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第一章 その3

 翌日、俺はいつもより一時間早い朝五時半に起床する。


 昨日、紫帆に朝六時に家に来いと言われたからだ。


 はっきり言ってそんなもの軽くスルーして良いし、昨日の荒唐無稽な話などこれっぽちも信じちゃいない。


 だが、万が一紫帆が本当に俺を待っているとしたら「こと」だ。


 後でどんなおぞましい仕返しをされるか想像もつかない。昨日の雰囲気だと、学校に行けないような目に遭わされるという可能性も十分にある。


 俺は仕方なしに紫帆の家へと向かうことした。


 あいつの家はすぐ近所だが、そこに至るには百段以上ある石段を上らないといけない。


 俺はぜえぜえと息を切らしながら階段を上り切り、紫帆の家である教会へと辿り着く。


 早起きした上に体力まで消費させられるとは。これで何もなかったら本当に許さないからな。


 だが……


「ああ、一樹君、おはようございます。……紫帆? あらあら、あの子、きっとまだ寝ていますね。いつも時間ギリギリまで起こさないでって言われてますから。あと一時間は起きないかも知れませんよ」


 教会の入り口で顔を合わした紫帆の母、夏帆さんがそう告げる。

 

 コ・ロ・ス!


 おまえが六時きっかりに来いって言ったから、俺はわざわざ早起きしたんだぞ!?


 そのおまえが余裕の朝寝坊だと? いつものことだがいちいち許せん!


「約束していたのですか? ごめんなさいね、あの子ったらせっかく一樹君が迎えに来てくれたのに。悪いのだけど起こしてあげてもらえますか?」


 夏帆さんは聖母の微笑みを浮かべてそう言う。


 いつ見ても、雲間から差し込む光を一身に浴びているかのような身も心も清く美しい人だ。それだけに俺は(顔立ちはともかく)紫帆がこの人の実の娘だということがどうしても信じられない。


 人間の遺伝子というのは本当に気まぐれに暴走するもんなんだな。あな、恐ろしや。


「わかりました。喜んで俺が直々に天罰を食らわしてやります。あと、紫帆の部屋から悲鳴が聞こえても聞こえなかったことにしておいて下さい」


「ふふ、相変わらずですね。でも、二人とももう高校生なんですから、お手柔らかにお願いしますね~」


 夏帆さんはそう言ってにこやかに手を振った。


 実の娘の本性にすら気づかない天然な彼女のことだ、俺が紫帆と仲良くやっているとか本気で思い込んでいるのだろう。


 子の心、親知らず。だが、俺はそんな純心無垢な夏帆さんのこともあって、これまで真実を誰にも告白できなかったのだ。


 俺は殺人鬼よろしく殺気をたぎらせて教会の階段を上り、紫帆の部屋を目指した。


 彼女の部屋は教会の屋根裏にある。


 本当はちゃんした自分の部屋があるのだが、いつからかそのスペースを私室として使っていた。本人いわく「子どもの頃から屋根裏部屋生活に憧れていた」らしい。あいつにそんなメルヘンチックな願望があるとは思いもしなかったが……


「おい、紫帆! ぶん殴りにきてやったぞ!」


 俺は強めにドアをノックする。だが、しばらくしても返事がない。マジで爆睡してんのか?


 腹立たしさを押し殺しながら俺はゆっくりとドアを開けた。すると……


「……この野郎」


 案の定、紫帆は窓際のベッドで気持ち良さそうにぐっすり眠っていた。


 それはそれは本当に幸せそうな顔だった。そんな幼子のような寝顔を目にした俺は、ふと紫帆が小さかったときのことを思い出してしまう。


 幼き日の紫帆は、「テレビに出てくる子役みたいに可愛いらしい子」として近所でも評判だった。「天使みたい」とか、お決まりの褒め言葉をどこに行っても言われていたものだ。


