3章『呪いの真実―その3』
和室から姉妹部屋へ。弥生は一生から借りた図鑑を開いて、蜘蛛のことが詳しく載ってあるページを集中して読んだ。そこには蜘蛛の生態はもちろん、糸の張り方、日本に存在する種類が多数、記されていた。
天敵についても書かれていた。
蜘蛛の天敵。それは蜂だった。中でもベッコウバチ科の、ベッコウクモバチと呼ばれる蜂が蜘蛛を狩るものとして有名らしい。
意外。弥生は素直にそう思った。蜂が蜘蛛に勝つと、予想さえしていなかったからだ。飛行というイメージを持たせる蜂は、どうしても蜘蛛の張った糸に身動きを奪われ、餌食になるようにしか思えない。
同じ図鑑で、弥生はベッコウクモバチのことを調べてみた。
「嘘。二センチしかないのに、大型の蜘蛛にもケンカを売って、しかも勝つんだ」
更に、その蜂が高い場所に巣を作るのではなく、土の中に棲んでいることを知って、また驚いた。
ベッコウクモバチの獲物の捕らえ方は身の毛もよだつものだった。俊敏な動作で蜘蛛に襲いかかり、麻酔で相手の動きを封じる。そのあとベッコウクモバチは、動けなくなった蜘蛛を生かした状態のまま引き摺って自分の巣穴へ持って帰るのだという。
「土の中に帰ってきたベッコウクモバチは、生きた蜘蛛に卵を産みつけ……うげげ、それで幼虫を育てるんだ」
無数の幼虫が、動けなくなった蜘蛛の肉体を貪っている場面を弥生は想像した。ぞぉっと背筋が粟立つ。
「これはとんでもないわね。怖すぎるわよ」
でも。そんな怖すぎるベッコウクモバチならきっと、シロオビユウレイグモの呪いを相殺してくれる。弥生は希望の光を見た気がした。
黄色と黒の細長い体に、それと同じサイズの細長い焦げ茶色の羽。細長く、平べったいその姿形は、空を飛ぶより、地を這うといった印象を弥生は強く感じた。
ベッコウクモバチの外見と、巣を作る場所を、脳にインプットさせた弥生。
「あとは捕まえるだけね」と戦いに挑む気持ちで勢い良く立ち上がった。
この近くで、ベッコウクモバチが最も巣を作っていそうなのは、神社手前にある木のトンネルだろう。
転げ落ちるようにして階段を下り、靴も踵を踏んだまま外に出た。飛ぶように移動して、トンネル内に到着。
弥生は、さっそく目的の蜂を見つけ出そうと、気合いを入れた。しかし草や石を靴先で避け、目を皿にして探しても、ベッコウクモバチがいそうな気配は微塵もない。弥生の一生懸命とは裏腹に、時間だけが容赦なく流れていった。
あっという間に弥生は半日を無駄に過ごし、日が暮れ始めることに気づいた。弥生は暗くなる景色から逃げるように、今日はもう無理だろうと蜂の捕獲をあきらめることにした。
「ベッコウクモバチどころか、他の虫さえ見つけられなかったな」
声に出した弥生は、はっとした。悪い考えが頭の中を過ぎったのだ。
家に戻って再び図鑑を開いてそれを確認すると、見事、悪い考えは的中していた。
「ああ、やっぱり。蜂は今の時期、活動していないんだ」
ベッコウクモバチの活動は、六月から十月までと記載されていた。
そう。現在は三月後半。弥生の求めているベッコウクモバチは今、土の中で眠り続けている。
***
夜が過ぎて、朝になった。
目が覚め、写真の中のさくらに朝の挨拶をすませた弥生は、ふと、自分の枕に髪の毛が幾つか付着しているのを見た。
ここ数日、弥生の抜け毛は酷いものだった。今朝は特に多く、さすがの弥生も少なからずショックを受けた。
「昨日は一生のことでずっと頭を使ったのが悪かったのかな」
弥生は昨日のことを思い返す。
必死になってベッコウクモバチを探し回ったが、見つけられずに終わった。それどころか、目的の蜂はまだ活動期間外であったことが判明。
ベッコウクモバチが、せっかく掴んだ解決への鍵だっただけに、弥生はこれからどうすればいいのか悩んだ。
ベッコウクモバチが手に入らないのなら、他の手立てに切り替えるべきなのか。
しかしそれは振り出しに戻るという意味でもあった。
