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家のなかのこどく  作者: くろとかげ
18/24

3章『呪いの真実―その7』

 強く雨が降る日。午後六時を回った時間帯に一生はやってきた。

 施錠されていない玄関。屋内に明かりはなく、さらに生ものが腐ったような悪臭が漂っており、一生は顔をしかめた。玄関脇の階段に視線を向ける。あまりの暗さに五段目から上が確認できない。それに禍々しさを感じて、一生はたとえ上がってきてと誘われても二階へ行く気にはなれなかった。

「気味が悪いな。こんな土砂降りの中、どこに出かけたんだろ」怪訝に思いながら、彼は乗ってきた車に、一度戻ろうとした。

 その時。薄暗い廊下の奥で一生は見た。半分ほど開いた和室の向こうから、細長い何かが飛び出しているのを。

 目を凝らして、一生はそれが腕であることに気づいた。

 躊躇いのあと一生は靴を脱ぎ、駆け寄った。倒れていたのは、弥生であった。咄嗟に娘の体を抱き上げる。弥生は眠っていた。いや、気を失っているのだ。

 弥生の小さな口から、ビー玉が一つ、零れ落ちた。

 腕の中の娘は、まるで空気を抱いているのかと思えるくらいに軽い。四肢は容易く折れてしまいそうなほど細く、満足に食事を与えられていない、ということを一生は想像した。

 すると、また、弥生から何かが床に滑り落ちた。写真の束だった。一生は片手で弥生を抱え、もう片方の手で写真を拾った。

 そこには牧野の両親らしき人物が写っていた。が、そこに幸せな雰囲気はなく、禍々しさだけしかなかった。

 全身が、針でメッタ刺しにでもされたのか、惨たらしいものとなっていた。一生は震えを堪えることができないまま、何枚もある写真を次々に見ていった。束にされた写真全てが同じようにされていた。赤ん坊を抱いた夫婦の写真にも。旅行写真にも。入学の記念に撮影されただろう写真にも、目を背けたくなるほどの傷があった。そして裏面には「呪」また「死」と幾つも書き込まれていた。

 一生は、昔にさくらから聞かされた、牧野がオカルトに強くのめり込んでいるという話を思い出した。そこから推測する。

 牧野三月が両親に呪いをかけ殺した、ということを。

 みしし。唐突の背後からの足音に一生は振り返った。すると今までどこに行っていたのか、牧野三月が目の前に現れた。

「い、一生さん……。どうして。もしかして、戻ってきてくれたの?」

 一生は怒りを爆発させ、彼女の胸ぐらを掴む勢いで詰め寄った。ところが彼女に近づくにつれて、烈火の如き怒りは尻すぼみしていく。

 牧野の容姿に、一生は言葉を失うほどの恐怖を感じた。正気を失った浮浪舎を目の当たりにしたかのような気分。いや。これは、幽霊と表現するのが近い。

 一生は奥歯を噛み締め、恐怖心を払った。

「お前は娘を殺す気か! 決定的だぞ、これは。僕は君の生活態度を見て、環境次第では考えを改めるつもりもあったんだが。その必要はないみたいだな。もう二度と子供は抱けないと思え!」

 そういうと、一生は弥生を抱えて家を出た。

 牧野の、「待って」の言葉も聞かずに。


   ***


 一生が弥生を連れ去ってから二日が経過。

 牧野は焦りと不安そして混乱に、絶えず苦しめられていた。解決できない問題に、心が壊れかけていた。

 牧野は、一生から、娘を育てる能力がない人間、更に危険であると判断された。

 自分の手から弥生は確実に離れていく。予感は現実になろうとしている。牧野は、もはや一生とさくらの縁を切っても意味がないと悟った。

 ならばいっそ、殺すか。

 自らの手で娘を殺し、そして自分も死のう。

 ぼんやりとした頭で思い立った牧野は、一生からなんとか教えてもらった弥生の入院先へと足を運んだ。

 受付から娘の病室を聞き出した牧野。動悸が激しくなるのを感じながら目的の部屋を探し、滑るようにして入室した。弥生は窓際のベッドで横になっていた。

 午後の日差しを受けて、穏やかな寝顔を浮かべる弥生に、牧野は顔を近づけ、じっと見つめる。痩せて窪んでいた頬はすっかり膨らみを帯び、血色も回復し、肌は桃のような色合いを取り戻していた。

 天使だ。牧野は本気でそう思った。気がつけば涙が溢れ頬を伝っている。

「ごめんね。ごめんね。弥生」

 うわごとみたいに呟きながら牧野は、弥生の首に震える指を回した。力を込めれば、数秒で弥生は呆気なく死ぬだろう。簡単なことだ。簡単なことなのに、牧野にはそれがどうしてもできなかった。覚悟なら決めたハズなのに、腕に力が入らないのだ。

