第一章 その2
「待てって! おい! 紫帆っ!」
厳重注意を受けて職員室から解放された俺は、階段の踊り場で紫帆に追いつき、その肩をつかんで自分の方を向かせた。
「告白なら今度にして。今、そういう気分じゃないの」
「俺はおまえの千倍以上そういう気分じゃねぇよ!」
「……? カズ君、もしかして私に怒っているの?」
「俺が怒ってないと思えるおまえのとぼけた思考がむしろ腹立たしいわ。こっちは濡れ衣着せられた上に、愛しの平穏な高校生活を奪われようとしてんだからな」
「そう。それは気の毒なことね。でも、私に腹を立てるのは筋違いだわ」
紫帆は立てた人差し指で俺の胸を突く。
「カズ君が憎むべきは、平穏な日々に埋もれようとするその弱い心よ。もっと心を開きなさい。世界はカズ君が思っているよりも遥かに広いのよ。あの動画はその扉を開く鍵としてカズ君にプレゼントしてあげるわ」
「いらねぇよ! てか、俺をどんなヤバい趣味に目覚めさせてぇんだ? 今すぐ俺のパソコンと《マギナス》、何よりも俺の記憶からデータを消去しやがれ。親とか弟とかに見つかったら家出したくなるわ!」
「そう? それは好都合ね。じゃあ、うちに来れば良いわ。部屋は余ってるから私が飼ってあげる」
「死んでも行くかっ!」
「機嫌悪いわね。あの調査シートがそんなに気に入らなかった?」
「気に入るとか入らないとかの問題じゃねぇ! 一八〇度真逆のキャラにされてんじゃねぇかよ! どこのヤバい独裁者の演説からパクってきやがった!? マジで信じらんねぇよ!」
「そう? だったらいっそこっちの方が良かったかしら?」
紫帆は朱書きで『パターン2』と書かれた調査シートを目の前に映像化する。
『生活および進路に関する調査シート パターン2』
●氏名:南方一樹
●クラス:忘れた
●自己紹介および自己PR:
生まれた瞬間から極めて妄想癖が強く、ときどき現実と空想の区別がつかなくなる。
周囲の人間からは落ち着いた大人な性格だと思われているが、実のところは現実社会に関心がなく冷めているだけ。
●交友関係:
人間嫌いなぼっちで何が悪い?
●進路希望:
どこにも進まない。いや、むしろどこにも進みたくない。強いて言うなればどこにも進めない。
●趣味や主な休日の過ごし方:
幼馴染みなど極一部の親しい人間を精神的、肉体的および社会的にいたぶり尽くすこと。
それ以外の時間はすべてゲームに費やしている。いわゆる重症ゲーム中毒者。
●その他、担任に伝えておきたいこと:
この先、人間として生きていける自信がありません。こんな俺ですが、好きになってくれてもかまへんよ?
「妄想癖とか、ぼっちとか、ゲーム中毒とか一つ残らず全部おまえのことじゃねぇかよ! 名前んとこ消して流紫帆って書き直しとけ!」
「あら、自分だけがリア充気取り? いただけないわね、そういう犯罪行為は。それにカズ君もそのうち私と同じような人間になる予定なのよ」
「リア充になった俺は犯罪者扱いかよ!? てか、予定って何だよ、予定って」
「私とカズ君の関係に限定して言えば『予定=避けられぬ運命』かしら?」
むしろ『=地獄へと繋がれた血の呪縛』だな。
「それにカズ君は私のことを誤解しているわ。私、そこまで病んでないもの。普通の人間のフリくらいいつでもできるし、思考も至って現実的よ。現にただ漠然と妄想するより、むしろカズ君をどうハメるかってことの方に頭を使っているもの。それにぼっちって言うのもリアルだけの話よ。そうでないところなら整理したくなるほどいるわよ。そういう設定のキャラならね」
その「そうでないところ」ってのがどこかはあえて問うまいよ。
「てか、もういい加減普通の女の子になれよ。……ルックスはそれなりに良いんだからよ」
「何? 最後の方がちゃんと聞こえなかったわ。もう一度修飾語と強調語を増量して言い直してちょうだい」
ウソつけ。絶対聞こえてただろ。
「残念だけど、私、可愛い子ぶったり、優等生ぶったりするのって本当に苦手なのよ。普段は仕方なくやってるけど、フリをするだけで息が詰まって死にたくなるわ。それに自分の趣味を捨てるなんて絶対に無理。カズ君がこれだけのことをされても私と縁切りできないようにね。つまり、私と私の趣味はそういう関係なのよ」
