巳倉亜矢歌のバイオグラフィ
西暦二千何年かの春、桜の華よりも梅の華の紅が綺麗だって思えた春、巳倉アヤカはG県錦景市の国立G大に入学した。
中国地方のT県に産まれ育ちほとんど県外に出たことがなかったアヤカにとって、北関東のこの地で新しい生活を始めるというのはとても覚悟のいることだった。怖かった。けれど決めたのは、この土地が中世史研究をするのにうってつけの場所だったからだ。アヤカは高校時代に中世史に出会い、その魅力に取り付かれ、自身の生涯のほとんどを中世史研究に捧げよう、なんて強く思った。だからアヤカは周囲の反対を押し切って錦景市に行くことを決めた。アヤカの決断は別段、特別なことではない。中世史趣味、というのは確かに少数派かもしれないが、アヤカがしたような種類の決断は彼女の同世代の少女が誰しも下す、極普通のことだったと思う。
しかしその決断こそが高校生のアヤカが予告としても思わなかった事態、状況を未来に呼び寄せることとなったのだ。彼女が望む、望まないに、ほとんど関係なく。
いや、少しは、いや存分に、関係あるのかもしれなかった。つまり微妙。
さて最初にアヤカのバイオグラフィ、つまり本質に少しだけ触れておく。
小学生時代のアヤカは少女漫画にハマり少女漫画家に憧れ将来は少女漫画家になろうと思っていた。アヤカの部屋の押入の奥にある段ボールには通信簿や図画工作の授業で作った様々な作品と一緒にノート三十冊分の下手くそな自作恋愛漫画が大事に仕舞ってある。三十冊分恋愛漫画を書き上げた割には絵が上達しなかったのでアヤカは小学校を卒業と同時に少女漫画家の夢は諦めた。
中学生時代のアヤカはバスケ部に入り、引退までをバスケに捧げた。アヤカは運動神経がよかったが身長が小さいまま全く伸びなかったため、三年間ずっと補欠だった。けれど練習は休まなかったし、先輩からも同級生からも後輩からも顧問の先生からも持ち前の愛嬌の良さで慕われていたから部長に抜擢された。練習メニューや試合の戦略を立てたり、その他様々な雑事をこなすことにやりがいを感じていた。試合には最後まで出られなかったけど、三年の夏にそれまで弱小だったチームが市大会で優勝したときには号泣してこれ以上の幸せはないと思った。県大会ではあっさり負けてしまったけれど、アヤカの心は達成感で満ち溢れていた。引退後、進学のため受験勉強をしなければいけなくなったアヤカだがすぐにバスケから勉強へとハンドルを切ることが出来なかった。バスケをしなくなったことで心にはぽっかり空洞が出来てしまっていたし、およそ二年半勉強とは無縁の生活を送っていたために受験勉強はとても辛かった。その辛さを軽減してくれたのは恋愛小説だった。国語の点数アップのために本を読みなさい、という風に先生に言われて読み始めたのだが、いつの間にかアヤカは恋愛小説に夢中になっていた。勉強に疲れたら恋愛小説でエネルギアを補充した。高校生になったら素敵な恋愛をしたいと思った。とにかく恋愛小説のかいあって地元で一番の進学校に進むことが出来た。その進学校というのは女子校だった。アヤカは素敵な恋愛を夢見ていたのに、両親と先生に説得されるがままに女子校に進んでしまったのだった。アヤカは産まれながらにして押しに弱いところがある。
高校生時代のアヤカは文芸部に所属した。周囲に男子がいない環境に絶望しながらも、いつか自身に訪れるであろう素敵な恋愛を夢見て恋愛小説を書きまくってその鬱憤を晴らしていた。アヤカが書く恋愛小説を部内の文学少女たちは褒めてくれた。一年の時の部長はアヤカの恋愛小説をこう評価した。「巳倉の書く小説はストレートだわね、このまっすぐな部分を磨いていけば何か新しいものが産まれそうだわね」
新しいもの、それがなんなのか知るためにアヤカは自分の恋愛小説を磨いていった。研究の対象をそれまで夢中だったライトな恋愛小説から純文学へとシフトさせた。岡本かの子、吉屋信子、室生犀星、谷崎潤一郎、宮沢賢治、エトセトラ・・・・・・。その努力もあってか、二年の時にはファンレターを貰った。ファンレターというか、ラブレターだった。ラブレターの主は一つ年上の演劇部の部長だった。衝撃だった。まさか自分が女の子から告白されるなんて露ほども思っていなかったから。その人の横顔は綺麗だった。そしてどこか中性的で、男性的な強さを感じさせる人だった。その男性的なものは演劇部で磨かれたものだ。その磨かれたものにアヤカが全く惹かれなかったと言えば嘘になる。しかしアヤカはレズビアンではない。可愛い女の子にキスをしたことぐらいはあるけれど、可愛い女の子とセックスしたいと思ったことは一度だってない。アヤカは丁重にお断りの手紙をしたため、その手紙は失礼のないように目一杯文学的に高尚に仕上げたつもりだ、彼女と屋上で会う約束をして直接彼女に手渡した。彼女は手紙を読むまで自分がアヤカと恋人同士になれると疑っていない精悍な顔付きをしていた。しかしその精悍さはアヤカの手紙を開いた、その二秒後には失われていた。そして十秒後にはいかなるものも持っていられないという風に手紙を手から落とし、両手で顔を覆って肩を震わせ声を上げて泣き出してしまった。アヤカは慌てた。怒られるかもしれないとは考えていた。しかし彼女にほのかな男性をアヤカは感じていたから、泣かれてしまって困った。彼女は女みたいに泣いた。当然だけど、彼女は女の子だった。アヤカはしばし苦悩したすえに彼女のことをぎゅっと抱きしめて、アヤカの方が随分と背が低いのに「よしよし」と頭を撫でてあげた。そうしてあげていたら彼女は泣き止み、鼻をすすって、ほんのり朱に染まった女の子の顔をアヤカに見せて笑って言った。「巳倉ちゃんの、なんでも包み込むような、包容力というか、心の大きさが、私はずっと、好きでした」
そのとき彼女が見せてくれた笑顔は優しく可愛らしかった。今でもふと、彼女と付き合っていたらどうなっていたんだろう、と考えることがある。ということは少し後悔している、ということだ。素敵な世界を見れたかもしれないと思ってしまう。それに彼女が言ってくれた包容力みたいなものが本当に大きかったら、本当に大きな人間ならば、おそらくアヤカは彼女の申し出を断らなかっただろう。アヤカはそんな風に言われて、ちょっとよく分からなかったけれど、嬉しかったんだ。だから心の大きな人間になろう、ということを漠然と考えるようになった。何でもえり好みせずに摂取しようと思った。珈琲はいつまで経っても飲めないけれど。
とにかくそんな風に思ったからだろう。
いつの間にか今までは好きでも嫌いでもなかった天体史に興味を持つようになり、その中でも中世史という時代が好きになった。文学の興味は一時的に薄れて中世史に関する入門書を借りてきて勉強を始めた。面白い。大学では中世史を勉強しようと思った。漠然と文学部に行こうとは思っていたけれど、アヤカは史学科に狙いを定めた。目指すならば中世史を研究するのに最高の環境がいいと思った。だからアヤカはG大を選んだのだ。
以上がアヤカが大学に入学するまでの概略である。
そしてここからがレコードとして回転させて音楽を響かせるにふさわしい物語の始まり。
ミクラ・フォートレス。
巳倉アヤカと五人の男子学生が繰り広げる大学食堂物語。
それでは楽しんで参りましょうっ!