 だが、その天使様も今では完全に「堕天使化」し、「悪魔」となり、ついには俺の理解を超える「得体の知れぬ魔物」へとワープ進化してしまった。


 一体、どうしてこうなったんだかな。


 そんな昔を懐かしく思い返しながら、この健やかな寝顔のイメージのままで普通に女子高生をやっている紫帆を想像してみた。


 想像して、普通に涙が込み上げてきた。


「どうも熱っぽいわね」


 と、眠っていたはずの紫帆がパチリと目を開けていきなり口を開いた。


 怖過ぎだろ! 一瞬ビクッとなっちまったじゃねぇかよ!


 まさに時間通りに起きる呪いの人形のような所作だった。


「カズ君、私が寝ている間に悪戯をしなくなったのね。小さいときは布団の中に潜り込んできて嫌がる私にやりたい放題だったのに」


「それはおまえだ! デコに『肉』って書かれたまんま学校に行ったあの日のことは絶対忘れねぇ! あと、あとなっ……!」


 穢れを知らぬ幼き日々に紫帆が俺に仕掛けてきた数々の悪行。


 それを思い返そうとするとまた泣けてきた。齢七歳にして神様が信じられなくなったのは、紫帆、全部おまえのせいだっ!


「てか、ずっと起きてたんだろ、おまえ」


 狸寝入りは紫帆の十八番でもある。


「ええ。さっき一度目が覚めたのだけど、二度寝したくなったの。カズ君との約束を思い出したら急に起きる気がしなくなってしまって」


 相変わらず良い度胸である。


「でも、熱っぽいのは本当よ」


 紫帆はそう言いながらコホコホと咳をする。昨日は元気だったし、これも演技か?


「どうせまた薄着で寝てたんだろ?」


 紫帆は寝ると体温が急上昇するタイプなので冬でも下着姿で寝るクセがある。きっと今も布団の下は……


「確かめてみる?」


 俺の視線を読んだ紫帆がチラリと布団をめくろうとする。


「はいはい」


俺はそれを軽く受け流す。


「あら、リアクションが冷たいわね。少し傷ついたわ」


「は? だったらどういうリアクションをすりゃいいんだよ?」


「思わず襲ってしまいたくなったという衝動を何とか一歩手前で押し殺したという感じの紳士的な態度が良いわね」


 それってすげぇ難易度高ぇな。


「確かに私の態度も良くなかったわね。ちょっとやり直してみましょうか? カズ君が部屋に入って来るところから」


「何で朝っぱらからそんなメンドクサイことをせにゃならんの……」


「代わりに悲鳴を上げましょうか? ご近所に響き渡るような声で」


「……ったく! やればいいんだろ、やればっ!」


 俺はドアの向こう側へと戻り、紫帆の合図を待ってゆっくりとまた部屋へと入る。


 そこではカーテンを開けて朝日を浴びた紫帆がベッドで半身を起こしていた。布団で胸から下を隠しているのだが……


 下着はどうしたっ!? 下着はっ……!?


 露わな背中を見れば紫帆が何も身に着けていないことは明白だった。首筋から背中、腰へのラインがはっきり見える。


「おはよう、カズ君。もうすぐ冬……なんだよね?」


 まあ、実際はこれから灼熱の夏がやってくるんだがな。


「こほこほ……。また裸で寝ちゃった。お医者様には暖かくしていないと体を壊すってきつく言われているのに……」


 病弱か?


おまえは病弱キャラを演じたいのか?


