3章『呪いの真実―その2』
隠し部屋の中で、弥生は初めて足を踏み入れた時のように、舐めるような視線で全体を見渡した。真夜中ではないので、懐中電灯の必要はまだない。
写真の彼女が、本当に牧野だとしたら、この家に牧野が住んでいたということになる。つまり彼女がこの隠し部屋の利用者であり、誰かを呪おうとしていたという可能性も高くなるのだ。
尋常では考えられない量の写経も、呪術関係の本や、蠱毒用の木箱も、全部牧野が用意したのかもしれないのだ。
牧野がそれらを用意し、扱っていたところを想像する。狂気に取り憑かれた彼女の姿を思い浮かべることは容易だった。
ただし想像の中の牧野の心理だけは読み取ることができない。
弥生は部屋奥にある机の前で立ち止まり、床に腰を下ろして牧野の気持ちを考えてみた。
人を呪わば穴二つ……。言葉の意味を理解していたのなら、牧野はどんな気持ちで相手に呪いをかけようとしていたのだろう。
やはり、自分も死んでもいい、と彼女もそんな考えだったのか。
無意識に伸びた弥生の手が、机の上に置いてある紙に触れた。一面中、呪いの字で埋め尽くされていた。この紙にはもう一枚、別の用紙が重なり貼りついていた。二枚目にも何やら文字が羅列してあるようだが、一枚目の呪いの文字が邪魔をして、確認できない。ただ、隅っこで、縁、という字が少しだけ覗けていた。
二枚目を見てみたい。だけど上の一枚を綺麗に剥がす自信がない。これまでの弥生はそれが心配で手が出せなかった
が、今は考えが違う。弥生は紙を剥がしてみる挑戦を決意した。
思ってみれば、仮に紙が破けても、弥生自身にとってそれは別に大した問題ではないからだ。彼女はそれに気づいたのだ。
軽い気持ちになれた弥生は、躊躇わず、素早く一枚目から二枚目を剥がした。運が良かったのか、それは思いの外、綺麗に取れた。
貼りついていた紙を上手に剥がせて爽快感に浸る、間もなく弥生は激しいショックに見舞われた。
縁切り。
そこには幾つもの縁切りが書かれていた。
それだけではない。用紙の右下隅に、一生とさくらの名前までもが記されてある。
目に映る情報に弥生は、心臓が早鐘を打ち、気持ちがゆっくりと沈んでいくのが分かった。
弥生は突き放すような動作で、問題の紙を裏面を上にして机に放った。見なかったことに、忘れてすませたいことだが、弥生の頭ではそんな器用なことはできない。
牧野がこれを書いたのだろうか。そんな疑心ばかりを抱く。
いやいや。と、弥生は首を左右に振る。これまでのことが全部、牧野と関係していると決まったわけではなく、憶測でしかないのだ。
これまでのこと、全部。
「そうよ。写真の女だって、牧野さんに似ている、たったそれだけだし。仮にそうだったとしてもこの隠し部屋を使っていたのが、牧野さん自身であるとは限らないのよね」
牧野である可能性は低いのだ。弥生は軽く笑って思いを改める。
その時。弥生はふっと、机に引き出しがあることを、今になって発見してしまう。
机に引き出しがあるのは考えてみれば当然のことだ。なのに弥生は、これまでその存在に気にもかけず、まだ中身を調べていなかった。
一生への呪いは確定している。本当なら引き出しの中を覗いて、新しい発見をする必要もない。のだけど、好奇心旺盛の彼女は無意識のうちに手を伸ばし、後悔するとも知らずに、それを引いていた。
中には写真が輪ゴムで束にされて置かれていた。
ゴムを外して、一枚ずつ目をとおす。
「何よ、これ」弥生は驚愕のあまり声を震わせていた。
そこには牧野似の(・)女と一生のラブショットがあった。最近のものではない。一生がまだ二十代前半、といったころのところだ。
