3章『呪いの真実―その10』
「小春。ほら、朝だよ!」
ベッドの梯子に足をかけて、二段目に身を乗り出した弥生。
彼女はこれまで、寝ている最中の小春を起こす、そのようなことをしたことがなかった。小春はしっかりとした性格だったのでその必要がなかったのと、最後の休日なのだからゆっくり寝かせてやりたい、という気持ちを弥生は持っていたからだ。
だが今回、弥生は心を鬼にして小春を起こしにかかった。丑の刻参りを終えたあとだから相当眠いに違いない。
そうと知っていながらも、弥生は小春の肩を軽く叩いた。
小春は、「ううー」と機嫌の悪そうな声を発しながら上半身を起こした。寝起き直後の形相は、それこそ鬼女を連想させるほどであった。
弥生は恐れてしまいそうな心を、吹き飛ばすため、わざと声に出した。
「朝だよ。ご飯用意したから食べてー」
「あとで食べる」
「ダメだよ。明日から学校なんだから? いつまでも休み気分じゃダメ」
これをいうと、小春はしばらく無言となり、やがて渋々と動き始めた。
「ベッドから降りるからどいて。邪魔」
カミソリみたいな鋭い口調。弥生を嫌悪する言葉だったが、弥生はそれも良しとした。なぜなら小春を狙いどおりにベッドから降ろすことに成功したからだ。ニヤリ顔で弥生は梯子を下りる。
二人は一階に降りた。リビングに行く途中、小春は和室の方に顔を向けた。
「パパは?」
「あー……、ちょっとね」弥生は言葉を濁した。「病院にね」
「病院! 昨日はあんなに調子良さそうだったのに、また悪くなったの」
「あ。そ、そう……みたい」
弥生は、一生の顔にできた白いぶつぶつのことを黙った。一生のあれを見たら、小春は悲鳴を上げるどころか卒倒してしまうに違いない。弥生は小春が寝坊してくれて助かったと、こっそり安堵の息を吐いた。
リビングに入ると弥生は、小春をテーブルに着かせ、キッチンから朝食を運んでやった。
眠気が抜けない、だらしのない顔つきで、もそもそと食べ始める小春。
その小さな口から、死ねだの、呪い給えだの、恨みの念を吐き出すのだ。その小さな手で、藁人形に釘を打ち込むのだ。
夢で見た小春の姿。思い返しながら弥生は、神妙になって小春に目を向けた。妹の顔をまじまじと見つめる。まだ小学生なのに、丑の刻参りを完璧に行って、実の姉である私を殺そうとしている。
それにしても。と弥生は、今になって疑問を持った。
小春が私を憎む、その理由とは何か。
憎まれ口を叩かれてきたが、まさかそれが殺意にまで行きつくとは考えてもみなかった。
「小春」
「うーん?」
「小春は私のこと、嫌い?」
弥生はストレートに質問をぶつけた。
小春は口を半開きにさせた間の抜けた顔で、弥生の目を見返した。箸を置き、大袈裟なくらいの大きな息を吐く。
「はーぁ。人がご飯食べている時に、どうしてそんな質問するかな?」
「ごめんごめん。気になってね」と半笑いで舌をペロッと出した。
「嫌いに決まっているじゃない。これまでの私を見て分からなかった? 大っ嫌いよ」
あまりにもハッキリと答えられたので、今度は弥生の方が面食らった。言葉を失っていると、小春は立ち上がってリビングの入り口に向かって歩きだした。
「ちょ、ちょっと待って小春!」弥生は慌てて、妹を呼び止めた。「どうして、私のことが嫌いなの?」
弥生自身も気が引けるような直球な質問。
小春は、やや困り顔となっている姉を睨んだ。数秒の沈黙のあと、小春は弥生にわざと聞こえるように舌打ちをした。
「さあどうしてなのかな。人って、たったそんなことで、っていうようなことでも人を恨んだりしちゃうからね。でもまあ、どうしても嫌われるような覚えがないなら、人をおちょくるような言動とか態度を思い出してみたら?」
冗談なのか本気なのか、小春は吐き捨てるように姉嫌いとなった理由をいうと、一度止めた足を再び動かした。リビングのドアを開け、廊下に出ようとする。
「ああそうだ。もしかすると、ママの血が、お姉ちゃんを嫌うように私にそうさせているのかもね」
冗談かもしれないのに、弥生は息苦しさを覚えた。何もいえなくなるほどに。
冗談かもしれない、小春の言葉。だが真実味がある。
血が小春にそうさせている。あり得ない話ではない。
さくらは牧野を恨み、その娘である私を殺そうとしていた。それも呪いを用いてだ。その妙な関係図が小春にも影響を与えたのかもしれない。
小春は、黙ったままの弥生を置いて、とうとう姿を消した。
弥生は動くことさえ忘れていた。
***
病院へ出て行った一生が帰ってきたのは、夜の十時を過ぎてからだった。家を出て十二時間以上が経過していたのだ。玄関ドアの開く音が聞こえてくるまでの間、二階の寝室で父親の帰宅を待っていた弥生と小春は、気が気でない状態だった。