 だが、何だろう、紫帆のイメージはそういうキャラにミラクルマッチするのは確かだ。


 ほっそりと弱々しい体つきも、ちょっと物憂げな表情も、男心をくすぐって猛烈に切ない感情を駆り立てるのだ。


「カズ君、ちょっと変なこと訊いても良いかな? 私がいない世界を想像したことってある?」


「ねぇよ」


 毎日何十回と悪さを仕掛けてくるやつのことを脳裏から消すことなんてできるわけねぇだろ。


「じゃあ、想像してみて。朝起きたら私はもうこの世界のどこにもいないの」


 一年のうちそういう日が何日かあったら俺は他にもう何もいらない……という本音を口にするのは自殺行為なので今ここでやってはいけない。


「あるわけねぇじゃん。地の底に埋められても這い出てくるようなやつだろ、おまえは」


「随分酷いこと……言うのね」


 紫帆はそっと悲しげに目を伏せる。これが初見だったら魂ごと持って行かれちまうところだ。紫帆が天賦の才を持った女優であることは間違いない。


「カズ君ともう二度と話すことも、触れることもできないの。それを想像するだけで、私、私は……」


 ぐっと布団を抱きしめながら、紫帆は震える言葉を絞り出す。


「どうやってカズ君をあの世の道連れにしようかって、そればかり考えてしまうわ」


 ホラーかよ。


 引き込まれてしまうほどに切ない紫帆が見られたと思った刹那、またしてもドリームタイムは儚く終わってしまった。


 演技なら演技で良いが、ドリフみたいな終わり方だけは勘弁してもらいたい。


「……ったく、逆に俺の方が不治の病とかになったらどうすんだよ、おまえは?」


「あら、そのときは喜んで道連れになってあげるわよ。当然でしょう?」


 そういうことを平気で、一片の迷いもなく即答するから紫帆は別の意味で怖い。


「まあ、あなたが私より先に死ぬことも、私があなたよりも先に死ぬこともあり得ないのだけど。そんな運命、私が絶対に許さないもの」


 おまえが本気で怒ったら死神でもビビりそうだもんな。


まったく、可愛いんだか、可愛くないんだが……


と、紫帆が急に苦しげにむせこんだ。今度は演技ではない。


俺はすぐにその裸の背中を撫でてやる。きめ細やかな肌の感触が手のひらに吸い付いてきて、不覚にもちょっとドキドキしてしまった。


「ありがとうね、カズ君」


 涙の浮かんだ少し苦しそうな、そして助けを求めるような眼差しが至近距離で俺の心の深いところを貫いた。


「どうしたの?」


「いや、何でもねぇよ……」


 ちょっとでも気を抜いたらやばいんだよな、おまえのそういう態度って……


「……にしても、おまえ、やっぱちょっと体熱いな。熱あるんだろ?」


「そうね……」


「何でだよ? 昨日はすげぇ元気だったじゃんかよ」


「風邪をひいたのは、多分、アレのせいね」


 紫帆は部屋の隅にあるパソコンを見やる。あらゆるゲームをストレスなく何時間でもプレイできるようハイスペックにカスタマイズされた特注品だ。


 去年、夏祭り恒例の「力自慢大会」と「浴衣美人コンテスト」の優勝賞金で買った。


「私がコンテストで優勝して、万が一カズ君が力自慢大会で優勝できなかったら、来年、カズ君には浴衣美人コンテストの方に出てもらうから」


 あのときは凄かったな。


 毎日腕立て腹筋背筋を300回くらいやって筋肉痛でまともに歩けないほどだった。


 が、その血と汗と涙の戦利品が、紫帆の「あなたの努力は私の努力。私の努力は私の努力」という変形ジャイアニズムによって略奪されたのは言うまでもない。


「昨日はネトゲのギルメン召集日だったのよ。目障りな敵対ギルドがあって前々から壊滅させてやろうって狙ってたの。ついつい熱が入ってしまってほとんど徹夜になってしまったけど、お陰でそのギルドを解散に追い込むことができたわ。めでたしめでたしね」