二人は付き合っていた? だとすると一生は、いつからさくらと恋愛を始めたことになるのだろうか。
写真はまだ続く。ラブショットがしばらく続いたあと、今度は小さなマンションが撮影されていた。写真の色合いから、年月の経過を感じさせる。その建物はかつて、弥生ら市松家が住んでいた場所だった。
次の写真に、弥生は目を丸くさせた。一組の家族を遠くから撮影したものであった。
弥生と、一生とさくら。さくらは赤ん坊を抱えている。
似たような写真は他にも沢山あった。
さくらのアップの写真。彼女は幸せそうな満面の笑みを浮かべている。
だが写真の裏面には、小さな文字でビッシリと、死ね等の言葉がおぞましいくらい埋め尽くされていた。
瞬間。
弥生の脳裏にある推測が浮かび上がる。
推測は弥生の脳内でむくむくと膨れ、それは気づかないうちに確信に近いものへとなっていた。
いても立ってもいられなくなり、弥生は、再びあの場所へ飛んで向かうことにした。
***
神社でその人物、牧野を見つけた弥生は、大股で詰め寄った。相手が口を開くよりも早く、弥生は叫んだ。
「どういうことですか。説明してください」
「あらあら。凄い形相。さっきとはえらい違いね」
「茶化さないで答えて。どうしてお母さんを殺したの!」
「殺した? 何のこと」
「しらばっくれて。もう知っているのよ。あの家が、もとは牧野さんの家だってことも。それから写真のことも」
弥生は奥歯を強く噛み締め、ギリリッと怒りの音を鳴らした。
写真の中にいた謎の女が牧野であると、弥生は確信していたのだ。あの女は牧野ではないと、一度は牧野から疑心を外していた弥生だったが、結局それを捨てきることができなかった。そこであの盗撮写真だ。弥生の中である推測が浮かんだ。
「自分とつき合っていたはずの一生を、お母さんに取られたから、だから殺したの? 牧野さん!」
「一生さんを取られたから? くふふ」
「何で笑うの?」
牧野は、怒りを露わにした弥生に臆することなく冷たく笑って言葉を返した。
「まあ間接的に……さくらが死んだキッカケは、私にあるかもしれないけれど、でもね弥生。私が直接殺したわけじゃないのよ。私はキッカケにすぎないの」
「そりゃそうよね。直接じゃなくて、蜘蛛を使った呪いでお母さんを殺したんでしょ。あんたが、お母さんを殺したんだ!」
弥生は牧野に向かって指を突きつけた。
その腕を、牧野は強く掴む。ぐいっと弥生の腕を下に向けさせた。
「弥生。良く聞きなさい。私はね、一生さんとさくらの仲をそりゃ妬んだわよ。引き裂こうと、いけないことに手を染めることにも躊躇いはなかったわ。……しかしね」
弥生は、掴まれた牧野の手を振り払った。そして牧野の言葉を遮った。
「やっぱりあんたが、呪いを使ってお母さんを殺したんだ」
弥生は、本当に憎むべき人物が、一生などよりも牧野であったことに気づく。
「どうしてくれるのよ。あんたがお母さんにあんなことをしたせいで、私は、あいつに……とんでもないことを……」
牧野がさくらに呪いをかけなければ、さくらは死なずにすんだ。つまり一生を殺そうとも決意することもなかったはずだ。弥生は決めつけた。
「何をいっているの。どういう経緯があっても、自分の父親を死の淵に追いやったのは他の誰でもない、市松弥生。あなたよ!」
ショックのあまり弥生は言葉を返せない。
そんな弥生の耳もとで、牧野は、慈しみを込めた声で囁く。
「一生は必ず死ぬ。でも安心して。彼が死んでも、私が弥生の面倒を見るから。何も心配する必要はないのよ」
