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青年と、そのペット「ネネット」の生活は特に何の問題もなく始まった。
青年の思った通りネネットの気質は大人しく、むやみやたらと声を上げないし、部屋の中の物を散らかしたりしない。
普段は大人しくソファーに座り青年の一挙一動を観察しており、名を呼べばソロリと近寄ってくる。
風呂は2、3日に一度入れてやればいいと店員に言われたが、ネネットがしきりに自分の黒髪を掴んでその匂いを確認するので、毎日入れてやることにした。初めて風呂に入れるときは少しだけ抵抗を見せたが、石鹸やシャンプーがどれなのかをすぐに覚えて自分ひとりで入るようになった。
心配になって風呂を覗けば珍しく甲高い声を上げて石鹸を投げてくるので、基本的にネネット1人で入らせている。
夜は、同じベッドで寝る。これも最初はネネットは抵抗を見せたが、ふんわりと抱きしめてやると大人しくなり、10分もしないうちに寝息を立て始めた。以来、青年はネネットを抱きしめて寝るようにしている。
時々満ち足りた顔をして「もふもふ...」と寝言を洩らす様子がなんとも可愛らしく、青年は幸せな気分で眠りに落ちる。
青年がネネットと暮らし始めて1週間もしないうちに、ネネットは言葉を話し始めた。
意味のわからない言葉の合間に、青年の使う言葉を折り混ぜながら何かを必死に伝えようとする様子に、仕事仲間が見たら驚愕するだろう締まりの無い表情で相槌を打つ。
ネネットは何故かそんな青年にがっくりと項垂れてしまうのだが、それでもしばらくするとまた何かを伝えようと一生懸命は話しかけてくる。
自分のことを指差しながら「ネネ!ネネ!」と言ったときなど、「もう自分の名前を覚えたのか!」と青年はうれしさのあまりネネットを抱き上げ、頬ずりした。ネネットは何かを諦めたようにぐったりと体から力を抜き、そして青年の首元の、体中で一番柔らかい毛の部分を撫でながら「...もふもふ」と呟くのだった。
どうやら、ネネットは自分の名を「もふもふ」だと勘違いしている。青年はそう思い、ネネットと同じように自分を指差しながら言った。
「ウォルフ。俺の名は、ウォルフだ。」
「う、おるふ?」
「そうだ。」
ネネットが自分の名を初めて呼んだ!その事実に青年ウォルフは歓喜に打ち震えた。
店員は言葉を覚えるのに数ヶ月はかかると言ったが、ネネットは酷く賢いようだし、この様子だと普通に会話を交わせる日はそう遠くはないだろう。
それからウォルフは積極的にネネットに言葉を教えるようになった。
絵本を買い与えて、様々な単語を覚えさせることから始めた。これが功を奏したようで、水を吸う綿のようにネネットの語彙が増えていった。
これは、予想以上に頭が良い。ウォルフは満足げに頷くのだった。
「あっ」
「っ?!」
料理を作っている最中に短い声が聞こえたので咄嗟に振り向くと、ネネットが床に脱ぎ散らかしていた自分の大きな衣服につまずいて転んでいた。
慌てて傍に駆け寄り怪我をしていないか確かめると、膝小僧を赤く擦り剥いていた。
「むぅ...これはいかんな。」
ウォルフはしばし思案した。
この部屋の絨毯は、引越してきたときに備えられていたものをそのまま使っている。
自分だけなら何の問題もないやや荒めの肌触りのそれだが、ネネットの軟い肌を傷つける危険性のある代物だと、ウォルフは初めて気付いた。
「次の休日に絨毯を買いに行くか。」
即決である。ウォルフにとってただ寝るだけの場所だった家は、今やネネットの家でもあるのだ。ネネットが住み良い家にする為ならば、多少の散財は気にもしない。
予定通り、次の休日にネネットを連れて外に買い物に出ようとしたウォルフだったが、玄関から外に出た途端にネネットがその大きな瞳に涙を溜めてプルプルと怯える様子を見せたので、「初めてのペットと一緒にお買い物」は断念せざるを得なかった。
(明日、仕事帰りに買ってこよう。)
いつもより帰宅が遅くなってネネットが寂しがるかもしれないが、自分が仕事に出ている間にネネットがまた転んで怪我をするほうが不安だ。出来るだけフワフワの肌触りの、ネネットが好きそうな明るい色のものを買ってこよう。
翌日、近年稀に見る熱意を持って絨毯を選ぶウォルフの姿が街中で目撃された。