 すると弥生がうっすらと微笑んだ。楽しい夢でも見ているのか、触れた指がくすぐったかったのか。くすくすと小さな吐息を漏らしていた。

 天使の笑みを直視した牧野は、反射的に娘の首から手を離した。殺意がみるみる薄れていく。牧野の中にある母性が、殺すな、と全身に命令していたのだ。

「私は、私は、なんてバカな親なんだ。愛する自分の子を殺そうとして、どうする」

 牧野は一瞬でも、自分が最も愚かで恐ろしい行為に走ろうとしていたことに、憤りを抱いていた。

「弥生ごめんね。今度は、どんなことがあっても守るからね」

 牧野は、眠る弥生を起こさないよう頬にそっとキスをすると、病室から静かに出て行った。

 家に帰り着くと、牧野は一番に電話の受話器に手をかけた。

 相手は一生。彼は明らかに敵対心を抱いた対応で、牧野の話を聞いた。

 ところが牧野が先日の晩のこと、弥生のことで泣きながら謝り、そして親権を一生に譲るという旨を言葉にした途端、彼の応対は一変したものとなった。

 受話器を握る牧野の手に力がこもる。

「あの、良かったら、一日だけ。たった一日だけでいいから、退院したあと弥生と一緒にいさせてほしいの」

 一生はこの頼みに言葉を詰まらせた。牧野のセリフから嫌な予感を、また何かをしようとしているのでは、と、ほんの少しの警戒心を持ってしまったからだ。

 だが一生は、牧野の改心を信じ、「分かった」と短い返答をした。

 一生は牧野に対して、鬼になりきれなかった。

「ありがとう。ありがとう……」

 牧野は、一生が通話を切るまで何度も呟いた。

 受話器を置くと、牧野は目の色を変えて準備に取りかかった。時間は限られている。彼女は神社へ走った。

 木のトンネル内にある蜘蛛の巣だらけの鳥居に一礼をして、牧野は幾日か振りに先に進んだ。

 昼過ぎの境内は神々しく思えるくらいに明るい。トンネルから抜け出た直後の眩しさにやられながらも牧野は手水舎で身を清め、真っ直ぐ拝殿へ歩み寄った。

「どうか。娘を守るためです。どうか使わせてください」

 頭を深く下げ、力強く頼みごとをする。この牧野の声が、祀ってある神の耳に届いたのか、唐突に風が止んだ。

 しぃぃーん。と、時間が止まってしまったかのように、音がなくなる。

 風が止んで無音となったのを牧野は、神から許可を得たものと受け取り、行動に移った。拝殿、本殿の周辺を歩いた。

 牧野が神社に訪れた理由は、あるものを集めるためだった。

 それは境内のあちこちで見られる蜘蛛の巣の、糸。牧野は木の枝を使って綿飴を膨らませるように糸を絡め取っていった。巣に蜘蛛の姿はない。

 ここの神社では蜘蛛を祀っている。そして蜘蛛の糸は厄除けとして、昔から強く伝えられているらしかった。

「蜘蛛は神様だから朝も昼も夜も殺すな。死骸は見るな。生きている蜘蛛は殺さず逃がし、付着した糸は払うな、病気から守ってくれるものだから」

 と、耳にたこができるほど聞かされた決まりごと。そしてもう一つ、思い出す。

 この地方にだけ伝わるという、お守りの法があることを。

 誰から聞いたか。何かの本で読んだものだったか。肝心の出所を忘れてしまっていたが、悪いものから防いでくれる術があるというのを、牧野はしっかりと記憶していた。

「これくらい集めたら、いけそうね」

 野球の球くらいにまで大きくさせた糸の塊を見て、満足げの牧野。

 持ち帰り、小さな木箱に収め、時が来るまで大切に保管した。


   ***


 弥生が退院して我が家に無事戻ってきたのは、二日後のことだ。

 娘は一生の車に乗って帰ってきた。

 家の外でその到着を待っていた牧野は、娘とのやっとの再会に感動し、幼い体を強く抱きしめた。目を閉じて、娘の温もり、におい、重みを、噛み締める。

 ところが牧野の心境は複雑なものだった。嬉しい気持ちは当然のものだったが、娘との別れもまた近づいているのだ。

 どうにか弥生を一生に渡すことなく家に留まらせておく方法はないものだろうか。

 牧野は、弥生と一緒にいたい、という念を込めて一生に目を向けた。

 だが一生は、

「じゃあ、明日の今ぐらいの時間にまた来るよ」と冷たくいった。

 決められたことに変更がないと悟った牧野は、死刑宣告を受けた気持ちとなった。

