15-2
少しばかり遠いので宝船の現状が座っているということ以外確認することが出来ない。仮に拘束されているのであれば、隙を突いて宝船と一緒にこの場から逃げ出すことは不可能になる――いや、そもそも逃げ出すだけでは駄目なのだ。奴等はあの写真のデータを――宝船の秘密を握っている。だから、どちらにしてもこの場で何かしらの決着をつけなければならない。
警察に頼ろうかとも考えたが、宝船の身柄があちらにあり、奴等がどういう手段に出るか分からない以上迂闊な真似は出来なかった。とは言っても、そもそもスマートフォンを鞄の中に入れっぱなしにしてきてしまったのでこちらも不可能なのだが。
「……となれば」
これ以上考える余地はなかった。
考える余地がない――と言うよりも他に取りようのある策がなかっただけなのだけれど。
向こう見ずと言われてしまうかもしれない。けれど、何の力も持たない人間はとりあえず行動に移してみるしか方法はないのだ。
「……ん?」
僕が廃工場の入り口の陰から出るとすぐに中央にいた2人内の1人がこちらに気付いた。金色に染め上げた髪――学ランのベルトから伸びたチェーンのようなものがズボンの後方に続いている。あのチェーンは確か財布を落とさないためのものだったような気がする。ああいうアクセサリーが格好良いのは分からなくもないが、このような場で居合わせた不良が財布を落とさないように予防策をきちんと行っているというのは中々滑稽だなと僕は思った。そもそも、後ろポケットに入れているから落としてしまうのであって、そこまで財布が気になるのなら鞄を持ち歩けばいい話なのかもしれない。
そして、その金髪の不良よりも遅れて僕に気付いたもう1人も同じくチェーンを付けていた。おそらくこちらも財布を落とさないようにするためのものだろう。最近の不良は几帳面なのだろうか――いやまあ、落とすよりかはいいのだろうが。こちらの不良は髪を金髪に染め上げておらず、代わりに髪の一部に白いメッシュを入れていた。
2人とも物凄い人相である――普段なら欠片ほども関わりたくない人物の典型の一つだ。
そのような形で僕がその不良達の外見を観察していたところ、金髪の不良が徐に後ろを――正確には、後方の宝船ともう1人の仲間がいる方向を振り向いた。
「饗庭」
その言葉に――その名字に僕の脳裏であの夜の出来事が蘇った。宝船と共に夜の商店街をパトロールしていたあの日――とある裏路地で僕はその人物に初めて出会ったのだ。まさか、とりあえず協力することにしたパトロールの一件がこんなことにまで発展するなんて、あの時の僕は夢にも思っていなかっただろう。
それから、その名字が出てきたことで僕は納得する。やはり、この一件はあいつが――饗庭和泉が裏で糸を引いていたのだと。
「遅かったじゃないか、萩嶺直斗」
廃工場の奥からこちらに向かって少し歩きながら饗庭和泉は言う。少々遠いので彼の表情は見えないが、声の愉快さから察するに笑みでも浮かべているのだろうか。
「しかもかなりずぶ濡れだが……今日は傘を持ってきていなかったのか?」
「……この緊急事態に、悠長に傘を差して雨の中をゆっくりを歩いてくるわけないだろ」
「確かに、それもそうだな」
「ていうか、ここに僕を呼び出したのは何も世間話をするためじゃないんだろ? 仮にそっちがそのつもりだったとしても僕は違う。僕はもっと別の話をしに来たんだ」
「別の話だと?」
「ああ、そうだ。この一件を終わらせるための話……話し合いに僕は来たんだ。宝船のことを調べたのなら知っているのかもしれないけれど、僕はオタクだからな。基本的に拳で殴り合って力技で解決するようなことは無理だ。だから、一先ず話し合いをしたいと思ったんだけど……どうだろうか」
「なるほど。お前の言うことも一理あるな。やる前から結果が分かっている勝負ほどつまらないものはないが……しかし、残念だったな、萩嶺直斗」
饗庭和泉は言う。
「今回は……そういうシナリオだ」
その言葉を皮切りに廃工場の中央辺りにいた金髪とメッシュの不良がゆっくりとこちらに向かって歩き出した。
「……まあ、そうなるよな」
学ランのボタンを外しながら苦笑いを浮かべて僕は呟く。饗庭和泉の言う『シナリオ』という言葉も気になるが、今はとりあえず目の前のことに集中だ。
