1章『新しい家―その2』
業者らはさすがその道のプロといった見事な働きを披露して、市松家の三人を感動で唸らせた。洗濯機や冷蔵庫、食器棚といった、大きめの家具や家電を時間もかけずにロボットのように次々と運んでいく。
「二段ベッドはどの部屋で組み立てましょう?」
軽い休憩をリビングで取っている中、業者が一生に指示を求めた。
二段ベッドの使用者である弥生と小春。二人はそろって一生の顔に目を向ける。一家で最高権力を持つ父親の一言で、姉妹が今後どの部屋で寝起きすることになるのかが決定されるからだ。姉妹にとっては重大なことだった。
弥生は心の中で指を組んで祈った。
一生の性格から、業者に無理をさせないよう一階の和室に二段ベッドを運ばせてしまいそうなことが考えられた。
弥生の期待または心配をよそに、一生はゆっくりとした口調で答えた。
「ベッドは、二階に部屋があるので、そっちの方で組み立てをお願いします」
やった! 弥生は気持ちを決して表には出さずに、心の中で大きなガッツポーズを組んだ。二階の洋室が自分らの部屋として使えることがとても嬉しかったのだ。
小春も小さなジャンプを繰り返して、感情を露わにしていた。
小春は一生の細い体に飛びつき、それからみんなの目の前で一生にキスをした。
唇と唇を合わせただけの幼いキスだったが、弥生は目をひん剥いてしまうほど衝撃を受けた。
洋室を得て、有頂天だった弥生の心が、一気に奈落の底へと叩き落とされる。
業者の話によると、ベッドの組み立てには三十分ほどかかるそうだ。
その間、市松家の三人は半ば自由行動をとるという形になった。
一生は挙手して業者の手伝いを志願した。
小春はベッドが組み立てられるのを近くで見たい、とのことだった。
「弥生はどうするの?」
一生に訊ねられ、弥生は少し迷ったが、
「外を散歩してくる」ことにした。
弥生は散歩という選択肢を選んでいた。その理由は弥生でさえ良く分かっていない。
引っ越しという大イベントで疲れたせいなのか。それとも小春のキスシーンにショックを大きく受けたせいか。
家から外。家を囲んだ正門を抜けて右に曲がった。頭で考えて右を選んだわけではない。弥生の二本の足が、行き先を勝手に決めたのだ。
しかし、弥生が進む道は直線で、前進すれば百メートルほど先で行き止まりにぶつかる。
密集した木の壁だ。一本道なのだから、前後以外に道はない。
「やっぱり田舎ってつまらないなぁ。これで三十分も時間を潰すのって難しいわぁ」
ところが、田舎には時折、冒険心をくすぐる面白いものが希に存在する。
凝らして先を見つめる弥生の目に、それは映った。
道の突き当たりの、山なのか森なのか良く分からない緑色の壁に、ぽっかりと洞穴を思わせる、人が通れそうな穴がある。
「おお?」
木のトンネルだ。人が通れるくらいの幅はありそうだ。トンネルの向こう側はどうなっているのか。
探究心溢れる児童みたいに心が疼くのを弥生は感じた。足は軽快にトンネルへ近づこうとしていた。
山は高く、遠目からでも十分に威圧的だ。じわじわと心に染み込んでくる、迫力。
弥生にとってそれは生まれて初めての感覚。森や山に対して恐怖をほんの少しでも抱いていると彼女は気づいた。
いや。正確には自然に対してかもしれない。と、思い直す。
好奇心と畏怖を同時に感じながら、弥生の足はトンネルにどんどん迫り、とうとう入り口手前までやって来てしまった。
***
アスファルトの道はスパッと切れて、土の道が先へと延びていた。
人が歩きやすいように配慮されたものなのだろう。大小の踏み石が地面に埋め込まれている。
奥から風が吹いて、土の湿った臭いが弥生の鼻孔をくすぐった。
木の葉がかさかさと揺れる音。髪の毛がふわりと持ち上げられる。それらを感じながら弥生は風が通り過ぎるのを待って、森の中に入っていった。
全身が、トンネル内の薄い影に包まれていく。弥生は寒気を覚え、軽く足がふらついた。身体は若干気怠い。
それでも幻想的な光景から、彼女は多少の癒やしを与えられた。