「それじゃまたね、弥生」

「ほーい」

 一生は弥生に手を振ると、車を走らせて帰って行った。

 母と娘の二人きり。すると弥生は突然、爆発したような勢いで喋り始めた。病院での数日間は本当に楽しい思い出となったらしく、牧野に話している間は笑顔を絶やさなかった。

 聞くところによると、どうやら一生は弥生の様子を見るため頻繁に病室へ訪れていたらしい。

 娘と親しくなった一生に、牧野は嫉妬の念を抱き、ふて腐れそうになるが、娘との時間を大切にすることが第一であると思い出した。

「弥生」

「ん。なーに?」

「えっと、あの……。ごめんなさいね」

 牧野の言葉には、衰弱させてしまったことだけでなく、様々なことに対する謝罪の念が込められていた。

 情けない母でごめんなさいね。私の身勝手な行動のせいで、入院させてごめんなさいね。あなたの母親としてずっといてやれなくてごめんなさいね。夜、酷いことをするかもしれないけど、許してね。

「オッケー。許してあげるよ」弥生は、親指を立てて、ニカッと笑った。「大好きなお母さんだから、許してあげるよ」


   ***


 牧野は日があるうちは娘と一緒に遊び、夕刻になると不得意の料理を頑張って作った。一緒に風呂に入り、出ると牧野は娘の体を丹念に拭いた。二階の寝室に上がり、布団を一枚、枕を二つ並べる。弥生は遊び疲れたのか、布団に潜り込むと、じきに眠たげに目を細めた。

「おかーさん。明日も一緒に、遊んでね」

「そうね」

 ただ一言いうのに、牧野は時間をかけた。

 頭を優しく撫でながら答えてくれる母親の言葉に安心したのか、弥生は瞬く間に夢の世界へと向かった。

 穏やかな寝息と、静寂した冷たい空気がきいたのか、牧野はめそめそと泣き始めた。

 これで、幸せだった親子の時間はもう終わってしまった。

 一生は、定期的になら弥生と会わせてくれるだろうか。いや、無理な気がする。

 未来を悪い方に想像してしまい、牧野は感情をとうとう爆発させてしまう。溢れ出す涙にたまらなくなり、弥生を起こさないよう部屋をそっと抜け出た。

 一階洗面所でうずくまり、()(えつ)を漏らしながら泣いた。ただひたすらに泣く。

 どれくらいの時間が経過しただろうか。出尽くしてしまったのか、涙はすっかり止まっていた。鏡で自分の顔を見る。酷い有様だ。

「やるか」

 心に落ち着きを戻し、覚悟の声を上げる。

 洗面所を出て二階の寝室に戻る。牧野は弥生がしっかり熟睡しているのを確認すると、姿見を使った隠し扉を押し開けて、隠し部屋へ入っていった。薄暗い室内に柿色の電灯を点け、部屋の奥に置いた木箱を手に取る。

 中には、先日、神社で掻き集めた蜘蛛の糸の塊が入っている。

 ごく少数、この地域のものだけしか知らないだろう蜘蛛の御利益を牧野は信じ、頼ることにした。自分にできるのは、その御利益つまり糸の力を使って、弥生に術をかけてやることだけだと思い込んでいた。

 牧野は現時刻が、丑の刻であることを確認して木箱の蓋を開けた。

 不思議なことに、中に入れたはずの蜘蛛の糸が見当たらない。牧野は箱の中で奇妙な現象が起こっていることに、目を点にさせ、瞬きを何度もさせた。同時に、神社の御利益が間違いなく本物であると確信する。

 牧野の目に映っていたのは、一匹の蜘蛛。それもこれまでに見たことがないほど、白くて透き通った美しさがあった。体長は三、四センチほどで、ゴルフボールと同じ形態をしており、腹部から生えた八本足は異様なほど長い。中でも特徴的なのは、まん丸の腹部に、白い帯を巻いてあるかのような模様があることだ。

 恐る恐る指を伸ばして蜘蛛に触れてみる。牧野は驚きのあまり息を飲んだ。白い蜘蛛の正体は、消えたと思っていた糸の塊であった。

 神社で集めた糸を木箱に仕舞ってからの数日間。中でいったい何が起こったのか。糸がどんなふうに蜘蛛の形へと変形していったのか。

「世の中には人智の及ばない摩訶不思議なことが星の数ほどあるというけど。まさかそれを体感することになるなんてね」

 決して動くことのない蜘蛛を慎重に木箱から取り出す。ぶよぶよとした感触と、糸が持つ粘着力を牧野は手のひらで味わう。本物の蜘蛛に触れているのと大差ない気色悪さである。