僕がオタクであるということ――ゲームをしたり、ライトノベルを読んだり、アニメを観たりしていることを彼等は予め知っていたのだろうか。
彼等が持っている、宝船がアニメテオにいる写真。あの写真が撮られた日、僕も彼女と一緒にアニメテオにいた。あの写真を撮ったのが饗庭和泉達ならば、あの日僕が宝船と同伴していた場面を見たはずだ。そして、饗庭和泉は僕の顔を見て、僕が『萩嶺直斗』だと認識した――ならば、彼等は僕がオタクであることを告白する前からその事実を知っていたことになる。
『オタク』と聞いて人々はどのようなイメージを思い浮かべるだろう。
基本的には、運動が苦手だったり、力があまり強くなかったり――など、どちらかと言えばインドアでひ弱なイメージを持っている人が多いのではないだろうか。
いや、勿論オタクの中でも体を鍛えている人はいるし、実際に僕はインドアでひ弱なのだけれど。
ここで言いたいのは、不良が髪を染めているように、オタクにもそのような典型的なイメージがあるということだ。
そして、今僕に迫りつつある目の前の不良2人にもそのイメージがあると仮定する。不良達は手首や指の関節を鳴らしながらにやにやとこちらに向かって歩いていた。あれは明らかに僕を舐め切っている証拠だ。
だからこそ、僕は油断を誘う。
オタクということを主張し、そのイメージを奴等に植え付けることで、僕が弱者であるということを強調させる。
不意打ちというのはあまり綺麗な戦い方ではないが、背に腹は代えられないだろう。まあ、油断を誘ったところで僕が勝利する確率が0パーセントから2パーセントほどに上がるくらいだろうけれど。
2人の不良達の目の前まで迫ってきた。彼等は僕よりも頭一つ分ほど背が高く、その威圧感からもそうなのだがまるで大きな壁を相手にしているような感覚を覚えた。
「逃げないのか?」
依然としてにやにやと余裕の笑みを浮かべている金髪の不良が問いかけてくる。
「まあ、僕が逃げたところで追い付かれるのは目に見えてるし、逃げるだけ無駄かなって思って」
「ここまで最初から諦められてると逆につまらないが……まあいい。おい」
金髪の不良が首で合図すると、メッシュの不良が僕の背後に回った。そして、僕の両腕を後ろから腕を回して固定し、この場から動けないようにした。
「さて、と……えっと、どこまでやっていいんだっけ?」
「気を失わない程度、だ」
金髪の不良の問いかけに僕の後ろでメッシュの不良が答える。
「りょーかい。まあ、そんな加減ができるほど俺は器用じゃないがな」
言いながら拳を振り被る金髪の不良。左足を踏み込み、振り被った右の拳を僕目掛けて突き出す。
その瞬間に、僕は予めボタンを開けておいた学ランの上着を脱いでその場にしゃがみ込んだ。
「うぐっ!?」
頭上でメッシュの不良の呻き声が聞こえた。おそらく、僕が金髪の不良の拳を避けたことでメッシュの不良にそれが命中してしまったのだろう。
「なっ……!?」
続いて聞こえる金髪の不良の声。驚愕の色の籠ったそれを耳にしながら僕は2人の不良の間から抜け出すと廃工場の奥に向かって駆け出した。
目指すは宝船の前にいる饗庭和泉。
あいつさえ何とかしてしまえば後はこちらのものだ。
走りながら廃工場の錆びた床に転がっていた鉄パイプを拾い上げる。
縮まっていく僕と饗庭和泉の距離。
込める力の増す鉄パイプを握り締めた右手。
高鳴る心臓の鼓動。
廃工場の中央を抜け、更に奥へと進んだその先。
漸く捉えることが出来た饗庭和泉の表情には――。
あの日と――あの夜の裏路地と同じ。
不敵な笑みが、浮かんでいた。
「待てコラァ!」
背後で不意に上がった怒声。それに気付いて視線だけを後ろに向けた時には、既に鉄パイプが振り上げられた後だった。
「うっ……くっ!」
高速で振り下ろされた鉄パイプを斜め前に跳ぶことでギリギリ回避する。しかし、全速力で走っていた状態で急にそんな行動を取って体勢を整えられるわけもなく――着地地点で走っていた勢いに体を押さえてバランスを崩した僕は転倒し、床を転がりながら停止する。
視界が回る。体のあちこちを擦り剥いてしまった。体中の至る所から上がる熱にも似た微かな痛み。不意に変化した光景。敵を見失ったという焦燥。痛みと焦りで頭が混乱する。避けたことで僕はあの不良とどれだけの距離を取れた? あの不良は今どこにいる?
