出産くらい一人でできないのか?
「出産なんて一人で乗り越えられるものだと、かつて俺は傲慢にも彼女に言い放った。あの夜、彼女はそれを証明してみせた。俺の望み通り、たった一人で死の門をくぐり抜けたんだ」
オフィスのパーテーションの明かりはほとんど消え、ハルトのデスクだけが煌々と照らされている。壁の時計の針は夜の九時を指していた。
終わる気配のない月末の報告書を前に、彼の頭はずきずきと痛んでいた。
ちょうどその時、デスクの上でスマホが震えた。妻のアオイからのメッセージだった。
「お腹がすごく痛いの……赤ちゃんが生まれそう。病院に来て、一緒にいてくれない? お願い……」
ハルトは深くため息をついた。仕事のプレッシャーの真っ只中で、邪魔をされた気分だった。妻はいつも大げさすぎる。
医師の予定日はまだ二週間先のはずではないか?
妻の気持ちなど微塵も考えず、彼は冷淡に親指を動かして返信を打った。
「今仕事で忙しい。大げさに騒ぎ立てるな。出産くらい一人でできないのか? 俺の足を引っ張るな」
メッセージを送ると、ハルトはスマホをカバンに放り投げた。
通知を切り、モニターの画面だけに意識をロックして、何時間もの間、数字の山に没頭した。
無情にも時間は流れる。ハルトがようやく静まり返ったオフィスビルを出た時、時計はすでに深夜の三時を回っていた。
冷たい夜気が、疲れ切った肌を刺す。駐車場へと歩きながら、彼はカバンからスマホを取り出して電源を入れた。
画面が明るくなると、義弟のレンからの着信履歴と、立て続けに送られてきたメッセージの羅列が目に飛び込んできた。
最初 メッセージが届いたのは二時五十七分だった。青い毛布に包まれ、静かに目を閉じている小さな赤ちゃんの写真。その下に、レンからのテキストがあった。
「あんたの息子が生まれたよ。元気な男の子だ。早くここに来て、この子を抱きしめて、名前をつけてやってくれ」
ハルトは駐車場の中で足を止めた。口元がわずかに緩む。信じられないほどの安堵感と同時に、昨夜妻をないがしろにしてしまったという微かな罪悪感が込み上げてきた。
すぐに車を走らせて病院へ向かい、アオイに謝ろうと彼は思った。
しかし、親指が画面を下にスクロールした。次のメッセージはその五分後、三時四分に送られていた。
その写真を見た瞬間、ハルトの肺からすべての空気が消え去った。
もはや、温もりを感じる赤ちゃんの写真ではなかった。そこにあったのは、冷たい病院のベッドと、頭から足先まで厚い白布に覆われ、横たわる物言わぬ身体だった。
写真の下にあるレンの短いメッセージは、彼の心臓を突き刺す刃物のようだった。
「そして今……奥さんの最期の祈りに立ち会って、彼女を最後の場所へ見送ってやってくれ」
ハルトの手からスマホが落ち、駐車場のコンクリートに叩きつけられて画面がひび割れた。周囲の世界が、まるで灰の破片となって崩れ落ちていくようだった。
アオイは大げさに騒いでいたわけではなかった。妻はたった一人で分娩室で命を懸け、一番そばにいてほしかった夫の手の温もりもないまま、あの冷たく暗い空間を通り抜けたのだ。
それなのに自分は、今となっては全くの無価値に思える書類の山を、傲慢にも優先してしまった。
突然あふれ出た涙で視界を歪ませながら、ハルトは車に乗り込んだ。
これが仕事の疲れが見せたただの悪夢であってくれと神に祈りながら、彼は静まり返った街の道路を狂ったように車を走らせた。
しかし、静まり返った病院の廊下にたどり着いた時、容赦のない現実が彼を突き放した。そこには、目を真っ赤に腫らし、 失望に満ちた眼差しで佇むレンの姿があった。
ハルトは足をもつれさせながら病室へと入った。そこで彼は、己の魂を打ち砕く二つの現実に直面することになる。
左側には、小さな声で泣いている息子のベビーベッドがあった。本来ならアオイと一緒に話し合って決めるはずだった名前を、その子は待っている。そして右側には、永遠の別れの準備を終えたアオイの冷たくなった身体があった。
「アオイ……」
喉が締め付けられ、声はかろうじて囁き声にしかならなかった。
彼は歩み寄り、激しく震える手で、妻の顔を覆っていた白い布をそっとめくった。
仕事から帰るたび、いつも温かい笑顔で迎えてくれたその顔は、今は見る影もなく青白かった。まぶたは固く閉じられ、 その穏やかな死に顔が、かえってハルトの魂を容赦なく痛めつけた。
「アオイ、起きてくれ……」
ハルトはアオイの指先を握りしめた。
冷たい。妻の肌はまるで氷のようで、いつもそこを流れていた温もりは、もうどこにもなかった。
ハルトは激しく首を振った。半狂乱になりながら、 パニックに陥って妻の肩を揺さぶり始める。
「アオイ、冗談だろ! 目を開けてくれ! 俺は来たんだよ……ここにいるんだ、アオイ!」
震える声が次第に大きくなり、病室の重苦しい静寂を切り裂いた。
部屋の隅に佇むレンは、胸に込み上げる嗚咽をこらえるように、ただ顔を背けることしかできなかった。
「俺を罰するために、わざとこんなことをしているのか? 昨夜のメッセージのせいか?」
ハルトの涙が止めどなく溢れ落ち、顔を近づけた妻の青白い頬を濡らした。
「ごめん……ごめんなさい。お前をないがしろにするつもりなんてなかったんだ。俺が……俺が馬鹿だったんだよ! だから起きて、俺を怒鳴ってくれ! 俺を殴ってくれよ、アオイ! 頼むから、こんな風に黙り込まないでくれ……」
ハルトはアオイのあまりにも冷たい額に自分の額を押し当てた。まるで、この世のすべての温もりが彼女の魂と共に去ってしまったかのように。
彼は妻の手を握りしめ、涙で濡れた自分の頬へと持っていった。自分の体温が、どうか彼女の身体に再び命を吹き込んでくれないかと願いながら。
「一緒にいてほしいって言っただろ……俺は今、ここにいるよ。もうオフィスには戻らない。ずっとお前と一緒にいるから、アオイ……」
ハルトは声を上げてむせび泣いた。その涙は、胸を締め付けるような絶望の叫びへと変わっていった。
「頼むから、俺を一人にしないでくれ……お願いだ、目を覚ましてくれ、アオイ! 起きてくれよ! 俺たちの子供を見てくれ……この子が大きくなるにはお前が必要なんだ。だけど俺は……俺は明日を生きるためだけに、息をするためだけに、お前が必要なんだよ」
しかし、ハルトがどれほど深く請い願おうとも、声が枯れるほど激しく泣き叫ぼうとも、病室は静まり返ったままだった。
昨夜、彼が踏みにじったその鼓動は、もう二度と戻ることはない。白い布の下で、冷たくなった虚無を抱きしめるハルトだけが残された。
後悔が訪れたのは、午前三時。それは、時間が経っても決して癒えることのない傷跡を、彼の心に刻みつけた。