世間ではそれを「悪しき腐れ縁」という。
「それにしても退屈ね~。ミッションスクールってどうしてこう堅苦しいのかしらね」
本当に暇な猫のように紫帆は両腕と背中をぐっと伸ばす。
「今からでもカズ君の家に電話を入れて、例の動画のこと話しちゃおうかしら?」
「やったらマジで怒るぞ」
「怒る? カズ君、私に本気で怒ってくれるの? それはすごく楽しみだわ」
紫帆は両手を後ろにやって下から挑発的に覗き込むように俺を見上げる。
ふん、そんなことをしても可愛いだなんて死んでも思ってやらんのだからな。
こういうのもいつも通りだ。
俺が怒ると紫帆は逆に喜ぶ。だから、途中で怒る気が失せる。
「てか、マジでさっきの何だよ? あんな手の込んだことして何の意味があるんだよ? 仕返しにしてもやり過ぎだろ?」
「意味? 仕返し? そんなんじゃないわよ」
紫帆はそこで「本当に困った人ね」という憐みにも似た視線を俺に送る。
「ただのヒマつぶしの思いつき。それが何か?」
前言撤回。
怒りに身を任せて今すぐこいつをぶん殴ってやりたい。
「それにしても、カズ君があの程度の方法で私から逃げられるとか思ってたなんてちょっと拍子抜けだわ。最低でも海外留学とかにして欲しかったわね。まあ、たとえ逃げた先が地の果てでも絶対に逃がさないんだけど」
「おまえ、いつまで俺に取り憑いてるつもりだよ?」
「そんなの決まってるじゃない」
紫帆は両手で俺の頬をつかんで、自分の方を向かせた。そして、瞳を潤ませ、唇をそっと舌で濡らす。
そして、つま先立ちになった紫帆の顔が息のかかる距離にまで近づいてくる。
お、おいっ、おまえ、まさかこんなところで……!? さっきそんな気分じゃないって自分で……
「私が来たるべき新世界の王になるまでよ」
……今、何て言った?
俺は紫帆の手をどけると、その額に掌を当てた。……どうやら熱はないようだ。
「カズ君、心して聞きなさい。もうすぐこの世界に人類がいまだ経験したことのないような大災厄が起こるのよ」
「大災厄だと? おまえと一緒にいること以上の大災厄があるならそれはそれで大歓迎だな」
「あら? 以前言わなかったかしら? この世界はその大災厄によって完全崩壊するのよ。俗にいうアルマゲドンというやつね」
ああ、そう言えばそんなこと言ってたな。残念ながら真に受ける義理も、暇も、アグレッシブな想像力も持ち合わせていなかったがな。
「いずれこの現実世界はきれいさっぱり消え失せて、代わりに私たちが空想だと思っている世界が実現することになるの。言うなればゲームとかマンガとかの架空世界が現実になるっていうことね」
「それっておまえの脳内世界で日々生じているただの怪奇現象の話じゃんか」
そして、その妄想の被害者は常にこの俺だ。
「そうね。私もちょっと前まではそうだと思ってたわ。……でもね、カズ君、残念なことにこれは本当の話なのよ。物理法則ではなく人の想像力が世界を支配する素晴らしき世界。それが『来たるべき新世界』。私はその王として君臨するつもりなの」
「そうか。がんばれよ。永遠に陰から応援してる」
俺は紫帆の肩をポンと叩いて家に帰ろうとする。
「待ちなさい。まだ話は終わってないわ」
紫帆がカバンで俺の後頭部をぶん殴った。
「痛っ! 口で言えばわかるだろ? 何でいちいち殴るんだよ?」
「ただの条件反射よ。カズ君だって私を見かけたら限界突破の全力ダッシュで逃げようとするでしょ? それと同じよ」
すげぇ! 怖いくらいに全く反論できん!
「どうして私がこんな荒唐無稽な話をしたと思う? それはカズ君が私にとっての唯一の理解者だからよ」
それは違うな。不幸にも誰も知らないおまえの本性に触れてしまっただけだ。
「流紫帆という存在を理解する」などというおぞましい行為など、この人生で一度たりともした記憶はない。もちろん、この先もずっとだ。
「そこで相談なのだけど、来たるべき新世界を私たちの望む世界に染め上げてみない? こんな退屈で何もない世界ではなくて、夢と希望に溢れる新たなヴァーチャルゲーム世界……ううん、ヴァーチャルを超えるヴァーチャル、《ハイパーリアルゲーム》を創造するの」
紫帆の口から夢とか希望とか、そういう類の言葉が出ると寒けがするのはなぜだろう?