 それでも落ち着いた動作で隠し部屋から出た。隠し扉となった姿見を閉じる。

 いよいよ、儀式の始まりだ。

 牧野は弥生の枕もとに座った。右手には蜘蛛の形をした糸の塊。そしてもう片方の左手で、弥生の小さな唇に触れる。唇から歯に触れる。牧野は力を少し入れて、弥生の口を開かせた。一、二センチほどの小さな隙間。その弥生の口内に向けて、牧野は、右手に持つ蜘蛛を、前足二本から入れていった。するすると、前足が入りきったところで、弥生が、「けほっ」と咳をし、穏やかだった表情を崩した。蜘蛛の足が口内のどこかに、または喉の奥に当たったのかもしれない。

 起きてしまう。

 直感。牧野は両手の力を緩めるどころか、弥生の口をもっと開けさせて、一気に蜘蛛を押し込んだ。胴体の半分ほどが弥生の口の中へと消えた。

 直後、弥生の目がカッと開く。自分の身に何が起こっているのか。理解をしていないにもかかわらず、彼女は体を激しく暴れさせた。手足を大きく振り回し、体をよじって懸命に起き上がろうとしていた。

 牧野は暴れる弥生を力尽(ちからづ)くで抑え、ゴルフボールほどの大きさのある蜘蛛をぐいぐいと口の中へと押し込んでいった。

「うぶぶ」

 目一杯に広がった弥生の口から苦しげな息が漏れて牧野の手にかかる。目から涙を、鼻から鼻水を流していた弥生。だが口が塞がれて喚くことは許されなかった。

 娘がどんなに苦しい顔をしても、身をよじりながら暴れても、牧野は力を緩めようとはしなかった。病院で絞殺しようとした時とは違い、今の儀式を途中で終わらせるわけにはいかなかった。

 そして牧野は、呼吸困難に陥る娘に対して一切声をかけなかった。

 ごめんね。これもあなたのためなの。早く終わらせるからね。さえも思わず、牧野は思考を停止させ必死になっていた。

 蜘蛛はすでに弥生の口内に丸々入っていた。あとは喉の奥へ、蜘蛛を飲み込ませるだけだ。

 ところが弥生の、異物を吐き出そうとする力も予想外に強かった。あと少しというのに、思うようにいかない。あまりにも思うようにいかず、牧野は咄嗟に弥生の口から左手を一度離し、頬を張ってしまった。パシンと乾いた音とともに弥生の首も真横に向いた。

 弥生が大人しくなる。振り回していた腕や足が、動かなくなった。

 牧野はしまったと、慌てて弥生の小さな体を抱え直した。が、娘は白目を剥いて気を失っていた。

 弥生が死んでしまう、と困惑した牧野。おろおろし、混乱した頭で思いついた判断は、蜘蛛を口の中から取り出すことだった。

 ところが問題の蜘蛛が見当たらなかった。いなくなっているのだ。牧野は動悸を感じながらも、三歳児の小さく狭い口の中に指を入れ、あちこちに触れてみたが、手応えはなかった。

「飲み込んじゃったの?」

 それとも糸だから綿菓子みたく消えてなくなったのか。それならまだいいが、もし蜘蛛が喉の奥で引っかかっているのだとしたら、と牧野は考えてしまう。

 最悪の場合、弥生は窒息死してしまう。

「どうしよう。どうしよう」

 狼狽えて、ようやく思いついたのが、電話を使って病院に助けを求めることであった。急ごうと、牧野は立ち上がった。

「けほっ」

 ふいに聞こえた咳の声に、牧野は耳を疑った。横たわる弥生に顔を向ける。もう一度座り込み、弥生の口に手をかざす。手のひらに穏やかな寝息がかかる。

 弥生は息をしていた。それも嘘みたいに落ち着きを取り戻している。まるで時間が蜘蛛を飲ませるまえに戻ったようだと牧野は錯覚した。

 不思議だが、何にしても弥生は生きているのだ。牧野は安堵して、ずっと娘の寝顔を見つめていた。


   ***


 外の景色はすっかり明るくなり、七時を回っていた。

 牧野は朝食の準備に取りかかるため、一階に下りた。昨晩のこともあるだろうが、弥生はまだ深い眠りの中にいるようであった。

 牧野があれこれ家事をしていると、前触れもなく一生が玄関を開けて訊ねてきた。

 弥生をもう連れに来たのだ。もう少し時間があると思っていたので、牧野は一生の突然の登場に驚きと、怒りを覚えた。

「これからのことについても話しておく必要があるからね」

 と一生は爽やかに牧野の怒りをかわした。

 そして一生が持ってきた話の内容は、親権に関することだった。家庭裁判所での手続き、調停といったものを一生は丁寧に説明した。が、彼の言葉の意味を牧野は頭に入れることができずにいた。