弥生は決めかねていた。
まだ、ベッコウクモバチを用いた方法を、弥生は完全に捨て切れていないのだ。もう少しだけ土の上を探してもいいのでは、と心の片隅で小さな希望が残っていた。
それとも、ベッコウクモバチが土から顔を出す六月を待つか。いや。それだとさすがに、時間をかけすぎる。蜂の活動を待っている間に、一生があの世に逝ってしまうだろう。
こうしている今でも一生は衰弱し続けていた。当然、彼が仕事に出かけられるはずもなく、ずっと布団の中で寝込んでいた。
一生に代わって朝食を作る弥生。手を動かしながら、さくらを亡くしたあとの、家事を分担していたころを思い出した。
しかし、昔と違う点が一つだけある。
「小春。ご飯できたよ」
ここ最近、小春の起床がどうにも遅いことだ。疲れからなのか、夜更かしをしているからなのか。疑問を感じずにはいられない弥生だが、妹には何も聞けなかった。
朝の用事を終え、自由時間を手に入れた弥生は、一生にかけた呪いのことで、再度作戦を立てることにした。
そこで一つ。案が生まれる。
それは、オマジナイを使用する、といった作戦であった。
呪いと、オマジナイ。漢字で書けば両者ともに、呪い、となる。まったく一緒だが、内容は離れたものだった。
呪い。極端な考え方をすれば、凶、である。つまり自分の欲望のために、敵、恨み持つものに害を与えるための呪術である。
「一方、オマジナイは吉凶。要するに呪いと違って、マイナスだけでなくプラスにもできる術」
しかもオマジナイは、数え切れないほど種類が多い。厄除けや魔除けもあれば、害虫害獣除けのオマジナイも存在する。縁切りや、浮気封じ、さらには恋愛成就の助けともなるオマジナイも作られているようだ。
弥生はポンッと手を叩いた。このオマジナイを使って一生の体を健康な状態に治せるのかもしれない、と閃いたのだ。
弥生は外出を決めた。バスを使って、町の中にある書店を目指すことに。
バスに揺られ、駅前の停留所で降りる。そこそこ大きめの書店を難なく見つけられた弥生。ただ彼女は滅多に入らないお店だけに少しだけ緊張していた。こそこそと店内に入り足早になってあるコーナーへと向かった
多くある棚から適当な一冊を選ぶ。
手に取った本の帯には、良く効くオマジナイ、日本の有名なオマジナイ、と太々と目立つように書かれていた。
読んで見ると、恋愛や友好関係のものばかり。なるほど小中学生の女子が好みそうな可愛らしい内容が多い。
「でも、何か、そういうのとは違うんだよな」
独り言を自分でも知らないうちにぽつぽつと漏らしながら弥生は次々とページに指を当てていく。
ごくごくまれに、嫌がらせ目的のオマジナイも載ってあった。
相手を病気にさせたり、痛い思いをさせるオマジナイ。周囲から嫌われものにさせるオマジナイ。虫を呼び相手に襲わせるオマジナイ。お金を落とさせるオマジナイ。
などと死には至らない、小さな不幸を呼ぶ内容ばかりであった。
しかも、悪意を含んだそれを弥生はもう必要としていなかった。
「悪戯系よりも、呪いを弾くとか、病気を治すとか、健康面で効き目のありそうな感じのはないのかねー」
残念ながら弥生が望んだ内容のオマジナイは、その本には載ってはいなかった。
本をぱたんと閉じた弥生は行き詰まりを感じた。
本の内容が想像以上に、自分にとって使えそうにないものばかりであることに落胆。
当てが外れ、弥生は、これでは一生を助けられない、と危惧の念を抱いた。
が、落ち込んでいる暇も、途方に暮れている暇もない。
あきらめない。と強く思う。オマジナイという解決案をなくしたら、もう本当にお手上げ状態。一生の死は、ほぼ確定、から、絶対、になるだろう。
それだけは防ぎたい。ちゃんと一生の体を治して、これまでのことを謝るのだ。
明確な目的を持っていた弥生は、希望を捨てず、「もう一度だけ」と、本を読み直した。