暗い地面に、木漏れ日の複雑な光の形が照らされている。風が吹けば葉が揺れて光の形も変わる。まるで万華鏡を覗き込んでいるかのようだ。弥生はガラにもなく、数秒間だけ見惚れてしまっていた。
小春にも、見せてあげたい。木漏れ日の美しさを。弥生はそう思った。
あれほど威圧的だった森が、こうも幻想的に思えるなんて。自然ってのは恐ろしくもあり、美しくもあるのね。
ただ気になるのは、道を挟んだ左右の木々に縛ってある、細いロープ。それが手前から奥へ、数珠繋ぎに渡されていた。これのせいで弥生は通りに対し狭苦しさを覚えさせられた。
このロープを抜けて一本道から外れてはいけない。そう注意されている気になる。
弥生は周囲に目を配らせながら前進し、入り口から二十歩目。意外なものの登場によって、彼女の足は立ち止まることとなった。
「え。これって」
石の、鳥居だ。
つまりこのトンネルを抜けた先には神社があるのだ。
当たり前なことを弥生はさも大発見したかのように考えて、鳥居をくぐった。
少し進むと、境内と思われる広い空間がちらりと覗け、それから狛犬が見えた。
弥生は思わず足を速めた。
蜘蛛の巣にまみれた狛犬を素通りして境内へ。木漏れ日がちらついていた暗い景色から一転、弥生は明るい場所に出た。弥生は眩しさで目を細め、思わず手で庇を作った。
神社の境内だ。
一帯は森に丸く囲まれていた。十分な開放感がそこにある。
弥生の想像を遥かに超える、参拝用の拝殿がどしっと鎮座していた。拝殿の後ろに、御神体を収めているだろう本殿もちゃんとあった。
他では感じられない、神社ならではの空気に、弥生は息をするのも忘れ、圧倒されて立ち竦んだ。
「立派よねぇ。こんな落ちぶれた町には、もったいないくらい」
弥生は、神社というものは町の大小に比例するものだと勝手に決めつけていた。大きな市区には華やかで見栄えのある神社、小さな市区には薄汚く寂れた神社。というおかしな偏見を十数年間ずっと抱いていた。それが今この瞬間、あっけなく崩れた。
社殿の左脇にトイレ。反対側の右脇に手水舎という身を清める場所がある。
「一応やっておこうか」と軽い気持ちでいった弥生だが、実は清め方にも正しい手順があるということを、知らなかった。
手に取った柄杓で水をすくい、左右の手に交互に流す。彼女がやったのはこれだけで、使い終わると柄杓を戻してその場から離れた。
水の冷たさには心地良さがあり、弥生は溜まった疲労が体から抜けていくのが分かった。
心身の汚れを流した気となった彼女は、清々しい気分に満足する。弥生は鼻歌を歌いながら、境内を一周してみようと決めた。
神社は全体的に寂しい雰囲気を漂わせていた。弥生の耳には、風の吹く音と、砂を踏む足音しか入ってこない。
それなのに弥生はしきりに首を振り返らせては、誰もいない後方を何度も確認していた。
神社に足を踏み入れてからか、弥生は見られているような、奇妙な感覚をずっと感じていた。
振り返るが、背後には誰もいない。
そのようなことを二度三度と繰り返しながら、彼女は本殿を右回りに進む。
本殿は立派ではあるが蜘蛛の巣が目立ち、昔話に出てくるかのようなボロ寺を思わせた。
手入れが行き届いていない。不景気な世の中だから神主も色々と大変なんだろう。と、勝手で適当な理由を巡らせる。
「わお。これは……」
本殿の裏手には、弥生の目を強く引くほどの大木が力強く伸びていた。注連縄ががっちりと巻きつけられ、重々しい雰囲気を帯びてある。
神々しい姿は、まるで木自身が、汚らしい手で軽々しく触るな、とでもいっているようだ。
「これが――」
だが弥生は、友人の肩でも叩くかのように、巨木にペチペチと手を当てた。
「御神木ってやつなのかなぁ?」
普段口にしない言葉を発したせいか、弥生は御神木にまつわる怖い話を思い出した。
といっても特に珍しくもない。神木を切り倒そうとしたら人知では計り知れない神がかった事故が起こって、人が死んだ、そういった類いのものだ。
こんなショボい町の神社でも御神木はこんなに立派なのだから、傷をつけようとしたら、本当に何かしらの不幸な出来事が降りかかってくるかもしれない。
呪われたり。祟られたり。
