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拒絶してくれたほうがよかったと思うのに

 大人は、この半端な田舎に対してどういった印象を抱くものなのだろう。喧騒からかけ離れた穏やかな雰囲気、それがあたたかいものという認識かもしれないし、あるいは都会を知った人ならば、何もないだけで不便だと、ここを捨てていくものだとしても不思議なことではないのだろう。

時間が押し流してゆく。不幸せだったこと。忘れたいと思うばかりで余計に残ってしまうようなできごと。それと一緒に、大切に思っていたことも。一生、手放すことはないと思っていた宝物も。長い時をすごした場所も。

 代わり映えしない惰性のような一日について回想していれば勝手に家に着いているような、通い慣れすぎた通学路。背中には学校、視界をめぐらせれば畑があったり、いつからあるのかもわからない駄菓子屋があったりする。一本奥の道を選べば森が見え、神社があって、向こうの川ではザリガニが釣れるらしく子どもたちの声がする。自然と人工物がつぎはぎのように隣り合って、大人と子どもがほんの近くの別世界で生きながら一緒に暮らしている。七夕の日に神社で催される祭りには、ここぞとばかりに人の波ができる。舗装もされていない木の下。隣に座るおせっかいな少年。自分の故郷にそんな空間や時間が存在したのだということも、いずれ忘れてしまうのかもしれない。そのことを幸せなことと認識するのか。不幸なことと認識するのか。どちらとして認識したら、幸せに生きてゆけるのか。幸せに死んでゆけるのか。今自分は前を向いているだろうか、前だと思っている方向が後ろだろうか。

 どこの学校かとか、好きなものは何かとか、きょうだいはいるのかとか、自分のことを喋ったり、私に質問したり、そんなもの、凡そどうでもいい類の話だろう。私は思うのに、そのわりには心が落ち着いているのが不思議で不安だった。こんな話をした最後の人がリリィだから? 大切な人だったから? 死んでしまったから?

「あんたは」

ロアの話を遮るようにして口を開く。彼は気を悪くしたふうでもなく、それを聞いた。

「私なんかにつきあって、何をしたいの」

「なんだろうね」

ロアは顎のあたりに指先を当てて視線を虚空に彷徨わせた。

「僕にも実際、よくわからないんだよね。なんだか非現実的だよね。今だって僕たちは、ほとんど他人と言っていいくらいなのに、こうして話をしているんだから。まあそれは僕が言えた話じゃないけれど」

「私を助けようとでも?」

 偽善者。人は人から良く思われようとして偽善者になる。人から良く思われることによって自分の利益となる。やがては自分に見返りがある。すべては自分のために。そういう考えの生き方が、遺伝子レベルで人間にはインプットされているのだとか、なんとか。善がすべて、自分のための偽りのものだとするのなら、愛とは何なのだろうか。

「そうかもしれない。きっとそうだと思うよ」

 うん、うん、と自分の台詞に納得したふうに彼は小さく頷いている。

「わからない。あんたが何を考えているのか、何もかも」

「なんていうか、理由じゃどうにもならないことって、ないかな」

 たとえば。リリィの死とか? なんにも知らない、はずなのに。狙い澄ましているかのように過去の傷跡に触れてくる。抉るでもなく薬を塗布するでもない。ただ触れる。

前にも同じことを違う人に言ったけど、と前置きして、私は問うた。

「私が絶対、あんたを不幸にするとしても?」

 触れ合いそうなほどの距離、私の隣に腰を下ろしているロアは、間を置かず答えた。

「そんなことはわからない。僕にだって、きみにだって。絶対なんて言葉はないようなものだと思うし。それに不幸なほうが、生きてるって感じがするときもあるじゃない」

 再度こちらを向いた深緑の双眸の奥が翳っているようにも見えた。ロアは、あるいは麻痺してしまったとかね、と付け加える。軽薄ぶったような、冗談じみた口調。冗談だろうか。