にしても、紫帆はどうあっても俺を巻き込んで例の次世代ヴァーチャルゲームを作り、それでリアル世界を侵略したいらしい。
「具体的にどんな世界だよ? その夢と希望に溢れる《ハイパーリアルゲーム》ってのは?」
「この私がありのままの私で堂々と生きられる世界よ」
「……せっかく訪れた新世界を破滅に導くことに何の意味があるんだ?」
がすっ!
再び鞄で頭を叩かれた。
「私は真面目な話をしているのだけど?」
痛ぇな……。むしろそれがヤバいって言ってんだよ、この妄想狂。
「喜びなさい。私が新たな世界の王になった暁には、カズ君に最低限の人権くらいは与えてあげるわ。トイレに行く自由ならいくらでもあげるから」
「その他の自由はことごとく没収する気かよ!? おまえは一体俺をどういう扱いにするつもりなんだ?」
「どうって……。決まってるじゃない」
紫帆の瞳に妖艶な光が走る。
「カズ君は、王たるこの私の奴隷になるしか生きる道はないって真剣に思ってしまうような状況に追い込まれることになるのよ」
要するに俺から夢と希望を根こそぎ奪うってことだよな。
「参考までに訊いておくが、俺以外の人間はどうなるんだよ?」
「さあ……。そういう煩わしい現実問題には興味ないわね。メンドクサイことは全部あなたに押し付けるから好きにして良いわよ」
史上最悪の暴君でももうちょっとマシな対応をするよな。
「はいはい、わかったよ。どうぞ好きなだけ妄想しててくれ。そういう歪み切った願望がおまえの脳内世界からはみ出すことは絶対にないからな」
「ふふ、カズ君、今の言葉、すぐに後悔することになるわよ。脳内妄想を実現することなんて私にとっては容易いことだもの」
はあ? 高校生にもなって何言ってんだよ、まったく……
「……まあ、口で言ってもわからないわよね。だったら具体的に見せてあげる。それなら納得してくれるでしょう? 人類がいまだ見たことのないファンタジーをこの現実世界に実装してあげるわ。今ここでね」
ほお……。そんな非現実的なことを起こせるというのなら、ぜひやってもらおうか。
「ちょっと目を閉じてもらえるかしら?」
「今度は何を企んでるんだ?」
「何もしないわよ。私たちもう子どもじゃないのよ」
「子どもじゃない……ねぇ……」
中学のときはこの手で良く手錠をかけられたものだ。そして、そのまま非日常の世界へと無理矢理引きずり込まれ、その先の出来事は……脳が思い出すことを今も拒否し続けている。
「カズ君、想像してみて」
「何をだよ?」
「カズ君が普段思い浮かべている妄想で良いわ。こんな毎日だったら良いなっていう願望」
「そうだな……」
普通に朝起きて、普通に学校に行って、普通に普通なクラスメートがいて、みんなと普通にお喋りして、休みの日は普通に友だちとカラオケとかに行ったりして、そんな普通の日々が普通に続く普通な毎日を俺は想像する。
が、想像して何だかすげぇ切なくなってきた。
そんな日々こそがまさに無限の彼方にあるファンタジー世界に思えてきたからだ。
「ちゃんとそこに私のことも入れなさいよ」
「へいへい……」
俺は「紫帆がもしこんなやつだったら」という妄想をはじめる。そしたら、自分でも信じられないくらいにイメージが膨れ上がってきた。
「思い浮かべたぞ。これでもかってくらいに」
「じゃあ、目を開けて良いわよ」
俺は言われた通りにゆっくり瞼を開く。
いつの間にか夕日が階段の窓から差し込み、どこか不思議な煌めきを持った幻想空間を演出していた。
そんな不思議な色彩の光を浴びて、柔らかな微笑みと気恥ずかしそうな表情を同居させる少女が立っていた。びっくりするほど完璧に俺の妄想がそこにジャストフィットしてしまう。
戸惑いの瞳を光で濡らす少女は一言俺にこう告げた。
「遅くなっちゃったね、カズ君。一緒に帰ろっか?」
少し首をかしげるような仕草に俺は無意識に反応してしまう。
いつものしらっとした、何事にも無関心というクールな紫帆の顔ではない。とことんまで生肌のぬくもりを感じさせる女の子っぽい顔だ。
そんなものを見せつけられ、不覚にも俺の胸の奥がトクンと大きく高鳴った。
「カズ君、背、またちょっと高くなったよね?」
少女は俺の隣にぴったりと寄り添い、自分の背と比べるように手をかざす。
「そのうち背伸びしないと……できなくなっちゃうね……えへっ」
少女はそう言って顔を赤らめると、そっとうつむきがちに目を伏せた。
……だ、ダメだ。やべぇ、何か窒息するほど超絶可愛いんですけど。
俺はそんな少女の前髪をかきわけて、その奥にある表情を見たくてたまらなくなる。
ゴクンと唾を飲み込む音。そして、俺がそっと伸ばした指先が少女の額に触れると……
「……というありえない妄想世界が実現するのよ? わかった?」
ドリームタイムはそこで終わってしまった。
わかってた。わかっていたさ。これがただの演技だってことくらいな。にしても……
「せめてもうちょっと引っ張れよ! どんだけシーン短いんだよ!? マンガの見開き一ページ分ほどもなかったぞ!?」
「あら、何を言ってるの? これでも私にしては死ぬほどがんばった方よ。さっきも言ったでしょ? 可愛い子ぶるのは苦手なの。でも、どうしてもっていうなら延長戦をしても良いわよ」
「わぁった! 受けて立つぜ!」
「じゃあ、遠慮なくいくわね」
その瞬間、パシーン!と廊下にまで届くような乾いた音が鳴り響いた。
紫帆が俺の頬を思い切り、まさに一切の遠慮も手加減もなく平手打ちしたのだ。
「バカっ! 二股かけるなんて絶対に許せないっ!」
……は? 二股?