「呪いに、祟り、か」
二、三呟く。すると電球に明かりがピコーンと灯るかのように、弥生はある閃きを頭の中で感じた。
「あ。一生にこれを傷つけさせたらどうだろう。上手くいけばあいつ、御神木の祟りか呪いにかかって、勝手に死んでくれるかもしれない」
私が直接手を下さなくても、いい。これは大発見だわ。
興奮は長続きしなかった。冷たい風で頭が冷えると、
「なんてね。あの上っ面が温厚の偽善者バカが意味もなく神社の木に傷をつけようとするわけがないか」
弥生は閃いた案を却下しながら、境内を一周し終えて、拝殿の前に立った。
そこは参拝者にとってのメイン、柏手を打って神様に祈祷をする場所だ。
せっかく神社に来たのだから、一つお願いごとでもして、それから家に帰ろう。と思って、彼女は賽銭箱に歩み寄った。
弥生はポケットの中に手を突っ込ませる。取り出したのは、いつから入っていたのか見当もつかない五百円玉。弥生は眉を八の字に歪ませた。
小銭はこれだけ。黄金色の小銭を睨みながら、弥生は自分に問いかける。
本当にこれを賽銭箱にくれてやってもいいのか、と。また、五百円玉をポケットに入れたままにしておいた過去の自分を呪った。
それでも彼女は、「ま。いっか」と潔く、五百円を賽銭箱に放ることを決断した。小銭は放物線を描いて、確実に賽銭箱の中へと消えていった。
落下した五百円玉の乾いた音を聞いて、弥生は垂れている太い縄を両手で掴んだ。力一杯左右に振りまくって、本坪鈴と呼ばれる鈴をガラガラと響かせる。それから弥生は手のひらを二度打ち、腰を九十度に折り曲げ、
「どーか、不治の病が一生にかかって、悶え苦しみ、のたうち回りながら死にますように」
二秒ほど姿勢を保ったまま、神様に人殺しを依頼した。
寒くなるような沈黙。弥生は折り曲げていた上半身をゆっくりと起こす。
「良し――」
これだけ頼んだのだから大丈夫よね。明日の朝にはあいつ、死んでくれているかも。
神様に期待を託すと、弥生は踵を返して神社に背を向けた。
「と見せかけてもう一度。一生が死にますように!」
再び拝殿に向かって手のひらを合わせる。しつこいくらいが丁度いいのだ。
「さてと。今度こそ本当に帰らなくちゃ。小春が帰らない私を心配して泣いちゃうわ」
と、声にして出すが弥生の足は動かない。神社に入ってから何度かあったあの感覚――背中に氷を当てられたかのような、冷たい視線。
そう、その感覚の正体はやはり、見られている、というものだったのだ。
後ろに誰がいる。いったい誰が。男なのか女なのか。大人か、それとも子供か。
あるいはホラー映画であるかのような幽霊などの類いが突っ立っていて、死んだ瞳で睨みつけているのかも。
あれこれと弥生は想像をかき立てるが、不思議と恐怖的な印象はどこにもなかった。寒気がしたのもほんの一瞬で、もっと別の、言葉では表せられない感情が腹の底から浮上してくるのを感じていた。
「ふふふ」
背後での笑い声。弥生の体は弾かれたように振り返った。
女だった。足はちゃんとあり、少なくとも幽霊ではない。
彼女は少し離れた場所から、弥生に微笑みを向けていた。
弥生は、なぁーんだ普通の人間か、と女を無視して家に帰ることもできたが、それをしなかった。
女の怪しげな笑み。弥生はそれが自分に向けられているのだと思い込み、相手の顔から目を背けず挑むように歩み寄った。
「私に、何か用?」
ジロリと相手の全身に目を通しながら、弥生はいった。
女は意外と背が高かった。まだ肌寒い季節だというのに身なりは薄く、服の上からでも贅肉がまったくついていないことは明らかだった。浮き出た鎖骨に、痩けた頬。細い両手足に、細い首。
とうてい健康的に痩せているものとは思えない。
どちらかといえば、年齢とともに肉が削がれ衰えてしまった、という方が的確だ。
「もう少し、こっちへいらっしゃい」
女が手招きをする。弥生は従って、素直に女の方へと歩み寄った。
お互いの手が届き合うくらいにまで近づくと、女が、ゆっくりと腕を上げた。小枝のような細い細い指先で弥生の肩に触れる。