***
それからどうやって牧野と別れたのか、弥生は覚えていない。
彼女は項垂れ、長い溜め息を何度も吐きながら帰路を辿っていた。
弥生は認めたくなかった。受け入れたくなかった。一生が死ぬということを。牧野を敵視しなくてはいけないことを。
一生。そして次は牧野。どうしてこうも私は、好きになった人間を恨んでしまうのか。
一生は今、着々と死に近づこうとしている。それも私が起こした勘違いのせいで。
牧野の、一生は必ず死ぬ、という言葉が頭の中で反芻される。
後悔の念が頭の中を渦巻く。心が潰れてしまいそうになる。自己嫌悪の溜め息が漏れる。そしてまた後悔の念。弥生は悪循環を繰り返していた。
あと少し、一日でも早く、牧野の本性に気づけてさえいれば。
あと少し。一日でも早ければ。一生は死なずにすんだ。
一日。呪いをかけるのを遅らせていれば。
「一日……。たった一日」
弥生の遅い足取りは、知らぬ間に家の門を抜けて玄関の前まで来ていた。
家の中に入った弥生は、靴を脱いで床板に上がったばかりの一生と小春を目の当たりにした。
弥生の目は、小春よりも先に一生の顔色をうかがった。
病院で診てもらったおかげか、彼の肌の色は心なし程度だが回復しているかのようだと弥生には見えて、小さな安堵を覚えた。
だが、彼が苦しげに咳をすると、弥生の心の内は一変し、不安の波が押し寄せてくる。 一時的に回復ができたとしても、一生はさくらの時と同じように、結末を変えることができないのではないかと。
一生の体を、小さい体で支えていた小春は、じぃっと横目で、家に帰ってきたばかりの弥生を睨んでいた。
「死ねばいいのに」と低い声。
耳を疑った弥生は目を丸くさせ、小春を真っ直ぐに見つめた。
「どうして脳天気なあんたが生きて、何もしていないパパがこんなに苦しまなくちゃいけないの」
小春は怒っている。いやそれ以上の感情が含まれていると弥生は察した。
小春の怒りは、私の勝手な外出が原因だ。
弥生は直感していた。自分も同じ理由で一生に怒りを覚えたことが過去にあったからだ。
小春は私と同じ思いをしている。
すると、今、弥生はずっと不可解だった一生の行動、その意図が読み取れた気がした。
さくらが死の間際で苦しんでいた時、一生は何の説明もなしに家を出て行くことが多かった。彼には説明できない理由があったのだ。決して苦しんでいるさくらから目を背けていたわけじゃない。
一生はさくらを救う手がかりや方法を見つけるために出かけていたのだ。
この仮説が正しかったら。そう考えると、弥生の心は一生に対する申し訳なさでいっぱいになるのだった。
弥生は再び一生の顔を直視した。彼の虚ろな目と目が合って、弥生は反射的に口を開けて謝罪の言葉をかけようとした。
しかし弥生は何もいわなかった。いうことができなかった。
このような状態の彼に謝っても意味がない。言葉は届かないだろう。一生の症状がちゃんと回復してから、それから謝罪しよう。
一生の体から呪いを消すと決意した弥生。小春と一生を置いて、飛ぶようにして二階へと上がっていった。
自分のベッドスペースで、隠し部屋から持ち出しておいた呪術関係の本を開く。
読みながら弥生は思う。
攻防の字があるように、呪いにも、不幸や死に至らしめるものもあれば、逆に呪いから身を護る方法も存在するはずだ。
人形を身代わりとして用いた方法や、呪いを払う祈祷。あるいは強い力で、相手に呪いを打ち返すやり方もあるのだ。
一生にかけたシロオビユウレイグモの呪いは、蠱毒を土台とした術。
つまり、蠱毒から身を護る方法を見つけ出せばいい。
蠱毒にも対処法がある!