「言い方を変えよう。いくらでも僕を不幸にしてよ。きみは通りすがりの僕を利用するくらいの気持ちで」

「はっきりしないのは気持ち悪いでしょう。たとえば――贖罪、は勘繰りすぎかもしれないけど」

「意外といい線かもしれないな。そういえば昨日、僕が自分で自分を悪人かも、なんて言ったでしょう」

「はっきりしないね。ごまかしてばかりで」

「ずるいなあ」

そうして彼が笑んだまま。

「きみはきみ自身を語らないもの」

 みし、と、軋む空耳。不可視の手で心臓を掴まれた。そのことに気付いているのに素知らぬ振りをしているのだろうか。

ロアは漸く、なんてね、とおどけて見せた。

「うん。贖罪、でいいかもしれない。幼馴染に、色んなことでいっぱい迷惑をかけたから。そのぶん、僕が誰かを助けるように一方的に誓ったわけ」

「で、私を利用するわけだ」

「いや、僕がきみに利用される、のほうがいいかな」

「どうだか」

「納得はしてくれた?」

「……少しはね」

 私はリリィのために何ができるのか、何を選べばいいのか、選ばないことを選びたくなることもある。いっそ死んで、私の痕跡を残さずに、せめて綺麗に消えて。思考回路は死という奇妙な光の明滅を軸に擦り切れるまでループする。

「だから、私は」

 私が見ているのは目の前にいるロアという少年、なのか、それとも、心の中で笑っているリリィなのか。わかっているような気もするけれど、結局はわからない。わかろうとは、していないのだから。理解を閉ざす。自分を守るため。自分のため。ずっとずっとそうだった。これからもそうだろう。たとえば誰かが私を愛してくれたら、もう一度だけ愛してくれたら、わかる気がする。私は簡単な人間だ。回りくどく人生なんてものの意味を咀嚼した振りをして出鱈目な理論を並べ立てて大人ぶっているけれど、本当は無力でちっぽけな塵のような存在だ。人間が嫌いです。自分も嫌いです。そんなことを本気で言ってのけるような。少し前まで死のうとしていたような。人を二度と信じまいと決めていたつもりの。愛されることができるかもしれないという可能性が提示されたと途端覚悟が揺らぐ、屑。いやだ、嫌だ、もう。みっともなくて自分でも笑える。でも、これを、最後にしよう。誰かを頼ってみるのは。誰かを信じてみるのは。

「ミュリエル・アイトリアよ。ロア、あんたが不幸になったって、私は責任を取れない」

 たとえば私が彼を不幸にしても、あるいは彼が私を不幸にしても、それで私の心が痛むのなら、傷むのなら、もう死ぬことに迷いがなくなるほどに、息をするのが苦しくなるのなら、それでいい。そのほうがいい。私がいつかのように笑えるように、彼が助けてくれるだなんて、実際はちっとも思っていないのだと、考えることにする。

「それでも、いいって言うの」

 私は。突き堕とされたいんだ。そういう考えでいるのが楽なんだ。

 リリィは本当に優しい子だった。私がたぶん、いちばんよく知っている。もしかしたら彼女の家族よりも思い知らされていただろう。けれど私はその優しさに応えられなかった。罪と罰。私は弱いから。彼女の本物の優しさを受け止められないくらい脆いから。それなのに壊れないように必死でいる。それを誰にも悟られないように必死でいる。そういうつもりで生きながら、同情でも欲しているのかもしれない。手首に傷をつけて、私は苦しいのだと声のない叫びをあげたがっている。らしい。あれ。おかしいな。私はリリィに対して申し訳なさを感じています。自分だけが幸せになるなんておかしいです。私は幸せになんかなりたくありません。不幸のどん底に堕としてほしいだけです。私を間接的に殺してほしいだけです。愛されたいだなんてこれっぽっちも思っていません。思っていません。私は周りの塵とは違います。私は死にたいです。リリィへの償いとして死にたいと思っています。思っているはずなのに私は期待している? ロアが私を助けてくれるかもしれないって? ここにいる私が本物かどうかなんてわからない。そもそも本物って私って言っているそれが何なのか、私が私を理解していない。

「名前、教えてくれたね。やっと」

 彼の返事はそれだった。それだけだったけれど、それで充分すぎたくらいだと思う。自分の弱さを理解しても認めない、大切なものとのさよならに言い訳をしてしまうような、こんな私には。


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