めた。その内の一つに、恐怖心も混ざっている。

 弥生はごくりと唾を飲んだ。

 とても声なんて出せる状態ではない。でも手は動く。姿見に更に力を加えることができる。

 姿見は人の力でゆっくりと回転。

 弥生の心臓が、警告するかのように早鐘を打っている。

 姿見を動かして、壁に縦長の長方形の穴ができた。奥はあまりにも暗く、どれほどの広さなのか想定さえ難しい。

 先が見えないものほど、気になってしょうがない。

 弥生は暗闇を前にして、背筋が冷たくなるのを感じた。鳥肌が立ち、膝頭はガクガクと笑い、気づけば汗がどっと噴き出てシャツを濡らしていた。脳みそがどうにかなってしまったのか、弥生は時間が止まってしまったかのような錯覚を一瞬だけ得た。

 奥から、強烈で人さえ死なせてしまいそうなほどの臭気が、弥生の鼻孔を刺激した。

 黴臭くて、木や水が腐ったようなにおいだ。とにかく吐き気を催すほどであった。

 胃が痙攣し、彼女は喉の奥から駆け上がる嘔吐感を覚えた。慌てて口を押さえ、弥生は息を止め堪える。目を閉じると、涙で(まつ)()が濡れた。

 胃の中の嵐が止むのをじっと待つ。

 少し落ち着くと、弥生は目をゆっくりと開けた。

 姿見の奥に続く闇を、凝視する。

 弥生は意を決して、水面に顔を浸けるように目を細めて、闇にとりあえず頭部だけを沈ませることにした。

 一秒後。弥生は頭を引き抜いた。素早い動作で隠し部屋に背を向けて、照明の光を浴びる。

「ぷはー」

 いつの間にか息を止めていたらしい。

 呼吸を大きく繰り返しながら、弥生は胸に手を当てた。心臓の鼓動はこれまで以上に激しかった。

 弥生は自分の取った行動に驚いていた。自ら暗闇に頭を突っ込ませたのだ。本来なら怖くてできないはずなのに。

 つまり暗闇に対する恐怖よりも、隠し部屋に対する好奇心の方が強かった。

 このことに弥生は驚いた。

 動悸が落ち着くのを待って、弥生は再度、黒い穴と向き合う。

 そしてこんなことを震える声で呟いた。

「怖いけど、もう一度だけ、トライしてみようかな」

 暗い。狭い。臭い。人に喜ばれる要素は一つもない、悪いものばかりを閉じ込めた部屋の光景を、弥生は思い起こした。

 つまり一般的な部屋と比べて、生活に適していないのは明らか。それでも小部屋がこうしてプラスされているのには、やはり何かしらの目的があったからなのだろう。

 隠し部屋が造られた、その何かしらの目的。弥生はそれが気になっていた。

 だからもう一度入ってみようと思ったのだった。

 暗い場所は怖い。それでも弥生の好奇心は、どばどばと溢れてくる。

 満杯になった好奇心を解消させるには、もう一度、暗いこの場所に身を沈めるしかない。

 弥生は結論をつけた

 しかし、暗闇に消される自分の姿を想像するだけで、弥生は胸が締めつけられるようなドキドキ感に見舞われた。

「いや。待てよ。確か、部屋の中央あたりに、電球があった。……ような」

 隠し部屋の天井からぶら下がった電球。これに明かりを点けられさえすれば、暗闇に対する恐怖心は軽減するはず。

 弥生は小さな可能性にすがった。

 勇気を振り絞り、細かく震える二本の足を、前へと出した。

 再び、少女の体は、ドロッとした影に包まれる。視界のほとんどが失われる。

「うっ」息苦しさを覚えた。

 それだけではない。弥生は唐突に、触られている感触を覚えた。

 真っ黒い影が、私の体に触れている。私の全身――太もも、下腹部、胸を撫でている。

 弥生は努めて気にしないようにし、足を動かすことに専念する。

「あっ……!」

 首に、強い締めつけが走る。

 突然襲う呼吸困難。弥生は首まわりに手を伸ばす。当然、指には何も触れない。パニックで意識がどうにかなりそうになる。

 足から力が抜けていく。弥生の体は今にも前のめりに倒れてしまいそうになった。それでも膝を落とすまいと懸命に堪えながら、彼女は辛うじて目に映る電球にじりじりと歩み寄った。