ちょっと待て! こんな逆回転の急展開、俺も許さんぞ!
「どうして私じゃダメなの!? そんなに二組の石井君が良いの!? 女の私じゃもう満足できないの!?」
本気で待てぇぇぇぇっ!! 二組の石井って俺の隣の席に実在する現役相撲部員だぞ!!! こんなのを本人、いや誰かに聞かれたら……
だが、俺の心の叫びも空しく近くの生徒たちが何事かと集まってきた。階段の上から下から、俺たちの様子を見つめている。
「もう良いわ! あなたは好きなだけベッドで石井君と『どすこい! はっけよい!』してれば良いのよ! さよならっ! もう追いかけてこないで! このデブ専! 男色家! 最低!」
口を塞ごうとすると、紫帆はスルリと俺の腕を掻い潜って舌を出した。そして、軽やかなステップで階段を駆け下りていく。しかも、ご丁寧に顔を両手で隠しながら。
「あれって一年?」
「二組の南方君じゃない? 相手は誰だろ? 顔見えなかった」
「ウソー! クールなトコがちょっとイイ感じかなって思ってたのにまさかのあっち系?」
「人は見かけによらないよね~」
「……てか、『どすこい! はっけよい!』って何?」
この二か月間、死ぬ気で積み上げた俺の「健全な高校生イメージ」が一瞬にして脆くも崩れ去っていく。
先に走り去った紫帆同様、俺も顔を両手で覆って駆け出した。
いや、違うっ! 泣いてなんてないぞ……! 俺は断じて泣いてなんかな……あれ……? なんで目の前がこんなにも霞むんだろうな……?
「これで納得した?」
校門のところで紫帆が「やっと来たわね」という顔つきで待っていた。
「ああ、超納得した。やっぱりおまえを何とかしないとこの先俺に平穏な日々が一生訪れることはないってことがな」
「ふうん、何とかしてくれるの? この私を?」
紫帆の顔は素で「この私を世間一般が考えるマトモな女の子にできるなんて本気で思ってるの?」と言っている。
それを見た瞬間、重苦しい脱力感が全身に覆いかぶさってきた。
間違いなく俺の一生をすべて捧げても不可能なミッションだな、それは。
そうさ、それももうわかっていたことなんだ……
「でも、さっきの話ってカズ君にもメリットあると思うわよ。カズ君好みの可愛い幼馴染みがある日突然現れるかもしれないわよ?」
幼馴染みはある日突然現れたりしねぇよ。
「妄想が実現する世界だっけか? 馬鹿馬鹿しい。さっきのだっていつものおまえの演技じゃんかよ」
「あら、必ずしもそうだって言い切れないわよ」
「何?」
「人間なんてみな妄想と思い込みで生きているようなものなのよ。ほら、この学校の先生たちだって私を優等生で模範的な生徒だって勝手に考えているでしょ?」
「まあ……実に不愉快極まりないことだがな」
「その妄想はただの妄想なのかしら? それとも現実なのかしら?」
「……」
「さっきの私のウソ。カズ君と石井君との関係。あれだってただのでっち上げだけど、私が本気を出せばその虚構を既成事実にすることもできるのよ。中学時代のあなたと市原ゴリラ先生みたいにね」
土下座ならいくらでもやってやるからそれだけはやめてくれ。あと、俺のトラウマを無暗に掘り返すな。
「前も言ったけど、私、現実になんて全く興味がないのよ。この世で最も不必要なもの、それが現実だわ。私、それがどれだけいい加減でつまらくて壊れやすいものかってことをイヤってほど知ってるのよ。だから私は妄想に生きるわ。誰よりも強い、絶対に壊されることのない自分自身の、自分自身による、自分自身のための妄想世界にね」
「だからって大災厄が起こって世界が崩壊とかは中二病全開過ぎるだろ?」
「それは単なる私の妄想じゃないわ。何度も言ってるけど正真正銘の真実よ」
紫帆がここまでその無茶苦茶な話を「真実」と主張する意味がわからない。
紫帆は重度の中二病患者も真っ青の妄想家だ。それは間違いない。だが、現実と妄想の区別が「できてしまう」妄想家なのだ。決して自分の妄想に溺れて現実を見失ったりはしない。
……まあ、逆にそこが厄介だと言えば厄介なのだが。隙あらばさっきみたく自分の妄想を自由自在に実現しやがるし。
「どうしても信じられないというのなら明日の朝六時に家まで来なさい。そこで疑いの余地のない証拠を見せてあげるわ」
「……今度は本当だろうな?」
「もしウソだったら針千本飲むわ。カズ君が。だから、未練なく成仏してね」
飲むのやっぱ俺かよ? しかも文脈的にこの時点でウソ確定じゃんかよ!