だから一生が帰ってきた時、小春の反応は早く、バタバタと足音を立てて階下へ向かった。一生の顔を目視して、小春は素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたの!」
一生の顔は、弥生が見た朝方のころと比べて、だいぶマシといえるくらいにまで回復していた。が、小春は相当のショックをやはり受けた。
一生の話を聞くと、瞼にできていたできもの(・・・・)を除去するのに軽い手術を受ける必要があった。その甲斐あって瞼はどうにか開くようになったものの、染みのようなものが痕となって点々と残っていた。
しかし、瞼の問題は改善されたが、一生の体調は依然最悪であった。
風邪に苦しめられているかのような、いやそれ以上の気怠さが顔に出ていた。姿勢も猫背で、数日まえなら考えられないくらいである。
そして何より口数が極端に減っていたのだ。
私と小春が言葉をかけても、一生は半開きの口を必要以上に動かそうとせず、涎を垂らしながら、ぼそぼそと聞き取りづらい声を野太く発するのだった。
「今日は、もう、寝る」
ひととおりの説明を終えた一生はのっそのっそと和室に足を向けた。
「あ。晩ご飯とかはどうするの?」
と、弥生は小さく声をかけるが、一生は返事をするどころか、振り向きさえしなかった。弥生もそれ以上は何もいうことができなかった。
***
弥生の頭には、不安の二文字しかなかった。その度合いは強烈で、動悸は収まらず、胸の苦しさで吐き気が込み上げてきていた。
ベッドの中で仰向けになり、じっとしていた。
日づけは変わり、一時を過ぎた。
弥生に眠気はなかった。幸い、今晩は目を閉じて熟睡をするつもりは一切なかった。
私が起きていることで、小春は丑の刻参りの儀式を始めることができないだろう。
弥生の狙いは、自分にかけられている呪いを止めることであった。
自分の命を守ることができた、そのあとに一生をどうやって、もとの元気な状態に戻すかを考えるのだ。彼の体に残っているだろう、シロオビユウレイグモの呪いをどう除去するか、その対策を立てるのだ。
再度、ベッコウクモバチを捕まえて、今度こそしっかりとした蠱にして一生にオマジナイをかけてみるか。問題なのは、一生の命がそれまでに持ってくれているかどうかだ。
「とにかく、今晩を生き抜くことが先決よね」
そして、最も警戒すべき時間が迫ってきていた。
もし、小春が儀式のために動き出すとしたら、今まさにこの瞬間だろう。
弥生は唾を飲み、無意識に息を止めた。緊張で動悸がする。耳を立て、小春に動く様子がないか、気配を探ろうとする。更には、自分はまだ起きているぞ、とアピールするかのように、わざとらしい咳をしてみせた。
無音だ。それが十秒も続く。
「小春、寝ているみたいね」と弥生は安心のあまり言葉を漏らした。
と、同時に、まさに耳を疑うような事態が起こった。
トゥルル……。
トゥルルルル……。
トゥルルルルルル……。
一階から家庭用電話機の呼び出し音が鳴り始めたのだ。
電話機はリビングに入ってすぐのところにある。多少離れた場所にあるため、彼女の耳に入ってくる音量は微々たるものであった。
突然の音であったが、弥生はそれほど驚かなかった。が、怪訝に思っていた。今は二時まえなんだぞ、と。
「いったい誰なのよ」
どんな用事があって相手は電話をかけてきたのか。
間違い電話か、悪戯電話のどちらかであると考慮した弥生は、電話の呼び出し音を無視した。ところが、一分二分が経過しても、それは一向に止む気配をみせなかった。
ここで、間違いか悪戯のどちらかだと決めつけていた弥生に、新たな考えが浮上してきた。
もし、本当に誰かが緊急の電話をかけていたとしたら。
例えば相手は病院の先生からで、昼間診た一生の症状のことで電話をかけてきたのだとしたら。
仮にそうだったとしても、この時間帯の電話は絶対におかしい。
おかしいと思いつつも万が一のことを考えた弥生は、枕もとに置いてある懐中電灯を握り、ベッドを抜けることを決めた。
懐中電灯の明かりをオンにする。
ドアを開けて姉妹部屋を出る際に、弥生は念のためを思って、振り返り、二段ベッドを一瞥。小春の寝姿をしっかりと確認。
「ちゃんといて、寝ているわね」
呟いて、弥生は姉妹部屋をあとにした。
真夜中に家の中を歩くのは二度目。丑の刻参り以来だ。あの時は、暗闇に対しての恐怖と、とにかく見つかってはいけないことへの緊張があった。だが今は、その両者に慣れてしまったのかもしれない。全くではないにしろ、依然ほどの恐怖はなく、自分でも恐いくらいに落ち着くことができていた。
震えなく、しっかりと踏み板に足を乗せて、階段を下りた。
リビングに入る。電話の呼び出しは、何分も経つというのに未だに不気味で単調な音を鳴らし続けていた。
弥生は親機に手を伸ばした。
受話器に触れる、まさにその瞬間!