弥生は決めつけていた。
それは本当にあった。弥生は目をカッと開いて、集中してその箇所に目を落とした。
治療には相反する蠱を服用すれば回復の兆しが見られる、と記されていた。
「相反する蠱を服用する……ってどういうこと?」
その説明も幸い書かれていた。
つまり蝦蟇を蠱に呪いをかけられたなら、天敵である蛇を蠱にして服用すれば良いのだ。蛇には蜈蚣。そして蜈蚣には、蝦蟇。
「なーるほど。でも蜘蛛には何が有効なのか。ちっ。肝心のそこが書いていないじゃない」
蜘蛛の天敵。蜘蛛の天敵。蜘蛛の天敵……。
弥生は頭を捻って考えを巡らせた。が、初めから知らないものを考えたところで、答えが出てくるわけもない。
想像さえつかないのだ。
困り果てる弥生の耳に、小春の呼ぶ声が入る。
「ちょっと手伝ってくれる?」
どこか緊迫した声。恐らく一生関係のことだろう。
しかしこれに弥生は迷った。いつもなら二つ返事で了解し、小春のもとに駆けつけていただろう。しかし今は、ともてそのような余計なことに気を回している暇はない。一生を助けるためにも時間を無駄にできないのだ。
ごめーん。今、手が離せなくて!
出かかった言葉。弥生はすんでのところで喉の奥へと飲み込んだ。
逆なんだ。心の奥で、弥生は自分の声を聞いた気がした。
手詰まりな状況だからこそ、一生の看病に気を回すべきなのではないのか。
一生に、さくらの命を救えなかったのは、きっと呪いを解くことばかりを彼が考えていたからかもしれない。
一つのことにあれこれと悩んで時間の経過を待つよりも、体を動かしたほうが、案外いいアイディアを思いつくかもしれない。
弥生は、急ぎ小春がいるだろう和室へと移動した。和室の戸を開けて顔を覗かせると、小春は、「遅い」と呟いた。
「ごめん。で、手伝いってのは?」
小春は弥生に、一生に昼食を作ってほしい、とどこか悔しげな表情で頼んだ。小春は弥生以上に料理が上手というわけではなかったからだ。
弥生は了解をして、病人食を作ることにした。
手早く作れるものがいいだろう。と弥生は何の捻りもない、おじやを作ることに。幸い念のためにと買っていただろう、三パック入りの白米がまだ残っていた。
調理中、弥生は少しだけ期待をしていた。慣れ親しんだ作業をしているうちに呪いを払えるいい案が、パッと浮かんでくるものだと。
数分後。おじやは完璧な仕上がりとして器に盛られ、トレイに載せられた。しかし弥生の頭にアイディアが閃くことはなかった。
そりゃそうだよなと分かっていながらも、弥生の心は落ち込んだ。
トレイを持って一生のところへ行こうとすると、小春がタイミング良く部屋の戸を開けてくれた。
「できたんだ。ありがと」
「あの、小春。どうなの……病院で何ていわれたの?」
「最悪だったわ。何が原因なのかハッキリさせる気もないらしくて。引っ越しからくる心の疲れだろうだって、適当なこといわれた。あんなのでお金を取るんだから、楽な仕事よね!」
小春は声を荒らげて、弥生からトレイを受け取ると、次に横になっている一生の体を起こさせた。
口に運ばれた料理を一生は静かに咀嚼。すると弥生に向かって何か呟いた。
上手く聞き取れなかったが弥生は、ありがとう、といわれたんだなと想像する。
小春の隣に座り、その際、弥生は気づいた。
あちこちに埃が溜まっていた。他、髪の毛やら、塵やらが散乱している。
とても綺麗好きの一生の部屋だとは思えない。まさかこれも呪いの影響?
一生の容態を確認した。
多少は回復したと思える顔色。だがしかし、萎んだように見える体つきは今朝と変わらずであった。
呼吸する姿も、苦しげだ。
そんな一生の姿に、弥生は自己嫌悪のあまり胸が痛くなるのを感じた。とてもじゃないが見ていられない。
苦しさから逃れたく思い、弥生は一生から他に目を移した。一生の体調をそっくり表しているかのような部屋の中で弥生は本棚に目を奪われた、
直後。弥生は自分の心臓が大きく跳ねたのが分かった。
棚の中で、彼女は一冊の昆虫図鑑を見つけた。
「もしかすると」
図鑑の発見に、弥生は声を上げずにはいられなかった。無意識に手を伸ばして、棚の本を抜き取っていた。
「ごめん。ちょっと用事思い出したから」
弥生はそういうと、小春の返事も待たずに部屋から飛び出ていった。