「それにせっかくお金払ってここまで来たんだ。収獲なしで帰れるわけがない」
立ち読みを続ける。同じ本を二度読むことになる弥生。ページを捲るそのペースは、一度目と比べて断然早かった。
残りページ数が薄くなるにつれて弥生の心は焦りを帯びてきた。相変わらず、一生の命を救うのに役に立ちそうなものはない。
著者のあとがきへと行き着いた弥生は、深い溜め息とともに本を閉じた。彼女はついに、何の発見もないまま、二度目を読み終えてしまったのだ。発見なし。何となくそんな予感をしていた弥生だったが、想像以上に心が重く沈んだ。
流し読みとはいえ、百ページ以上もある本を二度も読んだのだ。弥生は疲れ、集中力はすでに途切れていた。時間もそれなりに費やしていたことを今、知る。
帰ろう。弥生は頭を項垂れさせたまま、心の中で呟いた。
腕を上げて、本を棚に戻そうとした。
その時。
弥生は手の甲に、一匹の蜘蛛が長い長い足を絡めているのを見た。
「きゃ」
短い悲鳴を発した弥生は、手を滑らせて、本を落としてしまった。
弥生は売り物の本よりも、まず自分の手を心配した。弥生は瞬きを二度して確かめた。手に蜘蛛なんていないのだ。
単なる気のせい。本の背表紙の模様が、それっぽくあるから蜘蛛がいると錯覚したのだろう、と弥生は考えた。
落ちた本を拾おうと腰を屈める。
落ちた拍子に開いてしまったのだろうページに、弥生は何気なく目を向けた。数秒後、二度も目を通しているはずなのに、彼女は初めて目にしたかのような衝撃を憶え、そのページに、顔を埋めさせた。
弥生の口もとが怪しくほころんだ。求めていた答えをついに探し当てることができたのだ。
見つけたオマジナイはどんなものか。
それは、病を治し健康を取り戻す、といったものではなく、呪いを防ぐオマジナイ、でもなかった。
悪戯目的で使う、虫を寄せ集めるオマジナイだった。
弥生は、上手くいけば冬眠中のベッコウクモバチをこれで捕まえられる、という良策とも愚策ともいえるものを閃いたのだ。
オマジナイを探すため、あれほど熟読したにもかかわらず、弥生は一冊の本も買うこともなく書店を出て行った。
***
正午となった。日差しは強く、背中に汗が浮き出るほど弥生は暑く感じていた。
オマジナイの手順をしっかりと憶えた弥生は、家に帰るとそれに必要な道具たちを掻き集め、再度家を飛んで出ていった。
今度は木のトンネルに向かう。トンネル内の薄暗い場所にも躊躇いなく身を沈める。
神社へ真っ直ぐ延びた土道には、ロープが左右に一本ずつ、手すりみたいに奥まで渡されてある。
弥生はそのロープをくぐると、直線の道を横に進んだ。
そこは一面が、未開拓の森の中といっても過言ではないくらいの景色だった。無数の樹木と焦げ茶色の土しか視界に入らない。
周辺は土や葉の湿ったにおいが特に強まっている。
弥生は少し奥へ進んだ。地面は柔らかいが、大粒の石ころが多くて歩きづらかった。
進むと、まるで弥生がそこに足を踏み入れることを誰かが予測していたかのように、わずかだが開けた場所に出た。
「ここがいいかな」
弥生は家から持ってきた道具を置いて、オマジナイの準備にかかる。
まず地面に直接、白い紙を敷く。紙には中央四カ所に、寄ってきて欲しい虫――ベッコウクモバチとマジックで書く。紙は飛ばされないよう、隅に石を置いて固定。
次に弥生は紙の上に、蠱毒用に使われていた木箱を置いた。小さな丸石を拾って、木箱の中に置く。丸石の表面に、蜘蛛――漢字で書くのが好ましい――とマジックで丁寧に書く。
ぽつんとある箱の中の石。弥生は石の上で手をかざし撫でるように回した。目を閉じて、暗記した呪文をぶつぶつと唱え始める。
本来なら恥ずかしくて、絶対に口にできなかっただろう呪文。だが今の弥生は、強く願いを込めながら、そんな呪文を真剣になって呟いていた。お遊び半分で作られただろう本に載ってあった、信憑性皆無の呪文を。
その真剣っぷりは、おそらく日本の中でただ一人、市松弥生くらいだろう。