「じゃあ、この話はまた明日ね。もう遅いし、帰りましょうか?」
「待てよ。俺は約束なんて……」
「じゃあ、これで良いかしら?」
紫帆は俺の手を取ると、無理矢理小指を絡めて指切りをする。
「これっきりよ。二度と私を裏切ったりしないで。そういうの、これからはもう絶対に許さないんだから……」
何だよ、急に……
不意に紫帆が普段は見せない寂しそうな、そしてやりきれない感じの表情になった。そして、まるでスローモーションを見ているかのようなドラマチックな時間が演出される。
「カズ君にとって女の子なんてそれこそ星の数ほどいるんでしょうけど、私にとっての男の子はカズ君、世界中をひっくり返してもあなただけなのよ」
ちょ……待てよ。急にそんな目でマジ話されたら……
「ここまで私に言わせても、それでもあなたはこの先私のことをまた裏切るの? 孤独にして傷つけるの?」
紫帆の深く突き刺さる言葉の一つ一つが俺から呼吸するタイミングを奪っていく。
「いや、だから……。……ったく、おまえはよ……。ああ! はいはい! 俺が全部悪かったよ。ちょっと人並みの高校生活に憧れちまったっていうか、魔が差したっていうか、それだけだっての!」
つい、口を尖らせてしまう。
マジな感じになった紫帆の言葉はいつも俺の心を締め付けて離さないのだ。だから、「ここぞ」というところではいつも紫帆の魔力のような力に絡め取られてしまう。
そして、正直それが何かムカつく。
「まあ、反省してるのなら構わないわ。許してあげる。この世界で私が安心して痛めつけられるのはカズ君だけしかいないのだから、これからも私がイジメやすい場所にいてちょうだいね」
「いや、だから俺っておまえの何なの?」
「強いて言うなれば、愛情を持って全力で殴ることのできるサンドバッグってところかしらね」
まあ、何を言っても最後はいつも自分で全部台無しにしちまうんだけどな。
「へいへい……。どうせ俺はサンドバッグですよ……」
まあ、いつもことだしなと俺は軽く受け流す。そして、歩き出そうとするのだが……
「ん……?」
紫帆は小指を絡めたままの俺の手を離そうとしない。
「あのさ、このままだと恥ずかしいんだが? クラスのやつらが通るかも知れないし」
「あら、私はそんなこと気にしないわよ。せっかく同じ学校に通えるようになったし、記念に今日はこのままで家まで帰りましょう」
「いや、そんな記念はいらな……」
「そんな冷たいことを言うカズ君ならいらないわ。何も言わないその小指だけちょうだい。ハサミを貸して上げるから自分で根元から……」
「わかった! わかりました! このままで良いからグロい展開にはしないでくれ」
「『このままで良い』? 私の聞き間違いかしら?」
「すいません。『このままが良い』の間違いでした!」
「よろしい。これで私を裏切ったことは完全にチャラにしてあげるわ」
そこでにっこりと微笑む紫帆。
それは本当に機嫌の良いときにしか見せない、俺でも一年に数回しか見ることのない超レアな表情だった。
そうして紫帆と手を繫いで並んで家路につく俺。
幼馴染みの美少女ハッカーとの下校。
幼稚園のときからずっと続くありきたりの時間。
俺にとっての「日常」という名の「非日常」。