 一生が小難しい単語を早口で並べたこと。寝不足の頭でそれを聞いたこと。そして何より、間もなく娘と離ればなれになってしまうこと。

 この三点が、牧野の思考を鈍らせていた。全てが時間の無駄に思われた。

 話が終わると、本当の別れがやってきた。牧野は、未だ眠り続ける弥生を抱いて、一生と並んで家の外に出た。一台の車が敷地内の脇に停められてある。一生が車の助手席側のドアに手をかけた。

「弥生には、私がいないこと、新しい家庭環境のことを何て説明するの?」

「ゆっくり、少しずつ馴染んでいってもらうつもりさ。大変だろうけど」

「強引な考えね」

「自分でもそう思うよ」

「それともう一つ、弥生のことで、さくらは何かいっていた?」

 と、牧野は訊いた。今更訊ねるような内容でもなく、本当は質問なんてどうでも良いと思っていた。

 牧野のそれは、弥生との別れを引き延ばすための、いわば時間稼ぎであった。

 せめて目を覚ました弥生をもう一度強く抱きしめたいと切望していた。

 簡単な質問をしたつもりだったが、一生の肩がビクリと震えたのを牧野は見逃さなかった。彼は言葉を詰まらせ、噤んだ口を開けるまで時間を要した。

「実は……」消え入りそうな声のあと、「大丈夫だよ。彼女も、弥生を歓迎してくれるよ。きっと」

 と、彼は笑顔で答えながら車のドアを開けた。

 まるで言葉を選んでいるかのような一生のぎこちない口調に、牧野は不信感を抱く。さくらは、本当は、弥生のことを快く思っていないのでは、と。

 そのことで一生にもう少し追及してみようかと、牧野は唇を開けた。

 と、ここで弥生が目を覚ました。

 三歳の娘は眩しさを噛み締めたような細目で周囲を見渡した。現状を把握できていないポカンとした表情。

 眠りから覚めた娘の姿に、牧野は少しホッとした。あのまま眠り姫になってしまうのではと、最悪の可能性を少しでも想像していたからだ。

 安堵と同時に、ざわつくような嫌な感じが、牧野の心に浮上してきた。

 ああ。ついにこの時がきてしまったのだ。

 弥生との別れに、牧野は声を出さなかったが全身を震わせて、泣いていた。

 嫌だ。でもこれが弥生のためなのだ。いくら私がさくらや一生に不信を感じても、もう変更はできないのだ。

 頭の中でぐるぐると渦巻く独白に、牧野は倒れそうになる。その姿を、一生はじっと見つめ、黙って待っていた。牧野が、自らの手で弥生を車に乗せる所を。

 牧野は意を決し、今生の別れをする思いで娘の体を強く抱きしめた。弥生の顔が牧野の肩に当たる。小さな吐息が、耳をくすぐった。

「だ、れ?」

 唐突に弥生がそんなことを呟いたのだ。

 牧野はぞくりと背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 寝惚けた言葉にしても、恐ろしすぎる。

 もしかするとシロオビユウレイグモを使った術の影響か。

 牧野は、昨晩、弥生にした酷いことが原因なのではと考えた。

 窒息という危害を加えたことで、弥生にかけた術が私を危険とみなしたのかも。そして弥生の中からその記憶が消えてしまった。

 写経を行って霊力を高めすぎたがため、その分、弥生にも強力な術をかけてしまったのかもしれない。

 と牧野は推測した。

 なんてバカげた妄想だろう。娘が母親の存在を忘れてしまう、だなんて。杞憂に決まっている。

 しかし思う心とは裏腹に牧野は、弥生の顔を直視することができなかった。

 結局確かめることもなく牧野は抱えていた弥生を一生の車に乗せた。

 牧野の行動を見届けた一生が、車のドアを閉じる。

「それじゃ行くよ。また何かあったら連絡するよ」

「ええ。分かったわ」

 抑揚のない声で牧野は呟いた。しかしその言葉を聞いた人間はどこにもいなかった。一生はすでに車を走らせ敷地内から出ていた。

「弥生のこと、頼んだわよ。何かあったら承知しないからね」

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