終わると、弥生は閉じた瞼をゆっくりと開けて、細く長い息を吐いた。
「あとは成功を待つだけね」
弥生は地面に設置した木箱から少し離れた場所に腰を下ろした。じっと木箱を見守る。
オマジナイの成功。それはベッコウクモバチが、木箱の中の蜘蛛に見立てた石に飛びついてきた時である。
しかし、待っても待っても弥生の思いどおりにはいかない。
とうとう今日の制限時間を越えてしまい、弥生は渋々帰路につくことに。
木箱をどうするか迷ったが、このまま残した状態に決めた。
帰り道。どうして蜂が現れてくれなかったのか、何がいけなかったのかを、弥生は自分なりに考えていた。
やはり季節の問題か。蜂どころか虫一匹現れなかったな。
一日そこらでは思いどおりにはいかないものなのかもしれない。良し。明日もチャレンジだ。
***
翌朝。七時になるよりも早い時間。弥生は静寂の中をそろそろと動き、家を出て行った。
弥生は朝食の準備をすでに終えていた。誰でも手軽に、すぐに食べられるものを用意し、それから外出したのだ。
天気は良かった。しかし、早朝の風の冷たさは、歯を食いしばるほど辛い。弥生はなるべく体を大きく動かしながら歩んだ。
ところがいくら動いて体温を上げても、森からは夜の冷たさがまだ抜け切っていなかった。視界も悪く、霧でもかかっているかのように白んでいた。
神社へと続く土道を外れ、弥生は昨日設置した木箱を目指した。
「あった」
弥生は、木箱が風等で飛ばされることなく無事に残っているのを遠くから確認。思わず駆け寄る。ほんの少しだけ、弥生は、もしかしたらオマジナイの効果が現れていて、ベッコウクモバチが、中の丸石にしがみついているのではないかと、楽観的な考えを抱いていた。
期待は外れた。中身は昨日最後に見た時と変わらず、ただ石ころがぽつんとあるだけ。寂しいものであった。
弥生は肩を落とした。やはりそう甘くはないようである。
しかし今日こそは。と弥生は奮起して、木箱の中の石に手を添え、昨日唱えた呪文を同じように口にした。
朝から夕暮れまで。時間はまだまだあるのだ。今日一日、集中してオマジナイをかけ続ければ、ベッコウクモバチは必ず現れるに違いない。と彼女は信じて疑わなかった。
そして弥生の願望は呆気なく崩れた。呪文を唱え、少し離れた場所から木箱を見守る。弥生はそれを根気良く続けたが、変化は訪れない。
弥生はベッコウクモバチを待った。身動き一つせずに、ひたすら待ち続けた。風景が変わらないので、時間の感覚が狂ってしまい、弥生はもう幾日も同じ場所に座っているかのような錯覚を覚える。
実際は五時間近く経過していた。とうとう昼を回ってしまったのだ。
弥生は、昼食の用意をするため、一度、家に戻ることを決めた。
キッチンへ到着すると、用意しておいた朝食は、ちゃんと口にしてくれたらしく、空になっていた。しかも小春が片づけてくれたのだろうか、食器も洗われていて、もとの場所に戻されていた。
助かるわ。と、弥生は心の中で小春に感謝をいうと、さっそく調理にかかった。
弥生は時間に追われているかのような気分だった。ベッコウクモバチが木箱の中にいるかどうかも分からないのに、彼女は急がないと逃げてしまうと妙に焦っていた。
だから朝食と同様、昼食も手抜きで簡単なものだった。作業を終えると弥生は、一生や、小春に、声を一つもかけることもなく、家を飛び出ていった。
どうやら午後から、天気は急激に崩れるようだった。
風が冷たかったのもそのせいか、雲行きが怪しい。雨の気配を察した弥生は、傘を手にする。
再び、木箱。近寄る足には期待と不安が混ざっていた。ベッコウクモバチがいるかもしれないと、相変わらず、淡い期待を心中に抱いていた。
「いないか。でも、あきらめないわよ。こうなったら、どっちが先になるかまでやってやる」
虫を呼ぶオマジナイが成功するか、一生が死ぬか。そのどちらかになるまで何度でも繰り返すつもりであった。