女は何かを摘まんだらしく、弥生の肩からそれを取り除いたようだ。
いったいなんであったのか。弥生はすぐに閃いた。
「ズバリ蜘蛛の糸でもついてました?」得意げにいうと、
「いいえ」女は首を左右に振って、「小さな蜘蛛がついていたわ」
女は片手を差し出して、弥生に手のひらを見せつけた。
弥生は思わず、「うぉっ」と呻いた。
十数ミリの蜘蛛が、三匹! 彼女の手のひらの中にいた。
灰色に近い白色の、丸っこく球体を思わせる体。腹部には少し変わった、真っ白い模様が帯でも巻いているかのように横へと広がっている。胴体から生えた八本の足はどれもが体格と比べて異様に長い。
弥生はまじまじと、蜘蛛から目が離せないでいた。
蜘蛛が特別苦手というわけではない。ただ、名前も知らない蜘蛛が、三匹も肩に張りついていたという事実に弥生は驚いていた。
蜘蛛たちは手のひらの上をもぞもぞと動き回る。
「殺しちゃうといけないからね」
女がふっと軽く息をかけた。色の白い蜘蛛らは体をふわりと浮かせて、抵抗なく吹き飛ばされた。
視界を過ぎる蜘蛛を、弥生は反射的に目で追った。
……蜘蛛を素手で触れられる人なんだ。弥生は心の中で呟いた。私もだけど……。
「蜘蛛くらい平気で触れられるわよ――」
弥生の顔から心の声を聞き取ったのだろうか。女はそう口にした。
「気持ち悪いという感覚はあっても、それは恐怖ではないから、ね」
「あ。私と同じ考えだ。私も、蜘蛛はただの虫なんだって思ったら、案外、楽勝に触れるようになったのよ」
「蜘蛛はね虫じゃなくて、動物よ。毛の生えた、私たち人間と一緒」
「はあ、そうなの? それにしてもこの辺りって蜘蛛が多いのね。今の白い蜘蛛も見たことないし……」
「あの蜘蛛はね、シロオビユウレイグモっていうのよ。毒はないから安心してね」
「白帯、ね……そういわれたら、それっぽい」
弥生は、女の顔を見つめた。
痩せ細った女の顔には、疲労と、影のある雰囲気が漂っていた。無表情になると、悲しげな印象が滲むように浮かんでくる。それらから女の年齢層が一生と同じ――いや、少し若いくらいであると弥生は推定した。
「ところであなた、誰か憎んでいる人でもいるの?」
「えっ」弥生はギクリとした。
「ふふ。一生懸命手を合わせてお祈りしていたじゃない。誰かさんが死にますように、って。あなたみたいな参拝者はなかなか見ないわよ」
「き、きき、聞いていたの」
「聞こえていたの。良ぉーくね」
弥生は大声で願かけをしたことを後悔する。まさか聞かれていたのかと、恥ずかしさで体がかあっと熱くなっていくのが自分でも分かった。
それでもそれを悟られないよう、弥生は平常心を保つように心がけた。妙にあたふたしたり、慌てたりするのは、カッコ悪いぞと思ったからだ。
「でも残念。あなたの願いごとは叶わないと思うわ」
「それって人の不幸を望んだ邪念のこもった内容だから叶わない。そういいたいの?」
女は首を左右に振る。「願いごとが叶うかどうかに人間が作った道徳なんて関係ないわ」
「じゃあどうして」
「あなたの場合、神様への敬意が足りないのよ」
「敬意?」
「そう。神社などでの祈願、雨乞い、オマジナイなどはね、神仏から霊的な力を借りて行うものなの。その力を利用して、自身の願いを叶えるの――
神は人の敬いによりて威を増し、人は神の徳によりて運を添う。ってね」
「何、それ?」
「千二百三十二年に制定された御成敗式目という法律の中にある一文よ」
弥生は女の話についていけていなかった。だけど黙ったままでいては頭が悪い子だと思われてしまう。それだけは避けておきたい。
「千二百三十二年。ズバリ平安時代でしょ。知っているわ」
高校受験のために苦手な歴史の勉強をたんまりと頭に叩き込んだ弥生は、得意げな表情でいった。
「残念。鎌倉時代よ」
「あはは。いまいったのは忘れてちょうだい」弥生は顔を赤くさせた。「それで、その御成敗なんとかっていうのはどういう意味なの?」
「分かりやすく説明するなら――神様に尊敬の態度を示しなさい。でないと願いごとは聞いてもらえないぞ、てこと。お金を湯水のように賽銭箱に注ぎ込むだけの参拝じゃあ祈願にはならないのよ」