ここにきて、弥生は本能的に、嫌な予感を察知した。
受話器を上げてはいけない。そのまま部屋に戻るんだ。医者からの電話なんてあるわけがない。
心の中の自分が叫んでいる。頭で理解していながらも、弥生は伸ばした手を引っ込めることができなかった。
受話器を取って耳に当てる。
「も、もしもし」
震える声で弥生はいった。受話器からは返事はこない。弥生は神経を集中させて耳を澄まし、物音を聞き取ろうとするが、やはり無理だった。
「もしもし」もう一度、声をかける。
応答を聞くことはなかった。が、弥生はふいに背後で、すぅっと気味の悪い気配を感じた。まるで人が歩いているかのような……。弥生は、後ろを振り返りたい衝動に駆られたが、その気持ちを堪えた。
底知れない恐怖に見舞われ、氷が背筋を滑るような感覚が走る。
まさか、と弥生は、普段なら考えもしないことを想像した。
幽霊……。
弥生は首を激しく振った。
幽霊だって? 幽霊が電話をかけてきたとでもいうの? バカバカしい。
これは悪戯電話なのだ。深夜に電話をかけてくる、迷惑な人間の仕業なのだ。
「私が出るまで、切らずに良く待っていたわね。ご苦労様だこと。満足したか、バァーカ!」
弥生は受話器に怒声を放ち、叩きつけるように通話を切った。
「くそっ」と弥生は最後に吐き捨てると、リビングを出て二階へ駆け上がり、姉妹部屋のドアを開けた。
予想外の事態に少しだけ怖く思った弥生だったが、すぐに平常心を取り戻すことができた。
あの無言電話は何だったのか。暇人がした単なる悪戯だったのだろうか。それとも本当に、幽霊が、しでかしたことなのか。
疑問を抱えたまま弥生はベッドに入る。懐中電灯の明かりをオフにし、定位置に戻した。
ガツン。と硬い音がした。弥生は体を起こして音の正体を調べた。
なるほど、どうやら懐中電灯の握りの部分を、スマートフォンに当ててしまったみたいだな。気にすることではない。物を置いた拍子に、当てただけのこと。
いつもの弥生ならそれで終わっていたかもしれない。
それが今は、当てただけ、などと単純な言葉で片づけられずにいた。心に引っかかる違和感。弥生はスマートフォンを手に取り、何も映っていない画面を睨んだ。
「あっ」と違和感の正体に気づく。
そうだ。さっき懐中電灯を手に取った時、ここにスマートフォンなんて置いていなかった。うん。確かに置いてなかったぞ。というより夕方以降、その姿を一度も見ていなかった気がする。
どういうこと? と混乱が始まる。やがて頭の中の混乱は、ぐにゃりと嫌な予感へ変化した。弥生の中で妙な焦りを湧き上がらせる。弥生は震える指で、スマートフォンを操作した。
黒い画面が明るくなる。
「あっ、あっ、ああああ……」
驚愕の声。指は震え、力が抜けた。弥生の手からするりとスマートフォンが抜け落ちた。画面には、発信履歴が表示されていた。
発信時間は今から約十分まえ。その時間、どこに電話をかけていたのか。答えは、ここ、市松家であった。
つまり無言電話は、弥生のスマートフォンからの電話だったのだ。
なぜ、どうしてそのような不可解なことが起こったのか。
弥生は考えるより先に、あることを確かめるため、ベッドを飛び出た。忍ぶことなく慌てて上段に体を向けた。
小春のベッドスペース。そこには布団が細長く盛り上がっていた。見た目は人が横向きになって頭から布団を被って眠っているようである。梯子に足をかけ寝台に身を乗り出した弥生は、恐る恐る手を伸ばした。小春が使っているだろう掛け布団を掴む。
「小春。頼むよ。いてくれよ」
剥いだ布団の下に、人の姿――小春はなかった。代わりに毛布と枕が、人の形になるように丸められていた。
しかし、少しまえに、弥生が部屋を出る直前に見た時には、小春は確かにいたのだ。壁の方に体を向けていたが、小春は布団から頭を露わにさせていた。
それがなぜ、今はいないのか。
弥生は小春のとった行動を想像しながら、再び懐中電灯を手にした。