辺りを見渡す――そして、僕から5メートルほど離れた先でいつの間にかこちらと同じように鉄パイプを持った金髪の不良の姿を発見した。混乱を振り払うように頭を振って、鉄パイプを握り直し、立ち上がる。それと同時に、金髪の不良が僕に向かって走ってきた。
「ッラァ!」
鉄パイプの射程範囲に到達した途端、金髪の不良はまたそれを振り下ろしてきた。その一撃を僕は後ろに跳んで回避する。ここで僕は背後に廃工場の壁が近付いてきていることに気付いた。
続いて、金髪の不良は横薙ぎに鉄パイプを振るってきた。鉄パイプを右に振り被ったことでそれに予め気付けた僕は更に後方に跳んでそれを避ける。廃工場の壁はすぐ後ろだ。金髪の不良は舐め切っていた僕に出し抜かれて、怒りのあまり僕の姿しか見えていないだろう。だから、次に金髪の不良が鉄パイプを振り上げた瞬間、僕はその場に素早くしゃがみ込んだ。
力強く振り下ろされた鉄パイプが、僕が避けた後にあった廃工場の壁に勢いよく打ち付けられ、弾き返された。火花が散るほどのその一撃を固い鉄の壁に与えておいて、手が痺れないということはないだろう。現に金髪の不良の顔は鉄パイプを通して返ってきた衝撃による痺れで歪んでいた。それを確認した僕はしゃがんだまま廃工場の壁に足裏を付けると、壁を蹴った勢いで目の前の金髪の不良の足に突撃した。
僕の体当たりという足元に衝撃を受けた金髪の不良はそのまま前へと体勢を崩した。そのままその場を駆け抜けたのでその後彼がどうなったのかは分からなかったが、何やら鈍い音が聞こえてきたので壁に顔でもぶつけたのかもしれな――。
「っ……!」
僕の思考は視界の外から突如体を襲った衝撃によって掻き消された。その衝撃によって僕の体が左方へと移動しながら浮く――衝撃を受けた右の脇腹辺りを見下ろすと、そこにはメッシュの不良が僕に向かってタックルをしていた。
その不意の出来事に為す術もなく――僕の体はそのままメッシュの不良と共に宙を舞い、廃工場の床を滑りながら饗庭和泉の足元に着地した。
着地と同時に僕の手を離れた鉄パイプが音を立てながらどこかへと転がっていく。カラカラと微かなその音は僕の耳のすぐ音で聞こえた錆びた床を擦る足音に上書きされた。
「惜しかったな、萩嶺直斗」
頭上から降ってきた声に、体を押さえられて自由の利かない僕は頭だけを動かして視線を上に向ける。そこでは饗庭和泉がこちらを見下ろしていた。まるで、こうなることを予想していたかのような相変わらずの不敵な笑みを浮かべて。
「まさか学ランを脱いであの場から脱出するとはな、驚きだ」
「……まあ、雨を吸って重かった学ランを脱ごうとしたらそっちが先に攻め込んできたからな。あれは偶然の産物みたいなものだ。恨むなら、僕に学ランを脱ぐ猶予すら与えなかった自分達を恨むんだな」
「恨むなんてとんでもない。むしろ、思った以上に楽しめたからな。それに、思った以上にお前がこいつらの攻撃を避けていて驚いたよ」
「僕の身近に普段から僕を殴ろうと蹴ろうとしてくる幼馴染がいるもので……それで回避能力が上がっていたのかもしれないな」
「なるほど……まあ、俺の考えたシナリオとは少しばかり違うものになったが……それなりに楽しめたから良しとしようか。……さて、それでは続きだ」
僕を拘束していたメッシュの不良が、僕の体を仰向けにしてその場を退く。その直後に、僕の体を跨いで仁王立ちした人物の姿があった。
「……さっきはよくもやってくれたな」
それは金髪の不良だった。やはり、転倒した際に顔面から廃工場の壁に行ってしまったのか、鼻からは血が垂れ、それが顎を伝って僕が来ているカッターシャツに落ち、白い布地を赤く染める。
「これはさっきのお返しだ」
言って、僕の上にしゃがみ込み、僕の体を身動きが取れないように固定した金髪の不良は今度こそその拳を僕の顔面に叩き込んだ。
■ ■ ■
金髪の方の饗庭和泉の仲間の拳が振り上げられ、それが萩嶺君の顔や、体に振り下ろされる。
そのような状況が――正確な時間は分からないけれど、ずっと続いていた。
目の前で起こっている出来事に私は呆然とする。
身動きが取れないまま、ただただ暴力を受け続ける萩嶺君。
その周りでにやにやと楽しそうに笑っている饗庭和泉とその仲間2人。
金髪の男の拳が萩嶺君の顔を捉える。
錆びた廃工場の床に飛び散った赤いそれに私はハッと我に返った。
「止めて!」
目の前の3人に向かって声を荒げる。それと同時に頬を涙が伝い、破かれたスカートの上に落ちた。
見ていられない……身動きの取れない人間が――萩嶺君が痛めつけられるその光景をこれ以上見ていられるわけがなかった。
そして、その私の叫びの直後に萩嶺君を襲う拳は止まった。いや、正確には止められた。再び萩嶺君を殴ろうと振り上げられた男の拳を制止したのは――意外にも、饗庭和泉だった。
「とりあえずはそこまでだ。最初にも言った通り、こいつに気絶されてしまっては困るんだ。意識を取り戻すまでの時間をかけるのが少し面倒だからな」
「……手を離せよ饗庭」
饗庭和泉の制止の手を振り払い、再度拳を振り上げる金髪の男。
「こいつは俺を――」
そう男が言いかけた瞬間、饗庭和泉が彼の学ランの胸倉を掴んだ。饗庭和泉は金髪の男の眼前にまで顔を近付け、鋭い眼光で睨み付けながら言う。
「……俺は今何て言った? とりあえずはそこまで――そう言ったはずだよなあ?」
「っ……わ、分かったよ!」
饗庭和泉に威圧され、恐怖の表情を浮かべた金髪の男は学ランを掴んでいるその手を振り払い、萩嶺君の上から退いた。