「えー」弥生は嘆いた。「じゃあ私、どうすればいいの……」
「そうねえ――」
謎めいた女は顎に手を当てて、神社内での決まりごとを滔々(とう)と喋り始めた。
それが本当に長くなるものだと察した弥生は、近くの石灯籠に背中を預けて腰を下ろした。
参道の歩き方、手水舎で身を清める順序。拝礼の仕方つまり二礼二拍手一礼などを女の口から説明される。
これらを聞いた弥生は、確かに自分はそういった配慮ができていなかったわね、と思い、「面倒臭いなあ」と素直な感想を漏らす。
「そういうのが神社なのよ。なんたって神様が相手だからね」
「親切に教えてくれて、どーも。次に来た時には気をつけることにするわ」
ポケットの中にも、賽銭箱に投げる小銭が、もうない。
「そうしてね。あ、そうだ。ここの神社が何を神として祀っているか知っている?」
「ううん」弥生は首を左右に振った。
「この町は少し変わっていてね、蜘蛛を祀っているの」
「く、蜘蛛ぉ~?」
弥生は素っ頓狂な声を上げた。
「そう。昔の人は益虫やら迷信やらを熱心に信じていてね。蜘蛛の糸は様々な厄から守ってくれるものなんだー、って。この地じゃあずっといわれ続けているわ」
狛犬や、拝殿、本殿にはあちこち蜘蛛の巣が作られているのに、掃除をしていないのはそれが理由か。ふと弥生は思った。
「つまりね、ここは安全や健康などの祈願を込めるための神社、なのよ」
「へぇー、蜘蛛が安全と健康をね。意外だわ」
ん。安全と、健康?
「それって私がお願いした内容と真逆じゃないのよ」
神社の御利益が安全と健康――これじゃあ一生の死を望んだ私は、ラーメン屋でフランス料理を注文したようなものじゃない。仮に、この女の人がいってくれたとおりに神様に敬意を払えたとしても、一生の死という願いが叶う可能性は低い。
「聞かなきゃよかった」弥生は肩を落とした。
「まあ焦らないで。そうでもないのよ」
「どういうこと?」
「蜘蛛は益虫だといわれているけれど、それ以上に怖い面もあるの。特に雌の方にね。雌は雄との交尾が終わるとね、なんとその相手の雄蜘蛛をむしゃむしゃと食べてしまうのよ。行為の最中に食い殺してしまう場合もあるわ」
「……気味の悪い話ね。それで?」
「鈍いわね。つまりこの神社には二つの御利益があるってことよ。厄を祓う力と、その真逆の力がね」
「ほ、本当に」
「ええ。過去にこの神社で悪意のこもった願かけをした人間がいたわ」
「その人は、祈った願いが叶ったの?」
「…………」
女は答えない。悲しそうに思える表情で黙り込んだ彼女の様子に、弥生はふと思った。
知らない、ってことかな。いや、この人は何かを知っている。というよりその願かけをした人間って……まさか。
「ところであなたは、どうして……一生っていったわよね――その人の死を強く望んでいるの?」
弥生は耳を疑った。まさかここで一生の名前を聞くとは思わなかったからだ。
弥生は返す言葉をすぐには思いつけず、口ごもった。
「その人は、そんなに酷い人なの?」
女は、弥生が質問の意味に困っていると察したらしいのか、言葉を変えて聞き直した。
「いや――」弥生は目を閉じて、父親の顔を思い浮かべた。
浮かび上がった一生の顔に、弥生のむかっ腹が立つ。一生は嫌いだ。大っ嫌いだ。嫌いをとおり越して、憎いくらいに。
でも。
「あいつは、悪いとか酷いとか、そんな部類の人間じゃないわ。むしろ、むかつくくらい温厚でお人好しなのよ。少しまえまで自慢の父親だった。スタイルが良くて、そこそこの歳なんだけど顔がいいの。清潔感があって肌も綺麗で。男のくせに家事を上手にこなして、何より…………家族への気配りができてる人だったのよ」
「非の打ち所がないじゃない。なのにどうして」
「父は母を見殺しにしたの」
弥生は口調に力を込めていった。口にしたあとにハッとする。会ったばかりの誰だか知らない人に、父親のことを話すもんじゃない。
答えるつもりなんてなく反射的だった。口を滑らしてしまったのだ。一生に向けて殺意が芽生えた原因を。
ごお、と、唸るような風が吹いた。




