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きみはどこにもいない

 僕にとって雨は憂鬱ではない。共感してくれる人は決して多くないと思うけれど、頭が痛くなるので晴れの日のほうがむしろ苦手なのである。

 夜の色をした傘に雨粒が跳ねる音。独特のにおい。無音ではない静寂。学校からの帰り道は、こうして考え事をするには絶好のシチュエーションに恵まれた。自宅まではまだ遠い。小さな商店はおろか民家もなく、舗装さえされていない道というのは、案外珍しいのかもしれなかった。普段はこんなことを気にもかけないけれども、雨の日はなにか、気分も思考も変わってくる感じがするのだ。

 酷い話だろうか。彼女が倒れていたのが快晴の日だったならば、僕はその横を黙って通り過ぎていたのかもしれないと思う。申し訳無さそうな表情も浮かべずに。いつかのように。いつものように。

 曇天。灰色で湿っていながら乾いた視界の端に、咲くというのはなんだか気障っぽい感じもするけれど、赤い色がぽつんと映えていた。というか見たままを言うのなら、人が倒れていたのだった。こちらへ背を向ける格好である。

「あの」

僕は少しだけ逡巡して、結局その人の肩を揺さぶった。薄い肩。当たり前に冷たい。

「大丈夫ですか、聞こえてますか」

 恐らく立ったら膝のあたりまではあるだろう、彼女の長い髪、それから睫毛。ルビーみたいな、あるいはきれいな血の色を閉じ込めたような赤い色に僕は、こんな状況にもかかわらず見とれてしまった。

 だからというわけではないのだろうけれど。ぐるり、と、不意に彼女が身じろぎして、その瞳が僕を射抜いた。憎むべきものを見るような、それでも真っ直ぐな眼光に僕は真正面から刺し貫かれた。僕は目を逸らせないまま。

「ねえ」

彼女の唇が緩慢に震えた。澄んだ声だった。水たまりに落ちる雨のひと雫みたいだ。

「なんでそこに突っ立ってるの」

「なんでって。それは、きみが倒れていたからとしか」

「見過ごせなかったって言うんだ。偽善者。通り過ぎればいいのに」

 これはどう考えても訳ありに違いない、などと身構えていたくせに、僕はあっさりと面食らってしまった。未だ横たわったままの、きっと同年代の女の子。揺るぎの無い決意のような、全部拒絶している、したがっている、諸刃、色の褪せた殺気にも似た、傷物の感情。

 その左手首を蹂躙する鮮血の、リストカットの細いけれども深い線。そこにあるべきもののように、一本ではなかった。

「わかるんじゃないの。私が死のうとしてたってことくらい」

 そういう言葉を聞いたあとに返す言葉はきっと型にはまって固められたどれも同じものだ。

「そういうこと、軽々しく言うものじゃないよ」

 ぱんっ。雨音の隙間に乾いた音が混じる。頬をはたかれた経験なんてそうそうあるものではない。効いた。僕は暫し困惑を抱えて沈黙した。

「うるさいな」

彼女は殺気を孕んだ苛烈な声を叩きつける。

「なんにも、知らないくせに」

 僕のそれからは、このときには既に決まっていたのかもしれない。あるいは決まりきっていたその結末を、断片の中の欠片を少しだけ認識した瞬間、終わりをはじめた、さよならの言い訳が。――なにもしらないくせに。そう。何も知らない。僕は何も知らない。それに君だって何も知らない。すべてをわかっている人などいない。そんなことは知っているよ。僕は知りたくないほどに知っている。

「それなら、それなら知ればいい。違うかな」

少しだけ、彼女の研ぎ澄まされた切先がぶれたのを感じる。

「きみはさっき、僕を偽善者と言ったけど」

僕はわざと、見せつけるように丁寧に笑顔を繕って言うのだった。

「その通りなんだと思うよ。もしかしたらもっとひどい、とんでもない悪人かもしれない」

彼女に歩み寄って、傍らにしゃがんだ。隣にいるのが僕でないほうが彼女にとっては幸せだろう。

「死にたいのが自分だけだなんて思うのは贅沢だ」

 世界に取り残されているのはぼくだけで。不幸せなのはぼくだけで。信じることとか。愛だとか。棄ててしまって楽になれるはずなのに、廃棄するまでがつらすぎる。痛すぎる。苦しくて泣きたくて、朝が来るのが怖くなる。とか。ありきたりかもしれない死への渇望。なるべく悲しそうに苦しそうに言ったつもりだったけれど、成功しただろうか。

 赤い色をした彼女のため――と言ってみる、これは嘘?

「そうだなあ。言葉はきっと、すごく悪いけど」

迷う、振りだ。言うことは決まっていても。そう、たぶん、嘘だって悪いことじゃない。上手に開き直るコツはひとつだけだ。目が潰れない程度に目を瞑ること。

「どうせ捨てるつもりだった命だったら、その残りを少し僕に預けてくれないかな」

 なんだか場違いな愛の告白みたいで恥ずかしくなった。赤面しているかもしれない。それとも雨が隠してくれただろうか。それにしても今日が雨でよかった。

「馬鹿じゃないの? 偽善者。他人でしょう。あんたなんかに何が、」

 だから、彼女の紫色の瞳が濡れているのも僕は知らないし、僕が彼女を救おうとして僕の口がこんな言葉を紡いでいるなんてことがありえないということも、僕は知らない。

 僕たちのほかには誰一人として通らない。僕たちだけが世界から切り取られたみたいだ。雨のおかげ。雨のせい。

「明日も同じ頃、ここに来るよ」


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