弥生は再び、呪文を唱え、少し離れて木箱を見守ろうとした。
変化が訪れたのはその時だ。弥生はハッとして俯き気味だった顔を上げた。さわさわと森全体が小さく震えているか。そのような音を弥生は耳にした。
森を抜ける風が弥生にぶつかる。独特のにおいを含んだ風だった。
「やばっ」口にした時にはもう遅かった。「っもう。お前は呼んでないのに」
額に、頬に、鼻に、ぽつぽつと雨粒が当たる。
そう。弥生の行動を邪魔するかのように雨が降り始めたのだ。それでも不幸中の幸いなのは、風雨は微々たる程度だったことだ。持ってきた傘を広げて、弥生は大した被害も受けずにこの場に留まることができた。
しかし、雨の影響は大きなものだった。雨が降ることで、ベッコウクモバチの出現率は著しく減少するに違いない。弥生は焦る。
「まあいいわ。待ってやるわよ。雨ぐらいで帰ってたまるもんか」
雨で濡れて柔らかくなった土に、しっかりと靴底をつけて立ち続けることを決めた弥生。
だが、強がりをいう彼女の根気も、雨風を受ける時間が増すと次第に薄れていった。
それでも待てたのは、弥生がバカの一つ覚えみたいに望みを信じていたからだ。ベッコウクモバチが現れるという望みを。
しかし昨日に続いて今日までも、健気に待ち続ける弥生の希望が叶うことはなかった。
雨の攻撃に加えて、日の暮れまでもが弥生を森から追い出そうとし始めた。本当に帰らないといけなくなる。弥生は丸一日を無駄にしたことに、激しいショックを味わう。
「あー。もう嫌んなっちゃう」
悔しさのあまり、足もとの石を思いっ切り蹴飛ばす。石は短い距離を二転三転し、やがて動かなくなった。
気持ちが沈んで、弥生の頭も項垂れる。
「ん」弥生は思わず腰を屈めた。「んんん!」
手のひらから傘が抜け落ちた。気づかずに弥生は、足もとの蹴飛ばした石があった箇所を凝視する。
石の下敷きとなっていた枯葉と、若干湿り気を帯びた色の濃い土。
いや違う。弥生が視線を向けた先には、枯葉や土などではなく、もっと別のものがあった。
土の上で。何かが、確かに、弱々しくではあるが、動いていたのだ。決して見間違いなどではない。
昆虫だった。黒い翅、体は細長く、六本足と頭部はやや濃いめの黄色をしていた。
弥生がそれを目にしたのは、生まれて初めてである。だけど彼女は、これまで何度も見てきたかのように、それの名前を知っていた。
ベッコウクモバチ。
瞼を擦って何度も確認する。見間違いなどではなく、ちゃんとそこにいた。
弥生は自分の体が、雨で打たれているにもかかわらず、だんだん熱くなるのを感じていた。歓喜のあまり叫び声を発し、念願だったベッコウクモバチを素手で直接捕まえようとする。が弥生はそれを直前で我慢。冷静さを取り戻した。
蜂なのだ。不用意に触れて、攻撃を受けると激烈に痛い思いをすることになる。
二センチほどの胴体のある蜂は、もそもそとした動作で弱々しくも見えた。翅を広げてどこかに飛んでいこうとする、といった気配は感じられない。
そこで弥生はオマジナイ用に置いてあった木箱を使って蜂を安全に捕まえる方法に出た。
蜂はあっけなく木箱の中に。一緒に置いてあった用紙を蓋代わりにする。
落とした傘を拾うと、弥生は飛んで家に帰った。
家の着くまでの間、弥生は木箱を見つめながら考える。
それにしても、良く現れたものだ。やはり根気良くオマジナイを続けていたのが結果に繋がったんだわ。
信じるものは救われる!
と、弥生がそう考えているだけで、本当にオマジナイが効いてベッコウクモバチが現れたのかは、箱の中のベッコウクモバチ以外に知らなかった。
温かい日が続いたおかげで、早くに目を覚ましただけかもしれない。それとも、寝ぼけた蜂がたまたま土から顔を出しただけなのかもしれないのだ。
だが、弥生はベッコウクモバチを見事手にすることができた。それは揺るぎない事実であった。