「つまり、おまえは六時に起きるつもりなど全くないのに、わざわざこの時間に俺を呼び出したってわけか?」


「ええ。その通りよ」


 紫帆はいつもの無表情な顔つきでサラリとそう言ってのける。


「俺で遊んでそんなに楽しいか?」


「もちろんよ。そんなこと訊くまでもないことでしょう? 私と遊んでくれるのは物心ついたときからカズ君だけだったじゃないの」


 確かにそうだ。


 人間として特殊過ぎる紫帆には親しい友だちなどこれまで一人もいなかった。


 小学生の頃、遊ぶとなると決まってホラーマンガ、ホラー映画、血しぶきの飛び散るR指定のアクションゲームとなり、たまに外で遊ぶとなると死線をくぐり抜けるようなハイパーデンジャラスなイベントに巻き込まれる。


 童心をトラウマで埋め尽くし、命をかけてまで紫帆と遊びたいというやつは確かにいなかったよな。


 まあ、そのせいで、俺の方は貴重な友だちを何人も失った気がするんだがな。


「とりあえず今日はゆっくり寝てろ。おまえがいない今日一日を俺は心から楽しむことにする」


 俺は紫帆を無理矢理寝かせつけようとした。


「そうはいかないわ……」


 だが、紫帆は俺の手を振り払いだるそうに体を起こす。と、布団がめくれてその細く白い肩が再び露わになった。


 本当に儚い雪のような華奢な体つきだ。ちゃんとメシ食ってんのかよ……


「カズ君、少しだけ目を閉じててくれるかしら?」


「何でだよ?」


「女の子は男の子に裸を見られて欲情されることよりも、溜息をつかれることの方がずっと深く傷つくのよ」


 そういやさっき、俺のリアクションが冷たいとか言って怒ってたな……


 てか、着替えるんだったら着替えるって普通に言えばいいじゃんかよ。そんな当てこすりみたいな言い方しなくても……


そう思いつつ俺はすぐに背を向けて目を閉じた。

 

背後で紫帆が服を着る衣擦れが聞こえてくる。


「風邪なんてもう治ったわ。さあ、久しぶりに一緒に学校に行きましょうか」


 三分と経たないうち紫帆が「もう良いわよ」と声をかけてくる。目を開けるとそこには制服に着替えた紫帆が立っていた。


 早ぇ! 女の子って朝はもっとあれこれ時間がかかる生き物じゃないのか!?


 まあ、考えてみれば昔からオシャレとか見た目とかにはまったく気を使わんやつではあったが……


「無理すんなよ。熱あるんだろ?」


「ないわよ。本当に風邪をひいたのなら、元気だと見せかけてあなたにこっそりうつすもの。今までだってそうだったでしょ?」


「そうだったのかよ!?」


 くそっ! 紫帆が風邪をひいたときは、どういうわけかいつも俺も風邪ひくんだよな。何かおかしいとは思ってたんだが……



 そんなこんなで俺たちは三カ月ぶりくらいに一緒に登校し、授業を受け、昼飯を食い、六時間目を迎えることとなった。


 そう、紫帆と一緒であるにも関わらず、一行でさらりと流せてしまえるほどにこの日はここまで何事もなく過ぎていった。


 変わったことと言えば、強引な転入の後、ずっと別のクラスにいた紫帆がいきなり俺のクラスの一員(しかも俺の後ろの席)になったことくらいだろうか?


 こいつの手にかかれば何でもアリだよな、ホントに……


 ああ、あと本当にどうでも良い些細なことだが、隣の席にいる体重100キロを超える巨漢の石井が、俺のことを妙に気にしていてしきりに声をかけようとしていたことくらいだな。


 もちろん、ガン無視していましたが。


 一日最低でも十数回は悪さをしかけてくる紫帆だったが、風邪気味のせいか借りてきた猫のように大人しかった。


 だが、残念なことにこれは俗に言う「嵐の前の静けさ」だったのだ。


 この後、これまでの紫帆の悪行がママゴトに過ぎないと思えるような「非現実な出来事」が待ち受けていることを、俺はこのときまだ知らずにいたのだった。

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