 電球から垂れた紐を、震える指先で軽くつまんで、引く。

 直後。明かりが点かなかったらどうしよう、と今になって不安になる。が、それは杞憂だった。

 久しぶりの人の手に、電球の反応は鈍かったが、弱々しい光を発して室内を柿色に染めた。

 濃厚な影が薄れて、弥生の体は金縛りが解けたかのように自由を取り戻せた。

 心の落ち着きも戻り、不安定だった呼吸も何とか通常にまで回復できた。

 ところが次の瞬間、室内の様子に、弥生はまたまたド肝を抜かされることになる。

「な、何だぁ?」

 部屋は、畳二枚半ほどの、細長い空間となっていた。

 しかし弥生を驚かせた原因は他にある。

 天井と床が木板独特の濃い色をしているのに対して、横の壁だけが明るい色合いとなっているのだ。

 妙な気分。と弥生は眉を歪めて壁に顔を近づけた。

 なんと、四方の壁全てに、おびただしい量の紙が、隙間なく貼られてあった。

「前の住人は、よっぽど、頭がイカレてたのね」

 紙には筆文字特有の、蚯蚓(みみず)がのたくったような墨字が、縦書きで右から左に書き込まれていた。

 ひらがななど一切ない。難しい漢字だけが並んでいる。弥生には一行でさえ読むことができなかった。が、その字面には見覚えがあった。

『般若波羅蜜多心経』

「これって、お経、だよね」

 経文を紙に書き写した、いわゆる写経をしたものであると推測する。

 幾枚も幾枚も。写経をされた用紙が壁全体に貼り巡らされているのだ。コピー機で印刷されたものではない。一目瞭然だった。文字の太さや、微妙なズレに気づいたわけではない。紙に染み込んだ墨の字から、それが伝わるのだ。狂気の念というものを、鈍感な弥生でさえ感じられていた。

 一枚だけ、写経されたものではない別の紙があるのを、見つける。

 その紙は、部屋一番奥に置かれた足の短い机の上にあった。

 埃をかぶったその紙を、弥生は手で触れようとはせず、上から覗いた

 蟻の体くらいの小さな文字が、学校の教科書以上に書き込まれている。目にした瞬間、弥生は軽い立ち眩みを覚え、思わず紙から視線を逸らした。

 その一枚は、写経されたどの紙よりも、ずっと禍々しいものがあったからだ。

「いったいこの部屋で、何が……」

 疑問を口に出すと同時に、弥生はふっと顔を上げて、振り返った。開きっぱなしの姿見。弥生は人の声を聞いたように思ったのだ。

「ただいま」と。

 頭の中の警報が鳴り響く。ヤバい。外食組が戻ってきた!

 察した弥生は、慌てて隠し部屋から飛び出る。

 飛び出たその勢いで姿見をもとの形になるよう戻した。

「ちゃんとできているよね」

 パタンと姿見を閉じて、直した姿見に不自然な所がないかを確認する。良し、大丈夫だ。と頷く弥生であったが、彼女は考えもしなかった。電球の明かりを消さずに隠し部屋から出てしまった、ということを。

 だが幸い。隠し部屋内の橙色の明かりが、姉妹部屋に漏れる、という事態は避けられていた。

 弥生は姿見に背を向けたまま、身動き一つせず、人形のように立ち尽くしていた。

 ただただ、体を震わせていた。

 思考も停止していた。彼女自身では様々な考えを巡らせていたつもりだが、何を思っても、一秒後には忘れてしまっていた。

 下の階から階段を一段ずつ、ゆっくりと上がってくる音がする。一生と小春の会話する声がどんどん迫ってきていた。

 姉妹部屋のドアが勢い良く開く。

 廊下から姿を現したのは小春だ。彼女は一歩、室内に入ると、真横にいる弥生の存在に心底驚いた。

「わ! びっくりしたぁ。そんな所に突っ立って、何してるの?」

「いや。何も。ただちょっとこの鏡がね――」

「鏡が?」

 怪訝な眼差しを向ける小春に、弥生はしどろもどろになりながら答えた。

「鏡を見つめて、これまでの私、というものを考えていたのよ。数日後にはもう高校生でしょ。もう子供の私は終わりなんだな、て」

「…………ふぅん」

 と、小春は素っ気ない返事をして、姉から視線を外した。

 良かったと弥生は心から安心し、それから彼女は決めた。

 隠し部屋の存在を、黙っておくことに。

 秘密は、自分だけのものにしたかったからだ。

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